7 / 7
7.
しおりを挟む
私の願いとは裏腹に、サフィルの生活は変わらなかった。
侍女が起きる時間と同じ時に目を覚まし、冷たい洗面水で顔を叩き、夜遅くにまでずっと執務室で公務をして、ソファで一睡する。そんな日々がもう何週間も続いていた。
机にずっと俯せていたせいか、固まった肩に、ルシオンが持ってきた書類を掴む指先は疲弊で震え、目の下には深いくまが浮かんでいる。
王太子としての役割を全うする彼の横顔は凛々しく、それでも、疲労はたしかに表情に滲み出ていた。
会話も、以前よりずっと少なくなっていた。
何かに急き立てられるように、彼は目の前の仕事へと意識を奪われ、私はそれに声をかけることすらできなかった。
それでも、それを眺めて嫌に思ってしまう。
彼が疲れ果てることを誰かが望んでいるみたいだ。と。
でも私はどうすることもできないのが、たしかだった。
反抗するすべも彼を休ませる権利すらもない。
ただ侍女として、彼が記憶を思い出せるまで、そばにいるしかなかった。
——そんなある日のこと。
サフィルは珍しくルシオンに呼ばれ、書類の山から解放されるように執務室を出ていった。
扉が閉まった瞬間、部屋には一つの静寂が訪れる。
思えば、この部屋から彼がいなくなるのは、いつぶりだろうか。
それに、机の上に残った書類にインクを書き走らせる音が聞こえないのはいつぶりだろうか。
この静けさは心を落ち着かてくれるものだった。
彼は今までの遅れを取り戻そうと、必死になって、インクを書き走らせていたから、その音が聞こえないと言うだけで、安心して酷く胸が落ち着く。
——落ち着くはずだった。
時計の針が刻を刻む音が一つ、二つ、三つ……と響く。その度に、私の焦りも一つ、二つ、三つ……と大きくなっていった。
どうしてだろうと思えば、彼が執務室から離れるのも久しいが、彼が私から離れるのも久しかった。
胸の奥がゾッと疼いて、彼の存在を確かめるように、机にふと目を向ける。そこには未だに書類の山があって、幻聴にもインクを滴らせるサフィルの吐息が聞こえてくるようだった。
彼は書類一つ一つをちゃんと見ているのだろうか。きっと、見ていないだろうな。
なんとなくルシオンを信頼して、ただ、王太子であろうと必死で。そんな彼に目を通す余裕があるはずはない。
侍女として振舞っている私が見てはいけないものだとは分かっているのに、思わず、書類を手に取ってしまう。
そして、ふとその内容に目を走らせて。
眉を寄せる。そのまま、紙を一枚、もう一枚とめくり、指先が紙を擦る音が静寂の中で響く。それと同時に胸の鼓動の音も酷く強くなっていた。
そればかりか、書類に目を通すごとに背筋に伝う得体の知れない冷たい何かが色濃く、私の意識を揺らした。
——全部、同じ内容だ。
日付も内容も、揃っていた。
丁寧に積み上げられた書類の山が、ただただ彼を疲れさせるための道具に成り下がっていたらしい。
彼はこれを疲れ果てた身体を壊しながら、何度も何度も。
彼は確かに、誰かに壊されようとしている。
伝えなければ、彼に。この真実を。
涙ながらにそう思い、刹那。
頭に、衝撃が。
侍女が起きる時間と同じ時に目を覚まし、冷たい洗面水で顔を叩き、夜遅くにまでずっと執務室で公務をして、ソファで一睡する。そんな日々がもう何週間も続いていた。
机にずっと俯せていたせいか、固まった肩に、ルシオンが持ってきた書類を掴む指先は疲弊で震え、目の下には深いくまが浮かんでいる。
王太子としての役割を全うする彼の横顔は凛々しく、それでも、疲労はたしかに表情に滲み出ていた。
会話も、以前よりずっと少なくなっていた。
何かに急き立てられるように、彼は目の前の仕事へと意識を奪われ、私はそれに声をかけることすらできなかった。
それでも、それを眺めて嫌に思ってしまう。
彼が疲れ果てることを誰かが望んでいるみたいだ。と。
でも私はどうすることもできないのが、たしかだった。
反抗するすべも彼を休ませる権利すらもない。
ただ侍女として、彼が記憶を思い出せるまで、そばにいるしかなかった。
——そんなある日のこと。
サフィルは珍しくルシオンに呼ばれ、書類の山から解放されるように執務室を出ていった。
扉が閉まった瞬間、部屋には一つの静寂が訪れる。
思えば、この部屋から彼がいなくなるのは、いつぶりだろうか。
それに、机の上に残った書類にインクを書き走らせる音が聞こえないのはいつぶりだろうか。
この静けさは心を落ち着かてくれるものだった。
彼は今までの遅れを取り戻そうと、必死になって、インクを書き走らせていたから、その音が聞こえないと言うだけで、安心して酷く胸が落ち着く。
——落ち着くはずだった。
時計の針が刻を刻む音が一つ、二つ、三つ……と響く。その度に、私の焦りも一つ、二つ、三つ……と大きくなっていった。
どうしてだろうと思えば、彼が執務室から離れるのも久しいが、彼が私から離れるのも久しかった。
胸の奥がゾッと疼いて、彼の存在を確かめるように、机にふと目を向ける。そこには未だに書類の山があって、幻聴にもインクを滴らせるサフィルの吐息が聞こえてくるようだった。
彼は書類一つ一つをちゃんと見ているのだろうか。きっと、見ていないだろうな。
なんとなくルシオンを信頼して、ただ、王太子であろうと必死で。そんな彼に目を通す余裕があるはずはない。
