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青色ダイアリー
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車の揺れに身を任せながら、紗子(さえこ)は窓の外を見つめていた。くすんだ乳白色の空に太陽の姿はないが、かといって雨を降らせる気配もない。
どうして私、こんなところにいるんだろう。
紗子の頭の中もまた、この空の色のように真っ白なもやがかかっている。
助手席に座る兄の「新しい」彼女が、後部座席を振り返りにっと笑った。
「さえちゃん、大丈夫?酔ったりしてない?」
鼻から出したような声と同時に作られた笑顔の中にある目は、捕食動物のそれを思わせる。彼女の顔を見る度、紗子は半ば本能的とも言える嫌悪感を抱く。
「いえ、大丈夫です」
あえて距離を置くようによそよそしく答えた紗子の声が、ことのほか低温に響いた。同時に自分の表情が凍てついていくのを紗子は自覚する。そんな紗子を見た彼女、エリの顔からも、瞬時に色が失われる。
しばらく気まずい沈黙が続いた。三人の会話は、家を出た時からちっともはずまない。
あの時とは、何もかもが違う―。
紗子は、兄とまりえと三人でドライブをした日のことを思い出していた。学校や友達、映画、好きな音楽…話は尽きることなく溢れ出てきて、目的地に着く前にすっかり目的を果たしてしまったかのような充実感で満たされていた。デートの邪魔をされた兄は時々苦笑いをしていたけれど、あの日ほど兄が幸せそうに笑う顔を紗子は見たことがない。まりえは紗子の話をずっと楽しそうに聞いていてくれたし、時々アドバイスをくれたりもした。紗子はまりえのことを実の姉、もしくはそれ以上に慕っていたし、まりえもまた紗子に対し、実の妹同然に心を開いてくれていた。ずっと姉がいる同級生をうらやましく思っていた紗子にとって、まりえと過ごした日々は、まるで夢がかなったかのような、今思えばかけがえのない時間だった。
それなのに―。
昼前になりようやく車は遊園地に到着した。日曜日で家族連れが多いせいか、道が混んだ上に駐車場に車を停めるのも一苦労だった。けれども紗子にとって、そんなことはどうでも良かった。出来たら到着なんてしてほしくなかったし、着いたところで遊園地で遊ぶ気など始めからなかった。
「やっと着いたねー」
エリが振り返って、例の貼り付けたような笑顔を紗子に向ける。その頬には車のシートの跡がうっすら残っていた。余りに弾まない会話と紗子の態度に耐えられなかったのか、それともただ単に寝不足だったのか、エリがドライブの後半助手席で寝ていたのを紗子は知っていた。エリが寝ている間、浩之と紗子はほとんど口をきかなかった。
遊園地へ行こう、と言い出したのはエリだった。
浩之がエリを家に連れて来た日、兄の新たな交際相手として紹介されたエリを紗子はまともに見ることさえ出来なかった。どうしてそういうことになってしまったのか、まだ小学六年生の紗子にはわけが分からず、かといってエリの前で兄にそれを問いただすことも出来なかった。
「さえちゃん、よろしくね」
にっと笑いながら初対面にも関わらず紗子のことを馴れ馴れしく「さえちゃん」と呼び、いきなり遊園地に行くことを企画したエリは、どちらかと言えば地味な顔立ちで特別な魅力があるようには見えなかった。兄の浩之がなぜ美しいまりえを捨て彼女を選んだのか、紗子にとってそれは永遠の謎だった。ただその謎を解く鍵と思われるのは、張り付けた笑顔の裏にある、本心を決して他者に悟らせぬしたたかさと、狙った獲物を決して逃さぬ肉食獣のような目の光だった。
まりえから浩之を奪い取る形で交際を始めたエリが、ほんのわずかでも罪悪感を抱いているというのなら、むしろこんなことはやめて欲しかった。紗子は昔から遊園地が大好きだったが、それは大好きな人と行った場合に限ってのことだった。それに、エリが本当に罪を滅ぼさなくてはならない相手は、紗子ではなくまりえのはずである。
予想はしていたが、三連休の中日ということもあって園内は混雑していた。ジェットコースターはもちろんのこと、メリーゴーランドでさえ長蛇の列だ。それを見ただけで紗子はうんざりしたが、エリは逆に驚くほどの人混みにテンションが上がってしまっている。
「うわー、すごい人~!これじゃあ一日並んで終わっちゃうね」
そう言いながらもエリはそれをちっとも苦にする様子はなく、むしろ並ぶことを楽しもうとする勢いだ。
「だから遊園地なんてやめた方がいいって言ったんだ」
冷静に半ばあきれたように言う浩之の腕にしなだれかかり、エリは甘えた声を出す。
「なんでー?いいじゃん。さえちゃんも来たかったよね」
紗子は思わず露骨にエリをにらんでしまった。その目に一瞬エリがひるんだのが分かった。
二人で行けばいいものを紗子の部屋にまで入ってきて気乗りしない紗子をしつこく誘い、うんと言うまでその場を動こうとしなかった今朝のエリを思い出す。しまいには懇願するような兄の視線に根負けし、しぶしぶついてきたのだが、車中にいる時から感じていた不快感が、ふと限界に達した。
「あっ、紗子!」
浩之とエリをメリーゴーランドの列に残したまま、紗子はその場を離れた。
「さえちゃん!」
二人の声を振り払うように、紗子は園内を駆け抜けていく。
気が付くと裏門の前まで来ていた。ここをくぐり抜けてしまえば、再び入場することは出来ない。分かっていながら、紗子は迷わず門をくぐり抜けた。
門が見えなくなる位置まで遠ざかってから、ようやく紗子は歩を緩めた。
徐々に冷静になると共に、現実へと引き戻されていく。すると今度は体が恐怖と不安に包まれた。車で四十分かけて辿り着いたこの場所から、家まで歩いて帰ることなど出来ない。財布には千円札が入っていたが、家までの電車賃がそれで足りるのかどうかさえ分からなかった。紗子は途方に暮れながら、今歩いている道をただひたすらまっすぐに進んだ。不安な気持ちの一方で、何がどうなっても構わないという気持ちもまた、紗子の中にはあった。
ふいに、ある町の名前が紗子の頭に浮かんだ。それは兄と別れた後にまりえが引っ越したという町の名前だった。まりえは兄と別れた後、一度だけ紗子に連絡をくれた。今まで仲良くしてくれたお礼と、別れを言うために。まりえはそうすることで紗子との関係にもけじめをつけようと思ったのだろう。しかし紗子にしてみればそれは、全く納得のできることではなかった。
紗子はこの時初めて、ポケットの中にあるスマートフォンの存在を思い出した。春休みに買ってもらったばかりのそれを取り出すと、路線案内のアプリに「根掘町」と入力してみた。すると今いる場所から根堀町までの経路がすぐに画面に表示された。最先端の文明の利器が持つ威力に紗子はこの時初めて感動を覚えた。その場所へは、今いる場所から家に帰るよりもずっと安い電車賃で行けることも分かった。家へ帰るのと方向は真逆だったが、そんなことは構わなかった。まりえと再会できるのなら、このまま家に帰れなくなったっていい。そんな乱暴ともいえる思いが、紗子の中には渦巻いていた。
最寄りの駅を見つけると紗子は迷わず電車に飛び乗った。駅の表示を見ながら、なんとか間違えずに乗り換えも出来た。
都心から海岸方向へと向かう列車の乗客はまばらで、横並びのシートに腰かけた紗子は、体を傾けて窓の外の景色を眺めた。列車が進むに連れビルや商業施設は次第に姿を消し、代わって閑静な住宅地の合間に紺碧色の海が姿を現した。普段海など目にする機会のない紗子は、思わず身をよじってそれを眺めた。
―私、本当に来ちゃったんだ。
今更ながら自分のしてしまったことの大胆さに驚く。しかしもう後戻りすることは出来ない。駅への到着を告げるアナウンスと共に、紗子は立ち上がった。
そこは細長いプラットホームがあるだけの小さな駅だった。根堀町は都心へ通う人達のベッドタウンであることもあり、駅で降りる人の数は思ったよりも多かった。
階段を下り駅の改札を抜けたところで、紗子の足はすくんだ。
同じような形をした家々が、縦横に広範囲にわたって整然と並んでいる。さらにその奥には、やはり同じような形をしたマンションが数棟、折り重なるように建っていた。
この町には、一体どれ程の数の人達が暮らしているのだろう。その中からたった一人まりえを探し出すことなど、考えてみれば不可能に近い。衝動にかられこんな所まで来てしまった自分の浅はかさを今更呪ってみたところで、時既に遅しだった。
ぎゅーっ、という腹の音と共に、紗子は突然痛いほどの空腹を感じた。腕時計に目をやると、一時半を指している。朝コーンフレークを少し食べただけで家を出て来たのだから、無理もなかった。しかし何かを買って食べようという気も紗子には起らなかった。ここに来るまでの電車賃にお小遣いの大半を使ってしまったというのもあるが、それ以前にものを食べたりする心の余裕がまずなかった。
紗子は駅の前に置かれたベンチにまず腰掛けた。ただやみくもに歩いたって見つからないのは分かっている。どう行動しようかと考えを巡らせていると、紗子はポケットの中でスマートフォンが震えているのに気が付いた。取り出した画面に兄の名前が表示されているのを見て、紗子は「切る」のマークが表示された部分をタッチした。着信履歴を見ると、電車の振動で気がつかなかったがその前にも何度も兄から電話がかかってきていたことを知った。紗子は顔をしかめると、スマートフォンを再びポケットの中へとしまった。先ほどその便利さに感動を覚えた小さな機械が、今はただの鬱陶しい邪魔物でしかない。
何本目かの電車が駅を通過し、何人もの見知らぬ人々が紗子の前を通り過ぎた。当然のことながら、まりえの姿はその中にはない。そんなに運良くまりえが現れるはずもない。まりえを捜し出す良い方法も思い浮かばぬまま、もうあきらめて帰ろうかと思い始めた頃だった。
「さ、さえちゃん?」
聞き覚えのある澄んだ声で、ふいに名前を呼ばれた。
顔を上げると、改札口の前に、まるでそこに存在するのが信じられないという目で紗子を見つめるまりえが立っていた。
実を言うと紗子は、まりえと再会する瞬間をここに来るまでの間何度も想像していた。会った瞬間まりえの胸に飛び込み、涙を流す。ずっとずっと会いたかったと。実際にまりえと会うことが出来たなら、自分はそうするだろうとも思っていた。しかしいざ現実にまりえの姿を目の前にした紗子の体は固まり、声すら出てこない。
「さえちゃんが、どうしてここにいるの…」
まりえの顔には、明らかな戸惑いと動揺の色が浮かんでいる。
紗子はうつむいた。
―やっぱり来なければ良かった。
まりえの気持ちも考えずに、自分の身勝手な思いだけでここまで来てしまった自分が恥ずかしかった。今まりえにとって紗子は、別れた恋人の妹という、とても微妙な存在なのである。
「一人で来たの?」
まりえは、紗子が座っていたベンチのところまで歩いてくると尋ねた。
「…うん」
「おうちの人は知ってる?」
紗子がゆっくりと首をふると、まりえは少し迷った顔をした後、意を決したように携帯電話を取り出した。
「じゃあ、連絡しないとね」
「待って」
電話をかけようとするまりえの手を紗子は押さえた。やっと会えたのだ。そしてもう二度と会えないかもしれない。だからこそもう少し、誰にも知られずまりえとの時間を過ごしたかった。
「分かってる。みんなが心配するのも、家に帰らなくちゃいけないのも。でもお願い。少しだけ。少しだけでいいから、まりえお姉ちゃんと一緒にいさせて」
懇願する紗子に、まりえの瞳が揺れた。
「さえちゃん…」
まりえは小さく息をふっと吐き出すと、笑顔を見せた。
「分かった。いいよ。ところでさえちゃん、お腹すいてない?」
駅前にあるハンバーガーショップでまりえはハンバーガーセットをふたつ注文した。ファーストフード店特有の何とも言えぬ食欲を誘う香りに、紗子は忘れていた空腹が一気によみがえるのを感じた。大きく口を開けて頬張る紗子を見ながら、まりえは表情を緩めた。
「さえちゃん、相変わらずハンバーガーが好きなんだね」
以前浩之がまりえを連れて実家に来た時に三人で近所のハンバーガーショップへ行ったことがある。その時も紗子はハンバーガーにかぶりつき、満面の笑みを浮かべていた。そんなささいな記憶が、大切な宝物のように紗子の胸によみがえってくる。あの頃の日々はもう決して戻らないのだ。
「お金出してもらっちゃってごめんなさい。後でちゃんと払うから」
紗子はまりえに頭を下げた。まりえと自分を繋ぐものがなくなった今は、金銭的な甘えも許されないと思ったからだ。しかしまりえは笑いながら言った。
「いいよ、そんなこと気にしないで。私もさえちゃんと会えて、嬉しかったから」
「本当?」
紗子は顔を上げると、まりえの目をのぞきこんだ。そこには駅で会った時のような、困惑の色はもう浮かんでいなかった。
「正直最初は驚いたけど。過去のことはもう全部忘れようって思っていたから。さえちゃんが突然目の前に現れた時は、どうしようって思った。でもこうしてさえちゃんと一緒にいると、やっぱり私、さえちゃんのこと好きだなって感じる」
嬉しさと恥ずかしさで体が熱くなった紗子はとっさに言葉を返した。
「私も、まりえお姉ちゃんのことが好き!」
ありがと、とまりえは小さく笑うと、言った。
「せっかく来てくれたんだから、町を案内するわ。さえちゃんの家の方と比べると狭苦しい町だけど、少し歩くと海に出るのよ」
ここへ来る電車の中からも海が見えていたことを紗子は思い出した。
駅前から続く通りは、紗子の住むのどかな田舎町とはずいぶんと趣が違っていた。家と家との間隔が異様に狭く、どの家も二階から手を伸ばせば隣家の窓に届きそうだった。住宅街の中の道を、紗子とまりえは並んで歩いた。道が狭いため時折通る車に気をつけないとぶつかりそうになる。しかししばらくすると徐々に視界が開け、どこからか磯の香りが漂ってきた。住宅が密集した町である一方で、ここは海辺の町でもあった。
歩いてきた通りは海岸沿いの道路とぶつかっており、ガードレールの向こう側はすぐ砂浜になっていた。紗子は引き寄せられるように通りを渡ると、階段を下って砂浜へ降りて行った。まりえも紗子の後に続いて降りてくる。
砂浜に島のように浮かぶ岩に紗子は腰を掛けた。まりえに、ずっと聞きたかったことを聞いてみようと思った。その答えを聞くためにここまでやって来たと言ってもいい。
「…お兄ちゃんとは、本当にもうやり直せないの?」
こんなことを妹である自分が聞くのは出過ぎた真似だと分かっている。それでも紗子は浩之とまりえに仲直りをして欲しかったし、また恋人同士に戻って欲しかった。
まりえは水平線の彼方を見つめていた。長い髪を海風にたなびかせるまりえの肩は、以前よりも細くなった気がした。まりえからの返事はない。返事がないのが答えなのかもしれない。
「もう浩之君には、新しい人がいるでしょ」
しばらく間を置いてからそう答えたまりえの声は、諦めと哀愁の色を帯びていた。紗子の中に、不敵な笑みを浮かべるエリの顔が浮かんだ。
「私、嫌い。あの人」
エリに対する気持ちをはっきりと口に表したのはこれが初めてだった。口に出してしまえば少しはすっきりすると思っていたのに、実際は嫌悪の感情が増しただけだった。悪意とは声にすればするほど湧き上がってくるものなのかもしれない。エリのことを考えていると紗子は、自分の腹だけでなく頭の先からつま先まで真っ黒に染まっていくようなイメージに囚われる。そんな自分をふっきりたくて、紗子は海岸に沿って歩き始めた。
すると、紗子のスカートの中でスマートフォンが震えた。浩之からかと思いどきっとしたが、画面に表示されていたのは幼馴染であるワタルの名前だった。受話口を耳に当てると、いきなりワタルの怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい!お前、今どこにいるんだよ!」
その一言で、大体の状況を察することが出来た。紗子がいなくなったことを知り慌てた家族が、紗子の知人らに連絡をとり行方を捜しているのだ。
「どこって、それはちょっと言えない」
紗子が答えるとさらにひどい怒声が飛んできて、思わず耳を離した。
「バカヤロー!お前、どれだけみんなが心配したと思ってるんだ」
「ごめん」
紗子は素直に謝った。そうせざるを得ない圧のようなものが、スマートフォンの向こう側にいるワタルから伝わって来る。
ワタルとは幼稚園の頃からの付き合いである。同じ幼稚園だったわけではないが、通っていたスイミングスクールが一緒だったのだ。それから同じ小学校に入学した後は、六年間でなんと五回も同じクラスになった。言わば、腐れ縁というやつである。いつの間にか親同士もただの顔見知りからすっかり仲の良いママ友になってしまっている。ワタルには、母親同士のやりとりから伝わったのだろう。
「今ね、まりえお姉ちゃんの所に来てるの」
浩之には絶対に行先を知られまいと決意していたのに、ワタルにはつい正直に答えてしまった。紗子は昔からなぜか、ワタルには嘘がつけない。
「まりえさんって、浩之君の…」
電話の向こう側でワタルが一瞬ためらう気配がする。浩之とワタルは家は近所であるものの年が離れていたため、子供の頃一緒に遊んだりしたことはない。ただ、浩之はたまに紗子を誘いに来るワタルに対して、「よう」とか「おっ、また来たな」などと玄関先で声をかけていたらしく、兄のいないワタルにはただそれだけのことが嬉しかったらしい。お前んちは兄ちゃんがいていいな、とよく紗子の前で口にしていた。そう、お姉ちゃんの方が良かったけどな、なんて紗子は答えていたが、あの頃は決して今みたいに浩之との関係はぎくしゃくなんかしていなかった。
「とにかくすぐに戻ってこい。お前の家族、大騒ぎだぞ。警察も呼ぼうとしてた。とりあえず無事だってことは伝えるからな」
徐々にワタルの怒りは収まり、安堵しているのが伝わってくる。
「うん。ごめん、心配かけて。でもお願い、居場所だけはまだ教えないで。とくにお兄ちゃんには」
少し間を置いた後で、ワタルは念を込めるように言った。
「…分かった。でも絶対にちゃんと帰って来いよ」
電話を切った後、まりえは紗子の顔を覗き込みながら尋ねた。
「もしかして、ワタルくん?」
意味深な笑みを浮かべるまりえに、紗子は腹を立てた。
「だから、違うって」
「違うって、まだ何も言ってないでしょう」
まりえは昔からなぜかこんな風に、ワタルとのことをからかってくるのだ。まりえとこんなやりとりをしていると、時間の感覚がなくなり、まるで過去に戻ったような錯覚を起こしてしまう。
「今日はもう、さえちゃんは帰った方がいいよ」
まりえの声は変わらず穏やかだったが、今度は諭すような、あらがえない強さを持っていた。いつの間にか日も傾き始めている。
「でも…」
それでも紗子は素直に帰る気にはなれなかった。このまま帰ってしまえばもう二度とまりえと会うことは出来ないかもしれないのだ。
紗子が立ち止まったままもじもじとしていると、まりえは鞄から名刺入れを取り出し、一枚抜くと紗子に差し出した。そこにはまりえの携帯電話の新しいアドレスと電話番号が印字されていた。
「就職活動用に自分で作ったんだ。こういうの苦手だからあまりセンスないけど。今度来てくれるときはここに連絡して。…浩之君とは駄目になっちゃったけど、さえちゃんとはこれからもずっと友達でいられたら嬉しいな」
心の中で凍てついていた部分に日が当たり、溶かされていく。浩之とまりえとの関係が終わってしまったからといって、紗子とまりえの関係まで断ち切る必要はないのだ。そう思うと紗子は、体の中に新たなエネルギーが流れ込んでくるのを感じた。
「うん。ありがとう」
まりえの名刺を受け取りながら紗子は、やっぱり勇気を出してここまで来て良かったと心から思った。
駅まで送ると言ってくれたまりえの申し出を大人ぶって断ってしまったことを、紗子はすぐに後悔した。道を歩く途中で、家に帰るための電車賃が足りないことを思い出したのだ。悩んだ挙句頭に思い浮かんできたのは、さっき電話で話したばかりの顔だった。紗子はスマートフォンを取り出すと、着信履歴の先頭にある番号に電話をかけた。
「あ、もしもしワタル?ちょっとお願いがあるんだけど…」
乗換案内を頼りになんとか家の最寄り駅までたどり着くが出来た。改札口の向こうには、ワタルが立っている。ワタルから改札越しに小銭を受け取ると、切符を清算し無事外へ出ることが出来た。
「バーカ」
外へ出るなりワタルに頭を小突かれた。大して痛くもないのに紗子は、イタッとおおげさに頭を押さえる。ワタルとの、お決まりのようなやり取りだ。
「で、どうだった?まりえさん」
長々とお説教をされると思いきや、ワタルはいきなり本題に入った。
「うん。一応元気そうだった」
「そっか。で、お前はどうなの?ちゃんと気持ちに整理つけられたの?」
「整理って、どういうこと?」
「だからつまり、ちゃんとお別れを言えたのかっていうこと」
紗子は首を横に振った。
「連絡先、教えてもらった」
紗子がそう言うと、ワタルはぎょっとした顔で紗子を見た。
「連絡って、浩之君とまりえさんは別れたっていうのに、お前とまりえさんはこれからも連絡を取り続けるわけ?」
「うん、まあそういうことになる、かな」
ワタルは怪訝そうな顔をしたまま黙り込んでしまった。考え方に固いところのあるワタルは内心賛成できないのだろう。
紗子の中にも不安がないわけではなかった。連絡先を教えてもらったものの、兄の目を盗んでまりえと連絡を取り続けることに対して、悪事を働くわけでもないのに罪悪感を感じてしまう。結局まりえとの繋がりなんて、いつかは自然消滅的に途切れてしまうのかもしれない―。ふとそんな考えが浮かぶと、無性に寂しい気持ちに襲われた。
「で、どうするの?これから」
話題を変えるようにワタルが言った。
「どうするって?」
「だから、遊園地からいなくなった理由を、どうやって浩之君に説明するかってこと」
それを聞かれると紗子は頭が痛かった。正直浩之と対面することを考えるだけで苦痛だ。実の兄であるというのに、浩之は今紗子が世界中で最も会いたくない相手だった。
「まあ言いたくないなら、別に本当のことを言わなくてもいいんじゃないの」
ワタルの言葉に、紗子の心がふと軽くなる。
「本当にそう思う?」
「まあ嘘をつくのは良くないことだけど、まりえさんに会ったなんて言ったら、浩之君もショックを受けるだろうし、ここは腹が痛くなったから帰ったとか、適当な理由をつけておけば」
「なんかそれも安易だね」
紗子は思わず笑ってしまった。
「笑ってる場合か。じゃあ自分で考えろ」
ごめんごめん、と謝りながら、紗子は改めて幼馴染の存在を有難く感じた。
紗子の家族には、ワタルから無事でいることをうまく説明してくれたようだ。電車に乗って一人で帰ってきたが、家族に合わせる顔がないので友達の家にいるということにしたらしい。ワタルは普段いつも一緒にいるというわけではないのに、ピンチの時にはちゃんと助けてくれる。それが幼馴染というものなのかもしれない。
「…私、やっぱり正直に話すことにする」
紗子が言うとワタルは、さっきよりもさらにぎょっとした顔で紗子を見た。
「マジで?」
紗子は一旦息を吸い込んでから、言った。
「私の気持ち、全部正直に話してみる。よく考えたら私、あれからまだ一度もお兄ちゃんとちゃんと話してなかったから」
あれからというのは、突然浩之からまりえとの別れを告げられた日からのことだ。秋も終わり本格的な冬に入る前の、木枯らしの吹く寒い午後のことだった。あの日のショックと悲しみは、今でも生々しく紗子の胸に刻まれている。
玄関の戸を開けるにはかなりの勇気が必要だった。それでも紗子にとって帰る家はやはりこの家しかない。鍵を開け中に入るとすぐに、物音に気付いた母がダイニングの入口から顔を出した。
「紗子!あんたったら、もう」
紗子の姿を見るなり駆け寄ってきた母は、口の中で小言をもごもごと繰り返していたが、紗子の注意は母の小言よりも玄関に置かれた靴の方に向けられた。エリの靴がないことを確認すると、ほっと全身から力が抜けた。
母の声を聞いた父と浩之もリビングから出て来た。玄関で家族全員に囲まれる形となった紗子は、頭を下げるしかなかった。
「ごめんなさい」
意図せず声が裏返りかすれた。同時にじんわりと涙もこみ上げてくる。
誰もしばらく言葉を発しなかった。紗子が遊園地から消えた理由を、父も母も兄も聞かずとも分かっているかのようだった。
「とにかく入ってご飯食べなさい。出来てるから」
そうとだけ言うと母は、紗子を促すようにキッチンへと戻った。
「とりあえず、無事帰って来て良かった」
父も安心したように言った。兄だけは、最後まで何も言わなかった。
夕食は既に皆食べ終えていて、母は後片付けも終えたところだった。紗子の分のおかずにはラップがかけられていて、温め直すかどうか母に聞かれたが、紗子はいいと断った。ご飯にお味噌汁とサバの塩焼きにほうれん草のお浸しと肉じゃが。普段と代わり映えしない献立が、今日は何か特別なものに感じられる。空腹は感じていなかったはずなのに、一口食べると紗子の箸は止まらなかった。
「それで?…本当はどこに行っていたの」
紗子が食べ終えるのを見計らったようにお茶を差し出しながら、母が口を開いた。
意表を突かれた紗子は驚いて母の顔を見た。本当のことを言うつもりでいたのに、そう先手に出られるとかえって素直に答えたくなくなる。
「ワタルから聞いたでしょ。由香里達と一緒にいたって」
なるべく自然に言ったつもりだったが、紗子は頬の筋肉が引きつるのを感じた。嘘をつくのはやっぱり気持ちのいいものではない。
「ワタルくんからも由香里ちゃんからもそう連絡が来たけどね。でも由香里ちゃんのお母さんは、そんなはずはないって」
しまった、と紗子は思った。母親同士のネットワークを甘くみていたのだ。
「でもワタルくんが、絶対大丈夫だからって言うからね。その言葉を信じて待ってたのよ」
改めて家族をだましたことに対する申し訳なさが、紗子の中にじわじわと込み上げてきた。
浩之はさっきから窓辺のソファーに座ったまま、真っ暗な庭を眺めている。紗子は年の離れた兄に、生まれてから一度も怒られたことがない。だから今日、どんな風に浩之が紗子に対して怒りを露にするのか、想像することが出来なかった。
紗子は意を決して口を開いた。
「…私、まりえお姉ちゃんに会いに行っていたの」
紗子がソファーに座る浩之の方へ目をやると、浩之の表情がゆっくりと固っていくのが分かった。紗子は立ち上がり、浩之に向って言った。
「どうしてももう一度会いたかったの。だって私は、やっぱりまりえお姉ちゃんのことが好きだし、これからもずっとそれは変わらないから。お兄ちゃんが誰と付き合おうと、そんなことは関係ない」
最後の方は語尾が震えた。浩之はソファーから立ち上がると、紗子の方へ近づいてきた。ぶたれる―。紗子はとっさにそう思ったが、浩之は紗子の頭に手を伸ばすと、軽くポンポンと触れただけだった。
「…ごめんな。お前にまでつらい思いをさせてしまって」
そうとだけ言うと浩之は、リビングを出て二階へと上がっていった。
残された紗子と両親の間には、重苦しい空気だけが残された。目の前に出されたままのお茶をじっと見つめたまま、紗子は顔を上げることが出来なかった。母が小さなため息を漏らすのが聞こえた。
「あんたの気持ちも分からなくもないけど、お兄ちゃんとまりえちゃんのことには、子供のあんたが口を出すべきじゃないよ」
瞬間紗子の中で何かが風船のように大きく膨らみ、パチンとはじけた。今の紗子が最も言われたくない言葉は、「バカ」でも「ブス」でも「のろま」でもない。「子供」という言葉だ。その言葉によって、紗子はいつも向こう側にある本当の世界から遮断されるような気がする。もう子供じゃない―。そう叫んだところで、それを認めてくれる大人はこの家にはいなかった。
部屋に戻った紗子は、ベットに仰向けになった。浴室から浩之がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。当然のことながら、兄が出たら次は紗子が風呂に入らなければならない。こんなにも距離の隔たった兄と一つ屋根の下で暮らしていることが、ひどく不自然でいびつなことに感じられた。
新学期が始まるまで実家にいるはずだった浩之は予定を変更し、翌日大学近くで借りているアパートに帰ることになった。連休や長期休みの間は実家で過ごすことが多い浩之がなぜ急に帰ると言い出したのか、理由は聞くまでもなかった。
浩之が家を出るまでの間、紗子は兄と一言も口をきかなかった。
浩之がまりえと別れエリと付き合い始めた時紗子は傷ついたし、エリの希望で無理に遊園地に連れて行かれたのも迷惑だった。心の中で浩之を罵り、恨みもした。
しかし不思議なことに、いざ兄を目の前にすると怒りや憎しみはどこかへ消えてしまうのだった。ただ気まずさだけが、兄との間に横たわっていた。たとえどんな理由があれ、昨日紗子がとった行動は非常識としか言いようがなく、そのことについて紗子は兄に謝らなければならないと思っていた。しかし家の中でいざ浩之が近づいてくると、言葉は喉の奥に引っ込んでしまい、中々外へ出てこなかった。
