記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま

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私の願いとは裏腹に、サフィルの生活は変わらなかった。
侍女が起きる時間と同じ時に目を覚まし、冷たい洗面水で顔を叩き、夜遅くにまでずっと執務室で公務をして、ソファで一睡する。そんな日々がもう何週間も続いていた。

机にずっと俯せていたせいか、固まった肩に、ルシオンが持ってきた書類を掴む指先は疲弊で震え、目の下には深いくまが浮かんでいる。
王太子としての役割を全うする彼の横顔は凛々しく、それでも、疲労はたしかに表情に滲み出ていた。

会話も、以前よりずっと少なくなっていた。
何かに急き立てられるように、彼は目の前の仕事へと意識を奪われ、私はそれに声をかけることすらできなかった。
それでも、それを眺めて嫌に思ってしまう。
彼が疲れ果てることを誰かが望んでいるみたいだ。と。

でも私はどうすることもできないのが、たしかだった。
反抗するすべも彼を休ませる権利すらもない。
ただ侍女として、彼が記憶を思い出せるまで、そばにいるしかなかった。

——そんなある日のこと。
サフィルは珍しくルシオンに呼ばれ、書類の山から解放されるように執務室を出ていった。
扉が閉まった瞬間、部屋には一つの静寂が訪れる。
思えば、この部屋から彼がいなくなるのは、いつぶりだろうか。
それに、机の上に残った書類にインクを書き走らせる音が聞こえないのはいつぶりだろうか。

この静けさは心を落ち着かてくれるものだった。
彼は今までの遅れを取り戻そうと、必死になって、インクを書き走らせていたから、その音が聞こえないと言うだけで、安心して酷く胸が落ち着く。
——落ち着くはずだった。

時計の針が刻を刻む音が一つ、二つ、三つ……と響く。その度に、私の焦りも一つ、二つ、三つ……と大きくなっていった。

どうしてだろうと思えば、彼が執務室から離れるのも久しいが、彼が私から離れるのも久しかった。

胸の奥がゾッと疼いて、彼の存在を確かめるように、机にふと目を向ける。そこには未だに書類の山があって、幻聴にもインクを滴らせるサフィルの吐息が聞こえてくるようだった。

彼は書類一つ一つをちゃんと見ているのだろうか。きっと、見ていないだろうな。
なんとなくルシオンを信頼して、ただ、王太子であろうと必死で。そんな彼に目を通す余裕があるはずはない。

侍女として振舞っている私が見てはいけないものだとは分かっているのに、思わず、書類を手に取ってしまう。
そして、ふとその内容に目を走らせて。

眉を寄せる。そのまま、紙を一枚、もう一枚とめくり、指先が紙を擦る音が静寂の中で響く。それと同時に胸の鼓動の音も酷く強くなっていた。
そればかりか、書類に目を通すごとに背筋に伝う得体の知れない冷たい何かが色濃く、私の意識を揺らした。

——全部、同じ内容だ。
日付も内容も、揃っていた。
丁寧に積み上げられた書類の山が、ただただ彼を疲れさせるための道具に成り下がっていたらしい。

彼はこれを疲れ果てた身体を壊しながら、何度も何度も。
彼は確かに、誰かに壊されようとしている。

伝えなければ、彼に。この真実を。
涙ながらにそう思い、刹那。
頭に、衝撃が。
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