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第九章 浮遊霊たちは袂を別つ

111.混雑

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 依子を保健室へ連れて行った数学の教師が、授業時間が終わる直前に担任を連れて戻ってきた。どうやら犯人捜しをするらしい。といっても見つかることは無いだろう。

 まさかクラスの誰もが椅子が勝手に動くなんて思うはずもなく、周囲の証言を信じようとはしなかった。真相を知っているのは桃香だけだが、その口から真実が語られることはあり得ない。

 結局数学の時間が終わり次の授業が始まるまでの間の十数分ほどではなにもわからず、担任は首を傾げながら引き揚げていった。

「依子のやつ、構ってほしくて自分で転んだんじゃない?
 授業は中断しちゃうし、犯人捜しで嫌な思いはするしで迷惑極まりないよ」

 依子の隣だったため、疑いのまなざしを感じたのであろう男子が文句を言っている。近くの席にいた生徒たちは、自分がやったのではないとわかっているため不満がありありと出ている。さらにはその発言を疑う遠くの席の生徒もいた。もちろん無関心な生徒もいるのだが、何となく妙な対立感のような空気が教室に充満していた。

 それでも授業は進み昼休みになった。弁当持ちの生徒が早々と数人で机を並べたり、購買へ何か買いに行ったりという風景はどの学校も大差ないようだ。そんな中、依子は早退したのだと誰かが言っていた。紀夫にとっては桃香に害のある憎い存在だが、帰ってしまっては手の出しようもない。

 案の定一人で弁当を食べ始めた桃香を見続けることに気まずいと感じた紀夫は、退屈を紛らわすため周囲に目を配らせる。一人でいる者、数人のグループを作っている者、それは様々だが、ごく当たり前でつまらない光景だった。

 そこでふと紀夫は思い出す。生前、昼休みには紀夫から英介へ声をかけて一緒に弁当を食べていたことだ。周囲から孤立しているというわけでもなかったが、特に仲いい生徒がいるわけでもない英介に紀夫から声をかけてやり一緒に弁当を食べていた。

 それなのに、まさか幽霊になってから女子と仲良くなって紀夫の事をないがしろにするなんて。まったく恩知らずなやつになってしまった。紀夫は英介の事をそんな風に捉えていた。だがそれももうどうでもいい。なんといっても紀夫はもう一人ではなくなったのだ。これからはこの力で桃香を守ることを考えていた。

 視線を桃香へ戻すと、弁当を食べ終わり女の子らしい弁当袋へ片付けているところだった。その紀夫の視線に気が付いた桃香は目配せをしながら立ち上がる。どうやら教室を出るようだ。紀夫はその後ろについて一緒に教室を出た。さすがにトイレの中までは一緒に入らなかったが、その後中庭のベンチへ腰かけて単行本を広げた。

「ここなら声を出しても平気ね。紀夫君、さっきはありがとう。少し気が晴れたわ」

「ちょっと試したら上手く行っちゃっただけだよ。他にも嫌なヤツがいたら教えてね」

「そうね、あとは元彼くらいだけど別のクラスだしね。だいたい依子がいなければこんな事にはなってなかっただろうし、しばらく休んでくれたら。いっそのこと……」

「死んでくれたらすっきりするのにね」

 紀夫の口から間髪入れずに出てきた言葉を聞いて桃香はハッとした表情になった。それは恐ろしいことを考えてしまったというようなものではなく、まさにそれはいい考えだ、というように明るい表情だった。

「でもそんなことできるかしら?いくら紀夫君が周りから見えないからって無理だと思う。それにそこまでしなくても、他人に危害を加えるようなことを止めてくれたらそれだけでいいわ」

「変な噂流したのもあの子なんでしょ?もっと仕返ししてやりたいよ。桃香さんが疑われずにうまいことできたらいいんだけどな」

「ありがとう。そうよね、他人にされたことで自分が死ぬことなんておかしいものね」

 そんな物騒な会話をしているところに男子生徒が一人近づいてきた。桃香はその姿に気が付くと席を立ち教室へ向かおうとする。

「桃香、待ってくれよ。誤解なんだ。そうだよ、勘違いしてるんだ」

「勘違い? あなたは何を言っているの?それに馴れ馴れしく呼び捨てにしないで貰いたいし、二度と話しかけてほしくもないわ」

「そんなこと言わないでくれよ。俺はまだ桃香のこと……」

「ウリやってるような女だから自分でも簡単に落とせるって?私はそんな女じゃないわよ。バカにしないで!」

 どうやらこれが元彼らしい。桃香にとっては悪夢の一つであろうが、この男はそう思われてるなんて微塵も思っていない様子だ。

 教室への階段を上りきったところまでしつこく付きまとってきたその元彼は、とうとう桃香の腕を掴んで引き留めようとした。

「きゃあ、何するの、触らないで!」

 叫んだというほどではないが、大き目の悲鳴に周囲の何人かはこちらを向いた。掴まれた手を振りほどいた桃香は目の前の元彼に向かって張り手をしようと腕を振り上げた。

「不意打ちじゃなきゃそうそう叩かれるもんか。女のくせに生意気なんだよ」

 そう言って、桃香の手が振り下ろされるより前に桃香の肩の辺りを押して回避する。その直後、元彼の満足げな表情が焦りに変わる。

 肩を押されバランスを崩した桃香の足が階段を踏み外してしまったのだ。そのまま真後ろに倒れていく桃香とそれを呆然と眺める目の前の男子。それを見た女子生徒の悲鳴が聞こえる。