玄関先で浩之を見送る時は、紗子も両親と並んで上がり框に立った。次に浩之が帰って来るのは例年通りなら五月の連休のはずだが、今年はどうだか分からない。
両親に挨拶した後、浩之はほんの一瞬だけ紗子の顔を見た。その瞬間兄が見せた表情に、紗子は心臓を掴まれたような気がした。緊張と怯えと後悔。兄をそんな顔にさせてしまう自分は、最悪な妹であるような気がした。
「行ってらっしゃい」
浩之の背中に紗子は声をかけた。ドアを開けようとしていた浩之の手が、一瞬動きを止めた。振り返った浩之は、少しだけほっとしたように微笑んだ。
浩之が東京へと帰ってから一週間後、紗子は中学生になった。
紗子が通う中学校の生徒の半数は同じ小学校出身である。クラスを見渡しても半数以上が顔見知りであるため、いまいち新生活という実感は薄い。それでも制服を着て、今までとは違う通学路を通り、一回り大きくなった教室で過ごすことは新鮮で、中学生になったという自覚が自然と湧いてくるのだった。
三学期の終わりから春休みにかけて、紗子の同級生達の間には急速に恋愛ごっこが流行り始めた。スマートフォンを持ち始める子の数に比例するように、付き合い始める子達が急激に増えたのである。小学生が「告白」するなんてまるで冗談のようで、少し前まで絶対にあり得ないことだったのに、卒業式を終えた頃から様子が変わった。紗子と仲良しだった友達にもいつの間にか彼氏がいたりして、学年全体に恋愛ブームのようなものが起こっていたのである。そして、気がつくと紗子は完全にそのブームから取り残されていた。
紗子は恋愛ごっこを楽しむ同級生達をどこか冷めた目で見ていた。恋とはしようと思ってするものではなく、ある日突然訪れるものだと思っていたからだ。本気で互いを好きになれない恋愛なんて時間の無駄だと思う一方で、浩之とまりえのように強く惹かれ合っていた二人でさえ時として別れてしまうのだから、恋なんて当てにならないものだという思いもあった。
しかし紗子がそんな風に恋愛に対して斜に構えていられたのは、その日、中学校に入学して最初の数学の授業を受けるまでのことだった。
チャイムの音と共にスーツ姿で颯爽と教室の入口から入って来たその教師の姿を見た時、紗子はさわやかな春風が流れ込んできたように感じた。
周囲の女子達のざわめく声が、それが紗子だけに起こった出来事ではないことを告げていた。整った黒目勝ちの目に、凛々しい眉と筋の通った鼻。そしてまっすぐすらりと伸びた手足。誰がどう見ても、彼の容姿は限りなく完璧に近かった。
紗子の体は固まり、目は教師に釘付けになった。心も体も静止しているのに、コントロール不能な心臓だけが勝手に高ぶっている。
教師は黒板に自分の名前を達筆な文字で書きつけると、当然の流れのように自己紹介を始めた。
「えー、初めまして。今日から皆さんの数学を担当する滝川です。数学っていうと苦手な子も多いかと思いますが、数学嫌いな子をなくす、というのが僕の教師としての目標です」
言葉の初めに「えー」とつけるのが、いかにも大人らしく嫌な感じもしたし、そこにまた惹かれる気もした。数学嫌いな子をなくすというのが彼の目標なら、そんな目標は簡単に達成できてしまうに違いない。少なくとも今既に目がハート形になってしまっている女の子達に関しては。そんなことを考えながら授業を聞いていた紗子の頭に、肝心の授業の内容は全く入ってこなかった。
―もしかして、これって…。
紗子は自分の心に問いかけてみる。
ぼーっとしている間に授業はいつの間にか終わっていて、気がつくと教室内に小さな輪がいくつも出来上がっていた。クラス内に大きな仲良しグループが形成されるほど、まだ互いが互いのことを良く知らないのだ。皆小学校時代の顔見知りを見つけては席を立ち、新たな友達関係を作ろうとしている。今この時期にどういう人間関係を築き上げるかで、今後一年間の学級生活の充実度が決まるわけだが、そうと分かっていても紗子は、中々自分からは動けないタイプだった。
嫌いだったはずの数学の教科書を丁寧に机の中にしまうと、紗子は次の授業の教科書を取り出そうと机の中をのぞきこんだ。
「さっきの先生、めっちゃ、かっこ良くなかった?」
教室の喧騒にかき消されることなく、その声は紗子の耳の側ではっきりと聞こえた。驚いて声がした方を振り向くと、紗子の左斜め後ろの席に座った少女が、紗子の顔を見てにっと笑った。他の誰かに声をかけたのだと思っていたが、少女は紗子に向かって話しかけていたのだ。
「えっ、あっ、うん」
どう答えていいか分からず、紗子はあいまいな返事をした。答えた瞬間、顔が熱くなった。
「やーっぱり」
少女は嬉しそうに笑いながら立ち上がると、紗子の机の側まで歩いて来た。
「後ろからだったけど、見ててそうかなと思ったんだ。だってあなた…えーと、桧山さん?の頭が、ずーっとあの先生の顔を追ってるみたいだったから」
とたんに恥ずかしくなって紗子はうつむいた。
少女は紗子の名札を見ながら紗子の苗字を口にしたのだった。そして気づいたように自分の制服の胸元をひっぱると、名札を見せた。そんなことをしなくてもこっちからは見えるのに、と少女のしぐさが紗子にはちょっとだけおかしかった。
「私は門倉菜々美。松谷小出身。よろしくね」
菜々美は人懐っこい笑顔を紗子に向けた。笑うと両側にえくぼが出来て愛嬌がある。美少女っていうのとはちょっと違うが、菜々美は誰からも愛されそうな顔だ。
「あっ、よろしく」
紗子は少し緊張しながら小さな声で答えた。紗子は昔から初対面の人と話すのがあまり得意ではない。何を話そうか考えている間に気がつくと相手がいなくなっている、ということもたまにあるくらいだ。だけど菜々美は違った。紗子の戸惑いや緊張など気にもかけない様子で、一方的に話しかけてくる。
「私もね、あの先生見た瞬間、もうドキドキしちゃって。それで早くこの気持ちを誰かと分け合いたかったの。ねえ、桧山さん、一緒にファンクラブ作らない?」
「フ、ファンクラブ?」
紗子は思わず目を大きく見開いた。確かに滝川という教師はジャニーズのアイドルよりもずっとイケメンだが、ファンクラブというのはさすがにミーハー過ぎる気がする。
「そ、それはちょっと…」
菜々美の提案に対しやや引き気味に答えると、菜々美ははっとしたような顔をしてから、まっすぐに紗子を見つめた。
「もしかして、ドン引きしちゃった?」
「いや、別にそんなことは…」
そうとしか答えようがないからそう答えただけなのだが、菜々美は言葉通りに受け取ったようで、
「良かった」
と安心したように笑った。素直な子だな、と紗子は思った。
「じゃあ、別の提案」
菜々美が言う。
「私達、友達にならない?」
紗子は、今度はにっこり笑って肯いた。
「うん」
菜々美との出会いは、紗子の中学校生活にささやかだけれどあたたかな明かりを灯した。休み時間になると菜々美はいつも話しかけてくれたし、掃除や教室移動の時もいつも一緒だった。そして二人のテンションがマックスに盛り上がるのが、何と言っても数学の授業の前だ。特に菜々美のはしゃぎっぷりは尋常じゃなかった。授業が始まる前の休み時間から、あー、ドキドキする、を連発する。紗子もまた菜々美と同じ気持ちであり、滝川をめぐって二人はいわばライバルという関係にあるはずなのだが、紗子の中には菜々美に対するライバル心など微塵も生まれなかったし、菜々美に関してもまた同様だった。
新入生歓迎会や校内のオリエンテーション、部活動の体験入部などで四月はあっという間に過ぎて行った。
いろいろ迷ったが、紗子は結局菜々美と一緒にテニス部に入ることにした。テニスをちゃんと習ったことはないが、同じテニスサークルに所属していた浩之とまりえに何度か教わったことはある。浩之のテニスの腕はまりえの比ではなかったので、まりえと一緒に浩之から教わったといった方がいいかもしれない。そんな日々のことを思い出すと、紗子の胸はまた痛んだ。だから初め、紗子はテニス部を避けようとした。
「どうしてテニス部が嫌なの?顧問が滝川先生なのに」
菜々美は部活の顧問を知った時から、全くの初心者であるにも関わらずテニス部に入ると決めていたようだ。菜々美のこうしたまっすぐな単純さが、紗子にはまぶしく感じられた。菜々美に半ば引きずられるようにしてテニス部に入部した紗子だったが、やはり滝川が顧問というのは嬉しかった。
「数学以外の時間に滝川の姿を見られるなんて幸せ。滝川ってテニスうまいのかな?」
入部届をさっき出したばかりの菜々美が素振りの手つきをしながら言う。いつの間にか菜々美は、滝川と呼び捨てで呼ぶようになっていた。生徒達から呼び捨てにされるのは、何も嫌われたり軽蔑されたりしている教師だけではない。心からの信愛の情を込める時にもまた、生徒達は教師を呼び捨てにする。テニスウエアに身を包んだ滝川の姿を思い浮かべただけで紗子の胸も弾んだ。そしてそんな感覚を、菜々美と共有するのが何より楽しかった。青春。ふいにそんな二文字が紗子の頭の中に浮かぶ。自分よりずっと年上の人達のものだと思っていたその二文字が、急に自分達の言葉になったような気がした。
その時。突然ドンっと、後ろから背中を叩かれた。
ちょうど校門を出た所で驚いて振り返ると、そこには久しぶりに見る幼馴染の顔があった。
「よお」
「よおじゃないよ。痛いでしょ」
ワタルが通学用の鞄で背中を叩いたことを知り、紗子は思わずムッとした。
「何だよ。久しぶりだっていうのに」
「だからって叩かなくていいでしょ」
二人のやりとりを聞きながら、ワタルの後ろで友達らしき男子が二人おかしそうに笑っている。菜々美が不思議そうにワタルと紗子の顔を交互で見ているので、紗子は仕方なく菜々美にワタルを紹介した。
「幼馴染のワタル。腐れ縁なんだ」
「腐れ縁とは何だよ、腐れ縁とは!」
今度はワタルが怒った顔をして、紗子の頭を軽く小突いた。
紗子は大げさに頭を押さえワタルを睨んだが、菜々美はなぜか、驚いたような顔でワタルを見ている。
「へーえ。私はさえちゃんと同じクラスで、友達の門倉菜々美。よろしくね」
そう言うと菜々美は、ワタルになんと片手を差し出した。ワタルは意味が分からないといった感じで、えっ、何?などと言いながら、友達の方を振り返ったりしている。
「握手」
菜々美の声は、はっきりと落ち着いていた。
「え、あ、ああ」
ワタルはおどおどしながら右手を差し出すと、菜々美と握手を交わした。すると菜々美は、後ろで笑いをこらえながら立っている男子達に対しても、同様に手を差し出した。幼児期を除いて女の子の手を握ることなど皆無であった男子達は、菜々美の手の感触に分かりやすくぽっと顔を赤らめた。
紗子は、そんな菜々美の行動をぽかんと見ていた。
「ねえ、せっかくだからみんなで一緒に帰ろうよ」
菜々美の提案に、男性陣は一人も反対しなかった。
えー、いいよ別に、と紗子だけがぶつぶつとつぶやいたが、菜々美はその声を完全に無視した。
紗子と菜々美が前を歩き、その後ろに男子三人が続く形となる。
「さえちゃん、ちょっと幼馴染の子に対して冷たすぎない?」
ワタルに聞こえないくらいの声で、菜々美が紗子にささやく。
「そうかな」
確かにワタルに対する紗子の態度は不自然なくらいにとがっていた。紗子は他の子の前だと、ワタルに対してなぜかこんな風に接してしまう。だけど決して、ワタルのことが嫌いなわけじゃない。
五人で固まりながら狭い歩道を二列になって歩いたのは、ほんの五分ほどのことだった。
ワタル以外の三人は紗子と別の地区に住んでいたので、突き当りの交差点で二手に分かれた。別れ際、菜々美が一瞬意味深な笑みを紗子に向けたのが分かった。
「なんかあの子、すごいパワフルだな」
交差点でワタルが菜々美の後ろ姿を見つめながらつぶく。
「うん、すごく積極的で明るくて。だから一緒にいると楽しいんだ」
「だろうね」
ワタルが目を細めた。その視線はまだ、菜々美の背中を追っている。急に今まで経験したことのない感情が紗子に込み上げてきた。
「おい、ちょっと待てよ」
紗子の足が、自然と早まっていた。
ワタルが紗子の肩に手を置く。
「やめて」
紗子は、ワタルの手を振り払った。
「…そうやってすぐに触らないで」
きょとんとした目で立ち尽くしているワタルは、まるで母親に棄てられた子供みたいな顔をしている。急に罪悪感が込み上げてきて紗子はうつむいた。
「…ごめん。きつい言い方して。でももう私達、小さい頃とは違うんだし…」
自分自身の中に芽生えた感情に紗子は戸惑っていた。どうしてワタルにこんなことを言ってしまうのか、自分でもよく分からない。紗子は顔を上げると、ワタルの目を見ながら、言った。
「私ね、好きな人がいるんだ」
ワタルの表情がみるみる固まっていくのを確認しながら、何かを確信しほっとしている自分がいるのを、紗子は感じた。
中学校生活に少し慣れてきたと思ったら、もう五月の連休に突入した。
紗子の家族は誰も口には出さなかったが、浩之は今年の連休には帰って来ないだろうと思っていた。盆、正月、五月の連休には欠かさず帰省していた浩之だが、母が電話をしたところ、やはり今年の連休は就職活動があるので帰れないと浩之から言われたそうだった。父も母も平気な様子ではいたが、ふとした表情に寂しさが見え隠れするのを見て、紗子は申し訳なさでいっぱいになった。浩之が帰って来ないのは、本当は自分のせいだと紗子は思っていた。
大型連休に父と母と紗子だけで過ごすのは考えてみれば初めてのことだった。普段の生活と変わらないはずなのに、世間が連休中というだけで、勢ぞろいできない自分達が何か欠陥のある家族のように思えてしまう。
連休中は出された宿題をする以外特にすることもなかった。今頃エリと過ごしているに違いない浩之のことを思うと、自分には関係のないことと思いつつも、やはり気分が重くなった。せっかくの連休だというのに、こんな気分のまま五日間も過ごすのは嫌だった。何か気分転換になるようなことはないかと思いを巡らせた結果、紗子はあることを思いついた。まりえにメールを書いてみようと思ったのだ。まりえからもらった名刺は、あの日から大切に机の中にしまわれてある。紗子は、スマートフォンのメール画面を開くと、文字を打ち始めた。
『まりえおねえちゃん、お元気ですか。この前は突然会いに行き、びっくりさせてしまってごめんなさい。でもあの時思い切ってまりえお姉ちゃんに会いに行って、本当に良かったと思っています。なぜなら、今こうしてまりえお姉ちゃんとメールで話すことが出来るからです。
実は、まりえお姉ちゃんに相談があります。私には今、好きな人がいます。相手は、学校の数学の先生です。先生のことを思うと頭の中がボーっとして、何も考えられなくなってしまいます。もちろん片思いですが、それでも十分幸せです。』
紗子は読み返しもせず送信ボタンをすぐに押した。読み返せば送るのをやめてしまいそうな気がしたからだ。メールが送られたのを確認すると、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。相談、と書いておきながら、実際は単なる報告に過ぎない内容になっている。そもそも本当は相談がしたかったわけではなく、まりえとメール上で繋がりたかっただけだ。秘密を打ち明けるような内容を送ることで、まりえとの距離を引き寄せたかった。恥ずかしさとは裏腹に、紗子はどこか晴れ晴れとした気持ちも感じていた。浩之抜きで自分達が繋がれたことが嬉しかったし、まりえに代わって紗子の「お姉ちゃん」になりたがっているエリを出し抜いてやったという意地の悪い喜びも、そこには含まれていた。
まりえからは、その日のうちに返信が返ってきた。
『さえちゃん、メールありがとう。この間のことは謝ったりしないでください。私もさえちゃんに会えてとても嬉しかったから。ところで相談の件。さえちゃんにも、ついに好きな人が出来たんですね。さえちゃんの一途な気持ちがメールの文面からとても伝わってきました。でもどちらかと言うと、さえちゃんの今の気持ちは、恋というよりはファンのような気持ちなのではないかと思いました。恋だったらもっと苦しかったり切なかったりするものだから。なんて、余計なこと言ったかな。どちらにしてもそういう人が現れたということはさえちゃんにとってとても幸せなことだと思います。恋愛下手な私が言うのもなんですが、私はいつでもさえちゃんの応援をしています』
紗子はまりえから来たメールを何度も読み返した。直に会って話すまりえとメールの文面を通して接するまりえとの間には微妙なギャップがあるように思えて、それがまた新鮮でもあった。
まりえとメールをやりとりしたことに関しては、両親には伏せておいた。もちろん、浩之にも言うつもりはない。
連休も半ばに入った頃、突然菜々美から電話がかかってきた。
「連休暇すぎて死にそうだから、会おうよ」
菜々美に負けないくらい暇を持て余していた紗子にとって、菜々美からの電話はまさに救世主のようだった。
中学校のすぐ近くの公園で、菜々美と昼過ぎに待ち合わせた。先に公園に着いていた菜々美は、紗子に気が付くと片手を高く上げ満面の笑みを向けた。赤と白のやや派手なティーシャツにデニムのショートパンツをはいた菜々美は髪を二つにおさげにしていて、制服を着ている時よりもずっと幼く見えた。紗子が中学生になってから私服で友達と会うのは初めてのことだった。あれこれ迷った挙句、紗子はプリーツの入ったロングスカートと白のブラウスを着て行った。
「わー、紗子、なんか清楚でお嬢様みたい」
お世辞っぽいセリフでも菜々美が言うと、わざとらしさや嫌味っぽさは感じられない。
「菜々美こそ、良く似合っててかわいいよ」
紗子も素直に思ったことを口にした。菜々美は特に目鼻立ちが美しいわけではないのに、なぜか人にかわいいと思わせてしまうオーラを持っている。滝川だって、もしかしたら菜々美のことはかわいいと思っているのかもしれない。ふとそんなことが紗子の中に浮かんだ。そして、そんな想像をしても、自分の心の奥がちっともぐらつかないのが不思議だった。
「で、何する?」
自転車を停め近くにあったブランコに座ると、菜々美は言った。紗子も菜々美の隣のブランコに腰を下ろした。ブランコに座ったのなんて、いつ以来だろう。いつの間にか自分達の子供時代が終わりかけていることが、悲しくも嬉しくも感じられる。
「うーん。会ったはいいけど、することないね」
何もすることがなくても、こうして菜々美と一緒にブランコに座っているだけでなんだかほっして、楽しい気持ちになってくる。友達っていいな、と紗子は思った。菜々美とは、ずっと友達でいたい―。
菜々美は横で小さくブランコをこぎながら言った。
「そうだ、あいつも誘わない?」
「あいつって?」
にやりとした笑みを菜々美は紗子に向ける。
「ワタル」
菜々美の顔を見つめたまま、紗子は一瞬声が出てこなかった。
「…どうして?」
「だって、紗子好きなんでしょ、ワタルのこと」
驚き過ぎて何て答えたらいいのか分からい。
「…何言ってるの?」
「だって見てれば分かるもん」
なんでもないことのように言い放つ菜々美が、紗子には理解出来ない。
「変なこと言わないでよ。もう意味が分からない」
言葉を発すれば発するほど、紗子の頭の中はテンパってくる。
「じゃあ逆に、嫌い?」
今度は探るような目で菜々美は紗子の顔を覗き込んでくる。
「別に嫌いってわけじゃないけど…」
口ごもる紗子に菜々美は得意げな顔で言い放った。
「ほらね」
「ほらねって、そもそも誰かに対する気持ちが、好きか嫌いかどちらかに分けられるはずがないでしょ」
紗子が半ば諭すように言うと、菜々美は口をとがらせた後で、今度は開き直ったような顔で言った。
「そう。じゃあ、私がワタルくん、もらっちゃおうかな」
「え?」
一瞬二人の間に流れていた時間が止まる。
「だって、菜々美は滝川先生のことが…」
紗子が言い終わらないうちに、菜々美はお腹を抱え笑いだした。
「それはまた別でしょ。滝川は大人だよ?先生だよ?本気で好きになったってしょうがないじゃない」
紗子はこの時初めて、菜々美が自分よりもずっと冷静で頭が良くて計算高くもあることを知った。菜々美とはもうずっと昔から友達でいるような気がしていたが、実際は知り合ってからまだ一ヶ月しか経っていない。紗子が知る菜々美は、実はまだ菜々美のほんの一部分に過ぎなかったのだ。
「私と菜々美とは、同じ気持ちだと思ってた」
紗子はうつむき、つぶやくように言った。すると菜々美は、ブランコに座ったまま紗子の方に身を乗り出した。
「紗子、もしかして今寂しいとか感じてたりする?でもそれって、やっぱり紗子も本気じゃないってことじゃない?だってもし本気で滝川のことが好きだったら、ライバルの私がいなくなって、逆に嬉しいはずでしょ?」
菜々美はまるで心の中を覗き込むような目で紗子を見つめてくる。紗子にはそんな菜々美が、自分よりもずっと大人に感じられた。菜々美が口にしたライバルという言葉から、紗子はなぜか、菜々美の後ろ姿を見つめるワタルの目を連想したのだった。
しばらくの間、二人は黙ったままブランコをこぎ続けた。
雲の切れ間から光が降り注ぐと一気に気温が上がり、公園内に反射する光が目に刺さってきた。
「暑っつ。ここにいると熱中症になりそうだね」
菜々美はそう言うとブランコから飛び降りた。
「じゃあ、家来る?」
少し迷った後紗子が言うと、菜々美は目を輝かせた。
「いいの?」
「うん。とりあえず部屋で涼もう」
このまま別れてしまえば、菜々美との間に妙なわだかまりが生まれてしまいそうだった。
「わーい。紗子んち行くの初めて」
無邪気に喜ぶ菜々美は、今度は幼い子供みたいだった。
「こっちの方今までほとんど来たことがなかったから、なんか新鮮」
紗子の家へと続く坂になった路地を自転車を押して上りながら菜々美が言う。
「やっぱり中学生になるっていいね。世界が急に広がる感じ」
左手には小さな畑が見え、その奥には雑木林が広がっている。小学一年生の頃、ワタルに誘われてあの雑木林にカブトムシを採りに行ったことがあるのを紗子は思い出した。あの頃は紗子とワタルの関係も、今よりずっと単純で、分かりやすかった気がする。
「ここって、もしかして」
ある家の表札に書かれた苗字を見て、菜々美の足が止まった。
「ああ、ワタルの家」
「へえ。本当に近いんだ」
菜々美は表札を見つめたまま言った。紗子が返事もせずに歩き出そうとすると、小さくピンポーンという電子音が聞こえた。驚いて振り返ると、人差し指を立てたまま得意げな笑みを浮かべる菜々美の顔があった。なんと菜々美が勝手にインターフォンのボタンを押していたのだ。
「ちょっと菜々美、何やって…」
言い終わらないうちにインターフォン越しに声が聞こえてきた。
「はい、どちらさまですか?」
ワタルのお母さんだ。仕方なく紗子がそれに答えた。
「あの、紗子です。別になんでもな…」
「ワタルくんいますか?」
紗子の声を打ち消すように菜々美がインターフォンに向って話しかける。
「ちょっと菜々美、何言ってるの」
紗子は思わず菜々美の肩を掴んだが、ワタルのお母さんは相手が紗子だと分かると、安心したようにちょっと待っててねと答えた。
「ほんとに家族ぐるみで仲いいんだね。なんかうらやましいな、そういうの」
「そんなことより、どういうつもり!?」
声がインターフォンに拾われないよう小声で、紗子は菜々美に抗議した。しかし菜々美はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、紗子に顔を近づけてくる。
「いいじゃない。紗子だって、別に嫌じゃないでしょ」
玄関の開く音がして、ワタルが現れた。
「あれ?何?どうしたの」
ほとんど突撃に近い来訪者に驚くのも無理はない。菜々美はワタルに向って手のひらを向けると、ぴょんと動かした。
「よっ」
にっこり笑う菜々美に対し、ワタルもまたよっ、と軽く答える。紗子がワタルと顔を合わせるのは久しぶりのことだった。最近ではお互い部活で帰りも遅く、幼かった頃に比べると二人が会う機会はぐっと減っている。
「どうしたの?おまえら」
ワタルは紗子と菜々美の顔を交互に見ながら言った。紗子は、その視線が菜々美の方により多く向けられているような気がした。
「どうしたってわけじゃないんだけど、連休暇だから二人で会おうってなって、でも公園も暑くてすることなくて、そしたらちょうどワタルの家があったから誘ってみたの」
「なんだよそれ。意味が分かんね」
吐き捨てるようにワタルは言ったが、かといってそんなに嫌そうでもない。
「これから紗子んちに行くんだけど、ワタルも来ない?」
「ちょっと菜々美!家主の許可なく先に誘わないでしょ、普通」
「あはは、そうだった」
大きく口を開けて笑う菜々美を見て、紗子はため息をついた。
「で、どうなの?家主は」
そう尋ねたのは、菜々美ではなくワタルの方だった。意表をつかれた紗子は、ワタルの顔を思わず真顔で見た。
「どうって、別に駄目な理由もないけど…」
「じゃあ、行こっかな。おまえんち行くの、久しぶりだし」
ワタルはそのまま門から出ると、紗子達と並んで歩き始めた。菜々美は紗子とワタルを並んで歩かせ、自分は自転車を押しながら少し離れて紗子の隣を歩いた。菜々美が一体何を企んでいるのか、紗子にはよく分からない。
「どうしたの、お前、元気ないじゃん」
ワタルはいつだって人のことを見ていないようでよく見ている。紗子の胸の奥がどきんと反応する。
「そんなこと、ないけど」
紗子はあえて平気を装って答えた。
「何か、悩みでもあんの?」
―私、好きな人がいるんだ。
先日ワタルの前で言った言葉が胸の中でよみがえる。あの時どうしてあんなことを言ってしまったのか、紗子には自分でも理由が分からなかった。
「ないよ。別に悩みなんて」
そう答えるとワタルは、ほっとしたような、それでいてすこし寂しそうな笑顔を見せた。
菜々美は横で二人の様子を窺うようにしてついてきている。そんな菜々美に対して紗子は、優越感と不安が入り混じった複雑な思いで、自分の家に向かって足を進めた。
紗子の家はワタルの家よりずっと高台の、湿地帯を見下ろす見晴らしのいい場所にある。周囲には家がなく、空き地と雑木林に囲まれたその家は両親が元々中古で購入したもので、建ってからはもう三十年以上が経過している。
「ここが紗子んちかー」
初めて訪れた親友の家を前にして、菜々美は感慨深げに言う。
「そう。古いでしょ」
「ううん。お庭、広くてうらやましいよ」
ワタルも懐かしそうに目を細めながら、庭を見回した。
「子供の頃、よくこの庭でかくれんぼして遊んだな」
「今でも子供のくせに」、
条件反射のように紗子がつっこみを入れると、これまた条件反射のようにワタルの拳が飛んでくる。
玄関から入ると、母がダイニングキッチンの入口から顔を出した。
「お帰り。あら、ワタルくん、久しぶり。そういえばこの間のこと、ちゃんとお礼言ってなかったわね」
この間というのは紗子が遊園地で行方不明になった日のことだとワタルが気づくのに、少し時間がかかった。
「ああ。いえ、逆にすみません、あの時は嘘ついたりして」
ワタルが申し訳なさそうに母に頭を下げる。
「いいのよ。それは紗子が頼んだことなんだから。あら、こちらは?」
ワタルの横にいる菜々美に気づいた母は、軽く首をかしげた。菜々美は紗子が母に紹介する前に、自分から自己紹介をした。
「門倉菜々美です。紗子ちゃんとは同じクラスで、いつも仲良くしてもらっています」
母は安心したように笑いながら言った。
「ああ、あなたが菜々美ちゃんね。紗子が新しく友達が出来たって喜んでたわ。紗子はちょっと難しいところがあるけど、仲良くしてあげてね」
「うちで遊んでもいい?」
母の言葉を遮るように紗子は言った。友達の前で母に自分のことをあれこれと言われるのは好きじゃなかった。
紗子はいそいそと二人を二階へ上がらせると、自分の部屋へと案内した。二階の奥にある八畳の紗子の部屋は子供部屋にしては広々としているが、フローリングではなく畳なのが恥ずかしかった。部屋にベッドはなく、夜は押入れから自分でふとんを出して敷く。
「いいなー。私の部屋よりずっと広い」
菜々美は部屋の真ん中で両手を広げると、幼子のようにくるくると回った。
「ちょっと、菜々美、はしゃぎすぎ。目回っても知らないよ」
呆れたように紗子は言ったが、菜々美が紗子の部屋を素直に気に入ってくれたのは嬉しかった。
「お前の部屋に入ったの、何年ぶりだろ」
ワタルの言葉に、くるくる回っていた菜々美が動きを止めた。
「入ったこと、あるの?」
「だから、小さい時」
「ふーん」
今度はすねたような顔をする菜々美に、見兼ねたワタルが言う。
「何だよ、お前さっきから。変なことばっかり気にして。大体俺とこいつとはただの幼馴染ってだけで、全然そういうのはないから」
ワタルの言い方が紗子にはとても断定的に聞こえた。なあ、と同意を求められて、流れに乗るように紗子はうんとうなずく。
「大体こいつ、好きな奴がいるらしいし」
ワタルは声のトーンを少し落として言った。菜々美が驚いた顔で紗子を見る。
「えっ、そうなの?紗子」
「…だから、それは…」
決まりが悪くなってうつむく紗子を見て、ああ、と察したように菜々美が言う。
「もしかして滝川のこと?」
紗子が小さくうなずくと、菜々美は呆れたように言った。
「なーんだ」
「なーんだ、ってなんだよ」
なぜかワタルがムキになっている。
「だって、先生だよ」
「先生だっていいじゃねえかよ、別に」
ワタルの言葉に、紗子は驚いて顔を上げた。
すると菜々美が、紗子の顔の中に何か真新しいものを発見したような顔で見つめている。
「…そうなの?」
「えっ?」
「紗子は滝川のこと、そこまで本気で思ってたの?」
事態が思わぬ方向に流れていくのを紗子は感じた。かといってもう引き返すことも出来ない。
「そうだよ」
紗子は答えた。
驚いた顔で紗子を見ていた菜々美は、紗子に向って頭を下げた。
「ごめん。今まで気づかなくて」
おかしなことになった、紗子がそう感じた時にはもう遅くて、菜々美は神妙な顔で語り始めていた。
「そういうことなら分かった。私は滝川のファンはやめて、全面的に紗子に協力することにする。でもね紗子、これはなかなかの障害だよ。まず年が違いすぎるし、そもそも生徒と先生の恋愛なんて世間的にも認めてもらえない」
「ちょっと待って、そんなことまで私は別に…」
慌てて誤解を解こうとする紗子を遮るように菜々美は続けた。
「でもそんなことより一番問題なのは」
菜々美は紗子に顔を近づけると、声をひそめた。
「私達はあんなに騒いでいたけど、実は滝川のことを何も知らない」
紗子は何も言い返せなかった。菜々美の言う通り、紗子が知っているのは滝川のほんの表面的な部分に過ぎない。
三人の間に流れる沈黙を破ったのは、ワタルだった。
「いいじゃねえか、それでも。大切なのは紗子の気持ちだろ。こいつが初めて人を好きになったって言うなら、俺は幼馴染として応援しようと思う」
ワタルはそう言うと畳の上に腰を下ろし、あぐらをかいた。紗子のいる場所からは、ワタルがどんな表情をしているのか見ることが出来ない。自分の見方をしてくれたはずのワタルに、紗子は逆に突き放されたような感覚を抱いた。
「じゃあ、私も思い切って言う」
突然、菜々美がワタルと向き合うようにして座った。
「な、なんだよ」
ワタルが菜々美をぎょっとしたような目で見る。
「ワタル、私と付き合って下さい」
菜々美はそう言うと、ワタルに向かって小さな頭を下げた。
ワタルは驚いた様子で、菜々美のつむじのあたりを見つめていた。その顔が徐々に紅潮していくのが紗子の目にはっきりと映った。
「えっ、何?」
菜々美と紗子の顔を交互に見ながら慌てるワタルは、正直かっこ悪かった。
ゆっくりと顔を上げた菜々美は、正面からやや見上げるような形でワタルを見つめた。
「だめ、かな?」
紗子がこんな菜々美を見たのは初めてだった。まるで何かに怯えるように肩を震わせ、それでも全身の勇気を振り絞っているのが分かる。
少し間を置いてから、ワタルは答えた。
「いや、ダメ、じゃない」
五時から塾があるという菜々美と一緒に、ワタルも四時前に紗子の家を出た。早速菜々美を家まで送っていくと言った時のワタルは、紗子が今まで見たこともないほど男っぽかった。
突拍子もない行動をとる菜々美の性格は分かったつもりでいたが、まさか菜々美が今日ワタルに突然告白するとは、紗子は思ってもみなかった。
肩を並べ歩いていく二人の後ろ姿を門の前で見送りながら、紗子は自分でも驚くほどに動揺していた。
部屋で飲んだジュースを片付けに台所に行くと、母がくるりと振り向いた。紗子の気持ちとは裏腹に、母の顔は生き生きと輝いている。
「あら、もう帰ったの?菜々美ちゃんって、とても感じのいい子ね」
母は菜々美を気に入ったらしい。にこやかではきはきと話す菜々美は、自然と人の気持ちを明るくする力を持っている。紗子も菜々美のそんなところに惹かれて、友達になったのだ。
だが母の機嫌がいい理由は、それだけではなかった。
「明日、お兄ちゃん帰って来るって。さっき電話があったの」
紗子は驚いて尋ねた。
「あれ?就職活動が忙しいんじゃなかったっけ?」
「時間作ってなんとか帰れることになったって。全く急なんだから。夕飯の材料買い足さなきゃだわ」
そう言いながらも母はやはり嬉しそうである。しかし紗子は、兄が急に帰ることにしたのには、何か理由があるような気がしてならなかった。
「…また来るの?あの人も」
恐る恐る、母に尋ねる。
「あの人って?」
「だから、前に来た人!」
紗子は母のこうした鈍さにいつもイライラさせられる。
「ああ、エリさん?」
その名前を聞くだけで不快だった。エリに母が「さん」をつけて呼ぶことにすら、紗子は抵抗を覚える。
「…どうかしらね。それは聞かなかったわ」
少し間を置いてから、母はどこかとぼけたような口調で言った。どうしてそんなに大事なことを確認しないのか、紗子には理解できない。結局父も母も、目を背けているのだ。浩之とエリがまりえに対してしたことや紗子の中にくすぶっている怒りから。もう大人である浩之の個人的な問題に、家族が口をはさむべきではない。父も母もそういうスタンスでいるのだろう。息子の行いに深く干渉せず、帰って来た時は温かく迎え入れる。それはある意味家族の理想の姿かもしれないし、紗子も父母に倣いそんな風に兄を迎えるべきなのかもしれない。
けれども紗子の気持ちは、そう簡単に割り切れるものではなかった。
翌日の昼頃、浩之は家に帰って来た。一泊だけして明日には帰るという浩之の荷物は、いつもよりこじんまりしていた。エリの姿はなかった。
「忙しいなら無理しなくてもいいのに」
そう言いながらもお昼ご飯のチャーハンを作る母の声は弾んでいた。紗子も母を手伝い、母が皿によそったチャーハンを食卓まで運んだ。何となく浩之と目を合わせるのが気まずくて、うつむいたままテーブルの上に皿を置くと、突然名前を呼ばれた。
「紗子」
肩がびくっと震えた。
顔を上げた紗子は、久しぶりに兄の顔を正面からまともに見た気がした。まだ大学生の兄が、少しだけ老けたように感じられた。
「少し話せるかな」
浩之の言葉に、紗子は無言でうなずいていた。
「じゃあ後で、ドライブでも行こう」
浩之は妹に向って、どこかぎこちない笑顔を作った。
浩之と紗子が父のセダンに乗り込もうとすると、窓から白髪頭の父が顔を出した。
「なんだ、二人で出かけるのか」
「うん。お父さん、車借りるよ」
「いいけど、お前、明日には帰るんだろ」
窓を全開に開けた父は、怒っているようにも見える顔で聞いてくる。ああ、と返事をした浩之に対して何かを言いかけた父は、結局何も言わず、「気をつけてな」とだけ言って部屋へと戻って行った。
「…お父さん、もしかして一緒に行きたかったのかな」
助手席に座った紗子はつぶやいた。
「どうして?」
「だって、お兄ちゃん、明日帰っちゃうんでしょ。だったらなるべく長い間お兄ちゃんと一緒にいて、話とかしたいんじゃない」
「なんだ、そういうことか」
初めて気がついたように言う浩之を見て、紗子は思わず表情を緩めた。
「お兄ちゃんて、本当人の気持ちに鈍感だよね」
さりげなく言葉に毒を含ませたが、微笑を浮かべたまま車を走らせる兄にどれだけ届いたかは分からない。それでも紗子は、兄と自然に言葉を交わすことができ、ほっとしていた。出がけの父とのちょっとしたやりとりが、二人の間にあった緊張を取り払ってくれたのかもしれない。そう思うと、少しだけ父に対して感謝の念が沸いた。
「…あの時は、ごめんなさい。遊園地から勝手にいなくなったりして」
ずっと謝ろうと思っていたことを、紗子はようやく口にすることが出来た。
「…もういいよ。そのことなら」
浩之は少し間を置いてから、低い声で答えた。
紗子には、浩之に対して言いたいこと聞きたいことがたくさんあった。だけどそれらをひとつでも口にしてしまえば、今せっかくここにある空気が壊れてしまうような気がした。だから紗子は無言のまま兄からの言葉を待った。
半分だけ開けられた車の窓から、心地良い風が流れ込んでくる。五月の青空には雲ひとつなく、初夏の光が辺り一面に降り注いでいた。
「話って、何?」
浩之がなかなか言い出そうとしないので、紗子の方から尋ねた。家を出た時から、ずっとそのことが気になっていた。浩之の顔に一瞬影が差したように紗子は感じた。
「ああ、実はエリのことなんだけど」
紗子が予想していた通りの内容を、浩之は話し始めた。エリは、浩之の実家に時々顔を出し、紗子とも姉妹として仲良くしたいと主張しているという。
紗子の頭に、かっと血が上った。
「どうして?お兄ちゃんが誰と付き合おうと勝手だけど、どうして私まであの人と仲良くしなきゃいけないの」
紗子は兄に怒りをぶつけた。数分前まで兄との間にあった穏やかな空気が、一気に豹変する。浩之は眉の横をかきながら苦しそうに弁解した。
「まりえのことでお前まで傷つけたことは分かってる。お前にも悪いことをしたと思ってるよ。だから俺は、エリをお前に会わせるつもりはなかったんだ」
「じゃあ、どうして?」
紗子は怒りを飲み込みながら兄に尋ねた。目をわずかに伏せた兄の顔がかすかに歪むのが分かった。
「エリがすごく気にしてるんだよ」
「気にしてるって、何を?まさか今更反省、なんてする人じゃないよね」
「…いや、そうじゃなくて、お前とまりえが姉妹同然に仲良かったことを、さ」
漫画などで体中が怒りの炎に包まれるシーンがよくあるが、今紗子が味わっているのはまさにそんな感覚だった。
やはりエリの図々しさは想像を絶している。人の心の中に何のためらいもなく踏み込んできては平気で笑っていられる、そんな人間をどう譲ったって好きになれるはずがなかった。
「私は嫌」
紗子ははっきりと言った。
「私はもうお兄ちゃんの彼女と仲良くしたいなんて思わないし、それに、誰もまりえお姉ちゃんの代わりにはならない」
「そうか…」
つぶやいた浩之の声は、エンジン音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。紗子は一瞬、そう望んでいるのは、エリよりもむしろ浩之の方なのではないか、という気がした。何の確執もなく兄妹が笑い合えた日々が戻ることを、浩之もまた望んでいるに違いなかった。
「ひとつ聞いてもいい」
紗子は口を開いた。
「どうしてお兄ちゃんは、まりえお姉ちゃんではなく、あの人を選んだの?」
それはずっと前から紗子の中に横たわっていた疑問だった。
「そんな質問子供にはまだ早い、なんて言うのはなしね。私だってもう中一なんだから」
心の中で背伸びしているのを浩之に見透かされないよう、紗子は鋭い眼差しで浩之を見つめた。先手を封じられた浩之は、妹に対してどう答えるべきか迷っている様子だったが、ようやく決心したように口を開いた。
「…エリといると、余計な感情に振り回されずにすむんだ」
「ヨケイな感情?」
「そう。相手を思うだけならいい。でも思いが強ければ強いほど嫉妬や不安、誤解も生まれる。そうした感情はコントロールするのがすごく難しい。結局振り回されて最後は自分を見失い、疲れ果ててしまう」
「…それで、まりえお姉ちゃんとは上手くいかなかったの」
「ああ。まりえは見ての通り美人だから、他に言い寄ってくる男がたくさんいたんだ。俺はまりえを信じ切ることが出来ず、結局傷つけてしまった」
一瞬浩之が泣いているような気がした紗子は、思わず兄の横顔を見た。
「…でもそれって、お兄ちゃんは、まりえお姉ちゃんのことが好きだったってことでしょ。余計な感情に振り回されるのも好きだからでしょ。…それなのに、理由も言わずに別れるなんてひどい」
浩之から一方的に別れを告げられたまりえの気持ちを思うと、紗子はとてもやるせなかった。
「確かにまりえにはひどいことをしたと思ってる。でもこれで良かったとも思ってるんだ。まりえには、きっと俺なんかよりずっといいやつがいるはずだから」
前方を見つめる浩之の眼差しには、わずかな自嘲の色が浮かんでいた。紗子は目線を兄から外し窓の外へと移した。後方へと押し流されていく景色が、時の流れと重なるように紗子は感じた。過ぎ去った日々はもう二度と戻ることはない。そう告げているようでもあった。
特にどこかへ遠出したりすることもないまま、五月の連休はあっけなく終了した。しかしこの五日間何も起こらなかった、ということではない。むしろ紗子にとっては密度の濃い五日間だった。
一番大きな出来事は、何と言っても親友の菜々美と幼馴染のワタルが付き合い始めたことだ。
休み明けの初日、ワタルの家の前を通ろうとすると、門の前に菜々美が立っていた。紗子に気づくと菜々美はにっこりと笑い、大きく手を振った。
「おはよ。連休明け初日から早速一緒に学校行くの?」
紗子は歩きながら菜々美に声をかけた。
「そう。約束はしてないけどね。いきなり押しかけちゃった」
少しすると玄関から出てくるワタルの姿が見えた。一瞬だけ紗子はワタルと目が合う。片手をあげ軽く挨拶だけ済ますと、紗子は足を急がせた。二人の邪魔をしてはいけない。そう思ったからだ。
「今日一時間目から数学だね」
朝のホームルーム中、斜め後ろからささやくような菜々美の声が聞こえる。もちろん紗子に向けられた言葉だ。だけど紗子は振り向くのに一瞬遅れた。このまま聞こえなかったふりをしてしまいたいという気持ちに、一瞬だけなったからだ。もちろんそんなことは出来ずに振り返ると、にんまりと笑う菜々美の顔があった。菜々美の笑顔は、連休前と比べると一段と輝いているように見える。
「そうだね」
「そうだねって、あんまり嬉しそうじゃないじゃん」
菜々美は紗子と一緒に騒いでいたのが嘘のように、滝川には関心を向けなくなった。ライバルが減って良かったでしょ、と菜々美は言ったが、紗子は自分だけが置いてきぼりにされてしまったような感覚を抱いていた。
連休明け久しぶりに見る滝川は、どこかレジャーへでも出かけたのだろうか、うっすらと日焼けし、白のポロシャツがまぶしいほど良く似合っていた。紗子は滝川をやっぱり素敵だと思うし、かっこいいとも思う。
だけど、それだけだった。
滝川との関係が教師と生徒以上に発展する可能性なんてないし、そもそも滝川との個人的な関係など、紗子は望んでいなかった。
ワタルには「好きな人がいる」なんて言ってしまったが、紗子は自身の中にある滝川に対する感情が、果たして本当に「恋」であるのか分からなかった。もし違うならば、紗子はワタルに、重大な嘘をついてしまったことになる。
『まりえおねえちゃん、こんばんは。元気にしていますか。私達は皆なんとか元気にしています。先日相談したことですが、私、先生のことを本当に好きなのか分からなくなってしまいました。もしかしたら、まりえお姉ちゃんの言う通り、ただのファンだったのかもしれません』
それだけ書いて、紗子は送信ボタンを押した。こんなことわざわざメールに書いて送ることではないし、まりえだって忙しいのだからいちいちこんなメールの相手などしていられないだろう。そう思い紗子は送った後で後悔したが、まりえからは十分後、丁寧な返信が返って来た。
『さえちゃん、メールありがとう。自分で自分の気持ちに気付けたのは、とても素敵なことだと思います。色んな人に出会って、色んな気持ちを経験して、さえちゃんが成長していくのが楽しみです。今度は、本当に好きな人を探してみてはどうですか?なんて別に急かしているわけではありません(笑)』
最後の(笑)のマークに心が和む。文面だけでもこうしてまりえとつながっていられることが紗子には嬉しかった。画面を見つめ読み返しているうちに、まりえから再びメールが届いた。
『さえちゃんに実は報告があります。私、教員の採用試験を受けてみることにしました。中学校の先生になりたいと思ったのには色々と理由がありますが、さえちゃんと出会えたことが一つの大きなきっかけになっています。だからさえちゃんにはお礼を言いたいのです』
メールの内容に紗子は驚いたが、考えてみれば教師という職業がまりえにはとても似合っているように思えた。もしまりえのような教師が担任だったら、生徒達はきっと満たされた気持ちで学校生活が送れるに違いない。だけど、紗子だけの「お姉ちゃん」であるような気がしていたまりえが、みんなの「先生」になってしまうことに対しては、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。
なぜだろう。紗子は最近、寂しさばかりを感じているような気がする。
連休が終わりしばらくすると、早くも雨の季節に突入した。どんよりとした梅雨空を眺めていると、やはり気持ちが沈んでくる。入学して早二ヵ月が過ぎようとしていた。
中学校生活には大分慣れたし、部活にもちゃんと顔を出している。コートが狭いため一年生は校庭の隅で打ち合いの練習をするのだが、紗子は今日はどうも気持ちが入らない。向き合って一緒に球を打ち合う菜々美も、ちらちらと野球部の方ばかり気にしている。
ワタルは野球部のピッチャーなのだ。まだ試合には出してもらえないが、同じ一年生のキャッチャーの子といつも投球練習をしている。
「ほらほら、よそ見しない!」
半ば冗談ぽく、半ば本気で、紗子は菜々美を注意する。菜々美は、ごめんごめん、とはにかんだが、その笑顔からはいつものパワーが感じられない。
ワタルとケンカした、と今朝菜々美は言っていた。菜々美は、ワタルとのことをなんでも紗子に相談してくる。紗子ならワタルのことが何でも分かると思っているらしい。実際紗子はワタルのことなら食べ物や服の好み音楽の趣味 に至るまでよく知っていたが、ワタルの心の奥までは、紗子にだって分からない。
練習が終わり部室で着替えている間も菜々美はまだ沈んだままだった。見るに見兼ねた紗子は声をかけた。
「もう、いつまでうじうじしてるの。そんなの、菜々美らしくないよ」
菜々美は紗子の方へ顔を向け少し笑ったが、やっぱり元気がなかった。まるで菜々美の元気魂をどこかに落としてきてしまったみたいだ。
「で、何なの?ケンカの原因は」
出来ることならワタルと菜々美とのことに紗子は首をつっこみたくなかった。そんなことをする自分がおせっかいにも惨めにも感じられるからだ。かといって隣でずっと暗い顔をしている親友を、見て見ぬふりをするわけにもいかない。
「大したことじゃないの」
うつむいた菜々美は、やっと聞き取れるくらいの小さな声で何か言ったが、他の一年生達が別の話題で盛り上がる声にかき消された。
紗子と菜々美は学校の先の幹線道路との交差点でそれぞれ反対方向に別れる。いつもなら自転車で並んで走りすぐにバイバイと別れる道を、今日は二人で自転車を押して歩いた。さっき部室で菜々美が言いかけた言葉の続きを聞くためだ。
「なんか、ごめんね。付き合わせちゃって」
「いいよ。それより菜々美がずっとそんな顔してる方が気になるから」
紗子は再び菜々美を促した。
「それで、何があったの?あいつと」
「…本当に、大したことじゃないの。ただ私は、ワタルの本当の気持ちが知りたいって言っただけ」
紗子はなぜか、心臓が波打つのを感じた。
「私はね、ワタルに何回も好きって言ってるんだよ。何回言ったかは数えてないけど、多分十回は言ってると思う」
知ってはいたものの、菜々美の積極性に改めて驚かされる。菜々美からの度重なる告白を、ワタルは一体どんな気持ちで聞いていたのだろう。
「…でもね、ワタルは一回も、私のことを好きとは言ってくれないの。そんなこと恥ずかしくて言えないとかなんとか言って」
状況が紗子の目の前に浮かぶ。確かにワタルは簡単にそういうことを口にするタイプではない。
「…それでケンカになったの?」
「うん。でも、私が不安になる理由は、それだけじゃないの」
自転車を押しながら紗子は菜々美の顔を見た。交差点はもう目の前だ。
「私ね、ワタルが何を考えているのか時々分からなくて。こっちが話しててもよくぼーっとしてることがあるし」
昔から活動的でよくしゃべるワタルがぼーっとしているところを、紗子は逆にあまり見たことがない。むしろどちらかというと単純で、分かりやすい奴だという印象がある。
「…それはきっと、菜々美のことが好きだからだよ」
紗子は答えた。
「え?」
全く予想していなかった解答を聞いたかのように、菜々美が目を大きく目を見張る。
「だから、好きだから、ぼーっとしちゃって何も話せなくなってるんだよ」
そう説明する紗子を見る菜々美の目が、ほんの一瞬だけ、鋭く光った。
「本当に、そう思う?」
紗子はそれ以上何も言えなくなった。紗子が発するどんな言葉も、今の菜々美には言葉通りには届かない気がしたからだ。
菜々美はふっと息を吐き出すと、表情を緩めた。
「ごめんね、変なこと言って。最近の私、自分でもおかしいと思う。紗子がさっき、私のこと私らしくないって言ったけど、私らしいってどんなだったのか、それすらも分からなくなっちゃって」
思いつめた顔を見せる菜々美に紗子は何も声をかけてあげられないまま、交差点に着いてしまった。
じゃあねと紗子に背を向け、自転車を押したまま歩いて行く菜々美の背中は、見たこともないほどに頼りなげで痛々しかった。
ワタルの家の前で紗子は自転車を停めた。ワタルと会うべきか否か、自転車をこぎながらずっと考えていた。紗子が今ワタルと何か話をしたところで、二人の関係を修復出来るとは思えなかった。むしろ、その亀裂をより大きくしてしまうような予感が、紗子の中にはあった。
それでも紗子は、ワタルの家を素通りすることは出来なかった。いや、出来なかったのではない。したくなかったのである。紗子はワタルとここ最近ほとんど話をしていなかった。菜々美を心配する気持ちは確かにあったが、一方でそれをワタルと会う口実にしている自分がいるような気がした。いつの間にか開いてしまったワタルとの距離を埋めたいという思いが、紗子の中にはあった。
さっき家に着いたばかりらしいワタルの自転車のカゴには、グローブが入ったままである。インターフォンのボタンを押そうとする自分の指が、微かに震えていることに紗子は気がついた。幼い頃から無邪気に幾度となく押してきたインターホン。なのに今、どうしてこんなに緊張するのだろう。
紗子が音を鳴らす前に、ワタルが玄関から出て来た。グローブをとろうと自転車の方へ向かったワタルは、紗子の姿に気付いて足を止めた。
一瞬硬直したワタルの顔が、わずかに赤みを帯びる。ワタルが紗子に対して時々こんな顔を見せるようになったのは、いつからだろうか。
「何だよ、お前、ストーカーかよ」
「そんなわけないでしょ!」
次の瞬間には、ワタルも紗子も以前と変わらぬ二人に戻っていた。ワタルとの間に流れる、いつもの空気。いつもの安心感。一瞬前に抱いた感情を、笑い飛ばしてしまいたくなる。いっそ本当に笑い飛ばすことが出来れば楽なのに、とも紗子は思う。だけどどんなに笑ったって、それが飛んでなんかいかないことも、もう分かっている。
ワタルは門のところまで近づいてくると、言った。
「久しぶりに、アイスでも食う?」
「え!?」
ぽかんと突っ立っている紗子の前で、ワタルがポケットの中から小銭を取り出す。
「ちょうど今から買いに行くところだったんだ」
「でも私、学校帰りだし、お金持ってない」
「俺がおごるよ。その代り百円以内な」
「ケチ」
紗子は鞄の入った自転車をワタルの家の前に停めることにした。ワタルはそのまま門から出て来ると紗子と歩き始めた。久しぶりに肩を並べて歩くワタルは、また少し背が伸びたような気がする。
ワタルは、幼い頃によく通っていた近所の商店の前で足を止めた。店内には食料品や酒類が置かれてあるが、いわゆるコンビニチェーンのお店とは趣が違う。市内でもこんなお店が残っているのは田舎のこの辺りだけだ。今時アイスが入ったケースが外に置かれているのも珍しい。大好きだった銀紙に包まれたバニラ味のアイスが姿を消し、代わってアルミのチューブ入りのアイスが置かれているのを見て、紗子はまたなんとなく寂しい気持ちになった。
ワタルは最中アイス、紗子はソーダ味の棒付きアイスを手に取ると、レジのおばさんにお金を払った。おばさんは小さい頃の二人を覚えていたらしく、久しぶりだね、などと言いながら勘ぐるような笑みを向けてくる。紗子もワタルも恥ずかしくなって、急いで店を出た。
アイスをかじりながら、二人はどこへ向かうともなくぶらぶらと歩いた。やがて近所の小さな公園に着いたので、ワタルは空いていた小さなベンチに腰を下ろした。紗子もその隣に黙って座った。座面の木の板は朽ちかけ、灰色に変色していた。
ワタルはしばらく無心に最中アイスを頬張っていた。どうやら本当にアイスが食べたかったらしい。
「本当にアイス好きだよね、昔から」
「悪いかよ」
言い返すワタルの口の端にチョコがついているのを見て、紗子は笑った。
「…ケンカしたんだって?菜々美と」
少し迷ってから、紗子は尋ねた。
「ケンカ?言ってた?そんなこと」
「うん」
「そっか」
ワタルはぽかんとした顔で空を仰いだ。ワタルの視線の先を紗子は追ってみたが、その先に広がるのは灰色をした梅雨空でしかない。
さっきの菜々美の様子との温度差に紗子は拍子抜けしたような気持にもなる。
「やっぱ、お前といると楽だわ」
ひとり言のように、ワタルがつぶやいた。
ちゃんと聞こえたはずのに、紗子は思わず聞き返してしまった。
「えっ」
「お前といると、何か落ち着くんだよね。やっぱ、ガキの頃から知ってるからかな」
紗子はワタルの横顔を、まるで宝探しでもするかのように見つめた。そこにはさっきワタルが家の前で見せたような紅潮の色はみじんも浮かんでいなかった。存在すると信じたものが実体を失っていく、そんな心もとなさの中で、紗子は思わずその名を呼んでいた。
「ワタル…」
ん?とワタルが振り向きかけた、その時だった。
「あれ、桧山さん?」
背後で声が聞こえた。振り返ると、同じクラスの上田美奈ともう一人他のクラスの女子が、公園の前を並んで通り過ぎるところだった。二人とも家はこの辺りではないはずなので、誰かの家に遊びに行った帰りなのかもしれない。
「あっ、ワタルくんだ」
もう一人の女子はどうやらワタルと同じクラスのようだ。彼女が手を振るとワタルも軽く手を上げ、挨拶をする。紗子もクラスメイトである美奈に声をかけようとしたが、その前に美奈はさっとうつむき加減になり、横にいる女子とヒソヒソと言葉を交わした。
「なんだ、あれ。感じ悪いな」
そう言いながらもワタルは、内緒話を特に気にかけているようには見えない。しかし紗子は、嫌な胸騒ぎを覚えた。美奈とはまだあまり話をしたことがないが、教室で数人の輪を作り甲高い声で話す美奈の声が紗子の耳によみがえった。
紗子はベンチから立ち上がった。
「私、そろそろ帰るね。あ、アイスごちそうさま」
おう、と立ち上がって一緒に帰ろうとするワタルを、紗子は手で制した。
「ごめん、急に用事思い出しちゃって。急ぐから一人で行くね」
坂道になった路地を駆け降りて行く紗子の後姿を、ワタルが不思議そうな顔で見つめていた。
嫌な予感ほどよく当たる、というのは本当である。
教室に入ったとたん、紗子は空気がいつもと違うことに気がついた。まず窓際で輪になっていた美奈達のグループが、一斉に紗子の顔を見た後で、思わせぶりに互いに目を合わせた。教室を見回すと、美奈達のグループ以外の女子や男子までもが、ちらちらと紗子の方を見ている。
席に座る前に、紗子は斜め後ろの席に座っている菜々美に声をかけた。菜々美は、授業の予習だか復習だか分からないが、机に教科書とノートを広げ、熱心に、と言うよりは夢中で、何かを書き込んでいた。
「おはよう」
いつもなら紗子に気づくと顔を上げてにっこりと笑うはずの菜々美が、今日は違った。菜々美は下を向き手を動かしたまま低い声で、おはよう、とだけ返した。
菜々美の、見たことのない表情。聞いたことのない声。昨日までの菜々美は、まるでどこか遠くへ行ってしまったみたいだった。
「菜々美?」
もう一度声をかけてみても、菜々美はそれ以上返事もしなかった。
美奈が昨日見たことをどんな風にしゃべり、それがどんな風に菜々美の耳に伝わったのか紗子には分からない。紗子にとって一番つらいことは、それが完全な誤解であると言い切れないことだった。これ以上、本当の気持ちを菜々美に隠し続けることは出来ない。紗子は途方に暮れるしかなかった。
次の授業、そしてその次の授業の後も、菜々美は紗子と目を合わせようとはしなかった。紗子が何かを話しかければ一応低く小さな声で答えてはくれるが、それ以上会話が続くことはない。
菜々美が紗子を避けていることは、誰の目から見ても明らかだった。
部活が始まる少し前、その日初めて菜々美の方から紗子に話しかけてきた。
「少しだけ、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
思いつめたような菜々美の表情に、紗子は心臓が波打ち体が硬直するのを覚えた。
廊下の階段を上りきった所に、屋上へとつながる踊り場があった。屋上の扉の鍵は常に閉められ、生徒が外へ出ることは許されない。暗く湿ったその空間は、そこだけ空気がよどんでいるようだった。階段を上りその場所に着いてからも、菜々美はなかなか言葉を発しようとしなかった。
「…ごめん」
紗子は頭を下げ菜々美に謝った。しようと思ってそうしたのではなく、自然とそうしていた。だけどその行為が、かえって菜々美の感情を逆なでしたようだった。
「どうして、謝るの?」
棘のように冷たくとがった言葉が紗子の心に刺さった。
「やっぱり本当なんだ。上田さんが話してたことって」
「…」
「黙ってるってことは、それが答えってこと?」
「違う」
紗子はとっさにそう答えていた。しかし、何がどう違うのかと問われても、説明ができない。
紗子は菜々美の目を見て訴えた。
「…菜々美、これだけは信じて。私は菜々美のこと、本当に大切な友達だと思ってる」
菜々美が誤解しているとしたら、そこだと思った。友達を平気で裏切る子。そんな風に美奈は言ったに違いない。
「私だって、そう思ってたよ!」
菜々美の声は廊下まで響き渡った。廊下を歩いていた女子達が驚いて階段の上を見上げた。いつも美奈と一緒にいる子達だった。彼女達はにやりと笑うと、何かささやき合いながら去っていった。
「もう、行くね」
そう言った菜々美の声は、ぞっとするほど冷ややかだった。階段を下りていく菜々美の後ろ姿を、紗子はただ茫然と見つめることしか出来なかった。
紗子の中学校生活が色を失っていくのは、あっという間だった。元々人見知りで自分から友達を作るのが苦手な紗子は、菜々美以外に親しい友達はいなかった。クラスメイトとは必要に応じて時々言葉を交わすものの、一緒に教室を移動したり、昼休みにおしゃべりをしたりする相手が、紗子にはいなくなった。一人でぼんやりと過ごす時間が増えた紗子は、何をしても楽しいと感じることが出来なくなった。
菜々美はといえば、美奈達のグループとは正反対の、大人しくてアニメや声優が好きな子達が集まったグループと一緒にいるようになった。特にそういう趣味を持たない菜々美は明らかにそのグループの中で浮いており、見ていて痛々しい程だった。それでも菜々美は頑なに紗子を避け続けた。菜々美に与えてしまった傷を思うと、紗子はどんな罰でも受けなくてはならないように感じた。だからどんなに寂しくても、紗子は菜々美以外の友達を作ろうとは思わなかった。
「最近元気ないんじゃない?」
朝食の時、向かいに座った母が心配そうな様子で紗子の顔をのぞき込んできた。
「え?そんなことないけど」
紗子はとっさにごまかした。クラスで孤立していることを親に打ち明けるなんて、火の中に跳び込むよりも嫌だった。
「なんか、学校で嫌なことでもあるの?」
元気がない子供にかける決まり文句のような母の台詞に、胸の中のどろりとしたものが反応する。それが一気に涙腺まで突き上げてきそうになるのを、紗子は必死でこらえた。
「別に何もないよ」
平静を装いながら目を逸らすと、皿の上に置かれたトーストを口の中に詰め込んだ。ジャムもバターも塗っていない食パンは口の中でパサパサし、いくらかんでもなくなってくれない。母はしばらく黙って紗子を見つめていたが、それ以上何かを聞いてくることはなかった。席を立った母が洗面所の方へ行ってしまうと、紗子はほっとすると同時に、何か得体のしれない灰色のものに耳まですっぽり覆われるような感覚を抱いた。
―学校、行きたくないな。
そう思ったのは初めてだった。小学校の頃から学校を特別楽しい場所だと感じたことはなかったが、こんな風に行きたくないと感じたことはなかった。今日は菜々美と仲直りできるかもしれない。そんなはかない希みを抱いて毎日学校へ通っていたが、さすがに二週間も経つと心が折れてくる。
紗子が実際に学校を休んだのは、その三日後のことだった。決してずる休みではない。前日にお腹を壊し、朝になってもまだお腹の痛みが残っていたのだ。どんなに痛みを訴えても、どこか疑心暗鬼な目を向けてくる母に、紗子はまた苛立ちを覚えた。
ベッドに横になり天井を眺めながら、紗子は一日を過ごした。お腹の痛みは昼前にはすっかり消えてなくなっていた。午後からでも行く気になれば学校へ行ける状態だったが、なぜか体が動かなかった。出来ることなら永遠にこうしてベッドに横たわっていたい。そんなことを考えたりした。
まだら模様の天井を見つめていると、ふとエリの顔が思い浮かんだ。菜々美との関係がこじれてしまって以来、紗子はなぜかこんな風に時々エリのことを思い出すのだった。浩之とまりえとの交際を知りながら、その間に割って入るように浩之に近づいたエリ。そんなエリを紗子は嫌い、軽蔑もした。そんな女は最低だとも思った。だけど考えてみれば、紗子自身もエリとそう変わらないのではないだろうか。あの日紗子の中には、親友の菜々美からワタルを奪い取りたいという気持ちが、確かに存在していた。
底なし沼にどこまでも沈んでいくような感覚の中で、紗子はようやくひとつのことを悟った。
それは、人を想う気持ちに鍵をかけることは出来ないということである。どんなに努力して檻に閉じ込めようとしても、それはいとも簡単にその隙間から抜け出し、どこまでも飛んでいく。まるでそんな檻など、初めから存在しないかのように。
エリを受け入れる気持ちにまではなれなかったものの、紗子はエリの気持ちを少しだけ理解出来た気がした。すると、自分のエリに対する数々の失礼な態度や行動が、反省すべきものであるように思えてきた。人から非難され憎まれることの辛さを、紗子自身が経験したからでもある。
迷った挙句、紗子は浩之に電話をかけた。浩之は就職活動真っ只中のはずたが、妹からの電話に三コール目で応答した。
「紗子?どうした、こんな時間に。学校じゃないのか?」
「うん。今日はちょっと休んでて」
紗子は言葉を濁した。
「お兄ちゃん、今忙しい?」
「今日は午前中にセミナーがあって、今終わったところだ。珍しいじゃないか、紗子から電話してくるなんて。何かあったのか?」
「…てわけじゃないんだけどね」
言うべきことを口にするには、勇気が必要だった。一呼吸置いてから、紗子は続けた。
「…お兄ちゃん、私ね、あの人…エリさんに謝ろうと思うの。今さらだけど、あんな態度をとって、嫌な思いをさせてしまったから」
スマートフォンの向こう側で、浩之が絶句しているのが分かる。
「まりえお姉ちゃんと同じように仲良くすることは出来ないけど、でもお兄ちゃんがあの人家に連れてきたときは、嫌な顔しないで迎えてあげるから安心して」
紗子は一気にそう言うと、ふうと息を吐き出した。
「…もういいんだ」
浩之の声が遠くてよく聞き取れず、紗子は、えっ?と聞き返した。
「別れたんだ、エリとも」
今度は紗子が絶句する番だった。
「…どうして?もしかして私のせい?」
恐る恐る紗子はたずねた。あれほど浩之に固執していたエリが浩之と別れるなんて他に理由が考えられなかった。しかし浩之はふっと息を吐き出すようにして笑った。
「別にお前のせいじゃないよ。確かにお前のことを気にはしていたけど、全然そういうことじゃないんだ」
「…じゃあ、どうして?」
「詳しいことは今度会ったときにな。ってうまく説明できるか分からないけど。これは俺の中の問題なんだ。あの日お前と会った後、もう一度自分の気持ちと向き合ってみたんだ。…そしてようやく、大切なことに気付くことが出来た」
浩之の声には、ずっと失っていた自信を取り戻したかのような力強さが宿っていた。電話ではそれ以上話さなかったが、電話を切った後で、紗子はふと目の前が光で照らされたような気がした。実在しているのかすら分からない、幻かもしれない光。けれどもその光は紗子の心をも明るく照らし、前へと進ませる勇気を与えた。ふいにどこからか元気が湧いてきた紗子は、明日は学校へ行こう、そう思っていた。
菜々美から声をかけられたのは、昼休みに図書室へ行こうとした時だった。菜々美と話をしなくなって以来、紗子は昼休みを図書室で過ごすことが多くなっていた。
「紗子」
廊下で突然、後ろから名前を呼ばれた。
その声に、紗子の全身が固まる。
振り返るとそこには泣き顔のような顔をした菜々美が、それでいて何かを伝えたそうな様子で立っていた。
菜々美は少しうつむいた後意を決したように顔を上げると、紗子の顔を見た。菜々美とこうして顔を合わせるのは、数週間ぶりのことだった。
「…私ね、紗子に伝えたいことがあって」
そう言う菜々美の口調は、どこか演技めいているようでもあった。本当に言いたいのはもっと別の言葉なのだろう。
小さくひとつ呼吸をしてから、紗子は菜々美に尋ねた。
「何?」
ばつが悪そうに目をそらした菜々美は、なぜか照れるような顔になった。
「あのね、私、見ちゃったの」
「見たって、何を?」
自然と言葉が続いた。菜々美と言葉を交わすのはすごく久しぶりなのに、瞬間、毎日二人で笑い合えていた頃にタイムスリップしたかのような感覚に陥る。
次に菜々美が発した言葉は、結構衝撃的なものだった。
「…滝川が、女の人と一緒にいるところ」
「えっ?」
紗子は数秒言葉を失った。けれどもその驚きはすぐに消え失せた。若くて、もう大人で、独身で、しかもジャニーズをしのぐイケメンとくれば、彼女がいないことの方が逆に不思議ではないか。にもかかわらず今までそんな可能性を一パーセントも考えたことのなかった自分を、我ながらおめでたいと思う。
「そうなんだ」
紗子の顔から自然と笑みがこぼれた。滝川に彼女がいたショックよりも、今こうして菜々美と会話が出来ている喜びの方が大きかった。
「ショック?…じゃなさそうだね。笑ってるもんね」
菜々美が言う。
「うん。…別に、そんなショックじゃない」
紗子も正直に答えた。
菜々美が開け放たれた廊下の窓のそばへ歩み寄ったので、紗子も自然と菜々美に近づいた。菜々美の長い髪が初夏の風にそよぎ、シトラスミントのシャンプーの香りが流れてくる。その匂いも紗子には懐かしかった。紗子が隣に来ても、菜々美の視線は遠く窓の外へ向けられたままだ。菜々美はもう紗子を拒否してはいなかった。
「なんか懐かしいな」
菜々美がつぶやく。
「何が?」
「昔、紗子と滝川を見て、はしゃいでた頃がさ」
紗子は思わずぷっと噴き出して笑った。
「昔って言ったって、あの頃からまだ二か月しか経ってないよ」
「でも、昔は昔なの」
菜々美はつんとすましたように言ったが、その目が笑っているのに紗子は気がついた。紗子も、ほんの僅かな間に自分達がすごく変わってしまったような気がした。
「そうだね」
窓の外に目をやりながら紗子は答えた。学校の裏側は小高い丘になっていて、その手前を小さな小川が流れている。
「菜々美」
紗子は思い切って言ってみた。
「今日、一緒に帰らない?」
驚いた目で紗子を見た菜々美は、返事に困ったように目を伏せた。
「やっぱり、だめ、かな?」
うつむいていた菜々美は、決心したように顔を上げると、答えた。
「分かった。いいよ」
校舎を出た後紗子が自転車置き場に向かうと、そこに菜々美が立っていた。昨日から中間テスト前の部活停止期間のため、今日は部活がない。終業の号令の後菜々美の方をちらと見ると、菜々美は既に席を立ち教室を出て行くところだった。昼休みの返事は気の迷いで、やっぱり菜々美はまだ許してくれてはいないのだと紗子はここに来るまで思っていたが、菜々美はちゃんと紗子を待っていてくれた。
「ごめん。教室で話すのは、なんかまだちょっと照れくさくて」
恥ずかしそうに言う菜々美の顔に笑みが宿っていることを確認し、紗子はほっとする。
「いいよ」
紗子も微笑んだが、どこかぎこちなく頬が引きつってしまった。菜々美との間の緊張が、まだ完全に解けたわけではないのだ。
校門へと続く校内の道を、自転車を押しながら並んで歩いた。
「私ね、ワタルと付き合うのは、やめることにしたの」
突然、菜々美が言った。
紗子は驚いて菜々美の顔を見た。しばらく近くで見ぬ間に、菜々美はどこか大人っぽくなった気がする。
「どうして?」
「そんなこと、聞かないでよ」
少し怒ったように言う菜々美に、紗子はどう言葉を返せばいいのか分からなかった。
「紗子も本当は分かってるんでしょう。ワタルが本当は誰が好きなのか」
吸い寄せられるような菜々美の瞳に、紗子は戸惑った。しばらくしてから、紗子は口を開いた。
「菜々美は勘違いしてるよ…」
「えっ?」
「…ワタルはね、私といると落ち着くって言ったの。でもそれって、好きっていう気持ちとは違うと思うんだ。だって、好きな人と一緒にいたら、ドキドキして、うまく話せなかったりするでしょう。でもワタルは私といて、全然そんなことはないから」
あの日の公園で感じたことを、紗子は口にした。
「ふーん。そうかなあ」
菜々美は納得がいかないような顔をしている。
「じゃあ、紗子の方はどうなの?」
菜々美からそう聞かれることは、紗子も覚悟していた。紗子は胸の中でゆっくりと深呼吸をすると、答えた。
「私は、好き」
菜々美が足を止める。数秒、二人は目線を交し合った。
「そう」
先に目をそらした菜々美は、再び歩き始めた。
「ごめんね、菜々美」
紗子はその背中に向って声をかける。菜々美は紗子に背を向けたまま、言った。
「…許せるか許せないかって言ったら、正直許せない気持ちの方が強い」
菜々美は振り返ると、でも、と表情を緩めた。
「正直に答えてくれたのは、嬉しい」
柔らかな表情を浮かべた菜々美を見つめながら、紗子は胸にあたたかいものが込み上げてくるのを感じた。同時に目の奥が熱くなり、視界がぼやけた。
「やだ、ちょっと紗子、泣かないでよ」
そう言う菜々美の目からも、涙がこぼれ落ちそうになっている。
―良かった。
これで本当に菜々美と仲直り出来たという気持ちが、じわじわと紗子の中に広がっていく。
その時だった。
校門の手前で、突然菜々美が声を上げた。
「あっ、あの人」
その視線は、校門の外の通りへと向けられている。
「あの人だよ!昨日滝川と一緒に歩いてた女の人って」
菜々美は頭の中身が急に入れ替わったかのように、紗子の腕を叩いた。
菜々美が指し示す方向を見た時、紗子は一瞬息が止まった。横断歩道を渡り、こっちに向かって歩いて来るのは、なんとまりえだったのである。
「嘘…」
驚く紗子とは対照的に、横断歩道の途中から紗子に気づいていたまりえは、手を振り笑いながら近づいてきた。
「やっぱり、さえちゃんだ」
紗子のそばに来るなり、まりえは弾んだ声で言った。
「まりえおねえちゃんが、どうしてここに?!」
「ふふふ。連絡しようかなとも思ったんだけど、さえちゃんを驚かせちゃおうと思って。実はね、大学のサークルの先輩がさえちゃんの学校で数学の先生をやってるの。と言っても私も最近になって知ったんだけどね。それで色々と話を聞かせてもらってて。今日は職場見学をさせてもらうことになってるの」
まりえは種明かしでもするような笑みを浮かべながら言った。
「そ、それって、もしかして、滝川先生ですか?」
紗子の隣から、菜々美がすかさず質問する。
「そう。なんだ、知ってたんだ。さえちゃんのお友達?」
まりえは紗子から菜々美の方に視線を移した。菜々美が相変わらずはきはきとした自己紹介をすると、まりえはにっこりと嬉しそうに笑った。
「そう。良かった。さえちゃんにも新しいお友達が出来て。あ、もうこんな時間。急がなきゃ。さえちゃん、またメールちょうだいね。菜々美ちゃんもさえちゃんをよろしく」
まりえは時計を見ながら言うと、いそいそと校舎の方へ小走りで向かって行った。
「…きれいな人だね」
去っていくまりえの後姿を見ながら菜々美がつぶやく。
紗子は呆然としたまま立ち尽くしていた。滝川と一緒にいたという女性が、まさかまりえだったなんて。
「紗子、どうしたの?大丈夫?」
青い顔をした紗子に菜々美が気づき、声をかける。
「…違うよね」
紗子の声が低くて聞き取れなかった菜々美は、えっ、と聞き返した。
「話を聞きに来ただけで、別に恋人ってわけじゃないよね」
まりえの姿を目で追いながら、紗子は自分に言い聞かせるように言う。
「…まあ、確かにそれはそうかもしれないけど」
ただ、と菜々美は考える素振りをしながら付け加えた。
「滝川のあんな顔を見たのは初めてだった。正直、幻滅っていうか、でれーっとしちゃって、いやらしそうな笑い浮かべてたよ」
授業中や部活中の滝川からは、そんな様子を想像することは出来ない。
「それを見て私、ほんとにがっかりしちゃって。それで紗子に伝えたくなったんだ」
菜々美が受けたショックに関しては紗子も同感だった。だが滝川も教師とはいえ一人の生身の人間であり、若い男性である以上、そういう面があっても決しておかしくはないのだ。紗子が気になるのは、むしろまりえの方だった。もしまりえが滝川と交際しているとしたら、もう浩之のことはすっかり忘れてしまったということだろうか。容姿という点に限って言えば、滝川と浩之との間には、月とすっぽんほどの開きがある。しかも浩之は一度まりえをひどく傷つけているのだ。
先日浩之が電話で言った言葉を紗子は思い出す。
―大切なことに気付くことが出来た。
今さら気づいても、もう遅いのかもしれない。すべては浩之の自業自得だ。
「じゃあ、また明日」
気がつくともう交差点のところまで来ていた。菜々美は、ここ数週間の空白などまるでなかったような笑顔を向けている。ふいに紗子の中に、安堵と切なさがごちゃ混ぜになったような感情が込み上げてきた。
「菜々美」
「何?」
「明日も、一緒に帰ろう」
紗子が言うと菜々美は、ワンテンポだけ遅れてから、うんと笑った。
六月の終わり、中学校に入って初めての中間テストが終わった。小学校時代のカラーテストにもそれなりの緊張感があったものだが、中学校の試験はその比ではなかった。朝から三時過ぎまで五教科連続でテストを受け、その上校内の順位まで出てくるというのだから、そのプレシャーは相当なものだ。
だからこそ終わった時の解放感は格別だった。皆気分は一緒らしく、解き放たれたような笑みが周りにもあふれていた。教室の空気の色がワントーン明るくなったみたいだ、と紗子は思った。紗子は最近、ようやくクラスの雰囲気に馴染んできたと感じている。美奈達は相変わらず輪を作って噂話に花を咲かせているが、もう気にしないことにした。紗子には親友と呼べる菜々美がいる。それで十分だった。
今日も菜々美と一緒に帰り、その後近くのショッピングモールへ行って羽を伸ばす予定だ。中学生になると外でジュースやお菓子を買い食べたり飲んだりしていても、親や学校から咎められないのが嬉しい。勉強や部活などやらなきゃいけないことは増えたが、その分自由に出来ることも多くなった。
紗子が菜々美の方を振り向こうとしたその時だった。廊下側の窓ガラスの向こうにワタルの姿が見えた。ワタルはまっすぐに紗子の方を見ながら、手招きのような仕草をしている。いつものふざけた調子とは違い、その目には真剣さが宿っていた。美奈達が早速ひそひそと何か話すのが聞こえたが、紗子は構わず立ち上がると廊下へ出た。
「どうしたの」
紗子がたずねるとワタルは、言い出すのをためらうようにうつむいた。それから少し顔を上げると、低い声で言った。
「実は…、さっき聞いたばかりなんだけど、…滝川先生が逮捕されたらしい」
「え?!」
ワタルの言っていることの意味が、すぐには理解できなかった。
「でも別にそれを伝えに来たってわけじゃなくて、その、俺が伝えたかったのは、被害にあったのが、まりえさんかもしれないってことで…」
紗子の体に、全身の毛が逆立つような悪寒が走った。声がすぐに出てこない。
「…ど、どういうこと?」
「…はっきりしたことはまだ分からない。お前には言わなかったけど、実は俺、まりえさんと滝川先生が一緒にいるところ何回か見たことがあったんだ。先生がその、まりえさんの肩に手を回したりしてて、すごく親密そうだったから、てっきり付き合っているんだと思ってて…」
ワタルは気まずそうに言葉を濁した。紗子に気を使い、二人を見たことをずっと黙っていたのだ。
肝心な部分を避けて説明するワタルの言葉だけでは、滝川がどんな罪を犯したのかはっきりと分からない。にもかかわらず、おぞましい光景が紗子の目の裏に漠然と浮かんできた。
体の芯から震えが沸き起こる。今日は朝からまだ一度も滝川の姿を見ていなかった。数学の時間に試験監督に来たのが別の教科担任だったことを思い出すと、ワタルからの情報が一気に真実味を増した。
「その話、誰から聞いたの?」
「逮捕されたことはうちのクラスでもう噂になってる。ただ相手の人が誰かまでは、みんなまだ知らないみたいだ」
「どうしたの?一体」
菜々美も教室から顔を出した。紗子は菜々美に向って両手を合わせると、頭を下げた。
「菜々美、ごめん。今日の約束、行けなくなった」
「…それは別にいいけど、何かあったの」
きょとんとした顔をしている菜々美とワタルの顔を交互に見つめながら、紗子は言った。
「菜々美とワタルに、付き合ってほしい場所があるの」
二人が顔を見合わせながら驚く。
「付き合うって、どこに?」
「まりえお姉ちゃんがいるところ」
根堀町までは電車を乗り継いで一時間半程で着く。紗子と菜々美とワタルは家に帰ると財布と携帯電話だけを持ってすぐに駅へと向かった。今から向かえばなんとか明るいうちに向こうに着けるはずだった。
午後の上り列車はがらんとしていて、乗客は数えるほどしかい。
電車の中でワタルは、教室で聞いた情報を二人に話した。まりえが襲われたのはカラオケボックスで、滝川が犯行に及ぶ直前で店員に気付かれ、まりえは大事には至らなかったという。
紗子は菜々美に、兄とまりえが恋人同士だったこと、その仲を裂いたエリに対して激しい嫌悪感を抱いたこと、そして今でも兄とまりえの関係が元に戻ることを密かに願っていることを打ち明けた。
「菜々美には本当はもっと早く話したかったんだ。というわけで今日はいきなり付き合わせちゃったりして、ごめん」
紗子が謝ると菜々美はにっこり笑って言った。
「いいよ。なんか冒険みたいで楽しいし。それに、二人の間に入れてもらえて、嬉しい」
「菜々美…」
菜々美は少しうつむいた。
菜々美とワタルは先日別れたばかりだ。そんな二人を紗子がとっさに誘ったのは、二人にこのまま気まずい関係になって欲しくないという思いがあったからだ。紗子は菜々美と反対側の隣に座るワタルの横顔を見た。窓の外の遠くの景色を見ているワタルは今、どんな気持ちでいるのだろう。
紗子は胸に押し寄せてくる様々な思いを一旦振り払った。今一番大切なことは、まりえの無事を確認することだ。体が無事であっても、心が無事であるとは限らない。中学生の紗子に出来ることなどないかもしれない。それでもまりえのそばにいて、その傷を少しでも癒したかった。
「…お前、まりえさんのこと、今でも本当に大切に思ってるんだな」
座席シートに背を持たせかけたワタルは紗子よりも大分座高が高く、横に並ぶと見下ろされる形となる。
「うん。…おかしいかな、私」
「…別におかしくはないよ。何が起きようと、お前とまりえさんが出会ったという事実までは消せないわけだし」
ワタルはそう言うと、人差し指で鼻の下をこすった。何か真面目なことを言って照れた時にするワタルの癖だ。
気が付くと車内のアナウンスが、次の駅名が根堀町であることを告げていた。
駅に着いた時はすでに五時を回っていたが、夏至を過ぎたばかりのこの時期は五時でもまだ十分に明るい。梅雨の晴れ間の日差しは夕方であるにもかかわらず、目を細めたくなるほどの強烈さを保っていた。
紗子は再度スマートフォンを確認する。まりえには電車の中から何度もメールを送ったが、返信は来ていなかった。
「おい、ちょっと待て」
何かに気づいたようにワタルが言う。
「まりえさんから返信が来なかったら、家を捜せないじゃないか」
紗子は以前一度だけ来たことのある町を見渡した。家々が整然と並ぶ風景はやはりどこか殺風景で無機質な印象を与える。一人暮らしのまりえが住んでいるのは、おそらく戸建てではなくマンションかアパートだろうと思うが、それだけに絞ったとしてもかなりの戸数だ。今まで一度も家の場所を尋ねなかったことを紗子は後悔した。
「どうすんだよ。まさか一件一件訪ね歩くわけにもいかないし」
ワタルが町をぐるりと見回しながら言う。紗子は以前にも同じようなことをしたことを思い出す。この町へはいつも何の計画もなく衝動にかられて来てしまう。逆にそれほどの衝動がない限り、来ることが出来ない。
「海に、行ってみよう」
紗子は言った。
「この通りをまっすぐに進むと海に出るの。前にまりえお姉ちゃんに連れてきてもらった。だからもしかしたらそこへ行けば、会えるかもしれない」
「それだけかよ。根拠うすっ」
「でも今は、紗子の勘に頼るしかないよ」
菜々美の言葉に、ワタルも納得したようについてくる。
紗子にもそこでまりえと会える自信はなかった。そんなに都合よくまりえが海にいてくれる可能性は限りなく低い。それでも紗子は他に向かうべき場所を知らなかった。徐々に近づいてくる潮騒の音に導かれるように、紗子の足は自然と前へ進んだ。
通りを歩き切った所で、目の前の景色が開けた。海は以前と少しも変わらぬ姿でそこにあった。違うのは頭上を飛ぶカモメの数と浜辺に出ている人の数くらいだ。前にここへ来たのはまだ肌寒さが残る早春の頃で浜には人がいなかったが、夏を目前にした今はあちこちで子供達や老人達が走り回ったり散歩を楽しんだりしている。
けれどもそこに、まりえの姿はなかった。
「ごめん!」
紗子は菜々美とワタルに向って頭を下げた。
「私の思いつきだけでこんな所まで付き合わせちゃって。前はちょうど運良くまりえお姉ちゃんに会えたからって、また会えると思うなんて甘いよね。本当に私がバカだった」
うつむいたまま一気にそう言った後、紗子は顔を上げた。ワタルの目が、紗子ではなく、その前方にある何かを見つめている。
「そうでもないみたいだぜ」
ワタルが言った。
紗子はワタルの視線の先を追うように、ゆっくりと振り返った。
そこいたのは、まりえではなく、浩之だった。
「お兄ちゃん!」
「紗子?ワタルまで、一体どうしてここに?」
浩之は驚いた顔をしたが、すぐに事情を呑み込んだように表情を歪めた。
「お前達も心配して来たというわけか」
「うん。でも家が分からなくて」
「俺もだ」
「誰も教えてくれなかったの?」
「サークルのメンバーはみんな俺とまりえのことを知ってるから、誰も俺にはまりえの新しい住所を教えてくれなくて。まあ当然だけどな」
浩之は自嘲に満ちた顔を陰らせた。
「…それでも、お兄ちゃんはここに来た」
紗子は浩之の目を見ながら、ゆっくりと言った。
「それは、まりえおねえちゃんが、お兄ちゃんにとって、一番大切な人だからでしょう?」
浩之は、引き込まれるように紗子の顔を見つめている。
浩之が何かつぶやいたのと、紗子のスマートフォンが鳴ったのはほぼ同時だった。画面には、電話帳に登録されたまりえの名が発信元として表示されている。
「…出ないのか」
息を詰めながらワタルが尋ねる。紗子は、鳴り続けるスマートフォンをそのまま浩之の手に押し付けた。
「出て。お兄ちゃんが」
浩之からの返事を待たず、紗子はスマートフォンから手を離すと叫んだ。
「行こう」
ワタルと菜々美の腕を掴み、紗子は一気に砂浜を駆け抜けた。
やがて鳴っていた音が鳴り止み、代わりに電話に向かって話す浩之の声が背後で聞こえた。
駅へと続く道路へ出た所で、紗子はようやく二人の腕を放した。
「全くお前ってやつは…」
ワタルが呆れたように言う。
「…これが最後のおせっかい。後はお兄ちゃんが決めることだから」
紗子は荒い息を吐きながら言った。
「…お兄さん達、うまくいくといいね」
菜々美も肩で息をしながら、紗子に微笑んだ。
「うん。今日はありがとう、菜々美」
「…じゃあ私、そろそろ帰ろうかな」
菜々美の様子には、どこか不自然なわざとらしさがある。
「何言ってるの?帰りも一緒に決まってるでしょ」
突然おかしなことを言い出す菜々美に動揺しながら紗子は言う。
「でも私、一回電車って一人で乗ってみたかったの。中学生になってしてみたかったことランキングの一位かもしれない」
「えっ、ちょっと、菜々美」
引き留める間もなく、菜々美は「じゃっ」と駅に向かって走り出していた。横断歩道を渡りきったところで振り向いた菜々美は、大声で叫んだ。
「今度は紗子が勇気を出す番だよ!」
満面の笑みを浮かべた後で、菜々美は再び前を向き走っていった。
「…なにあれ」
ぼつんとつぶやいた紗子の手を、突然あたたかな感触が包んだ。ワタルのぬくもりが、紗子の中に流れ込んでくる。
紗子は驚いてワタルを見上げた。瞬間、目の前の通りも、空も、空気も、別のものに入れ替わった気がした。もちろん実際には何も変わっていない。紗子の目に映る世界が、生まれ変ったのだ。
紗子もワタルの手をぎゅっと握り返した。
引っ込みそうになる言葉を、押し出すようにして声に出してみる。
「…好き」
今度はワタルの目を見て、はっきりと言った。
「私、ワタルのことが好き」
瞬間、顔から火が出たのが分かった。それでも、恥ずかしさより思いを伝えられた爽快さの方が大きかった。
「そう」
だがワタルの反応はそっけない。まるで普段の他愛のない会話のようだ。
「そうって、他に何かないの?」
紗子は思わずむっとして言う。
「何かって?まさか、キスでもしてほしいの?」
「バカ!」
怒った紗子は、ワタルの手を振りほどいた。その腕を再びワタルがつかまえる。
「冗談だよ」
紗子はワタルの目を見つめる。ワタルからの言葉を待つ。
ワタルは言った。
「残念だけど…俺もそうなんだ」
突然ワタルはスマートフォンを取り出すと、画面を見ながら叫んだ。
「やばい!次の電車乗り過ごすと二十分待ちだ」
「え?!」
「やっぱり俺たちも次の電車に乗ろう」
そう言うとワタルは突然ダッシュを始めた。
ワタルの背中を追いかけながら、紗子も駅へ向かって全力で走った。
どうして私、こんなところにいるんだろう。
紗子の頭の中もまた、この空の色のように真っ白なもやがかかっている。
助手席に座る兄の「新しい」彼女が、後部座席を振り返りにっと笑った。
「さえちゃん、大丈夫?酔ったりしてない?」
鼻から出したような声と同時に作られた笑顔の中にある目は、捕食動物のそれを思わせる。彼女の顔を見る度、紗子は半ば本能的とも言える嫌悪感を抱く。
「いえ、大丈夫です」
あえて距離を置くようによそよそしく答えた紗子の声が、ことのほか低温に響いた。同時に自分の表情が凍てついていくのを紗子は自覚する。そんな紗子を見た彼女、エリの顔からも、瞬時に色が失われる。
しばらく気まずい沈黙が続いた。三人の会話は、家を出た時からちっともはずまない。
あの時とは、何もかもが違う―。
紗子は、兄とまりえと三人でドライブをした日のことを思い出していた。学校や友達、映画、好きな音楽…話は尽きることなく溢れ出てきて、目的地に着く前にすっかり目的を果たしてしまったかのような充実感で満たされていた。デートの邪魔をされた兄は時々苦笑いをしていたけれど、あの日ほど兄が幸せそうに笑う顔を紗子は見たことがない。まりえは紗子の話をずっと楽しそうに聞いていてくれたし、時々アドバイスをくれたりもした。紗子はまりえのことを実の姉、もしくはそれ以上に慕っていたし、まりえもまた紗子に対し、実の妹同然に心を開いてくれていた。ずっと姉がいる同級生をうらやましく思っていた紗子にとって、まりえと過ごした日々は、まるで夢がかなったかのような、今思えばかけがえのない時間だった。
それなのに―。
昼前になりようやく車は遊園地に到着した。日曜日で家族連れが多いせいか、道が混んだ上に駐車場に車を停めるのも一苦労だった。けれども紗子にとって、そんなことはどうでも良かった。出来たら到着なんてしてほしくなかったし、着いたところで遊園地で遊ぶ気など始めからなかった。
「やっと着いたねー」
エリが振り返って、例の貼り付けたような笑顔を紗子に向ける。その頬には車のシートの跡がうっすら残っていた。余りに弾まない会話と紗子の態度に耐えられなかったのか、それともただ単に寝不足だったのか、エリがドライブの後半助手席で寝ていたのを紗子は知っていた。エリが寝ている間、浩之と紗子はほとんど口をきかなかった。
遊園地へ行こう、と言い出したのはエリだった。
浩之がエリを家に連れて来た日、兄の新たな交際相手として紹介されたエリを紗子はまともに見ることさえ出来なかった。どうしてそういうことになってしまったのか、まだ小学六年生の紗子にはわけが分からず、かといってエリの前で兄にそれを問いただすことも出来なかった。
「さえちゃん、よろしくね」
にっと笑いながら初対面にも関わらず紗子のことを馴れ馴れしく「さえちゃん」と呼び、いきなり遊園地に行くことを企画したエリは、どちらかと言えば地味な顔立ちで特別な魅力があるようには見えなかった。兄の浩之がなぜ美しいまりえを捨て彼女を選んだのか、紗子にとってそれは永遠の謎だった。ただその謎を解く鍵と思われるのは、張り付けた笑顔の裏にある、本心を決して他者に悟らせぬしたたかさと、狙った獲物を決して逃さぬ肉食獣のような目の光だった。
まりえから浩之を奪い取る形で交際を始めたエリが、ほんのわずかでも罪悪感を抱いているというのなら、むしろこんなことはやめて欲しかった。紗子は昔から遊園地が大好きだったが、それは大好きな人と行った場合に限ってのことだった。それに、エリが本当に罪を滅ぼさなくてはならない相手は、紗子ではなくまりえのはずである。
予想はしていたが、三連休の中日ということもあって園内は混雑していた。ジェットコースターはもちろんのこと、メリーゴーランドでさえ長蛇の列だ。それを見ただけで紗子はうんざりしたが、エリは逆に驚くほどの人混みにテンションが上がってしまっている。
「うわー、すごい人~!これじゃあ一日並んで終わっちゃうね」
そう言いながらもエリはそれをちっとも苦にする様子はなく、むしろ並ぶことを楽しもうとする勢いだ。
「だから遊園地なんてやめた方がいいって言ったんだ」
冷静に半ばあきれたように言う浩之の腕にしなだれかかり、エリは甘えた声を出す。
「なんでー?いいじゃん。さえちゃんも来たかったよね」
紗子は思わず露骨にエリをにらんでしまった。その目に一瞬エリがひるんだのが分かった。
二人で行けばいいものを紗子の部屋にまで入ってきて気乗りしない紗子をしつこく誘い、うんと言うまでその場を動こうとしなかった今朝のエリを思い出す。しまいには懇願するような兄の視線に根負けし、しぶしぶついてきたのだが、車中にいる時から感じていた不快感が、ふと限界に達した。
「あっ、紗子!」
浩之とエリをメリーゴーランドの列に残したまま、紗子はその場を離れた。
「さえちゃん!」
二人の声を振り払うように、紗子は園内を駆け抜けていく。
気が付くと裏門の前まで来ていた。ここをくぐり抜けてしまえば、再び入場することは出来ない。分かっていながら、紗子は迷わず門をくぐり抜けた。
門が見えなくなる位置まで遠ざかってから、ようやく紗子は歩を緩めた。
徐々に冷静になると共に、現実へと引き戻されていく。すると今度は体が恐怖と不安に包まれた。車で四十分かけて辿り着いたこの場所から、家まで歩いて帰ることなど出来ない。財布には千円札が入っていたが、家までの電車賃がそれで足りるのかどうかさえ分からなかった。紗子は途方に暮れながら、今歩いている道をただひたすらまっすぐに進んだ。不安な気持ちの一方で、何がどうなっても構わないという気持ちもまた、紗子の中にはあった。
ふいに、ある町の名前が紗子の頭に浮かんだ。それは兄と別れた後にまりえが引っ越したという町の名前だった。まりえは兄と別れた後、一度だけ紗子に連絡をくれた。今まで仲良くしてくれたお礼と、別れを言うために。まりえはそうすることで紗子との関係にもけじめをつけようと思ったのだろう。しかし紗子にしてみればそれは、全く納得のできることではなかった。
紗子はこの時初めて、ポケットの中にあるスマートフォンの存在を思い出した。春休みに買ってもらったばかりのそれを取り出すと、路線案内のアプリに「根掘町」と入力してみた。すると今いる場所から根堀町までの経路がすぐに画面に表示された。最先端の文明の利器が持つ威力に紗子はこの時初めて感動を覚えた。その場所へは、今いる場所から家に帰るよりもずっと安い電車賃で行けることも分かった。家へ帰るのと方向は真逆だったが、そんなことは構わなかった。まりえと再会できるのなら、このまま家に帰れなくなったっていい。そんな乱暴ともいえる思いが、紗子の中には渦巻いていた。
最寄りの駅を見つけると紗子は迷わず電車に飛び乗った。駅の表示を見ながら、なんとか間違えずに乗り換えも出来た。
都心から海岸方向へと向かう列車の乗客はまばらで、横並びのシートに腰かけた紗子は、体を傾けて窓の外の景色を眺めた。列車が進むに連れビルや商業施設は次第に姿を消し、代わって閑静な住宅地の合間に紺碧色の海が姿を現した。普段海など目にする機会のない紗子は、思わず身をよじってそれを眺めた。
―私、本当に来ちゃったんだ。
今更ながら自分のしてしまったことの大胆さに驚く。しかしもう後戻りすることは出来ない。駅への到着を告げるアナウンスと共に、紗子は立ち上がった。
そこは細長いプラットホームがあるだけの小さな駅だった。根堀町は都心へ通う人達のベッドタウンであることもあり、駅で降りる人の数は思ったよりも多かった。
階段を下り駅の改札を抜けたところで、紗子の足はすくんだ。
同じような形をした家々が、縦横に広範囲にわたって整然と並んでいる。さらにその奥には、やはり同じような形をしたマンションが数棟、折り重なるように建っていた。
この町には、一体どれ程の数の人達が暮らしているのだろう。その中からたった一人まりえを探し出すことなど、考えてみれば不可能に近い。衝動にかられこんな所まで来てしまった自分の浅はかさを今更呪ってみたところで、時既に遅しだった。
ぎゅーっ、という腹の音と共に、紗子は突然痛いほどの空腹を感じた。腕時計に目をやると、一時半を指している。朝コーンフレークを少し食べただけで家を出て来たのだから、無理もなかった。しかし何かを買って食べようという気も紗子には起らなかった。ここに来るまでの電車賃にお小遣いの大半を使ってしまったというのもあるが、それ以前にものを食べたりする心の余裕がまずなかった。
紗子は駅の前に置かれたベンチにまず腰掛けた。ただやみくもに歩いたって見つからないのは分かっている。どう行動しようかと考えを巡らせていると、紗子はポケットの中でスマートフォンが震えているのに気が付いた。取り出した画面に兄の名前が表示されているのを見て、紗子は「切る」のマークが表示された部分をタッチした。着信履歴を見ると、電車の振動で気がつかなかったがその前にも何度も兄から電話がかかってきていたことを知った。紗子は顔をしかめると、スマートフォンを再びポケットの中へとしまった。先ほどその便利さに感動を覚えた小さな機械が、今はただの鬱陶しい邪魔物でしかない。
何本目かの電車が駅を通過し、何人もの見知らぬ人々が紗子の前を通り過ぎた。当然のことながら、まりえの姿はその中にはない。そんなに運良くまりえが現れるはずもない。まりえを捜し出す良い方法も思い浮かばぬまま、もうあきらめて帰ろうかと思い始めた頃だった。
「さ、さえちゃん?」
聞き覚えのある澄んだ声で、ふいに名前を呼ばれた。
顔を上げると、改札口の前に、まるでそこに存在するのが信じられないという目で紗子を見つめるまりえが立っていた。
実を言うと紗子は、まりえと再会する瞬間をここに来るまでの間何度も想像していた。会った瞬間まりえの胸に飛び込み、涙を流す。ずっとずっと会いたかったと。実際にまりえと会うことが出来たなら、自分はそうするだろうとも思っていた。しかしいざ現実にまりえの姿を目の前にした紗子の体は固まり、声すら出てこない。
「さえちゃんが、どうしてここにいるの…」
まりえの顔には、明らかな戸惑いと動揺の色が浮かんでいる。
紗子はうつむいた。
―やっぱり来なければ良かった。
まりえの気持ちも考えずに、自分の身勝手な思いだけでここまで来てしまった自分が恥ずかしかった。今まりえにとって紗子は、別れた恋人の妹という、とても微妙な存在なのである。
「一人で来たの?」
まりえは、紗子が座っていたベンチのところまで歩いてくると尋ねた。
「…うん」
「おうちの人は知ってる?」
紗子がゆっくりと首をふると、まりえは少し迷った顔をした後、意を決したように携帯電話を取り出した。
「じゃあ、連絡しないとね」
「待って」
電話をかけようとするまりえの手を紗子は押さえた。やっと会えたのだ。そしてもう二度と会えないかもしれない。だからこそもう少し、誰にも知られずまりえとの時間を過ごしたかった。
「分かってる。みんなが心配するのも、家に帰らなくちゃいけないのも。でもお願い。少しだけ。少しだけでいいから、まりえお姉ちゃんと一緒にいさせて」
懇願する紗子に、まりえの瞳が揺れた。
「さえちゃん…」
まりえは小さく息をふっと吐き出すと、笑顔を見せた。
「分かった。いいよ。ところでさえちゃん、お腹すいてない?」
駅前にあるハンバーガーショップでまりえはハンバーガーセットをふたつ注文した。ファーストフード店特有の何とも言えぬ食欲を誘う香りに、紗子は忘れていた空腹が一気によみがえるのを感じた。大きく口を開けて頬張る紗子を見ながら、まりえは表情を緩めた。
「さえちゃん、相変わらずハンバーガーが好きなんだね」
以前浩之がまりえを連れて実家に来た時に三人で近所のハンバーガーショップへ行ったことがある。その時も紗子はハンバーガーにかぶりつき、満面の笑みを浮かべていた。そんなささいな記憶が、大切な宝物のように紗子の胸によみがえってくる。あの頃の日々はもう決して戻らないのだ。
「お金出してもらっちゃってごめんなさい。後でちゃんと払うから」
紗子はまりえに頭を下げた。まりえと自分を繋ぐものがなくなった今は、金銭的な甘えも許されないと思ったからだ。しかしまりえは笑いながら言った。
「いいよ、そんなこと気にしないで。私もさえちゃんと会えて、嬉しかったから」
「本当?」
紗子は顔を上げると、まりえの目をのぞきこんだ。そこには駅で会った時のような、困惑の色はもう浮かんでいなかった。
「正直最初は驚いたけど。過去のことはもう全部忘れようって思っていたから。さえちゃんが突然目の前に現れた時は、どうしようって思った。でもこうしてさえちゃんと一緒にいると、やっぱり私、さえちゃんのこと好きだなって感じる」
嬉しさと恥ずかしさで体が熱くなった紗子はとっさに言葉を返した。
「私も、まりえお姉ちゃんのことが好き!」
ありがと、とまりえは小さく笑うと、言った。
「せっかく来てくれたんだから、町を案内するわ。さえちゃんの家の方と比べると狭苦しい町だけど、少し歩くと海に出るのよ」
ここへ来る電車の中からも海が見えていたことを紗子は思い出した。
駅前から続く通りは、紗子の住むのどかな田舎町とはずいぶんと趣が違っていた。家と家との間隔が異様に狭く、どの家も二階から手を伸ばせば隣家の窓に届きそうだった。住宅街の中の道を、紗子とまりえは並んで歩いた。道が狭いため時折通る車に気をつけないとぶつかりそうになる。しかししばらくすると徐々に視界が開け、どこからか磯の香りが漂ってきた。住宅が密集した町である一方で、ここは海辺の町でもあった。
歩いてきた通りは海岸沿いの道路とぶつかっており、ガードレールの向こう側はすぐ砂浜になっていた。紗子は引き寄せられるように通りを渡ると、階段を下って砂浜へ降りて行った。まりえも紗子の後に続いて降りてくる。
砂浜に島のように浮かぶ岩に紗子は腰を掛けた。まりえに、ずっと聞きたかったことを聞いてみようと思った。その答えを聞くためにここまでやって来たと言ってもいい。
「…お兄ちゃんとは、本当にもうやり直せないの?」
こんなことを妹である自分が聞くのは出過ぎた真似だと分かっている。それでも紗子は浩之とまりえに仲直りをして欲しかったし、また恋人同士に戻って欲しかった。
まりえは水平線の彼方を見つめていた。長い髪を海風にたなびかせるまりえの肩は、以前よりも細くなった気がした。まりえからの返事はない。返事がないのが答えなのかもしれない。
「もう浩之君には、新しい人がいるでしょ」
しばらく間を置いてからそう答えたまりえの声は、諦めと哀愁の色を帯びていた。紗子の中に、不敵な笑みを浮かべるエリの顔が浮かんだ。
「私、嫌い。あの人」
エリに対する気持ちをはっきりと口に表したのはこれが初めてだった。口に出してしまえば少しはすっきりすると思っていたのに、実際は嫌悪の感情が増しただけだった。悪意とは声にすればするほど湧き上がってくるものなのかもしれない。エリのことを考えていると紗子は、自分の腹だけでなく頭の先からつま先まで真っ黒に染まっていくようなイメージに囚われる。そんな自分をふっきりたくて、紗子は海岸に沿って歩き始めた。
すると、紗子のスカートの中でスマートフォンが震えた。浩之からかと思いどきっとしたが、画面に表示されていたのは幼馴染であるワタルの名前だった。受話口を耳に当てると、いきなりワタルの怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい!お前、今どこにいるんだよ!」
その一言で、大体の状況を察することが出来た。紗子がいなくなったことを知り慌てた家族が、紗子の知人らに連絡をとり行方を捜しているのだ。
「どこって、それはちょっと言えない」
紗子が答えるとさらにひどい怒声が飛んできて、思わず耳を離した。
「バカヤロー!お前、どれだけみんなが心配したと思ってるんだ」
「ごめん」
紗子は素直に謝った。そうせざるを得ない圧のようなものが、スマートフォンの向こう側にいるワタルから伝わって来る。
ワタルとは幼稚園の頃からの付き合いである。同じ幼稚園だったわけではないが、通っていたスイミングスクールが一緒だったのだ。それから同じ小学校に入学した後は、六年間でなんと五回も同じクラスになった。言わば、腐れ縁というやつである。いつの間にか親同士もただの顔見知りからすっかり仲の良いママ友になってしまっている。ワタルには、母親同士のやりとりから伝わったのだろう。
「今ね、まりえお姉ちゃんの所に来てるの」
浩之には絶対に行先を知られまいと決意していたのに、ワタルにはつい正直に答えてしまった。紗子は昔からなぜか、ワタルには嘘がつけない。
「まりえさんって、浩之君の…」
電話の向こう側でワタルが一瞬ためらう気配がする。浩之とワタルは家は近所であるものの年が離れていたため、子供の頃一緒に遊んだりしたことはない。ただ、浩之はたまに紗子を誘いに来るワタルに対して、「よう」とか「おっ、また来たな」などと玄関先で声をかけていたらしく、兄のいないワタルにはただそれだけのことが嬉しかったらしい。お前んちは兄ちゃんがいていいな、とよく紗子の前で口にしていた。そう、お姉ちゃんの方が良かったけどな、なんて紗子は答えていたが、あの頃は決して今みたいに浩之との関係はぎくしゃくなんかしていなかった。
「とにかくすぐに戻ってこい。お前の家族、大騒ぎだぞ。警察も呼ぼうとしてた。とりあえず無事だってことは伝えるからな」
徐々にワタルの怒りは収まり、安堵しているのが伝わってくる。
「うん。ごめん、心配かけて。でもお願い、居場所だけはまだ教えないで。とくにお兄ちゃんには」
少し間を置いた後で、ワタルは念を込めるように言った。
「…分かった。でも絶対にちゃんと帰って来いよ」
電話を切った後、まりえは紗子の顔を覗き込みながら尋ねた。
「もしかして、ワタルくん?」
意味深な笑みを浮かべるまりえに、紗子は腹を立てた。
「だから、違うって」
「違うって、まだ何も言ってないでしょう」
まりえは昔からなぜかこんな風に、ワタルとのことをからかってくるのだ。まりえとこんなやりとりをしていると、時間の感覚がなくなり、まるで過去に戻ったような錯覚を起こしてしまう。
「今日はもう、さえちゃんは帰った方がいいよ」
まりえの声は変わらず穏やかだったが、今度は諭すような、あらがえない強さを持っていた。いつの間にか日も傾き始めている。
「でも…」
それでも紗子は素直に帰る気にはなれなかった。このまま帰ってしまえばもう二度とまりえと会うことは出来ないかもしれないのだ。
紗子が立ち止まったままもじもじとしていると、まりえは鞄から名刺入れを取り出し、一枚抜くと紗子に差し出した。そこにはまりえの携帯電話の新しいアドレスと電話番号が印字されていた。
「就職活動用に自分で作ったんだ。こういうの苦手だからあまりセンスないけど。今度来てくれるときはここに連絡して。…浩之君とは駄目になっちゃったけど、さえちゃんとはこれからもずっと友達でいられたら嬉しいな」
心の中で凍てついていた部分に日が当たり、溶かされていく。浩之とまりえとの関係が終わってしまったからといって、紗子とまりえの関係まで断ち切る必要はないのだ。そう思うと紗子は、体の中に新たなエネルギーが流れ込んでくるのを感じた。
「うん。ありがとう」
まりえの名刺を受け取りながら紗子は、やっぱり勇気を出してここまで来て良かったと心から思った。
駅まで送ると言ってくれたまりえの申し出を大人ぶって断ってしまったことを、紗子はすぐに後悔した。道を歩く途中で、家に帰るための電車賃が足りないことを思い出したのだ。悩んだ挙句頭に思い浮かんできたのは、さっき電話で話したばかりの顔だった。紗子はスマートフォンを取り出すと、着信履歴の先頭にある番号に電話をかけた。
「あ、もしもしワタル?ちょっとお願いがあるんだけど…」
乗換案内を頼りになんとか家の最寄り駅までたどり着くが出来た。改札口の向こうには、ワタルが立っている。ワタルから改札越しに小銭を受け取ると、切符を清算し無事外へ出ることが出来た。
「バーカ」
外へ出るなりワタルに頭を小突かれた。大して痛くもないのに紗子は、イタッとおおげさに頭を押さえる。ワタルとの、お決まりのようなやり取りだ。
「で、どうだった?まりえさん」
長々とお説教をされると思いきや、ワタルはいきなり本題に入った。
「うん。一応元気そうだった」
「そっか。で、お前はどうなの?ちゃんと気持ちに整理つけられたの?」
「整理って、どういうこと?」
「だからつまり、ちゃんとお別れを言えたのかっていうこと」
紗子は首を横に振った。
「連絡先、教えてもらった」
紗子がそう言うと、ワタルはぎょっとした顔で紗子を見た。
「連絡って、浩之君とまりえさんは別れたっていうのに、お前とまりえさんはこれからも連絡を取り続けるわけ?」
「うん、まあそういうことになる、かな」
ワタルは怪訝そうな顔をしたまま黙り込んでしまった。考え方に固いところのあるワタルは内心賛成できないのだろう。
紗子の中にも不安がないわけではなかった。連絡先を教えてもらったものの、兄の目を盗んでまりえと連絡を取り続けることに対して、悪事を働くわけでもないのに罪悪感を感じてしまう。結局まりえとの繋がりなんて、いつかは自然消滅的に途切れてしまうのかもしれない―。ふとそんな考えが浮かぶと、無性に寂しい気持ちに襲われた。
「で、どうするの?これから」
話題を変えるようにワタルが言った。
「どうするって?」
「だから、遊園地からいなくなった理由を、どうやって浩之君に説明するかってこと」
それを聞かれると紗子は頭が痛かった。正直浩之と対面することを考えるだけで苦痛だ。実の兄であるというのに、浩之は今紗子が世界中で最も会いたくない相手だった。
「まあ言いたくないなら、別に本当のことを言わなくてもいいんじゃないの」
ワタルの言葉に、紗子の心がふと軽くなる。
「本当にそう思う?」
「まあ嘘をつくのは良くないことだけど、まりえさんに会ったなんて言ったら、浩之君もショックを受けるだろうし、ここは腹が痛くなったから帰ったとか、適当な理由をつけておけば」
「なんかそれも安易だね」
紗子は思わず笑ってしまった。
「笑ってる場合か。じゃあ自分で考えろ」
ごめんごめん、と謝りながら、紗子は改めて幼馴染の存在を有難く感じた。
紗子の家族には、ワタルから無事でいることをうまく説明してくれたようだ。電車に乗って一人で帰ってきたが、家族に合わせる顔がないので友達の家にいるということにしたらしい。ワタルは普段いつも一緒にいるというわけではないのに、ピンチの時にはちゃんと助けてくれる。それが幼馴染というものなのかもしれない。
「…私、やっぱり正直に話すことにする」
紗子が言うとワタルは、さっきよりもさらにぎょっとした顔で紗子を見た。
「マジで?」
紗子は一旦息を吸い込んでから、言った。
「私の気持ち、全部正直に話してみる。よく考えたら私、あれからまだ一度もお兄ちゃんとちゃんと話してなかったから」
あれからというのは、突然浩之からまりえとの別れを告げられた日からのことだ。秋も終わり本格的な冬に入る前の、木枯らしの吹く寒い午後のことだった。あの日のショックと悲しみは、今でも生々しく紗子の胸に刻まれている。
玄関の戸を開けるにはかなりの勇気が必要だった。それでも紗子にとって帰る家はやはりこの家しかない。鍵を開け中に入るとすぐに、物音に気付いた母がダイニングの入口から顔を出した。
「紗子!あんたったら、もう」
紗子の姿を見るなり駆け寄ってきた母は、口の中で小言をもごもごと繰り返していたが、紗子の注意は母の小言よりも玄関に置かれた靴の方に向けられた。エリの靴がないことを確認すると、ほっと全身から力が抜けた。
母の声を聞いた父と浩之もリビングから出て来た。玄関で家族全員に囲まれる形となった紗子は、頭を下げるしかなかった。
「ごめんなさい」
意図せず声が裏返りかすれた。同時にじんわりと涙もこみ上げてくる。
誰もしばらく言葉を発しなかった。紗子が遊園地から消えた理由を、父も母も兄も聞かずとも分かっているかのようだった。
「とにかく入ってご飯食べなさい。出来てるから」
そうとだけ言うと母は、紗子を促すようにキッチンへと戻った。
「とりあえず、無事帰って来て良かった」
父も安心したように言った。兄だけは、最後まで何も言わなかった。
夕食は既に皆食べ終えていて、母は後片付けも終えたところだった。紗子の分のおかずにはラップがかけられていて、温め直すかどうか母に聞かれたが、紗子はいいと断った。ご飯にお味噌汁とサバの塩焼きにほうれん草のお浸しと肉じゃが。普段と代わり映えしない献立が、今日は何か特別なものに感じられる。空腹は感じていなかったはずなのに、一口食べると紗子の箸は止まらなかった。
「それで?…本当はどこに行っていたの」
紗子が食べ終えるのを見計らったようにお茶を差し出しながら、母が口を開いた。
意表を突かれた紗子は驚いて母の顔を見た。本当のことを言うつもりでいたのに、そう先手に出られるとかえって素直に答えたくなくなる。
「ワタルから聞いたでしょ。由香里達と一緒にいたって」
なるべく自然に言ったつもりだったが、紗子は頬の筋肉が引きつるのを感じた。嘘をつくのはやっぱり気持ちのいいものではない。
「ワタルくんからも由香里ちゃんからもそう連絡が来たけどね。でも由香里ちゃんのお母さんは、そんなはずはないって」
しまった、と紗子は思った。母親同士のネットワークを甘くみていたのだ。
「でもワタルくんが、絶対大丈夫だからって言うからね。その言葉を信じて待ってたのよ」
改めて家族をだましたことに対する申し訳なさが、紗子の中にじわじわと込み上げてきた。
浩之はさっきから窓辺のソファーに座ったまま、真っ暗な庭を眺めている。紗子は年の離れた兄に、生まれてから一度も怒られたことがない。だから今日、どんな風に浩之が紗子に対して怒りを露にするのか、想像することが出来なかった。
紗子は意を決して口を開いた。
「…私、まりえお姉ちゃんに会いに行っていたの」
紗子がソファーに座る浩之の方へ目をやると、浩之の表情がゆっくりと固っていくのが分かった。紗子は立ち上がり、浩之に向って言った。
「どうしてももう一度会いたかったの。だって私は、やっぱりまりえお姉ちゃんのことが好きだし、これからもずっとそれは変わらないから。お兄ちゃんが誰と付き合おうと、そんなことは関係ない」
最後の方は語尾が震えた。浩之はソファーから立ち上がると、紗子の方へ近づいてきた。ぶたれる―。紗子はとっさにそう思ったが、浩之は紗子の頭に手を伸ばすと、軽くポンポンと触れただけだった。
「…ごめんな。お前にまでつらい思いをさせてしまって」
そうとだけ言うと浩之は、リビングを出て二階へと上がっていった。
残された紗子と両親の間には、重苦しい空気だけが残された。目の前に出されたままのお茶をじっと見つめたまま、紗子は顔を上げることが出来なかった。母が小さなため息を漏らすのが聞こえた。
「あんたの気持ちも分からなくもないけど、お兄ちゃんとまりえちゃんのことには、子供のあんたが口を出すべきじゃないよ」
瞬間紗子の中で何かが風船のように大きく膨らみ、パチンとはじけた。今の紗子が最も言われたくない言葉は、「バカ」でも「ブス」でも「のろま」でもない。「子供」という言葉だ。その言葉によって、紗子はいつも向こう側にある本当の世界から遮断されるような気がする。もう子供じゃない―。そう叫んだところで、それを認めてくれる大人はこの家にはいなかった。
部屋に戻った紗子は、ベットに仰向けになった。浴室から浩之がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。当然のことながら、兄が出たら次は紗子が風呂に入らなければならない。こんなにも距離の隔たった兄と一つ屋根の下で暮らしていることが、ひどく不自然でいびつなことに感じられた。
新学期が始まるまで実家にいるはずだった浩之は予定を変更し、翌日大学近くで借りているアパートに帰ることになった。連休や長期休みの間は実家で過ごすことが多い浩之がなぜ急に帰ると言い出したのか、理由は聞くまでもなかった。
浩之が家を出るまでの間、紗子は兄と一言も口をきかなかった。
浩之がまりえと別れエリと付き合い始めた時紗子は傷ついたし、エリの希望で無理に遊園地に連れて行かれたのも迷惑だった。心の中で浩之を罵り、恨みもした。
しかし不思議なことに、いざ兄を目の前にすると怒りや憎しみはどこかへ消えてしまうのだった。ただ気まずさだけが、兄との間に横たわっていた。たとえどんな理由があれ、昨日紗子がとった行動は非常識としか言いようがなく、そのことについて紗子は兄に謝らなければならないと思っていた。しかし家の中でいざ浩之が近づいてくると、言葉は喉の奥に引っ込んでしまい、中々外へ出てこなかった。
玄関先で浩之を見送る時は、紗子も両親と並んで上がり框に立った。次に浩之が帰って来るのは例年通りなら五月の連休のはずだが、今年はどうだか分からない。
