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貴族社会への思い
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──この長年継がれてきたローリエ家も、私の代で終わるのだろうか…。
実際このようなことを考えるほど私の領土は荒れ、貧乏な暮らしを強いられている。ローリエ家は代々植物に対する知識を生業にし、暮らしてきた。
しかし最近は医学が発展。植物での治療も減っていき、現在では加工物での医療が盛んだ。
私(ローリエ家)が見たところ、加工物での医療では副作用を引き起こしたり、別の病気にかかったりなどの可能性が考えられる。
けれど民衆どもは、加工物という新しいものに目がくらみ、本来の用途を忘れ洗脳されてしまった。
そのせいで植物での医療が衰退しつつある。
私の代では絶対に終わらせたくはない。だが、現状を見るとそれもまた難しい。代々続いてきた先代方が編み出した技術を途絶えさせるわけには……。
「旦那様。お父様がお呼びです」
そう言った者はここの専属メイドであるツクシという女性だ。大きな部屋の扉を気品よく開ける仕草はまさに可憐で美しい。彼女は私が若い頃から共にいて幼馴染という言葉に適している関係だ。あの頃の関係からもう15年。私もそろそろ25歳を迎える。親父の言いたいことは、「嫁を貰え。」だろう。最近はそのことしか口にしない。そろそろ耳にタコができて飽き飽きしている。
だが、親父の言うことにも共感はできる。嫁を作らなければもし仮に私の代が続いても後継者がいないと技術を受け継ぐこともできない。
「伝達ありがとうツクシ。すぐ向かうよ」
一つのお辞儀と共に部屋の扉を閉め、去っていった。
そういえば、幼少期の話だが、親父からツクシを嫁にしないかとニヤニヤと揶揄うように問いかけてきたが、その時が幼少期ということもあって軽いノリで答えるつもりだったが心がその行動を拒否した。なぜなら、これは私だけの問題ではなく、ツクシの意志もあるからだ。
ツクシは私よりも地位が低いとはいえ、私の言葉一つで嫁にすることができるがそんなこと…強制はさせたくない。だからこそ、真剣に考えるべきなんだと気が付いた。その気持ちのおかげでその日は軽いノリではなく、さりげない返事とともに愛想笑いをして逃げることができた。
しかし今でさえ、ツクシの意志を聞けないまま、俺よりも何倍も生きている親父でさえ人生の中でほんの数秒のことは覚えていないみたいだ。案の定、その頃と同じことで今もなお悩んでいる。
幼少期の私はあの頃に何でも言える状態であればこう言うであろう「ツクシと結婚したい。」と軽口をたたくくらいには偉そうに。だが今考えれば言わなかった現実に安堵している。それほどまでに親父は行動力が高く、きっと…いや必ずツクシに迷惑をかける。あとツクシは子どものころから私のことを恋人としては見ない…というか見ることができないだろう。一番の理由は貴族と専属メイドで地位の差が激しい。あの時の親父は冗談をよく言う人だ。おおよそ、あの時も冗談で口にしたのだ。きっとそうだ。
だが、あの時の親父の言葉は嬉しかったな。冗談でも嬉しい。現実を見たら絶対に叶わない希望にすぎない。希望を持っても叶うかはその場次第。大人になるまでの経験で得た知識だ。希望を持ったところで環境、考え方、接する相手によって決まること。最初は貴族なんかと思うことも少なくなかった。
しかし貴族の家系に生まれてしまったからには受け入れるしか方法はない。これも人生を経て得た知識だ。大人になれば知識も広がると教えてくれた家庭教師がいたが、大人になる前の方が得る知識が多い。貴族社会でやっていける確率は、今は高いかもしれないが子供の時の私のままでは、霧に隠れた花と同じ。気づかれずに踏まれるのが運命というやつだ。抗うにはその甘い考えをやめろ…。親父の言っていた言葉は大半が合っていて少し怖い。やはり、理想と現実は異なる。どうしても無理なこともある。悲しいことだ。