 ほんのわずかな時間が過ぎた後、階段の下には桃香の横たわる姿があった。誰かが教師を呼ぶ叫び声、階段状で立ち尽くす男子を責める声もある。

 しかし誰一人桃香に駆け寄り安否を確認しようとするものはいなかった。桃香は自分が階段から勢いよく落ちたこと、そして無傷であることを理解していた。落ちる瞬間に紀夫が桃香の背後から抱きかかえるようにしがみつきクッションになってくれたのだ。

「紀夫君ありがとうね。どうやらまた救ってもらったみたい」

 桃香が目を少し開いて小声で言う。紀夫は笑いながら答えた。

「無事でよかったよ。あいつひどいことするなあ。このまま寝転がってビビらせてやろうよ」

「それもいいわね。あの人小心者だから今は肝冷やしてるんじゃないかな」

 しばらくすると保健室と職員室から数名の教師が駆けつけた。突き落とした犯人である桃香の元彼は男性教師に連れていかれたようだ。桃香は養護教諭から声をかけられ、あたかもそこで目を覚ましたかのように起き上がる。

 怪我のないことや意識もしっかりしていることを説明すると、担任に連れられて職員室へ向かうこととなった。もちろん紀夫はその後を追う。

 職員室での会話は驚くべきものだった。桃香を突き落した男子生徒は大学推薦が決まっているので大ごとにしないようにと言うのだ。午前中にもけが人が出たこともあって教師たちは神経質になっているようだった。

 職員室を出た桃香は小さな声で一人笑い出した。

「ひどい学校よね。自分たちの評価や保身しか考えていないみたい。」

「進学校も大変なんだね。僕がこんな目にあったのは通ってたのがバカ学校だったからと思ってたけど、そうとは限らないということか」

「どこでもそれほど変わらないのかもしれないわ。結局通ってるのは同年代の男女だし、教えているのも変わり映えのしない教師たちだもの」

 確かに所変わっても同じような環境で育った同じ世代の人間だ。それほど大きな違いはないのかもしれない。紀夫はあれこれと考えてはみたものの、そんな哲学的なことを考えるよりも桃香の復讐のためになることに頭を働かせた方がいいと思い、それ以上考えることをやめた。


◇◇◇


 翌朝、桃香はいつも通りの時間に学校へ向かった。行動を共にしている紀夫にとっては初めての通勤通学ラッシュである。話に聞いていたよりもはるかに非現実的な混み具合だ。紀夫は次に電車を降りるまでまさに文字通り潰されながら車内の混雑を楽しんでいた。

 こんなに大勢の人間が電車の中に詰め込まれているが、いったい何のためにこんな事をしているのだろうか。勉強するため?会社へ行くため?人それぞれに理由はあるのだろうが、紀夫のような田舎育ちにはとても耐えられなそうな毎日である。

 桃香や同じ制服を着た生徒たちが同じ駅で降りる。もちろん同じ学校の男子も大勢いるし、それらとは無関係な乗降客でホームは混雑を極めている。ホームから改札口へ向かう人たちが左右に揺れていて、まるでペンギンの群れのように見える。紀夫はそんな光景を見てなんだか可笑しくなっていた。

「あ、依子だ。怪我したってほどでもなかったのかな」

 桃香が小声でつぶやき、その視線の先には、確かに昨日紀夫が転ばせた女子がいた。ほんの目と鼻の先に、周囲の迷惑も考えずに女子数人で談笑しながらのろのろと歩いている。

 人の波に乗っている桃香はその集団を追い抜かすように先へ進む。その時、突然紀夫が桃香の手を握った。どうしたのだろうと考える暇もなく、紀夫は依子の隣を歩いていた女子に手を伸ばし突き飛ばした。

 紀夫に押された女子は、唐突な出来事に対処できずそのまま押し出すように依子へもたれかかる。依子はふらふらっと斜めに進みそのままホームへ転落してしまった。

「ざまあみろ!死んじまえ!」

 紀夫が桃香の手を離しながら依子へ近づいて大きな声を出したが、それが桃香以外に聞こえたのかはわからない。

 しかし、一緒にいた女子の悲痛な叫び声と電車の警笛が、そんな紀夫の叫び声をもかき消していた。

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