蛇使いの魔女

海乃マナ茶

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蛇使いの魔女

騰蛇

 今夜のディナーは和食だった。山菜がたっぷり使われた和食のフルコースに、〆のご飯は筍の炊き込みご飯。新鮮な山菜というのはどうしてあんなに美味しいのだろう。
 満腹で体が満たされても、イマイチ心は満たされなかった。部屋に戻ってサービスの白ワインを煽りながら窓の外を見下ろしていると、小さなものがトコトコ駆け寄ってくる。
「やめたほうがいいぞです。ここには神がおるです」 
 太陽も沈み、空には満天の星が輝いている。間接照明が温かな光を放っている中庭を眺めていただけで、謎の生き物は人が何を考えているのか言い当ててくる。方向音痴ゆえ、戻れなくなるので遠くに行くつもりはないが、屋敷が視界から消えない範囲で自然のマイナスイオンを浴びに行くなら大丈夫だろうなどと考えていた。
 ニコリとも笑わないぴーさんは、サカバンバスピスみたいなまん丸の目とパクパクするだけの口で、瞬きもせずじっと見上げてくる。
「土地神、祟り神、生神いきがみじゃです。ワレの気配をかんじとって、そのうちのどれかがうごくかもしれぬです。とくに生神。おまえの生命力がゆらぐとよってくるぞです」
「……何を言ってるのかさっぱりわからない」
「あ~~~~……おまえあたまわるいかです?」
「失礼な。力の強いお化けって感じでしょ。散歩するだけなら平気だって」
「ここの神たちはみな飢えておるです。神はハラをすかせたクマとおなじ、むさべつなのじゃです」
「うるさいな。自己責任なんだから放っておいてよ」
「――悔いても知らんぞ、です」
 わたしがここへ来た理由。もちろん現実から逃げたかったというのが一番大きな理由だ。だけどもう一つ、優先順位は低いながらも叶えたい目的がある。それこそ、わたしが演劇にしがみつく理由でもある。
 ――わたしに芝居の楽しさを教えてくれた、大切な友人が自殺した。
 警察から死因を聞かされた時、こいつらは嘘つきだと確信した。友人は死ぬ直前、いつもと何ら変わりない生活をしていたからだ。近い未来に出演予定だった舞台の稽古について楽しそうに語り、自炊したお弁当を分けてくれたりもした。彼なりに悩みもあったのかもしれないが、出演が決まっていた舞台を投げ出してまで自殺するような無責任な奴ではない。
 幽霊でも何でもいい。どうして死んだのか真実が知りたい。そんな淡い期待も抱いてここへ来た。
 友人がわたしの為にくれた羽根ペンを持って。
 飲んでいたワイングラスをテーブルに置き、持参したコートを身に纏う。音を立てないようそっとドアを開き、気配に細心の注意を払いながら廊下へと出る。何も気にしていないぴーさんは、後ろからちょこちょこと踊りながら付いてきていた。
 息を殺して階段を降り、誰もいない隙を狙って玄関まで走り抜け、錠を開く。カチッと鳴った音にすら心臓が飛び出そうになった。
 山奥の夜風は冷たくて激しい。前開きのコートを握りながら、屋敷の門からそろりと抜け出した。
 街頭もなく、外は真っ暗だ。ホテルの窓から漏れる明かりが届かない範囲に行けば、最悪迷子になったまま戻れなくなるかもしれない。
 近くでガサガサッと音がしただけで大声をあげそうになり、口を抑えて必死に堪えた。
「春は変なのがたくさん出ますですね~」
 呑気なぴーさんがいてくれて助かる。獣なのか人ならざる何かなのかは知らないが、小声で喋るのが精一杯だった。
「何その理屈……ぴーさんも十分ヘンだからね」
「え~~!! そんなことないだろですー!」
「しーっ!!」
 期待していないといえば嘘になる。しかし何か起きるという確信は微塵もない。矛盾した感情はわたしを宛もなく彷徨わせる。