侍女として振舞っている私が見てはいけないものだとは分かっているのに、思わず、書類を手に取ってしまう。
そして、ふとその内容に目を走らせて。
眉を寄せる。そのまま、紙を一枚、もう一枚とめくり、指先が紙を擦る音が静寂の中で響く。それと同時に胸の鼓動の音も酷く強くなっていた。
そればかりか、書類に目を通すごとに背筋に伝う得体の知れない冷たい何かが色濃く、私の意識を揺らした。
——全部、同じ内容だ。
日付も内容も、揃っていた。
丁寧に積み上げられた書類の山が、ただただ彼を疲れさせるための道具に成り下がっていたらしい。
彼はこれを疲れ果てた身体を壊しながら、何度も何度も。
彼は確かに、誰かに壊されようとしている。
伝えなければ、彼に。この真実を。
涙ながらにそう思い、刹那。
頭に、衝撃が。
6
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する
3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
婚約者である王太子からの突然の断罪!
それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。
しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。
味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。
「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」
エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。
そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。
「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」
義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。
婚約者が他の令嬢に微笑む時、私は惚れ薬を使った
葵 すみれ
恋愛
ポリーヌはある日、婚約者が見知らぬ令嬢と二人きりでいるところを見てしまう。
しかも、彼は見たことがないような微笑みを令嬢に向けていた。
いつも自分には冷たい彼の柔らかい態度に、ポリーヌは愕然とする。
そして、親が決めた婚約ではあったが、いつの間にか彼に恋心を抱いていたことに気づく。
落ち込むポリーヌに、妹がこれを使えと惚れ薬を渡してきた。
迷ったあげく、婚約者に惚れ薬を使うと、彼の態度は一転して溺愛してくるように。
偽りの愛とは知りながらも、ポリーヌは幸福に酔う。
しかし幸せの狭間で、惚れ薬で彼の心を縛っているのだと罪悪感を抱くポリーヌ。
悩んだ末に、惚れ薬の効果を打ち消す薬をもらうことを決意するが……。
※小説家になろうにも掲載しています
居場所を失った令嬢と結婚することになった男の葛藤
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢ロレーヌは悪女扱いされて婚約破棄された。
父親は怒り、修道院に入れようとする。
そんな彼女を助けてほしいと妻を亡くした28歳の子爵ドリューに声がかかった。
学園も退学させられた、まだ16歳の令嬢との結婚。
ロレーヌとの初夜を少し先に見送ったせいで彼女に触れたくなるドリューのお話です。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
彼は亡国の令嬢を愛せない
黒猫子猫
恋愛
セシリアの祖国が滅んだ。もはや妻としておく価値もないと、夫から離縁を言い渡されたセシリアは、五年ぶりに祖国の地を踏もうとしている。その先に待つのは、敵国による処刑だ。夫に愛されることも、子を産むことも、祖国で生きることもできなかったセシリアの願いはたった一つ。長年傍に仕えてくれていた人々を守る事だ。その願いは、一人の男の手によって叶えられた。
ただ、男が見返りに求めてきたものは、セシリアの想像をはるかに超えるものだった。
※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。
※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。
※新作です。アルファポリス様が先行します。
みんながまるくおさまった
しゃーりん
恋愛
カレンは侯爵家の次女でもうすぐ婚約が結ばれるはずだった。
婚約者となるネイドを姉ナタリーに会わせなければ。
姉は侯爵家の跡継ぎで婚約者のアーサーもいる。
それなのに、姉はネイドに一目惚れをしてしまった。そしてネイドも。
もう好きにして。投げやりな気持ちで父が正しい判断をしてくれるのを期待した。
カレン、ナタリー、アーサー、ネイドがみんな満足する結果となったお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる