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その晩の更けは何事もなかったかのように静かだった。
王宮はいつも通りの夜を迎え、祝宴の名残をやがて消し去り、誰もが眠りにつくような、そんな夜だった。
——ただ、翌朝にはサフィルの側近二人が謀反を企てたとして追放され、側近への謹慎はなお解かれてはいなかった。
翌、無邪気にも煌めく光が窓の縁をなぞる頃、私はようやく眠りから覚めた。
隣には誰もいない。眠気のまだ残る身体のまま、習慣のようにそこに触れれば、まだ温かな体温が微かに残っていた。
「やっと起きましたか」
そこに突っ伏して、ふと不意打ちに男の声がした。——ルシオンだ。
その顔に胸の奥がわずかに揺れた。驚きではなく、安心したような感覚。けれど、安堵とも言い切れないような、微妙な揺れだった。
「……いつから、そこに」
「少し前からです。昨夜はお疲れだったでしょうから、起こすほどの焦りもない、と思いまして」
ルシオンは椅子に腰掛け、腕を組んだまま淡々と答えた。けれど、その言葉の端に含まれた配慮が今は酷く胸を締めつけた。
「昨夜の選択は正しかったのでしょうか」
言葉にした途端、喉の奥がひりついた。問いというより、確かめる術のない感情を零したそれは、眠気の残る思考でも、はっきりと昨夜を思い出させていた。
彼はすぐには答えず、椅子から立ち上がる。その足音が一歩、また一歩と近づくたびに、胸の内が落ち着かなくなって、逃げたいわけではないのに、無意識に指先がシーツを掴んでいた。
「後悔しているのですか」
低く、静かで仄かな呼気は肌を撫で、耳元のすぐ近くに落ちた。
責めるわけでもなく、慰めるわけでもないそれは、ただ私の心を投影した、答えに近い問いだった。
「していますよ。もちろん」
取り繕う必要も、強がる余裕もなかった。そのせいか、声は驚くほど素直に出た。
正しかったかどうかなんて、分からない。けれど、苦しい思いのままに後悔を募らせているのは確かだった。
シーツへと視線を落とす。そこには皺が寄り、淡い染みが残っていた。
どうにも、声以上に心身は素直らしい。
一つ、息を吸う。
「サフィル様が答えをくれなかった理由も、忘れているふりをし続けた嘘も、エレリア様と居た時間も、本当は全部聞きたかった」
シーツに落とした感情の理由を知りたくて、ただ紡いだ声は小さく、誰かに届くことを前提としていなかった。
そればかりか、曖昧な感情を露見させるようにすぐに輪郭を失っていく。
それでも、言葉にしなければ、この感情は理由を持たないまま胸に沈み続ける気がして、私は口を閉ざせなかった。
「それでも、聞いてしまったら、私が今まで信じてきた時間が壊れてしまいそうで……」
一つ、また一つと言葉を紡いでいく。
「怖かった。理由を言わないサフィル様も、理由を聞けない自分も、感情の掴めないエレリア様も」
名を挙げながら、胸の内に溜まっていたものが少しずつほどけていく。
そして、ほんの一瞬の逡巡の後、最後の言葉は吐息に近い形で零れた。
「……肯定してくれるルシオンも、何もかも」
ぼやけた視界の先で、彼の表情をようやく見る。
そこには咎めるような厳しさはなく、むしろ驚きの混じった優しさがあった。その優しさが逃げ場にもなっていたのだと、その瞬間にはっきりと自覚してしまう。
「……ズルいですよね、きっと。私の方から嘘を吐いて、近くにいようとして、そのくせ、信じるのをわがままに止めて、離れて。……何してるんだろうな……」
自嘲するように、けれど笑うこともできず、視線が曖昧に揺れる。指先がシーツの皺をなぞり、意味もなくその端を掴んだ。自分で選んだはずの行動が今になってひどく他人事のように思える。
部屋は静かだった。
責める声も否定する気配もない。
ただ、彼がそこにいるということだけが残っている。
「……それでも、逃げなかった」
その言葉は思ったより低く、しかし、静かな部屋には広大に広がった。
慰めでも肯定でもない、ただルシオンの感情を読み上げただけの彼の声音がかえって胸に刺さった。
私は思わず顔を上げる。彼の視線は私を見ていなかった。それでも、なぜか見透かされた気がした。
「それで十分ですから」
その一言で、胸の奥に張り付いていた罪悪感が、音もなく崩れた。
彼は少し間を置いてから、ゆっくりと視線を外す。
その仕草がこれ以上踏み込まないという意思表示にも見えたし、同時に、今はまだ触れないという配慮にも思えた。
そして、いつもの調子で優しい声音で言う。
「……朝食にしましょう。考えるのはそれからでも遅くありません」
そう言って、彼は私から半歩だけ距離を取った。
近づくわけでもなく、離れるわけでもない、曖昧なその距離が今の私たちの距離を雄弁に語る。
私はベッドの縁に腰掛けたまま、深く息を吐いた。
胸の奥に残る重さはまだ消えてはいない。けれど、それを抱えたまま立ち上がれる程度には呼吸が戻ってきていた。
——考えるのは、それから。
彼の言葉に縋るように、私はシーツから手を離す。
まだ答えは出ていないし、何一つ解決してはいない。それでも、今はそれを考える時間ではない。その事実だけを私は静かに受け入れていた。