 役者そのものを辞めようとしたきっかけは友人の死だった。わたしに芝居の楽しさを教えてくれたのも、芝居中はゾーンに入れるのだと教えてくれたのも全て友人だった。先生と呼ばれる人ではない。ただの役者仲間。ただの友達。
 もう一度会いたい。わたしはこれからどうすればいいのかを相談したい。芝居以外何もないわたしに何ができるのか。
 無駄なことだとはわかっていても、縋りたくなるくらい追い詰められている自覚があった。
 誰かに背中を押してほしかった。それがどんな未来へ繋がる道だとしても。
「――もし」
「!?」
 ちょうど中庭の外側まで来た辺り、間接照明も殆ど意味をなさなくなってきている右暗闇の中、突然背後から誰かに話しかけられた。冷静な自分が、『息を呑むってこういうことか』と分析していた。
「驚かせて申し訳ない。でも……夜道を一人で散歩とは、危ないですよ。何と出会うかわからない」
「……すぐに帰りますから」
 暗くてよく見えないが、声の高さから男性であることはわかる。この人もホテルの従業員だろうか? それにしては禍々しい雰囲気をビリビリ感じて、鳥肌が止まらない。
「そう。でもその『すぐ』の間に何か起きたら……? 例えば――ほら」
 表情は見えないが、影になった姿は朧げに見える。彼が空を指差した瞬間、頭の上にぽたりと雫が落ちてきた。
 おかしい。さっきまであんなに星が綺麗な空だったのに。山の天気は変わりやすいとはいうけれどこんな意図的にも思えるタイミングで……。
 一滴落ちてくると、途端に何滴も雫が降ってくる。傘を持っていないわたしはあっという間に濡れていくが、そんなことよりもわたし以上にパニックを起こしているヤツがいた。
「わ――!! だからいったじゃろですー水きらいー! わ――――!!」
 何が起こっているのか、あるいは何かしたのか、謎の男性に尋ねてやろうとぴーさんから目を離すと、男性は音もなく何処かへ消えていた。辺りを見渡しても暗すぎて何も見えず、気配も感じない。
 もしかして、彼もお化けの類いだったのだろうか。
 刹那、カメラのフラッシュを光らせたかのような光に周囲が包まれた。その数秒後、ドォォォォン!! と凄まじい轟音が響き渡った。
「ぴーさん! 危ないから部屋に戻っ――ぴーさん?! 何してるの!」
「あめこわい、みずこわい、ムリムリだー」
 ぴーさんは、あろうことかモグラの如く地面を掘り始めていた。隠れようとでもいうのだろうか。やはり人間の発想とは随分違う。
 しかし感心している場合ではない。ここは山の中で、木々もたくさん生えている。いつ近くに雷が落ちるかわからない。雨に濡れ続ければ風邪だって引くかもしれない。お化け探しはまた今度だ。早くホテルに戻った方がいい。
「ぴーさん! 帰るよ! ぴーさんっ!」
 ぴーさんに声を掛け続けても、より深く潜っていくだけで土の中から出てこない。掻き分けられた土がぽいぽいと舞い上がり、穴の周りに小山を作っていく。
 もうこのまま置いて帰ろうか。ぴーさんは見た目は子供でも人間ではない。水が嫌いだと言っているだけで死ぬわけでもあるまい。自分の身の安全を最優先に考えるべきだ。
 最後にぴーさんへ「先に帰るからね」と一声掛け、踵を返し一歩踏み出したその瞬間、「あ――!!」とこれまた耳をつんざく声が響いた。
「なんかあったったぞです――!!」
「はい? なに? 何が?」
「取れぬです~たすけて~」
「…………」
 雨の勢いも増してきており、髪から雨雫が垂れてくる。足先だけが出ている逆さまのぴーさんのバタバタしている足元へ寄ってみると――暗くてよく見えないものの――確かに土とはわずかに違う色の何かが埋まっている。不自然な平面をしており、石でもなさそうだ。
 ぴーさんと一緒に周りの土を掘り、爪の中まで泥だらけにしながら漸く取り出せたそれは、劣化し汚れた深緑色の本だった。
 ――こんなところにどうして本が……? まさか何かの罠?