両親に挨拶した後、浩之はほんの一瞬だけ紗子の顔を見た。その瞬間兄が見せた表情に、紗子は心臓を掴まれたような気がした。緊張と怯えと後悔。兄をそんな顔にさせてしまう自分は、最悪な妹であるような気がした。
「行ってらっしゃい」
浩之の背中に紗子は声をかけた。ドアを開けようとしていた浩之の手が、一瞬動きを止めた。振り返った浩之は、少しだけほっとしたように微笑んだ。
浩之が東京へと帰ってから一週間後、紗子は中学生になった。
紗子が通う中学校の生徒の半数は同じ小学校出身である。クラスを見渡しても半数以上が顔見知りであるため、いまいち新生活という実感は薄い。それでも制服を着て、今までとは違う通学路を通り、一回り大きくなった教室で過ごすことは新鮮で、中学生になったという自覚が自然と湧いてくるのだった。
三学期の終わりから春休みにかけて、紗子の同級生達の間には急速に恋愛ごっこが流行り始めた。スマートフォンを持ち始める子の数に比例するように、付き合い始める子達が急激に増えたのである。小学生が「告白」するなんてまるで冗談のようで、少し前まで絶対にあり得ないことだったのに、卒業式を終えた頃から様子が変わった。紗子と仲良しだった友達にもいつの間にか彼氏がいたりして、学年全体に恋愛ブームのようなものが起こっていたのである。そして、気がつくと紗子は完全にそのブームから取り残されていた。
紗子は恋愛ごっこを楽しむ同級生達をどこか冷めた目で見ていた。恋とはしようと思ってするものではなく、ある日突然訪れるものだと思っていたからだ。本気で互いを好きになれない恋愛なんて時間の無駄だと思う一方で、浩之とまりえのように強く惹かれ合っていた二人でさえ時として別れてしまうのだから、恋なんて当てにならないものだという思いもあった。
しかし紗子がそんな風に恋愛に対して斜に構えていられたのは、その日、中学校に入学して最初の数学の授業を受けるまでのことだった。
チャイムの音と共にスーツ姿で颯爽と教室の入口から入って来たその教師の姿を見た時、紗子はさわやかな春風が流れ込んできたように感じた。
周囲の女子達のざわめく声が、それが紗子だけに起こった出来事ではないことを告げていた。整った黒目勝ちの目に、凛々しい眉と筋の通った鼻。そしてまっすぐすらりと伸びた手足。誰がどう見ても、彼の容姿は限りなく完璧に近かった。
紗子の体は固まり、目は教師に釘付けになった。心も体も静止しているのに、コントロール不能な心臓だけが勝手に高ぶっている。
教師は黒板に自分の名前を達筆な文字で書きつけると、当然の流れのように自己紹介を始めた。
「えー、初めまして。今日から皆さんの数学を担当する滝川です。数学っていうと苦手な子も多いかと思いますが、数学嫌いな子をなくす、というのが僕の教師としての目標です」
言葉の初めに「えー」とつけるのが、いかにも大人らしく嫌な感じもしたし、そこにまた惹かれる気もした。数学嫌いな子をなくすというのが彼の目標なら、そんな目標は簡単に達成できてしまうに違いない。少なくとも今既に目がハート形になってしまっている女の子達に関しては。そんなことを考えながら授業を聞いていた紗子の頭に、肝心の授業の内容は全く入ってこなかった。
―もしかして、これって…。
紗子は自分の心に問いかけてみる。
ぼーっとしている間に授業はいつの間にか終わっていて、気がつくと教室内に小さな輪がいくつも出来上がっていた。クラス内に大きな仲良しグループが形成されるほど、まだ互いが互いのことを良く知らないのだ。皆小学校時代の顔見知りを見つけては席を立ち、新たな友達関係を作ろうとしている。今この時期にどういう人間関係を築き上げるかで、今後一年間の学級生活の充実度が決まるわけだが、そうと分かっていても紗子は、中々自分からは動けないタイプだった。
嫌いだったはずの数学の教科書を丁寧に机の中にしまうと、紗子は次の授業の教科書を取り出そうと机の中をのぞきこんだ。
「さっきの先生、めっちゃ、かっこ良くなかった?」
教室の喧騒にかき消されることなく、その声は紗子の耳の側ではっきりと聞こえた。驚いて声がした方を振り向くと、紗子の左斜め後ろの席に座った少女が、紗子の顔を見てにっと笑った。他の誰かに声をかけたのだと思っていたが、少女は紗子に向かって話しかけていたのだ。
「えっ、あっ、うん」
どう答えていいか分からず、紗子はあいまいな返事をした。答えた瞬間、顔が熱くなった。
「やーっぱり」
少女は嬉しそうに笑いながら立ち上がると、紗子の机の側まで歩いて来た。
「後ろからだったけど、見ててそうかなと思ったんだ。だってあなた…えーと、桧山さん?の頭が、ずーっとあの先生の顔を追ってるみたいだったから」
とたんに恥ずかしくなって紗子はうつむいた。
少女は紗子の名札を見ながら紗子の苗字を口にしたのだった。そして気づいたように自分の制服の胸元をひっぱると、名札を見せた。そんなことをしなくてもこっちからは見えるのに、と少女のしぐさが紗子にはちょっとだけおかしかった。
「私は門倉菜々美。松谷小出身。よろしくね」
菜々美は人懐っこい笑顔を紗子に向けた。笑うと両側にえくぼが出来て愛嬌がある。美少女っていうのとはちょっと違うが、菜々美は誰からも愛されそうな顔だ。
「あっ、よろしく」
紗子は少し緊張しながら小さな声で答えた。紗子は昔から初対面の人と話すのがあまり得意ではない。何を話そうか考えている間に気がつくと相手がいなくなっている、ということもたまにあるくらいだ。だけど菜々美は違った。紗子の戸惑いや緊張など気にもかけない様子で、一方的に話しかけてくる。
「私もね、あの先生見た瞬間、もうドキドキしちゃって。それで早くこの気持ちを誰かと分け合いたかったの。ねえ、桧山さん、一緒にファンクラブ作らない?」
「フ、ファンクラブ?」
紗子は思わず目を大きく見開いた。確かに滝川という教師はジャニーズのアイドルよりもずっとイケメンだが、ファンクラブというのはさすがにミーハー過ぎる気がする。
「そ、それはちょっと…」
菜々美の提案に対しやや引き気味に答えると、菜々美ははっとしたような顔をしてから、まっすぐに紗子を見つめた。
「もしかして、ドン引きしちゃった?」
「いや、別にそんなことは…」
そうとしか答えようがないからそう答えただけなのだが、菜々美は言葉通りに受け取ったようで、
「良かった」
と安心したように笑った。素直な子だな、と紗子は思った。
「じゃあ、別の提案」
菜々美が言う。
「私達、友達にならない?」
紗子は、今度はにっこり笑って肯いた。
「うん」
菜々美との出会いは、紗子の中学校生活にささやかだけれどあたたかな明かりを灯した。休み時間になると菜々美はいつも話しかけてくれたし、掃除や教室移動の時もいつも一緒だった。そして二人のテンションがマックスに盛り上がるのが、何と言っても数学の授業の前だ。特に菜々美のはしゃぎっぷりは尋常じゃなかった。授業が始まる前の休み時間から、あー、ドキドキする、を連発する。紗子もまた菜々美と同じ気持ちであり、滝川をめぐって二人はいわばライバルという関係にあるはずなのだが、紗子の中には菜々美に対するライバル心など微塵も生まれなかったし、菜々美に関してもまた同様だった。
新入生歓迎会や校内のオリエンテーション、部活動の体験入部などで四月はあっという間に過ぎて行った。
いろいろ迷ったが、紗子は結局菜々美と一緒にテニス部に入ることにした。テニスをちゃんと習ったことはないが、同じテニスサークルに所属していた浩之とまりえに何度か教わったことはある。浩之のテニスの腕はまりえの比ではなかったので、まりえと一緒に浩之から教わったといった方がいいかもしれない。そんな日々のことを思い出すと、紗子の胸はまた痛んだ。だから初め、紗子はテニス部を避けようとした。
「どうしてテニス部が嫌なの?顧問が滝川先生なのに」
菜々美は部活の顧問を知った時から、全くの初心者であるにも関わらずテニス部に入ると決めていたようだ。菜々美のこうしたまっすぐな単純さが、紗子にはまぶしく感じられた。菜々美に半ば引きずられるようにしてテニス部に入部した紗子だったが、やはり滝川が顧問というのは嬉しかった。
「数学以外の時間に滝川の姿を見られるなんて幸せ。滝川ってテニスうまいのかな?」
入部届をさっき出したばかりの菜々美が素振りの手つきをしながら言う。いつの間にか菜々美は、滝川と呼び捨てで呼ぶようになっていた。生徒達から呼び捨てにされるのは、何も嫌われたり軽蔑されたりしている教師だけではない。心からの信愛の情を込める時にもまた、生徒達は教師を呼び捨てにする。テニスウエアに身を包んだ滝川の姿を思い浮かべただけで紗子の胸も弾んだ。そしてそんな感覚を、菜々美と共有するのが何より楽しかった。青春。ふいにそんな二文字が紗子の頭の中に浮かぶ。自分よりずっと年上の人達のものだと思っていたその二文字が、急に自分達の言葉になったような気がした。
その時。突然ドンっと、後ろから背中を叩かれた。
ちょうど校門を出た所で驚いて振り返ると、そこには久しぶりに見る幼馴染の顔があった。
「よお」
「よおじゃないよ。痛いでしょ」
ワタルが通学用の鞄で背中を叩いたことを知り、紗子は思わずムッとした。
「何だよ。久しぶりだっていうのに」
「だからって叩かなくていいでしょ」
二人のやりとりを聞きながら、ワタルの後ろで友達らしき男子が二人おかしそうに笑っている。菜々美が不思議そうにワタルと紗子の顔を交互で見ているので、紗子は仕方なく菜々美にワタルを紹介した。
「幼馴染のワタル。腐れ縁なんだ」
「腐れ縁とは何だよ、腐れ縁とは!」
今度はワタルが怒った顔をして、紗子の頭を軽く小突いた。
紗子は大げさに頭を押さえワタルを睨んだが、菜々美はなぜか、驚いたような顔でワタルを見ている。
「へーえ。私はさえちゃんと同じクラスで、友達の門倉菜々美。よろしくね」
そう言うと菜々美は、ワタルになんと片手を差し出した。ワタルは意味が分からないといった感じで、えっ、何?などと言いながら、友達の方を振り返ったりしている。
「握手」
菜々美の声は、はっきりと落ち着いていた。
「え、あ、ああ」
ワタルはおどおどしながら右手を差し出すと、菜々美と握手を交わした。すると菜々美は、後ろで笑いをこらえながら立っている男子達に対しても、同様に手を差し出した。幼児期を除いて女の子の手を握ることなど皆無であった男子達は、菜々美の手の感触に分かりやすくぽっと顔を赤らめた。
紗子は、そんな菜々美の行動をぽかんと見ていた。
「ねえ、せっかくだからみんなで一緒に帰ろうよ」
菜々美の提案に、男性陣は一人も反対しなかった。
えー、いいよ別に、と紗子だけがぶつぶつとつぶやいたが、菜々美はその声を完全に無視した。
紗子と菜々美が前を歩き、その後ろに男子三人が続く形となる。
「さえちゃん、ちょっと幼馴染の子に対して冷たすぎない?」
ワタルに聞こえないくらいの声で、菜々美が紗子にささやく。
「そうかな」
確かにワタルに対する紗子の態度は不自然なくらいにとがっていた。紗子は他の子の前だと、ワタルに対してなぜかこんな風に接してしまう。だけど決して、ワタルのことが嫌いなわけじゃない。
五人で固まりながら狭い歩道を二列になって歩いたのは、ほんの五分ほどのことだった。
ワタル以外の三人は紗子と別の地区に住んでいたので、突き当りの交差点で二手に分かれた。別れ際、菜々美が一瞬意味深な笑みを紗子に向けたのが分かった。
「なんかあの子、すごいパワフルだな」
交差点でワタルが菜々美の後ろ姿を見つめながらつぶく。
「うん、すごく積極的で明るくて。だから一緒にいると楽しいんだ」
「だろうね」
ワタルが目を細めた。その視線はまだ、菜々美の背中を追っている。急に今まで経験したことのない感情が紗子に込み上げてきた。
「おい、ちょっと待てよ」
紗子の足が、自然と早まっていた。
ワタルが紗子の肩に手を置く。
「やめて」
紗子は、ワタルの手を振り払った。
「…そうやってすぐに触らないで」
きょとんとした目で立ち尽くしているワタルは、まるで母親に棄てられた子供みたいな顔をしている。急に罪悪感が込み上げてきて紗子はうつむいた。
「…ごめん。きつい言い方して。でももう私達、小さい頃とは違うんだし…」
自分自身の中に芽生えた感情に紗子は戸惑っていた。どうしてワタルにこんなことを言ってしまうのか、自分でもよく分からない。紗子は顔を上げると、ワタルの目を見ながら、言った。
「私ね、好きな人がいるんだ」
ワタルの表情がみるみる固まっていくのを確認しながら、何かを確信しほっとしている自分がいるのを、紗子は感じた。
中学校生活に少し慣れてきたと思ったら、もう五月の連休に突入した。
紗子の家族は誰も口には出さなかったが、浩之は今年の連休には帰って来ないだろうと思っていた。盆、正月、五月の連休には欠かさず帰省していた浩之だが、母が電話をしたところ、やはり今年の連休は就職活動があるので帰れないと浩之から言われたそうだった。父も母も平気な様子ではいたが、ふとした表情に寂しさが見え隠れするのを見て、紗子は申し訳なさでいっぱいになった。浩之が帰って来ないのは、本当は自分のせいだと紗子は思っていた。
大型連休に父と母と紗子だけで過ごすのは考えてみれば初めてのことだった。普段の生活と変わらないはずなのに、世間が連休中というだけで、勢ぞろいできない自分達が何か欠陥のある家族のように思えてしまう。
連休中は出された宿題をする以外特にすることもなかった。今頃エリと過ごしているに違いない浩之のことを思うと、自分には関係のないことと思いつつも、やはり気分が重くなった。せっかくの連休だというのに、こんな気分のまま五日間も過ごすのは嫌だった。何か気分転換になるようなことはないかと思いを巡らせた結果、紗子はあることを思いついた。まりえにメールを書いてみようと思ったのだ。まりえからもらった名刺は、あの日から大切に机の中にしまわれてある。紗子は、スマートフォンのメール画面を開くと、文字を打ち始めた。
『まりえおねえちゃん、お元気ですか。この前は突然会いに行き、びっくりさせてしまってごめんなさい。でもあの時思い切ってまりえお姉ちゃんに会いに行って、本当に良かったと思っています。なぜなら、今こうしてまりえお姉ちゃんとメールで話すことが出来るからです。
実は、まりえお姉ちゃんに相談があります。私には今、好きな人がいます。相手は、学校の数学の先生です。先生のことを思うと頭の中がボーっとして、何も考えられなくなってしまいます。もちろん片思いですが、それでも十分幸せです。』
紗子は読み返しもせず送信ボタンをすぐに押した。読み返せば送るのをやめてしまいそうな気がしたからだ。メールが送られたのを確認すると、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。相談、と書いておきながら、実際は単なる報告に過ぎない内容になっている。そもそも本当は相談がしたかったわけではなく、まりえとメール上で繋がりたかっただけだ。秘密を打ち明けるような内容を送ることで、まりえとの距離を引き寄せたかった。恥ずかしさとは裏腹に、紗子はどこか晴れ晴れとした気持ちも感じていた。浩之抜きで自分達が繋がれたことが嬉しかったし、まりえに代わって紗子の「お姉ちゃん」になりたがっているエリを出し抜いてやったという意地の悪い喜びも、そこには含まれていた。
まりえからは、その日のうちに返信が返ってきた。
『さえちゃん、メールありがとう。この間のことは謝ったりしないでください。私もさえちゃんに会えてとても嬉しかったから。ところで相談の件。さえちゃんにも、ついに好きな人が出来たんですね。さえちゃんの一途な気持ちがメールの文面からとても伝わってきました。でもどちらかと言うと、さえちゃんの今の気持ちは、恋というよりはファンのような気持ちなのではないかと思いました。恋だったらもっと苦しかったり切なかったりするものだから。なんて、余計なこと言ったかな。どちらにしてもそういう人が現れたということはさえちゃんにとってとても幸せなことだと思います。恋愛下手な私が言うのもなんですが、私はいつでもさえちゃんの応援をしています』
紗子はまりえから来たメールを何度も読み返した。直に会って話すまりえとメールの文面を通して接するまりえとの間には微妙なギャップがあるように思えて、それがまた新鮮でもあった。
まりえとメールをやりとりしたことに関しては、両親には伏せておいた。もちろん、浩之にも言うつもりはない。
連休も半ばに入った頃、突然菜々美から電話がかかってきた。
「連休暇すぎて死にそうだから、会おうよ」
菜々美に負けないくらい暇を持て余していた紗子にとって、菜々美からの電話はまさに救世主のようだった。
中学校のすぐ近くの公園で、菜々美と昼過ぎに待ち合わせた。先に公園に着いていた菜々美は、紗子に気が付くと片手を高く上げ満面の笑みを向けた。赤と白のやや派手なティーシャツにデニムのショートパンツをはいた菜々美は髪を二つにおさげにしていて、制服を着ている時よりもずっと幼く見えた。紗子が中学生になってから私服で友達と会うのは初めてのことだった。あれこれ迷った挙句、紗子はプリーツの入ったロングスカートと白のブラウスを着て行った。
「わー、紗子、なんか清楚でお嬢様みたい」
お世辞っぽいセリフでも菜々美が言うと、わざとらしさや嫌味っぽさは感じられない。
「菜々美こそ、良く似合っててかわいいよ」
紗子も素直に思ったことを口にした。菜々美は特に目鼻立ちが美しいわけではないのに、なぜか人にかわいいと思わせてしまうオーラを持っている。滝川だって、もしかしたら菜々美のことはかわいいと思っているのかもしれない。ふとそんなことが紗子の中に浮かんだ。そして、そんな想像をしても、自分の心の奥がちっともぐらつかないのが不思議だった。
「で、何する?」
自転車を停め近くにあったブランコに座ると、菜々美は言った。紗子も菜々美の隣のブランコに腰を下ろした。ブランコに座ったのなんて、いつ以来だろう。いつの間にか自分達の子供時代が終わりかけていることが、悲しくも嬉しくも感じられる。
「うーん。会ったはいいけど、することないね」
何もすることがなくても、こうして菜々美と一緒にブランコに座っているだけでなんだかほっして、楽しい気持ちになってくる。友達っていいな、と紗子は思った。菜々美とは、ずっと友達でいたい―。
菜々美は横で小さくブランコをこぎながら言った。
「そうだ、あいつも誘わない?」
「あいつって?」
にやりとした笑みを菜々美は紗子に向ける。
「ワタル」
菜々美の顔を見つめたまま、紗子は一瞬声が出てこなかった。
「…どうして?」
「だって、紗子好きなんでしょ、ワタルのこと」
驚き過ぎて何て答えたらいいのか分からい。
「…何言ってるの?」
「だって見てれば分かるもん」
なんでもないことのように言い放つ菜々美が、紗子には理解出来ない。
「変なこと言わないでよ。もう意味が分からない」
言葉を発すれば発するほど、紗子の頭の中はテンパってくる。
「じゃあ逆に、嫌い?」
今度は探るような目で菜々美は紗子の顔を覗き込んでくる。
「別に嫌いってわけじゃないけど…」
口ごもる紗子に菜々美は得意げな顔で言い放った。
「ほらね」
「ほらねって、そもそも誰かに対する気持ちが、好きか嫌いかどちらかに分けられるはずがないでしょ」
紗子が半ば諭すように言うと、菜々美は口をとがらせた後で、今度は開き直ったような顔で言った。
「そう。じゃあ、私がワタルくん、もらっちゃおうかな」
「え?」
一瞬二人の間に流れていた時間が止まる。
「だって、菜々美は滝川先生のことが…」
紗子が言い終わらないうちに、菜々美はお腹を抱え笑いだした。
「それはまた別でしょ。滝川は大人だよ?先生だよ?本気で好きになったってしょうがないじゃない」
紗子はこの時初めて、菜々美が自分よりもずっと冷静で頭が良くて計算高くもあることを知った。菜々美とはもうずっと昔から友達でいるような気がしていたが、実際は知り合ってからまだ一ヶ月しか経っていない。紗子が知る菜々美は、実はまだ菜々美のほんの一部分に過ぎなかったのだ。
「私と菜々美とは、同じ気持ちだと思ってた」
紗子はうつむき、つぶやくように言った。すると菜々美は、ブランコに座ったまま紗子の方に身を乗り出した。
「紗子、もしかして今寂しいとか感じてたりする?でもそれって、やっぱり紗子も本気じゃないってことじゃない?だってもし本気で滝川のことが好きだったら、ライバルの私がいなくなって、逆に嬉しいはずでしょ?」
菜々美はまるで心の中を覗き込むような目で紗子を見つめてくる。紗子にはそんな菜々美が、自分よりもずっと大人に感じられた。菜々美が口にしたライバルという言葉から、紗子はなぜか、菜々美の後ろ姿を見つめるワタルの目を連想したのだった。
しばらくの間、二人は黙ったままブランコをこぎ続けた。
雲の切れ間から光が降り注ぐと一気に気温が上がり、公園内に反射する光が目に刺さってきた。
「暑っつ。ここにいると熱中症になりそうだね」
菜々美はそう言うとブランコから飛び降りた。
「じゃあ、家来る?」
少し迷った後紗子が言うと、菜々美は目を輝かせた。
「いいの?」
「うん。とりあえず部屋で涼もう」
このまま別れてしまえば、菜々美との間に妙なわだかまりが生まれてしまいそうだった。
「わーい。紗子んち行くの初めて」
無邪気に喜ぶ菜々美は、今度は幼い子供みたいだった。
「こっちの方今までほとんど来たことがなかったから、なんか新鮮」
紗子の家へと続く坂になった路地を自転車を押して上りながら菜々美が言う。
「やっぱり中学生になるっていいね。世界が急に広がる感じ」
左手には小さな畑が見え、その奥には雑木林が広がっている。小学一年生の頃、ワタルに誘われてあの雑木林にカブトムシを採りに行ったことがあるのを紗子は思い出した。あの頃は紗子とワタルの関係も、今よりずっと単純で、分かりやすかった気がする。
「ここって、もしかして」
ある家の表札に書かれた苗字を見て、菜々美の足が止まった。
「ああ、ワタルの家」
「へえ。本当に近いんだ」
菜々美は表札を見つめたまま言った。紗子が返事もせずに歩き出そうとすると、小さくピンポーンという電子音が聞こえた。驚いて振り返ると、人差し指を立てたまま得意げな笑みを浮かべる菜々美の顔があった。なんと菜々美が勝手にインターフォンのボタンを押していたのだ。
「ちょっと菜々美、何やって…」
言い終わらないうちにインターフォン越しに声が聞こえてきた。
「はい、どちらさまですか?」
ワタルのお母さんだ。仕方なく紗子がそれに答えた。
「あの、紗子です。別になんでもな…」
「ワタルくんいますか?」
紗子の声を打ち消すように菜々美がインターフォンに向って話しかける。
「ちょっと菜々美、何言ってるの」
紗子は思わず菜々美の肩を掴んだが、ワタルのお母さんは相手が紗子だと分かると、安心したようにちょっと待っててねと答えた。
「ほんとに家族ぐるみで仲いいんだね。なんかうらやましいな、そういうの」
「そんなことより、どういうつもり!?」
声がインターフォンに拾われないよう小声で、紗子は菜々美に抗議した。しかし菜々美はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、紗子に顔を近づけてくる。
「いいじゃない。紗子だって、別に嫌じゃないでしょ」
玄関の開く音がして、ワタルが現れた。
「あれ?何?どうしたの」
ほとんど突撃に近い来訪者に驚くのも無理はない。菜々美はワタルに向って手のひらを向けると、ぴょんと動かした。
「よっ」
にっこり笑う菜々美に対し、ワタルもまたよっ、と軽く答える。紗子がワタルと顔を合わせるのは久しぶりのことだった。最近ではお互い部活で帰りも遅く、幼かった頃に比べると二人が会う機会はぐっと減っている。
「どうしたの?おまえら」
ワタルは紗子と菜々美の顔を交互に見ながら言った。紗子は、その視線が菜々美の方により多く向けられているような気がした。
「どうしたってわけじゃないんだけど、連休暇だから二人で会おうってなって、でも公園も暑くてすることなくて、そしたらちょうどワタルの家があったから誘ってみたの」
「なんだよそれ。意味が分かんね」
吐き捨てるようにワタルは言ったが、かといってそんなに嫌そうでもない。
「これから紗子んちに行くんだけど、ワタルも来ない?」
「ちょっと菜々美!家主の許可なく先に誘わないでしょ、普通」
「あはは、そうだった」
大きく口を開けて笑う菜々美を見て、紗子はため息をついた。
「で、どうなの?家主は」
そう尋ねたのは、菜々美ではなくワタルの方だった。意表をつかれた紗子は、ワタルの顔を思わず真顔で見た。
「どうって、別に駄目な理由もないけど…」
「じゃあ、行こっかな。おまえんち行くの、久しぶりだし」
ワタルはそのまま門から出ると、紗子達と並んで歩き始めた。菜々美は紗子とワタルを並んで歩かせ、自分は自転車を押しながら少し離れて紗子の隣を歩いた。菜々美が一体何を企んでいるのか、紗子にはよく分からない。
「どうしたの、お前、元気ないじゃん」
ワタルはいつだって人のことを見ていないようでよく見ている。紗子の胸の奥がどきんと反応する。
「そんなこと、ないけど」
紗子はあえて平気を装って答えた。
「何か、悩みでもあんの?」
―私、好きな人がいるんだ。
先日ワタルの前で言った言葉が胸の中でよみがえる。あの時どうしてあんなことを言ってしまったのか、紗子には自分でも理由が分からなかった。
「ないよ。別に悩みなんて」
そう答えるとワタルは、ほっとしたような、それでいてすこし寂しそうな笑顔を見せた。
菜々美は横で二人の様子を窺うようにしてついてきている。そんな菜々美に対して紗子は、優越感と不安が入り混じった複雑な思いで、自分の家に向かって足を進めた。
紗子の家はワタルの家よりずっと高台の、湿地帯を見下ろす見晴らしのいい場所にある。周囲には家がなく、空き地と雑木林に囲まれたその家は両親が元々中古で購入したもので、建ってからはもう三十年以上が経過している。
「ここが紗子んちかー」
初めて訪れた親友の家を前にして、菜々美は感慨深げに言う。
「そう。古いでしょ」
「ううん。お庭、広くてうらやましいよ」
ワタルも懐かしそうに目を細めながら、庭を見回した。
「子供の頃、よくこの庭でかくれんぼして遊んだな」
「今でも子供のくせに」、
条件反射のように紗子がつっこみを入れると、これまた条件反射のようにワタルの拳が飛んでくる。
玄関から入ると、母がダイニングキッチンの入口から顔を出した。
「お帰り。あら、ワタルくん、久しぶり。そういえばこの間のこと、ちゃんとお礼言ってなかったわね」
この間というのは紗子が遊園地で行方不明になった日のことだとワタルが気づくのに、少し時間がかかった。
「ああ。いえ、逆にすみません、あの時は嘘ついたりして」
ワタルが申し訳なさそうに母に頭を下げる。
「いいのよ。それは紗子が頼んだことなんだから。あら、こちらは?」
ワタルの横にいる菜々美に気づいた母は、軽く首をかしげた。菜々美は紗子が母に紹介する前に、自分から自己紹介をした。
「門倉菜々美です。紗子ちゃんとは同じクラスで、いつも仲良くしてもらっています」
母は安心したように笑いながら言った。
「ああ、あなたが菜々美ちゃんね。紗子が新しく友達が出来たって喜んでたわ。紗子はちょっと難しいところがあるけど、仲良くしてあげてね」
「うちで遊んでもいい?」
母の言葉を遮るように紗子は言った。友達の前で母に自分のことをあれこれと言われるのは好きじゃなかった。
紗子はいそいそと二人を二階へ上がらせると、自分の部屋へと案内した。二階の奥にある八畳の紗子の部屋は子供部屋にしては広々としているが、フローリングではなく畳なのが恥ずかしかった。部屋にベッドはなく、夜は押入れから自分でふとんを出して敷く。
「いいなー。私の部屋よりずっと広い」
菜々美は部屋の真ん中で両手を広げると、幼子のようにくるくると回った。
「ちょっと、菜々美、はしゃぎすぎ。目回っても知らないよ」
呆れたように紗子は言ったが、菜々美が紗子の部屋を素直に気に入ってくれたのは嬉しかった。
「お前の部屋に入ったの、何年ぶりだろ」
ワタルの言葉に、くるくる回っていた菜々美が動きを止めた。
「入ったこと、あるの?」
「だから、小さい時」
「ふーん」
今度はすねたような顔をする菜々美に、見兼ねたワタルが言う。
「何だよ、お前さっきから。変なことばっかり気にして。大体俺とこいつとはただの幼馴染ってだけで、全然そういうのはないから」
ワタルの言い方が紗子にはとても断定的に聞こえた。なあ、と同意を求められて、流れに乗るように紗子はうんとうなずく。
「大体こいつ、好きな奴がいるらしいし」
ワタルは声のトーンを少し落として言った。菜々美が驚いた顔で紗子を見る。
「えっ、そうなの?紗子」
「…だから、それは…」
決まりが悪くなってうつむく紗子を見て、ああ、と察したように菜々美が言う。
「もしかして滝川のこと?」
紗子が小さくうなずくと、菜々美は呆れたように言った。
「なーんだ」
「なーんだ、ってなんだよ」
なぜかワタルがムキになっている。
「だって、先生だよ」
「先生だっていいじゃねえかよ、別に」
ワタルの言葉に、紗子は驚いて顔を上げた。
