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第九章 浮遊霊たちは袂を別つ

103.慄然

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 週が明けた月曜日の午後、ユニフォーム姿の井出恭二と山下昇は校長室にいた。

「君達ね、まだ高校生活、そしてその後には大学生活と続いていくのだよ。もちろん君達が入れるような大学を見繕ってやるつもりだよ? 私は」

「でもその女子がどこの高校かわかりませんが、あいつのこと知っていたんです……それに大矢も自殺して死んじゃってるっていうのは本当ですか?」

「どうかな、学校を辞めた後のことは私の関知するところではないからねえ。その女子生徒に脅かされただけではないのかね?」

「本田達にそんな知り合いがいたなんて聞いたことも見たこともありませんでしたけど、あの子はどこまで知ってるんでしょう。先輩も気になりますよね?」

「いや、俺は気にならねえよ。別にあいつらと係わりがあったわけじゃないし、たまたま練習中に通りかかって、助けるために川に飛び込んだだけだしな」

「それは! まあそれはそうでした……じゃあ気にしないで、もしもう一度会っても無視してりゃいいですかね?」

「うむ、その方が君達のためだよ」

「校長のためでもありますけどね。残り三、四年くらいでしたっけ、定年まで」

「何が言いたいのかね?  井出君。これは取引ではない、提案なのだよ」

「わかってますって。波風経たないようにして部活もちゃんとやるんで、進学のこと頼みますよ」

「それは君次第、いや君達次第だろうね」


◇◇◇


 昨日大分歩いたので疲れているのか、いや、そうでなくても胡桃は朝に弱い。そして不思議なのは胡桃が起きてからでないと千代まで目を覚まさないことだ。

 今日からまた一週間が始まるわけで、その最初の月曜日にこんな調子で心配にならなくもない。でも起きてしまえば何事もきっちりこなすのが胡桃のすごいところではある。

 ちょうどいい時間になると康子が部屋へ入ってきて、胡桃の両親の声を目覚まし代わりに再生する。はじめは何事かと思ったけどもうすっかり慣れてしまった。

 そしていつもどおりに胡桃が食事を済ませてから部屋に戻って学校の支度を始めた。

「今日はどうするのかしら?また紀夫君が帰ってきているか確認に行って、午後から学園に来る?」

「はい、そのつもりです。千代ちゃんはどうする?」

 もうすっかり目を覚ましている千代は大きく頷く。胡桃についていきたいのだろうが、授業が始まったら一人で遊んでいなければならないので退屈なのだろう。

「もし雨が降ってしまったら行かれませんが、連絡取りようもないので気にしないでください」

「確かに今日は曇っているわよね。天気予報は曇り時々雨だけれど、山間部と平野部でもまた違うかしら」

「かもしれません。今日からは講堂で練習でしたよね?」

「ええそうよ。客席も舞台も広いから伸び伸びと気持ちよく演じられるのだけれど、その分声を大きく出さないといけない難しさもあるわね。でも本番で使う荒波海洋高校の体育館はもっと広いのよ」

「この間外観は見ましたけど確かに広そうですね。お客さんも相当入りそうです」

「入ってくれないで気楽にできるより、満員御礼でプレッシャーかかる方がいいわね。いつの間にかあと二週間だもの、そこまで悔いの無いよう頑張るわ」

 胡桃は両手を握りこみお腹の前あたりで小さなガッツポーズをした。手振りは控えめだが瞳は輝いていて、演劇にかける想いがあふれ出ているように感じる。

 そんな話をしているところで、扉の外から康子の声が聞こえた。

「胡桃さん、そろそろ朝日さんが来る時間ですよ。用意は大丈夫かしら? 忘れ物ない?」

「はーい、大丈夫、今行くわ」

 そう言った後胡桃は千代を引き寄せて優しく抱きしめる。また数時間後には会うのだから大げさだとは思うが、千代の笑顔を見るとその効果は抜群なのだろう。

 ほどなくしてやってきた朝日の車に乗って胡桃は学校へ向かった。走り去る車が見えなくなるまで待ってから、僕と千代は絹原の総合病院へ行くために駅へ向かって歩き出す。

 通勤ラッシュと言うほど乗客もいない電車に揺られ、絹原駅で降りてからまた歩く。見慣れた道を進んで病院に入り、いつものように中庭に行って見たが今日も誰もいなかった。

「やっぱり戻ってきていないね。いったいどうしちゃったんだろう」

「のりにいちゃんどうしてるかね?げんきかなあ……」

 まったくこんなに心配かけやがって、自分勝手で無計画にもほどがある。とはいえ幽霊になってまでも何かに縛られて過ごすこともないのかという気持ちになる。もう思い切ってしばらく気にしないようにしようか、いやでも仲間が少ないより多い方が退屈はしないだろうし、等とあれこれ考えてみるが結論は出ない。

 二人は病院を出て、無言のまままた歩き始めた。今度は僕のテリトリー、土手へ出て例の橋の下へ向かう。そう言えばもうマンガは片付いているだろうか。胡桃が山下へカマをかけて暴露させたから犯人はわかっている。その意図もやはり償いの意味合いよりも自己満足のためなのだろうか。

 どちらにせよ死んでしまっている僕には何もできない。流れる時間と日々起きる出来事を受け入れながらこの世を漂い続けるくらいしかやることがない。

 空がますます曇ってきているので僕達は早足で橋脚下へ向かう。まだ土手へ出たばかりで、こからの道中だと雨を避けるところがない。

「いそがないとあめにふられてぺっちゃんこになっちゃうね」

 千代は笑いながらそう言うが、いくら命に関わらなくてできれば避けて通りたい出来事ではある。雨粒ひとつひとつに大した力はないが、連続してまとまって降ってこられたら抗うすべはない。そのまま一粒も押し返すことができず地面に張り付けられ、晴れて乾くのを待つことになってしまう。

 しかしそんな心配は杞憂に終わり、いつもの橋の下へは何事も起こらないうちに着くことができた。曇り空の広がった朝の河川敷は、気が滅入りそうになるくらいどんよりして寒々しい。

 僕は橋脚の下にあったマンガがどうなっているかを確認しようとした。するとそこには誰かがぽつりと座っている。薄暗い中目を凝らすとそこには良く知った顔が僕達を出迎えたのだった。

「のりにいちゃん!」

 千代が大きな声を上げると大矢が顔を上げる。その動作はゆっくりで、なんだか様子がおかしい。光の無い瞳がこちらを見つめるその表情、口元は嫌な雰囲気でにやけているようにも見える。

「大矢? どうしたんだ? 様子がおかしいよ。向こうで何かあったのかい?」

 数秒の間だろうが沈黙が続き、ようやく大矢は口を開いた。

「別になにもなかったよ。なんにもなかったんだ」

 その言葉にはなにか裏の意図が隠されているように感じるし、どう考えても行ってよかったって風でもない。その割には長らく戻ってこなかったのは不思議だ。

「でもね英ちゃん、いいこと思いついたんだよ。あいつらに復讐するいい方法をさ」

 その言葉は大矢らしからぬ力強さで、僕は背筋がぞくぞくするような感覚を覚えたのだった。

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