 先刻消えた不気味な男性のこともある。ここは常識の範囲外のことが起きる所だ。ぴーさんの存在がそれを十分証明している。
「ぴーさん、これ埋め直しておいた方が……」
 残念ながら、わたしの忠告は一歩も二歩も遅かった。既にぴーさんは無邪気な笑顔を浮かべたまま雨に濡れ泥となった土の上にべたりと座り、足と同じくらい大きな本を小さな膝の上で開いてしまっていた。
 また鳥肌が止まらない。何に対して怯えているのかもわからない。ただ確かなのは、酷くなってきた豪雨も雷も収まらない中で震度四はありそうな地震が発生し、立っていられなくなったということ。
 自然災害がわたしたちに襲いかかっている。何が起こっても責任は取らないというホテルの契約書にサインはしたが、ここまでの災いだとは誰が予想できようか。
 ぴーさんが開いた本には何が書いてあるのかよくわからない。暗すぎるのも、地面が揺れているのもあるが、そもそも書かれている文字が日本語ではない。
 雷鳴と共に、どこかで聞いた男性の声が轟いた。
Revive, anima mea!我が魂よ、復活しろ
「ぴぃ……」
 ぴーさんが微かに鳴いた。何かに呼ばれてハッとした声に聞こえた。誰にどう呼ばれたのかはわからないが、何かが起きようとしているのは嫌でも伝わってくる。
 助けを呼びに行こうか。いや、そんな時間はない。ぴーさんの身に何かが起きようとしている。
 小さかったぴーさんの体は、木の枝が割れるようなメキメキという音をさせながら巨大化していった。
 人型から巨大な蛇の形へ、全身が白へと変色し、体の半分ほどにまで大きく変貌した翼の先は瑠璃色へと変化した。体長もわたしの五倍はある。真っ黒な眼から覗く深紅の瞳が恐ろしく、身動き一つ取ろうものなら命を奪われそうだった。
 大きく開かれた口から、二つに割れた舌がぬるりと伸びる。喉に刺されば貫通しそうなほど長い牙と、頭部ごと丸呑みされそうな口唇に戦慄した。
 ――これが、ぴーさんの本来の姿……?
 あまりの迫力に腰が抜けてしまい、座り込んだまま動けなくなってしまった。
「ギシャァァァァアアア!!!」
 鬼神と化したぴーさん――騰蛇はもう人の言葉を発しない。あの本は一体何だったのだろう。あの声は一体誰だったのだろう。そんなことすら考える余裕がない。
 騰蛇はホテルの反対側、暗闇が広がる森に向け鳴き叫ぶと、火炎放射器すら可愛く見えるほど大量の炎を口元から放った。一瞬にして森は燃え上がり、周囲は明るくなったものの、状況は最悪だった。
 わたしにできるのは、震える手で友人の形見である羽根ペンを握り締めることだけだった。
 ――助けて。助けて。お願い。死にに来たわけじゃない。あなたの元へ行きたかったわけじゃないの。
 遠くの方から高らかな笑い声が聞こえる。どこから笑っているのかわからないが、あれは人間の笑い声だ。きっと騰蛇を操っている誰かなのだろう。
 ――わたしが使役すれば。わたしが騰蛇を使役すれば、この惨事は治まるのだろうか。
 森が焼き払われてしまえば、時期にホテルにも被害が及ぶ。最悪な事に豪雨は弱まり、今度は強風が吹いてきた。これでは炎が強くなる一方だ。
 太刀打ちできるだろうか。わたし一人で。たった一人で。自分の未来すらロクに決められないこのわたしが、山の、ホテルの、皆の運命を守れるだろうか。
 騰蛇が悪鬼となる前に、使役できるだろうか。
 折れそうなほど羽根ペンを握り締めて、背中を丸めて座り込んでいると、強風でペンの羽根が頬をそっと撫でた。あまりにも妙な動きだったので羽根ペンをもう一度見てみると、強風に吹かれながらも自らふわふわと動いている――気がする。
 やがて耳元に、柔らかく温かい声が聞こえてきた。
『――聞こえるか、憑子殿』
 暗闇で見た男性の声とは違い、その一声だけで安心できてしまう、優しい声色だった。
「……うん」
『良い子だ――私の言う通りに言葉を発するのだ。良いか、其方そなたならできる』
「…………うんっ」
 安堵が一気に溢れてしまい、涙が頬を伝った。泣いている場合ではないというのに。雨に濡れた裾で顔を拭き、優しい声の主の言う通りに震える声を絞り出す。
『オン』
「おん」
『ソリヤハラバヤ』
「そ……そりや……ら……?」
『ゆっくりでいい。繰り返すのだ。ソリヤハラバヤ』
「そりやはらばや」
『ソワカ』
「そわか」
『そう。次は続けて言うのだ。オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ』
「おん……そりやばらはら……そわか?」
『オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ』
「おん、そりやはらばや、そわか」
『良いぞ。オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ』
「オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ」
『オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ』
「オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ」
『よし、騰蛇に向け叫べ。オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ!』
「――オン・ソリヤハラバヤ・ソワカ!!」
 全身全霊で叫んだ瞬間、騰蛇の動きがぴたっと止まった。炎が木々を燃やし風が流れていく音だけが聞こえ、残忍な静寂が訪れる。
 そして、傍らで深緑色の古書がボウッと音を立てて自然発火した。
「クソッ! 何故その真言マントラを……!?」
 高笑いしていた声と同じ誰かが、悔しそうに何処かでそう叫んでいるのが聞こえたが、もうそれが誰なのかなどどうでもよかった。
 本は燃えたが何も解決していない。ぴーさんは騰蛇のまま、羽根ペンからの声は聞こえない、またわたし一人になってしまった。もうこれ以上何をしたらいいのかわからない。
 消防車でも呼ぶべきなのか――などと、燃え上がる森を見ながら呆然と考えていたら、森の中から何かが走ってきた。
 もうお化けなのか野生動物なのかわからない。いい加減死すら覚悟して脱力していると、走ってきた白い何かは騰蛇の首元にガブリと噛みついた――その瞬間。
「いたぁ~いです~!」
 まるで風船が萎んでいくように、あんなに大きかった騰蛇の姿は元の小さな『ぴーさん』に戻った。騰蛇の首元からストンと降りてきた何かは、これまた大きくて真っ白な狐。とても毛並みがキレイで、炎の中でキラキラと輝いていた。尻尾がいくつかに分かれていたので、何らかの神様なのだろう。
『陸羽』
「え、わ、狐が喋った」
『私はこの山の守護神のようなものだ。陸羽、お前は最悪の事態に巻き込まれた。さっきお前たちが掘り出した本は、災いを呼び寄せる古書だ。あれが実在したとなれば、やがて奴は更に大きな災いを引き連れてくる。侑臣らと共に死にたくなくば、騰蛇を諌めなさい』
「……ユシンって誰でしたっけ」
『影光の従者だ。……ああ、今は凜華の従者か』
「あー、あの人ね、はいはい。……それで、やっぱりわたしはぴーさんと共に生きていかなきゃならないんですか?」
『その方が安全だ。言っておくが、私は人間が嫌いなんでね。お前の敵ではないが味方でもない。忠告はした。あとは好きにしろ』
 ぴーさんが元の姿に戻り、白狐の神様がこの場を収めてくれたことにより、全身の寒さを一気に思い出した。ずぶ濡れだった服は体温を奪い、体がガタガタと震えだす。