すると菜々美が、紗子の顔の中に何か真新しいものを発見したような顔で見つめている。
「…そうなの?」
「えっ?」
「紗子は滝川のこと、そこまで本気で思ってたの?」
事態が思わぬ方向に流れていくのを紗子は感じた。かといってもう引き返すことも出来ない。
「そうだよ」
紗子は答えた。
驚いた顔で紗子を見ていた菜々美は、紗子に向って頭を下げた。
「ごめん。今まで気づかなくて」
おかしなことになった、紗子がそう感じた時にはもう遅くて、菜々美は神妙な顔で語り始めていた。
「そういうことなら分かった。私は滝川のファンはやめて、全面的に紗子に協力することにする。でもね紗子、これはなかなかの障害だよ。まず年が違いすぎるし、そもそも生徒と先生の恋愛なんて世間的にも認めてもらえない」
「ちょっと待って、そんなことまで私は別に…」
慌てて誤解を解こうとする紗子を遮るように菜々美は続けた。
「でもそんなことより一番問題なのは」
菜々美は紗子に顔を近づけると、声をひそめた。
「私達はあんなに騒いでいたけど、実は滝川のことを何も知らない」
紗子は何も言い返せなかった。菜々美の言う通り、紗子が知っているのは滝川のほんの表面的な部分に過ぎない。
三人の間に流れる沈黙を破ったのは、ワタルだった。
「いいじゃねえか、それでも。大切なのは紗子の気持ちだろ。こいつが初めて人を好きになったって言うなら、俺は幼馴染として応援しようと思う」
ワタルはそう言うと畳の上に腰を下ろし、あぐらをかいた。紗子のいる場所からは、ワタルがどんな表情をしているのか見ることが出来ない。自分の見方をしてくれたはずのワタルに、紗子は逆に突き放されたような感覚を抱いた。
「じゃあ、私も思い切って言う」
突然、菜々美がワタルと向き合うようにして座った。
「な、なんだよ」
ワタルが菜々美をぎょっとしたような目で見る。
「ワタル、私と付き合って下さい」
菜々美はそう言うと、ワタルに向かって小さな頭を下げた。
ワタルは驚いた様子で、菜々美のつむじのあたりを見つめていた。その顔が徐々に紅潮していくのが紗子の目にはっきりと映った。
「えっ、何?」
菜々美と紗子の顔を交互に見ながら慌てるワタルは、正直かっこ悪かった。
ゆっくりと顔を上げた菜々美は、正面からやや見上げるような形でワタルを見つめた。
「だめ、かな?」
紗子がこんな菜々美を見たのは初めてだった。まるで何かに怯えるように肩を震わせ、それでも全身の勇気を振り絞っているのが分かる。
少し間を置いてから、ワタルは答えた。
「いや、ダメ、じゃない」
五時から塾があるという菜々美と一緒に、ワタルも四時前に紗子の家を出た。早速菜々美を家まで送っていくと言った時のワタルは、紗子が今まで見たこともないほど男っぽかった。
突拍子もない行動をとる菜々美の性格は分かったつもりでいたが、まさか菜々美が今日ワタルに突然告白するとは、紗子は思ってもみなかった。
肩を並べ歩いていく二人の後ろ姿を門の前で見送りながら、紗子は自分でも驚くほどに動揺していた。
部屋で飲んだジュースを片付けに台所に行くと、母がくるりと振り向いた。紗子の気持ちとは裏腹に、母の顔は生き生きと輝いている。
「あら、もう帰ったの?菜々美ちゃんって、とても感じのいい子ね」
母は菜々美を気に入ったらしい。にこやかではきはきと話す菜々美は、自然と人の気持ちを明るくする力を持っている。紗子も菜々美のそんなところに惹かれて、友達になったのだ。
だが母の機嫌がいい理由は、それだけではなかった。
「明日、お兄ちゃん帰って来るって。さっき電話があったの」
紗子は驚いて尋ねた。
「あれ?就職活動が忙しいんじゃなかったっけ?」
「時間作ってなんとか帰れることになったって。全く急なんだから。夕飯の材料買い足さなきゃだわ」
そう言いながらも母はやはり嬉しそうである。しかし紗子は、兄が急に帰ることにしたのには、何か理由があるような気がしてならなかった。
「…また来るの?あの人も」
恐る恐る、母に尋ねる。
「あの人って?」
「だから、前に来た人!」
紗子は母のこうした鈍さにいつもイライラさせられる。
「ああ、エリさん?」
その名前を聞くだけで不快だった。エリに母が「さん」をつけて呼ぶことにすら、紗子は抵抗を覚える。
「…どうかしらね。それは聞かなかったわ」
少し間を置いてから、母はどこかとぼけたような口調で言った。どうしてそんなに大事なことを確認しないのか、紗子には理解できない。結局父も母も、目を背けているのだ。浩之とエリがまりえに対してしたことや紗子の中にくすぶっている怒りから。もう大人である浩之の個人的な問題に、家族が口をはさむべきではない。父も母もそういうスタンスでいるのだろう。息子の行いに深く干渉せず、帰って来た時は温かく迎え入れる。それはある意味家族の理想の姿かもしれないし、紗子も父母に倣いそんな風に兄を迎えるべきなのかもしれない。
けれども紗子の気持ちは、そう簡単に割り切れるものではなかった。
翌日の昼頃、浩之は家に帰って来た。一泊だけして明日には帰るという浩之の荷物は、いつもよりこじんまりしていた。エリの姿はなかった。
「忙しいなら無理しなくてもいいのに」
そう言いながらもお昼ご飯のチャーハンを作る母の声は弾んでいた。紗子も母を手伝い、母が皿によそったチャーハンを食卓まで運んだ。何となく浩之と目を合わせるのが気まずくて、うつむいたままテーブルの上に皿を置くと、突然名前を呼ばれた。
「紗子」
肩がびくっと震えた。
顔を上げた紗子は、久しぶりに兄の顔を正面からまともに見た気がした。まだ大学生の兄が、少しだけ老けたように感じられた。
「少し話せるかな」
浩之の言葉に、紗子は無言でうなずいていた。
「じゃあ後で、ドライブでも行こう」
浩之は妹に向って、どこかぎこちない笑顔を作った。
浩之と紗子が父のセダンに乗り込もうとすると、窓から白髪頭の父が顔を出した。
「なんだ、二人で出かけるのか」
「うん。お父さん、車借りるよ」
「いいけど、お前、明日には帰るんだろ」
窓を全開に開けた父は、怒っているようにも見える顔で聞いてくる。ああ、と返事をした浩之に対して何かを言いかけた父は、結局何も言わず、「気をつけてな」とだけ言って部屋へと戻って行った。
「…お父さん、もしかして一緒に行きたかったのかな」
助手席に座った紗子はつぶやいた。
「どうして?」
「だって、お兄ちゃん、明日帰っちゃうんでしょ。だったらなるべく長い間お兄ちゃんと一緒にいて、話とかしたいんじゃない」
「なんだ、そういうことか」
初めて気がついたように言う浩之を見て、紗子は思わず表情を緩めた。
「お兄ちゃんて、本当人の気持ちに鈍感だよね」
さりげなく言葉に毒を含ませたが、微笑を浮かべたまま車を走らせる兄にどれだけ届いたかは分からない。それでも紗子は、兄と自然に言葉を交わすことができ、ほっとしていた。出がけの父とのちょっとしたやりとりが、二人の間にあった緊張を取り払ってくれたのかもしれない。そう思うと、少しだけ父に対して感謝の念が沸いた。
「…あの時は、ごめんなさい。遊園地から勝手にいなくなったりして」
ずっと謝ろうと思っていたことを、紗子はようやく口にすることが出来た。
「…もういいよ。そのことなら」
浩之は少し間を置いてから、低い声で答えた。
紗子には、浩之に対して言いたいこと聞きたいことがたくさんあった。だけどそれらをひとつでも口にしてしまえば、今せっかくここにある空気が壊れてしまうような気がした。だから紗子は無言のまま兄からの言葉を待った。
半分だけ開けられた車の窓から、心地良い風が流れ込んでくる。五月の青空には雲ひとつなく、初夏の光が辺り一面に降り注いでいた。
「話って、何?」
浩之がなかなか言い出そうとしないので、紗子の方から尋ねた。家を出た時から、ずっとそのことが気になっていた。浩之の顔に一瞬影が差したように紗子は感じた。
「ああ、実はエリのことなんだけど」
紗子が予想していた通りの内容を、浩之は話し始めた。エリは、浩之の実家に時々顔を出し、紗子とも姉妹として仲良くしたいと主張しているという。
紗子の頭に、かっと血が上った。
「どうして?お兄ちゃんが誰と付き合おうと勝手だけど、どうして私まであの人と仲良くしなきゃいけないの」
紗子は兄に怒りをぶつけた。数分前まで兄との間にあった穏やかな空気が、一気に豹変する。浩之は眉の横をかきながら苦しそうに弁解した。
「まりえのことでお前まで傷つけたことは分かってる。お前にも悪いことをしたと思ってるよ。だから俺は、エリをお前に会わせるつもりはなかったんだ」
「じゃあ、どうして?」
紗子は怒りを飲み込みながら兄に尋ねた。目をわずかに伏せた兄の顔がかすかに歪むのが分かった。
「エリがすごく気にしてるんだよ」
「気にしてるって、何を?まさか今更反省、なんてする人じゃないよね」
「…いや、そうじゃなくて、お前とまりえが姉妹同然に仲良かったことを、さ」
漫画などで体中が怒りの炎に包まれるシーンがよくあるが、今紗子が味わっているのはまさにそんな感覚だった。
やはりエリの図々しさは想像を絶している。人の心の中に何のためらいもなく踏み込んできては平気で笑っていられる、そんな人間をどう譲ったって好きになれるはずがなかった。
「私は嫌」
紗子ははっきりと言った。
「私はもうお兄ちゃんの彼女と仲良くしたいなんて思わないし、それに、誰もまりえお姉ちゃんの代わりにはならない」
「そうか…」
つぶやいた浩之の声は、エンジン音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。紗子は一瞬、そう望んでいるのは、エリよりもむしろ浩之の方なのではないか、という気がした。何の確執もなく兄妹が笑い合えた日々が戻ることを、浩之もまた望んでいるに違いなかった。
「ひとつ聞いてもいい」
紗子は口を開いた。
「どうしてお兄ちゃんは、まりえお姉ちゃんではなく、あの人を選んだの?」
それはずっと前から紗子の中に横たわっていた疑問だった。
「そんな質問子供にはまだ早い、なんて言うのはなしね。私だってもう中一なんだから」
心の中で背伸びしているのを浩之に見透かされないよう、紗子は鋭い眼差しで浩之を見つめた。先手を封じられた浩之は、妹に対してどう答えるべきか迷っている様子だったが、ようやく決心したように口を開いた。
「…エリといると、余計な感情に振り回されずにすむんだ」
「ヨケイな感情?」
「そう。相手を思うだけならいい。でも思いが強ければ強いほど嫉妬や不安、誤解も生まれる。そうした感情はコントロールするのがすごく難しい。結局振り回されて最後は自分を見失い、疲れ果ててしまう」
「…それで、まりえお姉ちゃんとは上手くいかなかったの」
「ああ。まりえは見ての通り美人だから、他に言い寄ってくる男がたくさんいたんだ。俺はまりえを信じ切ることが出来ず、結局傷つけてしまった」
一瞬浩之が泣いているような気がした紗子は、思わず兄の横顔を見た。
「…でもそれって、お兄ちゃんは、まりえお姉ちゃんのことが好きだったってことでしょ。余計な感情に振り回されるのも好きだからでしょ。…それなのに、理由も言わずに別れるなんてひどい」
浩之から一方的に別れを告げられたまりえの気持ちを思うと、紗子はとてもやるせなかった。
「確かにまりえにはひどいことをしたと思ってる。でもこれで良かったとも思ってるんだ。まりえには、きっと俺なんかよりずっといいやつがいるはずだから」
前方を見つめる浩之の眼差しには、わずかな自嘲の色が浮かんでいた。紗子は目線を兄から外し窓の外へと移した。後方へと押し流されていく景色が、時の流れと重なるように紗子は感じた。過ぎ去った日々はもう二度と戻ることはない。そう告げているようでもあった。
特にどこかへ遠出したりすることもないまま、五月の連休はあっけなく終了した。しかしこの五日間何も起こらなかった、ということではない。むしろ紗子にとっては密度の濃い五日間だった。
一番大きな出来事は、何と言っても親友の菜々美と幼馴染のワタルが付き合い始めたことだ。
休み明けの初日、ワタルの家の前を通ろうとすると、門の前に菜々美が立っていた。紗子に気づくと菜々美はにっこりと笑い、大きく手を振った。
「おはよ。連休明け初日から早速一緒に学校行くの?」
紗子は歩きながら菜々美に声をかけた。
「そう。約束はしてないけどね。いきなり押しかけちゃった」
少しすると玄関から出てくるワタルの姿が見えた。一瞬だけ紗子はワタルと目が合う。片手をあげ軽く挨拶だけ済ますと、紗子は足を急がせた。二人の邪魔をしてはいけない。そう思ったからだ。
「今日一時間目から数学だね」
朝のホームルーム中、斜め後ろからささやくような菜々美の声が聞こえる。もちろん紗子に向けられた言葉だ。だけど紗子は振り向くのに一瞬遅れた。このまま聞こえなかったふりをしてしまいたいという気持ちに、一瞬だけなったからだ。もちろんそんなことは出来ずに振り返ると、にんまりと笑う菜々美の顔があった。菜々美の笑顔は、連休前と比べると一段と輝いているように見える。
「そうだね」
「そうだねって、あんまり嬉しそうじゃないじゃん」
菜々美は紗子と一緒に騒いでいたのが嘘のように、滝川には関心を向けなくなった。ライバルが減って良かったでしょ、と菜々美は言ったが、紗子は自分だけが置いてきぼりにされてしまったような感覚を抱いていた。
連休明け久しぶりに見る滝川は、どこかレジャーへでも出かけたのだろうか、うっすらと日焼けし、白のポロシャツがまぶしいほど良く似合っていた。紗子は滝川をやっぱり素敵だと思うし、かっこいいとも思う。
だけど、それだけだった。
滝川との関係が教師と生徒以上に発展する可能性なんてないし、そもそも滝川との個人的な関係など、紗子は望んでいなかった。
ワタルには「好きな人がいる」なんて言ってしまったが、紗子は自身の中にある滝川に対する感情が、果たして本当に「恋」であるのか分からなかった。もし違うならば、紗子はワタルに、重大な嘘をついてしまったことになる。
『まりえおねえちゃん、こんばんは。元気にしていますか。私達は皆なんとか元気にしています。先日相談したことですが、私、先生のことを本当に好きなのか分からなくなってしまいました。もしかしたら、まりえお姉ちゃんの言う通り、ただのファンだったのかもしれません』
それだけ書いて、紗子は送信ボタンを押した。こんなことわざわざメールに書いて送ることではないし、まりえだって忙しいのだからいちいちこんなメールの相手などしていられないだろう。そう思い紗子は送った後で後悔したが、まりえからは十分後、丁寧な返信が返って来た。
『さえちゃん、メールありがとう。自分で自分の気持ちに気付けたのは、とても素敵なことだと思います。色んな人に出会って、色んな気持ちを経験して、さえちゃんが成長していくのが楽しみです。今度は、本当に好きな人を探してみてはどうですか?なんて別に急かしているわけではありません(笑)』
最後の(笑)のマークに心が和む。文面だけでもこうしてまりえとつながっていられることが紗子には嬉しかった。画面を見つめ読み返しているうちに、まりえから再びメールが届いた。
『さえちゃんに実は報告があります。私、教員の採用試験を受けてみることにしました。中学校の先生になりたいと思ったのには色々と理由がありますが、さえちゃんと出会えたことが一つの大きなきっかけになっています。だからさえちゃんにはお礼を言いたいのです』
メールの内容に紗子は驚いたが、考えてみれば教師という職業がまりえにはとても似合っているように思えた。もしまりえのような教師が担任だったら、生徒達はきっと満たされた気持ちで学校生活が送れるに違いない。だけど、紗子だけの「お姉ちゃん」であるような気がしていたまりえが、みんなの「先生」になってしまうことに対しては、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。
なぜだろう。紗子は最近、寂しさばかりを感じているような気がする。
連休が終わりしばらくすると、早くも雨の季節に突入した。どんよりとした梅雨空を眺めていると、やはり気持ちが沈んでくる。入学して早二ヵ月が過ぎようとしていた。
中学校生活には大分慣れたし、部活にもちゃんと顔を出している。コートが狭いため一年生は校庭の隅で打ち合いの練習をするのだが、紗子は今日はどうも気持ちが入らない。向き合って一緒に球を打ち合う菜々美も、ちらちらと野球部の方ばかり気にしている。
ワタルは野球部のピッチャーなのだ。まだ試合には出してもらえないが、同じ一年生のキャッチャーの子といつも投球練習をしている。
「ほらほら、よそ見しない!」
半ば冗談ぽく、半ば本気で、紗子は菜々美を注意する。菜々美は、ごめんごめん、とはにかんだが、その笑顔からはいつものパワーが感じられない。
ワタルとケンカした、と今朝菜々美は言っていた。菜々美は、ワタルとのことをなんでも紗子に相談してくる。紗子ならワタルのことが何でも分かると思っているらしい。実際紗子はワタルのことなら食べ物や服の好み音楽の趣味 に至るまでよく知っていたが、ワタルの心の奥までは、紗子にだって分からない。
練習が終わり部室で着替えている間も菜々美はまだ沈んだままだった。見るに見兼ねた紗子は声をかけた。
「もう、いつまでうじうじしてるの。そんなの、菜々美らしくないよ」
菜々美は紗子の方へ顔を向け少し笑ったが、やっぱり元気がなかった。まるで菜々美の元気魂をどこかに落としてきてしまったみたいだ。
「で、何なの?ケンカの原因は」
出来ることならワタルと菜々美とのことに紗子は首をつっこみたくなかった。そんなことをする自分がおせっかいにも惨めにも感じられるからだ。かといって隣でずっと暗い顔をしている親友を、見て見ぬふりをするわけにもいかない。
「大したことじゃないの」
うつむいた菜々美は、やっと聞き取れるくらいの小さな声で何か言ったが、他の一年生達が別の話題で盛り上がる声にかき消された。
紗子と菜々美は学校の先の幹線道路との交差点でそれぞれ反対方向に別れる。いつもなら自転車で並んで走りすぐにバイバイと別れる道を、今日は二人で自転車を押して歩いた。さっき部室で菜々美が言いかけた言葉の続きを聞くためだ。
「なんか、ごめんね。付き合わせちゃって」
「いいよ。それより菜々美がずっとそんな顔してる方が気になるから」
紗子は再び菜々美を促した。
「それで、何があったの?あいつと」
「…本当に、大したことじゃないの。ただ私は、ワタルの本当の気持ちが知りたいって言っただけ」
紗子はなぜか、心臓が波打つのを感じた。
「私はね、ワタルに何回も好きって言ってるんだよ。何回言ったかは数えてないけど、多分十回は言ってると思う」
知ってはいたものの、菜々美の積極性に改めて驚かされる。菜々美からの度重なる告白を、ワタルは一体どんな気持ちで聞いていたのだろう。
「…でもね、ワタルは一回も、私のことを好きとは言ってくれないの。そんなこと恥ずかしくて言えないとかなんとか言って」
状況が紗子の目の前に浮かぶ。確かにワタルは簡単にそういうことを口にするタイプではない。
「…それでケンカになったの?」
「うん。でも、私が不安になる理由は、それだけじゃないの」
自転車を押しながら紗子は菜々美の顔を見た。交差点はもう目の前だ。
「私ね、ワタルが何を考えているのか時々分からなくて。こっちが話しててもよくぼーっとしてることがあるし」
昔から活動的でよくしゃべるワタルがぼーっとしているところを、紗子は逆にあまり見たことがない。むしろどちらかというと単純で、分かりやすい奴だという印象がある。
「…それはきっと、菜々美のことが好きだからだよ」
紗子は答えた。
「え?」
全く予想していなかった解答を聞いたかのように、菜々美が目を大きく目を見張る。
「だから、好きだから、ぼーっとしちゃって何も話せなくなってるんだよ」
そう説明する紗子を見る菜々美の目が、ほんの一瞬だけ、鋭く光った。
「本当に、そう思う?」
紗子はそれ以上何も言えなくなった。紗子が発するどんな言葉も、今の菜々美には言葉通りには届かない気がしたからだ。
菜々美はふっと息を吐き出すと、表情を緩めた。
「ごめんね、変なこと言って。最近の私、自分でもおかしいと思う。紗子がさっき、私のこと私らしくないって言ったけど、私らしいってどんなだったのか、それすらも分からなくなっちゃって」
思いつめた顔を見せる菜々美に紗子は何も声をかけてあげられないまま、交差点に着いてしまった。
じゃあねと紗子に背を向け、自転車を押したまま歩いて行く菜々美の背中は、見たこともないほどに頼りなげで痛々しかった。
ワタルの家の前で紗子は自転車を停めた。ワタルと会うべきか否か、自転車をこぎながらずっと考えていた。紗子が今ワタルと何か話をしたところで、二人の関係を修復出来るとは思えなかった。むしろ、その亀裂をより大きくしてしまうような予感が、紗子の中にはあった。
それでも紗子は、ワタルの家を素通りすることは出来なかった。いや、出来なかったのではない。したくなかったのである。紗子はワタルとここ最近ほとんど話をしていなかった。菜々美を心配する気持ちは確かにあったが、一方でそれをワタルと会う口実にしている自分がいるような気がした。いつの間にか開いてしまったワタルとの距離を埋めたいという思いが、紗子の中にはあった。
さっき家に着いたばかりらしいワタルの自転車のカゴには、グローブが入ったままである。インターフォンのボタンを押そうとする自分の指が、微かに震えていることに紗子は気がついた。幼い頃から無邪気に幾度となく押してきたインターホン。なのに今、どうしてこんなに緊張するのだろう。
紗子が音を鳴らす前に、ワタルが玄関から出て来た。グローブをとろうと自転車の方へ向かったワタルは、紗子の姿に気付いて足を止めた。
一瞬硬直したワタルの顔が、わずかに赤みを帯びる。ワタルが紗子に対して時々こんな顔を見せるようになったのは、いつからだろうか。
「何だよ、お前、ストーカーかよ」
「そんなわけないでしょ!」
次の瞬間には、ワタルも紗子も以前と変わらぬ二人に戻っていた。ワタルとの間に流れる、いつもの空気。いつもの安心感。一瞬前に抱いた感情を、笑い飛ばしてしまいたくなる。いっそ本当に笑い飛ばすことが出来れば楽なのに、とも紗子は思う。だけどどんなに笑ったって、それが飛んでなんかいかないことも、もう分かっている。
ワタルは門のところまで近づいてくると、言った。
「久しぶりに、アイスでも食う?」
「え!?」
ぽかんと突っ立っている紗子の前で、ワタルがポケットの中から小銭を取り出す。
「ちょうど今から買いに行くところだったんだ」
「でも私、学校帰りだし、お金持ってない」
「俺がおごるよ。その代り百円以内な」
「ケチ」
紗子は鞄の入った自転車をワタルの家の前に停めることにした。ワタルはそのまま門から出て来ると紗子と歩き始めた。久しぶりに肩を並べて歩くワタルは、また少し背が伸びたような気がする。
ワタルは、幼い頃によく通っていた近所の商店の前で足を止めた。店内には食料品や酒類が置かれてあるが、いわゆるコンビニチェーンのお店とは趣が違う。市内でもこんなお店が残っているのは田舎のこの辺りだけだ。今時アイスが入ったケースが外に置かれているのも珍しい。大好きだった銀紙に包まれたバニラ味のアイスが姿を消し、代わってアルミのチューブ入りのアイスが置かれているのを見て、紗子はまたなんとなく寂しい気持ちになった。
ワタルは最中アイス、紗子はソーダ味の棒付きアイスを手に取ると、レジのおばさんにお金を払った。おばさんは小さい頃の二人を覚えていたらしく、久しぶりだね、などと言いながら勘ぐるような笑みを向けてくる。紗子もワタルも恥ずかしくなって、急いで店を出た。
アイスをかじりながら、二人はどこへ向かうともなくぶらぶらと歩いた。やがて近所の小さな公園に着いたので、ワタルは空いていた小さなベンチに腰を下ろした。紗子もその隣に黙って座った。座面の木の板は朽ちかけ、灰色に変色していた。
ワタルはしばらく無心に最中アイスを頬張っていた。どうやら本当にアイスが食べたかったらしい。
「本当にアイス好きだよね、昔から」
「悪いかよ」
言い返すワタルの口の端にチョコがついているのを見て、紗子は笑った。
「…ケンカしたんだって?菜々美と」
少し迷ってから、紗子は尋ねた。
「ケンカ?言ってた?そんなこと」
「うん」
「そっか」
ワタルはぽかんとした顔で空を仰いだ。ワタルの視線の先を紗子は追ってみたが、その先に広がるのは灰色をした梅雨空でしかない。
さっきの菜々美の様子との温度差に紗子は拍子抜けしたような気持にもなる。
「やっぱ、お前といると楽だわ」
ひとり言のように、ワタルがつぶやいた。
ちゃんと聞こえたはずのに、紗子は思わず聞き返してしまった。
「えっ」
「お前といると、何か落ち着くんだよね。やっぱ、ガキの頃から知ってるからかな」
紗子はワタルの横顔を、まるで宝探しでもするかのように見つめた。そこにはさっきワタルが家の前で見せたような紅潮の色はみじんも浮かんでいなかった。存在すると信じたものが実体を失っていく、そんな心もとなさの中で、紗子は思わずその名を呼んでいた。
「ワタル…」
ん?とワタルが振り向きかけた、その時だった。
「あれ、桧山さん?」
背後で声が聞こえた。振り返ると、同じクラスの上田美奈ともう一人他のクラスの女子が、公園の前を並んで通り過ぎるところだった。二人とも家はこの辺りではないはずなので、誰かの家に遊びに行った帰りなのかもしれない。
「あっ、ワタルくんだ」
もう一人の女子はどうやらワタルと同じクラスのようだ。彼女が手を振るとワタルも軽く手を上げ、挨拶をする。紗子もクラスメイトである美奈に声をかけようとしたが、その前に美奈はさっとうつむき加減になり、横にいる女子とヒソヒソと言葉を交わした。
「なんだ、あれ。感じ悪いな」
そう言いながらもワタルは、内緒話を特に気にかけているようには見えない。しかし紗子は、嫌な胸騒ぎを覚えた。美奈とはまだあまり話をしたことがないが、教室で数人の輪を作り甲高い声で話す美奈の声が紗子の耳によみがえった。
紗子はベンチから立ち上がった。
「私、そろそろ帰るね。あ、アイスごちそうさま」
おう、と立ち上がって一緒に帰ろうとするワタルを、紗子は手で制した。
「ごめん、急に用事思い出しちゃって。急ぐから一人で行くね」
坂道になった路地を駆け降りて行く紗子の後姿を、ワタルが不思議そうな顔で見つめていた。
嫌な予感ほどよく当たる、というのは本当である。
教室に入ったとたん、紗子は空気がいつもと違うことに気がついた。まず窓際で輪になっていた美奈達のグループが、一斉に紗子の顔を見た後で、思わせぶりに互いに目を合わせた。教室を見回すと、美奈達のグループ以外の女子や男子までもが、ちらちらと紗子の方を見ている。
席に座る前に、紗子は斜め後ろの席に座っている菜々美に声をかけた。菜々美は、授業の予習だか復習だか分からないが、机に教科書とノートを広げ、熱心に、と言うよりは夢中で、何かを書き込んでいた。
「おはよう」
いつもなら紗子に気づくと顔を上げてにっこりと笑うはずの菜々美が、今日は違った。菜々美は下を向き手を動かしたまま低い声で、おはよう、とだけ返した。
菜々美の、見たことのない表情。聞いたことのない声。昨日までの菜々美は、まるでどこか遠くへ行ってしまったみたいだった。
「菜々美?」
もう一度声をかけてみても、菜々美はそれ以上返事もしなかった。
美奈が昨日見たことをどんな風にしゃべり、それがどんな風に菜々美の耳に伝わったのか紗子には分からない。紗子にとって一番つらいことは、それが完全な誤解であると言い切れないことだった。これ以上、本当の気持ちを菜々美に隠し続けることは出来ない。紗子は途方に暮れるしかなかった。
次の授業、そしてその次の授業の後も、菜々美は紗子と目を合わせようとはしなかった。紗子が何かを話しかければ一応低く小さな声で答えてはくれるが、それ以上会話が続くことはない。
菜々美が紗子を避けていることは、誰の目から見ても明らかだった。
部活が始まる少し前、その日初めて菜々美の方から紗子に話しかけてきた。
「少しだけ、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
思いつめたような菜々美の表情に、紗子は心臓が波打ち体が硬直するのを覚えた。
廊下の階段を上りきった所に、屋上へとつながる踊り場があった。屋上の扉の鍵は常に閉められ、生徒が外へ出ることは許されない。暗く湿ったその空間は、そこだけ空気がよどんでいるようだった。階段を上りその場所に着いてからも、菜々美はなかなか言葉を発しようとしなかった。
「…ごめん」
紗子は頭を下げ菜々美に謝った。しようと思ってそうしたのではなく、自然とそうしていた。だけどその行為が、かえって菜々美の感情を逆なでしたようだった。
「どうして、謝るの?」
棘のように冷たくとがった言葉が紗子の心に刺さった。
「やっぱり本当なんだ。上田さんが話してたことって」
「…」
「黙ってるってことは、それが答えってこと?」
「違う」
紗子はとっさにそう答えていた。しかし、何がどう違うのかと問われても、説明ができない。