王宮はいつも通りの夜を迎え、祝宴の名残をやがて消し去り、誰もが眠りにつくような、そんな夜だった。
——ただ、翌朝にはサフィルの側近二人が謀反を企てたとして追放され、側近への謹慎はなお解かれてはいなかった。
翌、無邪気にも煌めく光が窓の縁をなぞる頃、私はようやく眠りから覚めた。
隣には誰もいない。眠気のまだ残る身体のまま、習慣のようにそこに触れれば、まだ温かな体温が微かに残っていた。
「やっと起きましたか」
そこに突っ伏して、ふと不意打ちに男の声がした。——ルシオンだ。
その顔に胸の奥がわずかに揺れた。驚きではなく、安心したような感覚。けれど、安堵とも言い切れないような、微妙な揺れだった。
「……いつから、そこに」
「少し前からです。昨夜はお疲れだったでしょうから、起こすほどの焦りもない、と思いまして」
ルシオンは椅子に腰掛け、腕を組んだまま淡々と答えた。けれど、その言葉の端に含まれた配慮が今は酷く胸を締めつけた。
「昨夜の選択は正しかったのでしょうか」
言葉にした途端、喉の奥がひりついた。問いというより、確かめる術のない感情を零したそれは、眠気の残る思考でも、はっきりと昨夜を思い出させていた。
彼はすぐには答えず、椅子から立ち上がる。その足音が一歩、また一歩と近づくたびに、胸の内が落ち着かなくなって、逃げたいわけではないのに、無意識に指先がシーツを掴んでいた。
「後悔しているのですか」
低く、静かで仄かな呼気は肌を撫で、耳元のすぐ近くに落ちた。
責めるわけでもなく、慰めるわけでもないそれは、ただ私の心を投影した、答えに近い問いだった。
「していますよ。もちろん」
取り繕う必要も、強がる余裕もなかった。そのせいか、声は驚くほど素直に出た。
正しかったかどうかなんて、分からない。けれど、苦しい思いのままに後悔を募らせているのは確かだった。
シーツへと視線を落とす。そこには皺が寄り、淡い染みが残っていた。
どうにも、声以上に心身は素直らしい。
一つ、息を吸う。
「サフィル様が答えをくれなかった理由も、忘れているふりをし続けた嘘も、エレリア様と居た時間も、本当は全部聞きたかった」
シーツに落とした感情の理由を知りたくて、ただ紡いだ声は小さく、誰かに届くことを前提としていなかった。
そればかりか、曖昧な感情を露見させるようにすぐに輪郭を失っていく。
それでも、言葉にしなければ、この感情は理由を持たないまま胸に沈み続ける気がして、私は口を閉ざせなかった。
「それでも、聞いてしまったら、私が今まで信じてきた時間が壊れてしまいそうで……」
一つ、また一つと言葉を紡いでいく。
「怖かった。理由を言わないサフィル様も、理由を聞けない自分も、感情の掴めないエレリア様も」
名を挙げながら、胸の内に溜まっていたものが少しずつほどけていく。
そして、ほんの一瞬の逡巡の後、最後の言葉は吐息に近い形で零れた。
「……肯定してくれるルシオンも、何もかも」
ぼやけた視界の先で、彼の表情をようやく見る。
そこには咎めるような厳しさはなく、むしろ驚きの混じった優しさがあった。その優しさが逃げ場にもなっていたのだと、その瞬間にはっきりと自覚してしまう。
「……ズルいですよね、きっと。私の方から嘘を吐いて、近くにいようとして、そのくせ、信じるのをわがままに止めて、離れて。……何してるんだろうな……」
自嘲するように、けれど笑うこともできず、視線が曖昧に揺れる。指先がシーツの皺をなぞり、意味もなくその端を掴んだ。自分で選んだはずの行動が今になってひどく他人事のように思える。
部屋は静かだった。
責める声も否定する気配もない。
ただ、彼がそこにいるということだけが残っている。
「……それでも、逃げなかった」
その言葉は思ったより低く、しかし、静かな部屋には広大に広がった。
慰めでも肯定でもない、ただルシオンの感情を読み上げただけの彼の声音がかえって胸に刺さった。
私は思わず顔を上げる。彼の視線は私を見ていなかった。それでも、なぜか見透かされた気がした。
「それで十分ですから」
その一言で、胸の奥に張り付いていた罪悪感が、音もなく崩れた。
彼は少し間を置いてから、ゆっくりと視線を外す。
その仕草がこれ以上踏み込まないという意思表示にも見えたし、同時に、今はまだ触れないという配慮にも思えた。
そして、いつもの調子で優しい声音で言う。
「……朝食にしましょう。考えるのはそれからでも遅くありません」
そう言って、彼は私から半歩だけ距離を取った。
近づくわけでもなく、離れるわけでもない、曖昧なその距離が今の私たちの距離を雄弁に語る。
私はベッドの縁に腰掛けたまま、深く息を吐いた。
胸の奥に残る重さはまだ消えてはいない。けれど、それを抱えたまま立ち上がれる程度には呼吸が戻ってきていた。
——考えるのは、それから。
彼の言葉に縋るように、私はシーツから手を離す。
まだ答えは出ていないし、何一つ解決してはいない。それでも、今はそれを考える時間ではない。その事実だけを私は静かに受け入れていた。
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