 二泊もあるのに、一泊は風邪で寝込むことになるのか。
 そんな最悪の事態を予測していたら、バスタオルを何枚も持った支配人とその付き人さん、それから知らない少年が懐中電灯を持ってやって来た。
 ホッとしたのと同時に、怒りが湧いた。
「遅いですよ……何してたんですか……」
「申し訳ありません。ホテルからでは何事もないように見えていたもので」
「そんな言い訳通るとでも?」
 バスタオルに包まれると、とてつもなく温かかった。でも服に溜め込まれた水分が多すぎて、バスタオルはすぐに濡れて冷たくなってしまう。
 懸命にわたしをケアしてくれるこの人たちに対し、複雑な感情が消えなかった。
『侑臣たちを責めるな。見えるものも見えなくするのも悪鬼の力だ』
 白狐にたしなめられたが、その程度のことで苛立ちが治まるはずもない。
 ――そんなのわたしには関係ないし……もしその間に死んでたら元も子もないじゃない……。
「貴方は……」
 わたしが自分の苛立ちと格闘している間に、ユシン、と白狐に呼ばれていた付き人が、信じられないものを見る目で白狐と対面していた。
『緊急事態だった。もうこんなことはないだろう。気にするな』
「…………」
『影光を大切にするんだぞ』
 それだけを言い残し、白狐の神様は高く飛び上がり、枝を伝って何処かへ走り去っていった。ユシンと呼ばれたその人は、強い決意を持った横顔で白狐が走り去っていった方向を眺めていた。
 ――それにしてもこの人たち、目の前で山火事が起こっているのにやけに落ち着いているな。
「あの、これ、火事、やばくないですか?」
「ん? あぁ、これくらいなら大丈夫ですよ。風も止んだし、すぐ消えます」
 慣れなのか無責任なのか、マイペースな人たちだ。
 風は止んできた。そのはずなのに、持っていた羽根ペンがまた勝手に揺れて頬を撫でた。 
「シタイだ」
「は?」
 優しい声色で、とても物騒な言葉が聞こえた。
 懐中電灯を持った少年が、ある方向を指差した。そこにはたくさんの赤い紫陽花あじさいが咲いていたが、一部だけ、ほんのりと青色に染まっている。
「仏様だ。この下に埋まっている……ジル・ユーマの天災に巻き込まれたのであろう。可哀想に……」
「ジル先生の……?」
「誰ですか?」
「私の昔の家庭教師です。今は亡くなっていますが……」
「凜華様、ジルの話は止めましょう。名は災を呼び寄せます」
「うむ、良き判断だ」
 炎のおかげで――いや、炎のせいで――鮮やかな赤色に見える紫陽花たち。少年が紫陽花にそっと近づき、哀しそうな表情を浮かべながらぽつりぽつりと呟いた。
「あ……紫陽花は…………、……下に……死体が、埋まってると、青くなるって……有名です……」
 ――……いや、まさか。
「其方の友人、恰幅は良かったか?」
「いや……痩せ型でした」
 ――たしかに死体は見つかっていない。いやでも、まさか。嘘だ。まさかこんなところに……。
「土は、喰うところのない人間を埋められても栄養を生み出せぬ。仏さんの死体は残念ながら栄養にはならんかったのだろう――赤い紫陽花は悔恨の色だ」
 死、という概念は十二分に理解している。だけど、大切な人と二度と会えなってしまったという事実を改めて突き付けられたようで――泣くのを抑えられなかった。
 どうして死んだのかも教えてもらえなかった。どうしてこの羽根ペンをくれたのかも教えてくれなかった。ただただわたしに「芝居は自分以外の何にでもなれる魔法なんだ」と説いてくれた、わたしの一番の師匠。
 この羽根ペンで、どれだけ台本に書き込みをしたかわからない。他の役者たちに笑われようとも、大切に大切に扱ってきた大事なペン。友人の形見。
「貴方は……一体……」
 もし友人ではなく、羽根ペンそのものに意思があるのだとしたら、聞きたいことが山ほどある。だけどきっと、そのどれも答えてはもらえないのだろう。