紗子は菜々美の目を見て訴えた。
「…菜々美、これだけは信じて。私は菜々美のこと、本当に大切な友達だと思ってる」
菜々美が誤解しているとしたら、そこだと思った。友達を平気で裏切る子。そんな風に美奈は言ったに違いない。
「私だって、そう思ってたよ!」
菜々美の声は廊下まで響き渡った。廊下を歩いていた女子達が驚いて階段の上を見上げた。いつも美奈と一緒にいる子達だった。彼女達はにやりと笑うと、何かささやき合いながら去っていった。
「もう、行くね」
そう言った菜々美の声は、ぞっとするほど冷ややかだった。階段を下りていく菜々美の後ろ姿を、紗子はただ茫然と見つめることしか出来なかった。
紗子の中学校生活が色を失っていくのは、あっという間だった。元々人見知りで自分から友達を作るのが苦手な紗子は、菜々美以外に親しい友達はいなかった。クラスメイトとは必要に応じて時々言葉を交わすものの、一緒に教室を移動したり、昼休みにおしゃべりをしたりする相手が、紗子にはいなくなった。一人でぼんやりと過ごす時間が増えた紗子は、何をしても楽しいと感じることが出来なくなった。
菜々美はといえば、美奈達のグループとは正反対の、大人しくてアニメや声優が好きな子達が集まったグループと一緒にいるようになった。特にそういう趣味を持たない菜々美は明らかにそのグループの中で浮いており、見ていて痛々しい程だった。それでも菜々美は頑なに紗子を避け続けた。菜々美に与えてしまった傷を思うと、紗子はどんな罰でも受けなくてはならないように感じた。だからどんなに寂しくても、紗子は菜々美以外の友達を作ろうとは思わなかった。
「最近元気ないんじゃない?」
朝食の時、向かいに座った母が心配そうな様子で紗子の顔をのぞき込んできた。
「え?そんなことないけど」
紗子はとっさにごまかした。クラスで孤立していることを親に打ち明けるなんて、火の中に跳び込むよりも嫌だった。
「なんか、学校で嫌なことでもあるの?」
元気がない子供にかける決まり文句のような母の台詞に、胸の中のどろりとしたものが反応する。それが一気に涙腺まで突き上げてきそうになるのを、紗子は必死でこらえた。
「別に何もないよ」
平静を装いながら目を逸らすと、皿の上に置かれたトーストを口の中に詰め込んだ。ジャムもバターも塗っていない食パンは口の中でパサパサし、いくらかんでもなくなってくれない。母はしばらく黙って紗子を見つめていたが、それ以上何かを聞いてくることはなかった。席を立った母が洗面所の方へ行ってしまうと、紗子はほっとすると同時に、何か得体のしれない灰色のものに耳まですっぽり覆われるような感覚を抱いた。
―学校、行きたくないな。
そう思ったのは初めてだった。小学校の頃から学校を特別楽しい場所だと感じたことはなかったが、こんな風に行きたくないと感じたことはなかった。今日は菜々美と仲直りできるかもしれない。そんなはかない希みを抱いて毎日学校へ通っていたが、さすがに二週間も経つと心が折れてくる。
紗子が実際に学校を休んだのは、その三日後のことだった。決してずる休みではない。前日にお腹を壊し、朝になってもまだお腹の痛みが残っていたのだ。どんなに痛みを訴えても、どこか疑心暗鬼な目を向けてくる母に、紗子はまた苛立ちを覚えた。
ベッドに横になり天井を眺めながら、紗子は一日を過ごした。お腹の痛みは昼前にはすっかり消えてなくなっていた。午後からでも行く気になれば学校へ行ける状態だったが、なぜか体が動かなかった。出来ることなら永遠にこうしてベッドに横たわっていたい。そんなことを考えたりした。
まだら模様の天井を見つめていると、ふとエリの顔が思い浮かんだ。菜々美との関係がこじれてしまって以来、紗子はなぜかこんな風に時々エリのことを思い出すのだった。浩之とまりえとの交際を知りながら、その間に割って入るように浩之に近づいたエリ。そんなエリを紗子は嫌い、軽蔑もした。そんな女は最低だとも思った。だけど考えてみれば、紗子自身もエリとそう変わらないのではないだろうか。あの日紗子の中には、親友の菜々美からワタルを奪い取りたいという気持ちが、確かに存在していた。
底なし沼にどこまでも沈んでいくような感覚の中で、紗子はようやくひとつのことを悟った。
それは、人を想う気持ちに鍵をかけることは出来ないということである。どんなに努力して檻に閉じ込めようとしても、それはいとも簡単にその隙間から抜け出し、どこまでも飛んでいく。まるでそんな檻など、初めから存在しないかのように。
エリを受け入れる気持ちにまではなれなかったものの、紗子はエリの気持ちを少しだけ理解出来た気がした。すると、自分のエリに対する数々の失礼な態度や行動が、反省すべきものであるように思えてきた。人から非難され憎まれることの辛さを、紗子自身が経験したからでもある。
迷った挙句、紗子は浩之に電話をかけた。浩之は就職活動真っ只中のはずたが、妹からの電話に三コール目で応答した。
「紗子?どうした、こんな時間に。学校じゃないのか?」
「うん。今日はちょっと休んでて」
紗子は言葉を濁した。
「お兄ちゃん、今忙しい?」
「今日は午前中にセミナーがあって、今終わったところだ。珍しいじゃないか、紗子から電話してくるなんて。何かあったのか?」
「…てわけじゃないんだけどね」
言うべきことを口にするには、勇気が必要だった。一呼吸置いてから、紗子は続けた。
「…お兄ちゃん、私ね、あの人…エリさんに謝ろうと思うの。今さらだけど、あんな態度をとって、嫌な思いをさせてしまったから」
スマートフォンの向こう側で、浩之が絶句しているのが分かる。
「まりえお姉ちゃんと同じように仲良くすることは出来ないけど、でもお兄ちゃんがあの人家に連れてきたときは、嫌な顔しないで迎えてあげるから安心して」
紗子は一気にそう言うと、ふうと息を吐き出した。
「…もういいんだ」
浩之の声が遠くてよく聞き取れず、紗子は、えっ?と聞き返した。
「別れたんだ、エリとも」
今度は紗子が絶句する番だった。
「…どうして?もしかして私のせい?」
恐る恐る紗子はたずねた。あれほど浩之に固執していたエリが浩之と別れるなんて他に理由が考えられなかった。しかし浩之はふっと息を吐き出すようにして笑った。
「別にお前のせいじゃないよ。確かにお前のことを気にはしていたけど、全然そういうことじゃないんだ」
「…じゃあ、どうして?」
「詳しいことは今度会ったときにな。ってうまく説明できるか分からないけど。これは俺の中の問題なんだ。あの日お前と会った後、もう一度自分の気持ちと向き合ってみたんだ。…そしてようやく、大切なことに気付くことが出来た」
浩之の声には、ずっと失っていた自信を取り戻したかのような力強さが宿っていた。電話ではそれ以上話さなかったが、電話を切った後で、紗子はふと目の前が光で照らされたような気がした。実在しているのかすら分からない、幻かもしれない光。けれどもその光は紗子の心をも明るく照らし、前へと進ませる勇気を与えた。ふいにどこからか元気が湧いてきた紗子は、明日は学校へ行こう、そう思っていた。
菜々美から声をかけられたのは、昼休みに図書室へ行こうとした時だった。菜々美と話をしなくなって以来、紗子は昼休みを図書室で過ごすことが多くなっていた。
「紗子」
廊下で突然、後ろから名前を呼ばれた。
その声に、紗子の全身が固まる。
振り返るとそこには泣き顔のような顔をした菜々美が、それでいて何かを伝えたそうな様子で立っていた。
菜々美は少しうつむいた後意を決したように顔を上げると、紗子の顔を見た。菜々美とこうして顔を合わせるのは、数週間ぶりのことだった。
「…私ね、紗子に伝えたいことがあって」
そう言う菜々美の口調は、どこか演技めいているようでもあった。本当に言いたいのはもっと別の言葉なのだろう。
小さくひとつ呼吸をしてから、紗子は菜々美に尋ねた。
「何?」
ばつが悪そうに目をそらした菜々美は、なぜか照れるような顔になった。
「あのね、私、見ちゃったの」
「見たって、何を?」
自然と言葉が続いた。菜々美と言葉を交わすのはすごく久しぶりなのに、瞬間、毎日二人で笑い合えていた頃にタイムスリップしたかのような感覚に陥る。
次に菜々美が発した言葉は、結構衝撃的なものだった。
「…滝川が、女の人と一緒にいるところ」
「えっ?」
紗子は数秒言葉を失った。けれどもその驚きはすぐに消え失せた。若くて、もう大人で、独身で、しかもジャニーズをしのぐイケメンとくれば、彼女がいないことの方が逆に不思議ではないか。にもかかわらず今までそんな可能性を一パーセントも考えたことのなかった自分を、我ながらおめでたいと思う。
「そうなんだ」
紗子の顔から自然と笑みがこぼれた。滝川に彼女がいたショックよりも、今こうして菜々美と会話が出来ている喜びの方が大きかった。
「ショック?…じゃなさそうだね。笑ってるもんね」
菜々美が言う。
「うん。…別に、そんなショックじゃない」
紗子も正直に答えた。
菜々美が開け放たれた廊下の窓のそばへ歩み寄ったので、紗子も自然と菜々美に近づいた。菜々美の長い髪が初夏の風にそよぎ、シトラスミントのシャンプーの香りが流れてくる。その匂いも紗子には懐かしかった。紗子が隣に来ても、菜々美の視線は遠く窓の外へ向けられたままだ。菜々美はもう紗子を拒否してはいなかった。
「なんか懐かしいな」
菜々美がつぶやく。
「何が?」
「昔、紗子と滝川を見て、はしゃいでた頃がさ」
紗子は思わずぷっと噴き出して笑った。
「昔って言ったって、あの頃からまだ二か月しか経ってないよ」
「でも、昔は昔なの」
菜々美はつんとすましたように言ったが、その目が笑っているのに紗子は気がついた。紗子も、ほんの僅かな間に自分達がすごく変わってしまったような気がした。
「そうだね」
窓の外に目をやりながら紗子は答えた。学校の裏側は小高い丘になっていて、その手前を小さな小川が流れている。
「菜々美」
紗子は思い切って言ってみた。
「今日、一緒に帰らない?」
驚いた目で紗子を見た菜々美は、返事に困ったように目を伏せた。
「やっぱり、だめ、かな?」
うつむいていた菜々美は、決心したように顔を上げると、答えた。
「分かった。いいよ」
校舎を出た後紗子が自転車置き場に向かうと、そこに菜々美が立っていた。昨日から中間テスト前の部活停止期間のため、今日は部活がない。終業の号令の後菜々美の方をちらと見ると、菜々美は既に席を立ち教室を出て行くところだった。昼休みの返事は気の迷いで、やっぱり菜々美はまだ許してくれてはいないのだと紗子はここに来るまで思っていたが、菜々美はちゃんと紗子を待っていてくれた。
「ごめん。教室で話すのは、なんかまだちょっと照れくさくて」
恥ずかしそうに言う菜々美の顔に笑みが宿っていることを確認し、紗子はほっとする。
「いいよ」
紗子も微笑んだが、どこかぎこちなく頬が引きつってしまった。菜々美との間の緊張が、まだ完全に解けたわけではないのだ。
校門へと続く校内の道を、自転車を押しながら並んで歩いた。
「私ね、ワタルと付き合うのは、やめることにしたの」
突然、菜々美が言った。
紗子は驚いて菜々美の顔を見た。しばらく近くで見ぬ間に、菜々美はどこか大人っぽくなった気がする。
「どうして?」
「そんなこと、聞かないでよ」
少し怒ったように言う菜々美に、紗子はどう言葉を返せばいいのか分からなかった。
「紗子も本当は分かってるんでしょう。ワタルが本当は誰が好きなのか」
吸い寄せられるような菜々美の瞳に、紗子は戸惑った。しばらくしてから、紗子は口を開いた。
「菜々美は勘違いしてるよ…」
「えっ?」
「…ワタルはね、私といると落ち着くって言ったの。でもそれって、好きっていう気持ちとは違うと思うんだ。だって、好きな人と一緒にいたら、ドキドキして、うまく話せなかったりするでしょう。でもワタルは私といて、全然そんなことはないから」
あの日の公園で感じたことを、紗子は口にした。
「ふーん。そうかなあ」
菜々美は納得がいかないような顔をしている。
「じゃあ、紗子の方はどうなの?」
菜々美からそう聞かれることは、紗子も覚悟していた。紗子は胸の中でゆっくりと深呼吸をすると、答えた。
「私は、好き」
菜々美が足を止める。数秒、二人は目線を交し合った。
「そう」
先に目をそらした菜々美は、再び歩き始めた。
「ごめんね、菜々美」
紗子はその背中に向って声をかける。菜々美は紗子に背を向けたまま、言った。
「…許せるか許せないかって言ったら、正直許せない気持ちの方が強い」
菜々美は振り返ると、でも、と表情を緩めた。
「正直に答えてくれたのは、嬉しい」
柔らかな表情を浮かべた菜々美を見つめながら、紗子は胸にあたたかいものが込み上げてくるのを感じた。同時に目の奥が熱くなり、視界がぼやけた。
「やだ、ちょっと紗子、泣かないでよ」
そう言う菜々美の目からも、涙がこぼれ落ちそうになっている。
―良かった。
これで本当に菜々美と仲直り出来たという気持ちが、じわじわと紗子の中に広がっていく。
その時だった。
校門の手前で、突然菜々美が声を上げた。
「あっ、あの人」
その視線は、校門の外の通りへと向けられている。
「あの人だよ!昨日滝川と一緒に歩いてた女の人って」
菜々美は頭の中身が急に入れ替わったかのように、紗子の腕を叩いた。
菜々美が指し示す方向を見た時、紗子は一瞬息が止まった。横断歩道を渡り、こっちに向かって歩いて来るのは、なんとまりえだったのである。
「嘘…」
驚く紗子とは対照的に、横断歩道の途中から紗子に気づいていたまりえは、手を振り笑いながら近づいてきた。
「やっぱり、さえちゃんだ」
紗子のそばに来るなり、まりえは弾んだ声で言った。
「まりえおねえちゃんが、どうしてここに?!」
「ふふふ。連絡しようかなとも思ったんだけど、さえちゃんを驚かせちゃおうと思って。実はね、大学のサークルの先輩がさえちゃんの学校で数学の先生をやってるの。と言っても私も最近になって知ったんだけどね。それで色々と話を聞かせてもらってて。今日は職場見学をさせてもらうことになってるの」
まりえは種明かしでもするような笑みを浮かべながら言った。
「そ、それって、もしかして、滝川先生ですか?」
紗子の隣から、菜々美がすかさず質問する。
「そう。なんだ、知ってたんだ。さえちゃんのお友達?」
まりえは紗子から菜々美の方に視線を移した。菜々美が相変わらずはきはきとした自己紹介をすると、まりえはにっこりと嬉しそうに笑った。
「そう。良かった。さえちゃんにも新しいお友達が出来て。あ、もうこんな時間。急がなきゃ。さえちゃん、またメールちょうだいね。菜々美ちゃんもさえちゃんをよろしく」
まりえは時計を見ながら言うと、いそいそと校舎の方へ小走りで向かって行った。
「…きれいな人だね」
去っていくまりえの後姿を見ながら菜々美がつぶやく。
紗子は呆然としたまま立ち尽くしていた。滝川と一緒にいたという女性が、まさかまりえだったなんて。
「紗子、どうしたの?大丈夫?」
青い顔をした紗子に菜々美が気づき、声をかける。
「…違うよね」
紗子の声が低くて聞き取れなかった菜々美は、えっ、と聞き返した。
「話を聞きに来ただけで、別に恋人ってわけじゃないよね」
まりえの姿を目で追いながら、紗子は自分に言い聞かせるように言う。
「…まあ、確かにそれはそうかもしれないけど」
ただ、と菜々美は考える素振りをしながら付け加えた。
「滝川のあんな顔を見たのは初めてだった。正直、幻滅っていうか、でれーっとしちゃって、いやらしそうな笑い浮かべてたよ」
授業中や部活中の滝川からは、そんな様子を想像することは出来ない。
「それを見て私、ほんとにがっかりしちゃって。それで紗子に伝えたくなったんだ」
菜々美が受けたショックに関しては紗子も同感だった。だが滝川も教師とはいえ一人の生身の人間であり、若い男性である以上、そういう面があっても決しておかしくはないのだ。紗子が気になるのは、むしろまりえの方だった。もしまりえが滝川と交際しているとしたら、もう浩之のことはすっかり忘れてしまったということだろうか。容姿という点に限って言えば、滝川と浩之との間には、月とすっぽんほどの開きがある。しかも浩之は一度まりえをひどく傷つけているのだ。
先日浩之が電話で言った言葉を紗子は思い出す。
―大切なことに気付くことが出来た。
今さら気づいても、もう遅いのかもしれない。すべては浩之の自業自得だ。
「じゃあ、また明日」
気がつくともう交差点のところまで来ていた。菜々美は、ここ数週間の空白などまるでなかったような笑顔を向けている。ふいに紗子の中に、安堵と切なさがごちゃ混ぜになったような感情が込み上げてきた。
「菜々美」
「何?」
「明日も、一緒に帰ろう」
紗子が言うと菜々美は、ワンテンポだけ遅れてから、うんと笑った。
六月の終わり、中学校に入って初めての中間テストが終わった。小学校時代のカラーテストにもそれなりの緊張感があったものだが、中学校の試験はその比ではなかった。朝から三時過ぎまで五教科連続でテストを受け、その上校内の順位まで出てくるというのだから、そのプレシャーは相当なものだ。
だからこそ終わった時の解放感は格別だった。皆気分は一緒らしく、解き放たれたような笑みが周りにもあふれていた。教室の空気の色がワントーン明るくなったみたいだ、と紗子は思った。紗子は最近、ようやくクラスの雰囲気に馴染んできたと感じている。美奈達は相変わらず輪を作って噂話に花を咲かせているが、もう気にしないことにした。紗子には親友と呼べる菜々美がいる。それで十分だった。
今日も菜々美と一緒に帰り、その後近くのショッピングモールへ行って羽を伸ばす予定だ。中学生になると外でジュースやお菓子を買い食べたり飲んだりしていても、親や学校から咎められないのが嬉しい。勉強や部活などやらなきゃいけないことは増えたが、その分自由に出来ることも多くなった。
紗子が菜々美の方を振り向こうとしたその時だった。廊下側の窓ガラスの向こうにワタルの姿が見えた。ワタルはまっすぐに紗子の方を見ながら、手招きのような仕草をしている。いつものふざけた調子とは違い、その目には真剣さが宿っていた。美奈達が早速ひそひそと何か話すのが聞こえたが、紗子は構わず立ち上がると廊下へ出た。
「どうしたの」
紗子がたずねるとワタルは、言い出すのをためらうようにうつむいた。それから少し顔を上げると、低い声で言った。
「実は…、さっき聞いたばかりなんだけど、…滝川先生が逮捕されたらしい」
「え?!」
ワタルの言っていることの意味が、すぐには理解できなかった。
「でも別にそれを伝えに来たってわけじゃなくて、その、俺が伝えたかったのは、被害にあったのが、まりえさんかもしれないってことで…」
紗子の体に、全身の毛が逆立つような悪寒が走った。声がすぐに出てこない。
「…ど、どういうこと?」
「…はっきりしたことはまだ分からない。お前には言わなかったけど、実は俺、まりえさんと滝川先生が一緒にいるところ何回か見たことがあったんだ。先生がその、まりえさんの肩に手を回したりしてて、すごく親密そうだったから、てっきり付き合っているんだと思ってて…」
ワタルは気まずそうに言葉を濁した。紗子に気を使い、二人を見たことをずっと黙っていたのだ。
肝心な部分を避けて説明するワタルの言葉だけでは、滝川がどんな罪を犯したのかはっきりと分からない。にもかかわらず、おぞましい光景が紗子の目の裏に漠然と浮かんできた。
体の芯から震えが沸き起こる。今日は朝からまだ一度も滝川の姿を見ていなかった。数学の時間に試験監督に来たのが別の教科担任だったことを思い出すと、ワタルからの情報が一気に真実味を増した。
「その話、誰から聞いたの?」
「逮捕されたことはうちのクラスでもう噂になってる。ただ相手の人が誰かまでは、みんなまだ知らないみたいだ」
「どうしたの?一体」
菜々美も教室から顔を出した。紗子は菜々美に向って両手を合わせると、頭を下げた。
「菜々美、ごめん。今日の約束、行けなくなった」
「…それは別にいいけど、何かあったの」
きょとんとした顔をしている菜々美とワタルの顔を交互に見つめながら、紗子は言った。
「菜々美とワタルに、付き合ってほしい場所があるの」
二人が顔を見合わせながら驚く。
「付き合うって、どこに?」
「まりえお姉ちゃんがいるところ」
根堀町までは電車を乗り継いで一時間半程で着く。紗子と菜々美とワタルは家に帰ると財布と携帯電話だけを持ってすぐに駅へと向かった。今から向かえばなんとか明るいうちに向こうに着けるはずだった。
午後の上り列車はがらんとしていて、乗客は数えるほどしかい。
電車の中でワタルは、教室で聞いた情報を二人に話した。まりえが襲われたのはカラオケボックスで、滝川が犯行に及ぶ直前で店員に気付かれ、まりえは大事には至らなかったという。
紗子は菜々美に、兄とまりえが恋人同士だったこと、その仲を裂いたエリに対して激しい嫌悪感を抱いたこと、そして今でも兄とまりえの関係が元に戻ることを密かに願っていることを打ち明けた。
「菜々美には本当はもっと早く話したかったんだ。というわけで今日はいきなり付き合わせちゃったりして、ごめん」
紗子が謝ると菜々美はにっこり笑って言った。
「いいよ。なんか冒険みたいで楽しいし。それに、二人の間に入れてもらえて、嬉しい」
「菜々美…」
菜々美は少しうつむいた。
菜々美とワタルは先日別れたばかりだ。そんな二人を紗子がとっさに誘ったのは、二人にこのまま気まずい関係になって欲しくないという思いがあったからだ。紗子は菜々美と反対側の隣に座るワタルの横顔を見た。窓の外の遠くの景色を見ているワタルは今、どんな気持ちでいるのだろう。
紗子は胸に押し寄せてくる様々な思いを一旦振り払った。今一番大切なことは、まりえの無事を確認することだ。体が無事であっても、心が無事であるとは限らない。中学生の紗子に出来ることなどないかもしれない。それでもまりえのそばにいて、その傷を少しでも癒したかった。
「…お前、まりえさんのこと、今でも本当に大切に思ってるんだな」
座席シートに背を持たせかけたワタルは紗子よりも大分座高が高く、横に並ぶと見下ろされる形となる。
「うん。…おかしいかな、私」
「…別におかしくはないよ。何が起きようと、お前とまりえさんが出会ったという事実までは消せないわけだし」
ワタルはそう言うと、人差し指で鼻の下をこすった。何か真面目なことを言って照れた時にするワタルの癖だ。
気が付くと車内のアナウンスが、次の駅名が根堀町であることを告げていた。
駅に着いた時はすでに五時を回っていたが、夏至を過ぎたばかりのこの時期は五時でもまだ十分に明るい。梅雨の晴れ間の日差しは夕方であるにもかかわらず、目を細めたくなるほどの強烈さを保っていた。
紗子は再度スマートフォンを確認する。まりえには電車の中から何度もメールを送ったが、返信は来ていなかった。
「おい、ちょっと待て」
何かに気づいたようにワタルが言う。
「まりえさんから返信が来なかったら、家を捜せないじゃないか」
紗子は以前一度だけ来たことのある町を見渡した。家々が整然と並ぶ風景はやはりどこか殺風景で無機質な印象を与える。一人暮らしのまりえが住んでいるのは、おそらく戸建てではなくマンションかアパートだろうと思うが、それだけに絞ったとしてもかなりの戸数だ。今まで一度も家の場所を尋ねなかったことを紗子は後悔した。
「どうすんだよ。まさか一件一件訪ね歩くわけにもいかないし」
ワタルが町をぐるりと見回しながら言う。紗子は以前にも同じようなことをしたことを思い出す。この町へはいつも何の計画もなく衝動にかられて来てしまう。逆にそれほどの衝動がない限り、来ることが出来ない。
「海に、行ってみよう」
紗子は言った。
「この通りをまっすぐに進むと海に出るの。前にまりえお姉ちゃんに連れてきてもらった。だからもしかしたらそこへ行けば、会えるかもしれない」
「それだけかよ。根拠うすっ」
「でも今は、紗子の勘に頼るしかないよ」
菜々美の言葉に、ワタルも納得したようについてくる。
紗子にもそこでまりえと会える自信はなかった。そんなに都合よくまりえが海にいてくれる可能性は限りなく低い。それでも紗子は他に向かうべき場所を知らなかった。徐々に近づいてくる潮騒の音に導かれるように、紗子の足は自然と前へ進んだ。
通りを歩き切った所で、目の前の景色が開けた。海は以前と少しも変わらぬ姿でそこにあった。違うのは頭上を飛ぶカモメの数と浜辺に出ている人の数くらいだ。前にここへ来たのはまだ肌寒さが残る早春の頃で浜には人がいなかったが、夏を目前にした今はあちこちで子供達や老人達が走り回ったり散歩を楽しんだりしている。
けれどもそこに、まりえの姿はなかった。
「ごめん!」
紗子は菜々美とワタルに向って頭を下げた。
「私の思いつきだけでこんな所まで付き合わせちゃって。前はちょうど運良くまりえお姉ちゃんに会えたからって、また会えると思うなんて甘いよね。本当に私がバカだった」
うつむいたまま一気にそう言った後、紗子は顔を上げた。ワタルの目が、紗子ではなく、その前方にある何かを見つめている。
「そうでもないみたいだぜ」
ワタルが言った。
紗子はワタルの視線の先を追うように、ゆっくりと振り返った。
そこいたのは、まりえではなく、浩之だった。
「お兄ちゃん!」
「紗子?ワタルまで、一体どうしてここに?」
浩之は驚いた顔をしたが、すぐに事情を呑み込んだように表情を歪めた。
「お前達も心配して来たというわけか」
「うん。でも家が分からなくて」
「俺もだ」
「誰も教えてくれなかったの?」
「サークルのメンバーはみんな俺とまりえのことを知ってるから、誰も俺にはまりえの新しい住所を教えてくれなくて。まあ当然だけどな」
浩之は自嘲に満ちた顔を陰らせた。
「…それでも、お兄ちゃんはここに来た」
紗子は浩之の目を見ながら、ゆっくりと言った。
「それは、まりえおねえちゃんが、お兄ちゃんにとって、一番大切な人だからでしょう?」
浩之は、引き込まれるように紗子の顔を見つめている。
浩之が何かつぶやいたのと、紗子のスマートフォンが鳴ったのはほぼ同時だった。画面には、電話帳に登録されたまりえの名が発信元として表示されている。
「…出ないのか」
息を詰めながらワタルが尋ねる。紗子は、鳴り続けるスマートフォンをそのまま浩之の手に押し付けた。
「出て。お兄ちゃんが」
浩之からの返事を待たず、紗子はスマートフォンから手を離すと叫んだ。
「行こう」
ワタルと菜々美の腕を掴み、紗子は一気に砂浜を駆け抜けた。
やがて鳴っていた音が鳴り止み、代わりに電話に向かって話す浩之の声が背後で聞こえた。
駅へと続く道路へ出た所で、紗子はようやく二人の腕を放した。
「全くお前ってやつは…」
ワタルが呆れたように言う。
「…これが最後のおせっかい。後はお兄ちゃんが決めることだから」
紗子は荒い息を吐きながら言った。
「…お兄さん達、うまくいくといいね」
菜々美も肩で息をしながら、紗子に微笑んだ。
「うん。今日はありがとう、菜々美」
「…じゃあ私、そろそろ帰ろうかな」
菜々美の様子には、どこか不自然なわざとらしさがある。
「何言ってるの?帰りも一緒に決まってるでしょ」
突然おかしなことを言い出す菜々美に動揺しながら紗子は言う。
「でも私、一回電車って一人で乗ってみたかったの。中学生になってしてみたかったことランキングの一位かもしれない」
「えっ、ちょっと、菜々美」
引き留める間もなく、菜々美は「じゃっ」と駅に向かって走り出していた。横断歩道を渡りきったところで振り向いた菜々美は、大声で叫んだ。
「今度は紗子が勇気を出す番だよ!」
満面の笑みを浮かべた後で、菜々美は再び前を向き走っていった。
「…なにあれ」
ぼつんとつぶやいた紗子の手を、突然あたたかな感触が包んだ。ワタルのぬくもりが、紗子の中に流れ込んでくる。
紗子は驚いてワタルを見上げた。瞬間、目の前の通りも、空も、空気も、別のものに入れ替わった気がした。もちろん実際には何も変わっていない。紗子の目に映る世界が、生まれ変ったのだ。
紗子もワタルの手をぎゅっと握り返した。
引っ込みそうになる言葉を、押し出すようにして声に出してみる。
「…好き」
今度はワタルの目を見て、はっきりと言った。
「私、ワタルのことが好き」
瞬間、顔から火が出たのが分かった。それでも、恥ずかしさより思いを伝えられた爽快さの方が大きかった。
「そう」
だがワタルの反応はそっけない。まるで普段の他愛のない会話のようだ。
「そうって、他に何かないの?」
紗子は思わずむっとして言う。
「何かって?まさか、キスでもしてほしいの?」
「バカ!」
怒った紗子は、ワタルの手を振りほどいた。その腕を再びワタルがつかまえる。
「冗談だよ」
紗子はワタルの目を見つめる。ワタルからの言葉を待つ。
ワタルは言った。
「残念だけど…俺もそうなんだ」
突然ワタルはスマートフォンを取り出すと、画面を見ながら叫んだ。
「やばい!次の電車乗り過ごすと二十分待ちだ」
「え?!」
「やっぱり俺たちも次の電車に乗ろう」
そう言うとワタルは突然ダッシュを始めた。
ワタルの背中を追いかけながら、紗子も駅へ向かって全力で走った。
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