 そんな声色をしている。有無を言わせぬ優しい厳しさ。
「私は、騰蛇その子元主あるじで、その羽根の持ち主であった子の遠い先祖――そうだな、『晴明』とでも呼んでくれ」



 部屋に戻って、速攻温かいお風呂へ入って、ゆっくりと体を温めて、タオル生地の温もりを感じるガウンに身を通し、温かい紅茶でも飲もうかと画策していると、突然支配人の付き人に呼び出された。
 改めて話があるとのことだが、風邪を引きそうな人を呼び出してまでする話とは何なんだ。
「いい加減にしてください」
 支配人の部屋へ通され、相変わらず綺麗な着物を着た彼女の前に座ると、相手が話し出す前につい口をついて苦言が出てしまった。
「使役しろ使役しろって、あんな危ないものをよくそんな簡単に使役しろなんて言えましたね!? わたしの命なんてどうでもいいんでしょう!」
「違うわ、ごめんなさい、そのお話しもしたいのだけれど、違う事でお呼び出ししたの」
「わたしからお話することは何もありません。ホテルは快適なのでこのまま宿泊させていただきますけど、ぴーさんのことはあなた方が何とかしてください。わたしは客なんで。巻き込まないでください。それでは」
 そそくさとソファから立ち上がり、早足でドアの方へと歩いていく。
「待って!」
 寂しそうな声がしたが、待てと言われて待つ人は最初から立ち去る気がなかった人だけだ。構わず部屋のドアノブを掴むと、ドアとわたしの間にするりとスーツの男が滑り込んできた。
「どいてください」
「お待ちください」
「もう話すことはありません。使役云々はわたしの気分次第で決めます。じゃ」
「お待ちください。『影光様』のお話しを聞いて差し上げてください」
「何ですか。支配人帰ってきたんですか? 今文句しか出ませんよ」
「影光様は、ずっと貴方様の目の前にいらっしゃいました」
「はい……? ……あ、え?」
 しゅるりと帯が解かれる音。振り返った先のソファに脱ぎたての着物を丁寧に置き、何枚も巻かれていたタオルが全て外され、襦袢姿でわたしを見てくるその人は――。
「嬉しかったんです。貴方にぜひお会いしてみたかった。お話しをしてみたかったんです。騰蛇に全部邪魔されてしまいました……」
「あなた……鈴鳴さんの奥様じゃ…………ない?」
 肩幅と胸の張り方、紐で結ばれた腰は女性とは違う曲線を描いている。
「こんな格好で申し訳ありません。改めて伺う時にはきちんとした格好になります。今は私の本来の姿を理解していただきたくて」
 鈴のように美しい声は低く変わった。同じ顔、同じ人物が出しているとは思えない高低差のある声。そういう芝居ができる役者を、わたしは何人かこの目で、耳で聴いてきた。
「鈴鳴凜華という女性は。あれは女装した僕です」
「じゃあ貴方が?」
「改めまして、鈴鳴影光です。このホテルの支配人兼、鈴鳴家当主をしております」
 優雅でしなやかだった立ち居振る舞いは、紳士的でスマートな仕草に変わった。
 苛ついていたのが吹っ飛んでしまった。ネタとしての女装、ウケ狙いとしての男装はよくあるが、本当に『女性にしか見えない男性』を声帯含め演じ切るのは難しいんだ。どうしても限界がある。わたしはそれを乗り越えたいと思っていた身だ。
 わたしの目標がこんな近くにいる。
 凄い。全く気づかなかった。なんて理想的な姿だろう。だってこの人、全く工事してない。たぶんホルモンすら打ってない。正真正銘『男性』だ。
 ――悔しいな。悔しい。わたしまだ芝居が好きだ。こんな風に演じたい、なりたい、やりたいってまだ考えてしまう。
 諦めたはずなのに。燃え尽きたはずなのに。楽しかった頃の癖が抜けない。
「この格好だから言えること言いますね。僕は貴方に身を削るような働き方をしてほしくないんです」
「……別に身を削るかどうかはわたしの匙加減じゃないですか」
「前向きならいいんですよ。それも社会経験だと思います。でも貴方は、自暴自棄に近い形でそれを選ぼうとしてますよね。僕は僕に近い感性を持っているだろう貴方だからこそ止めたいんです。ここをチェックアウトした後の、貴方の人生を」
「チェックアウトしたらもう貴方には関係ないじゃないですか」
「関係なくなる前に、いろいろお話ししたいんです。止めたいのは僕の意思。貴方が本当に煩わしいなら僕の意見など無視して構いませんよ。騰蛇のことは無関係に、お話ししたかったんです。僕の気持ち、わかってくれる人少ないから」
「……女性になりたいんですか?」
「いや。性的に見られたくないんです。男からも女からも。だから男性が来たら影光に、女性が来たら凜華として出迎えます。憑子様は戸籍以外女性としてお過ごしのようでしたので、凜華がお迎えにあがりました」
 ――嗚呼、ストンッと溜飲が下がった。
 女性として見られたいが、女性的に扱われたいわけじゃない。男性を誘惑する為に女になってるわけじゃない。『女性にしか見えないカワイイ男性』に寄ってくる女性も、『男性に見えないカワイイ女装子』に寄ってくる男性も、邪魔でしかない。
 わたしはわたしが生きやすくてこうしてるだけなのに、誰もわたしを理解しようとはしない。見た目と趣味趣向らしきものだけで勝手に決めつけて価値を押し付けてくる。
 そういうの、不愉快ですよね。わかりますよ、影光さん。
 彼の寂しそうな顔の理由を、わたしは漸く理解した。
「――影光さんがいいです。お風呂入ったらわたしの部屋でパジャマパーティーしません? ルームサービス自由なんですよね?」
「…………よろしいのですか? 憑子様はお客様なので、本当は馴れ合うようなことは……」
「仕事は仕事。お風呂入ったらさすがにもう仕事は終わりでしょう? プライベートならいいじゃないですか、パジャマパーティーくらい」
「……はいっ! ではお言葉に甘えて、後ほどお部屋にお伺いいたしますね!」
「はーい、待ってますねー」
 支配人に向けてヒラヒラと手を降ると、苦笑しながら小さく振り返してくれた。今度は邪魔されず部屋から出られ、廊下の冷気に身震いする。山の夜は冷えるのだな。
 凜華、と名乗っていた時の『彼女』は、理想的な清楚美人だった。彼の完璧主義な部分が彼女へ存分に注ぎ込まれているのかもしれない。
 影光、と名乗られた途端、なんだか素を垣間見れた気がする。人間らしさを感じられる方がわたしは好きだ。強いところも弱いところもあって当たり前。隠しているのか気づいていないのかは人それぞれだろうけど、両方切り替えられる人、切り替える場面に立ち合わせてくれる人は信用できる。
 ぴーさんの正体を探ることと今後すべきことはまだ承諾してないが、パジャマパーティーの内容次第では、考えが変わるかもしれない。
 ――式神がいます、なんて役者がいたら、気になるじゃないか。
「……馬鹿だなー。いい加減それ考えるの止めようよ。終わったんだよ、もう」
 静かな廊下に響くもふもふとした足音はわたしのものだけ。人の気配がない肌寒いそこは、こんなにも明るくシャンデリアと間接照明がたくさん輝いているのに、孤独が怖くて急いで部屋に戻っていった。
 利尿作用なんて知ったこっちゃない。紅茶をガブ飲みしてクッキーとか食べてやる。
 早足に部屋へと飛び込み、ルームサービスとしてクッキーだけ先に頼んでおく。そういえばお風呂の栓を抜き忘れたことにはたと気づき、洗面所へ足を踏み入れてみれば――。
「おー、どこいっておったのだですー」
「…………」
 ――風呂の水は平気なのかよ。
 ジャグジーの泡を全開にしてぷかぷかと浮いている羽の生えた幼稚園児は、どうやら生物学的には『オス』であるようだ。
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