この考えていることを口で喋れば何十分もかかることなのに不満が溜まっているせいでたったの数分しか経っていない。
不満をいつまで言ってもキリがない。そう心に刻み、重い扉を堂々と開き、親父のいる書斎に足を向け歩んだ。
正直「嫁などいらない」
つい口に出てしまったが、恋愛などくそだ。ローリエ家を支えるという目的で恋愛はしたくない。きちんと愛したいと思った人を愛したい。
しかし、どう抵抗しても未来は未来だ。預言者だの予知者だの未来を見ることができる者がこの世にはいる。しかし、私からしたら未来は見ても見なくても変えることは不可能。未来を変えることなどできるはずがない。
そう考えているうちに親父が呼びつけた書斎に着いた。さきほどの感情やいつの間にか荒れていた呼吸を整え、扉に手を掛けた。
扉を開いたとき、部屋には、一面に分厚い本がびっしりと綺麗に、汚れや乱雑さもなく並んでいた。その扉の正面奥に親父が眼鏡をかけて何か資料を書いていた。何度見ても、何年も見ても、親父の服にはしわ一つなく、感情にも怯えや緊張というものはないのだろう。
立ち振る舞いや凛々しさが、この目で姿を見た瞬間から素人でも伝わってくる。前にチューターが言っていた言葉を思い出した。
「礼儀作法というものは己に問わず相手の尊厳を守るために使用するものだと考えます。したがって、服装や表情、姿勢、言葉使いなど、日常で何気なく使われるものでも、己や相手の尊厳を守るためには工夫が必要です。本だけを見て書かれていることをそのまま行うことはよくありません。自ら工夫し、相手の立場になって考えることも時には大切です。ホオズキさんはお友達がおられますよね。その方にも礼儀を忘れてはいけません。いいですね?面倒だと感じることもあるかもしれません。しかし、ボロが出てしまえば、そこに付け込まれ利用されることも少なくありません。ですので、対策をするのも大切ですし、信用のある方を作るのも一つの手です。あなたは次期ここの領主になる方。尊厳を失ってはいけません。……さぁ、ホオズキさん。少し休憩を取り、次はお茶会の練習を致します。もし、お誘いをいただいた際に粗相があってはいけません。なので今のうちに身につけておきましょう」
チューターであるアベリアは、教育においては厳しい者だがどうしても授業以外の姿も知っているため、苛立つことができない。
授業終わりは大抵、昼食のころだから誘ってみると笑顔を崩さず「お言葉に甘えさせていただきます。」と言って了承してくれる良い人だ。
だからこそ、話していて楽しい。アベリアは決して自慢をしない。自分語りをするにしても私が問わなければ話すことはない。
しかも大体は、私が口走って話し込んでしまう。だがアベリアはその笑顔という表情を全く変えることはない。私もその笑顔は心地よかったし、これが礼儀作法の授業で受けた表情の大切さなのかと授業の振り返りにも繋がって、礼儀作法が楽しいと感じた。
そして今もなお、そう思う。今目の前にいる親父は表情一つ変えず、厳しく真剣で集中している顔だ。その顔は幼少期から見ていて、かっこいいと顔をキラキラと輝かせていた。それなのに、今になっては恐れ怖がっているのだ。
幼少期など、出来事一つで思いが変わるものだ。今は出来事一つであらゆる思いやその後を想定して、怯え、怖がり、何もかもを恐れてしまう。
これが大人という者だと学んだ。それがローリエ・ホオズキの人生だと。
「お父様、呼ばれて参りました。どうなさいましたか?」
少しの沈黙と共に親父は、書類に書いていた動作をやめ、ペンを置き、手を組みながら私の顔を睨みつけるように見てきた。
「前々から言ってきたが、そろそろ真面目に嫁を作れ」
はぁ結局、その話か。もう聞き飽きた。
しかし、大事なことだからこそ何度も聞く。トラウマ…というほどではないが、私の聞きたくない言葉の一つだ。威圧的な親父とその者から発せられた言葉。怯える条件が揃ってしまった。心は恐れていたもののアベリアの教えや今までの貴族社会での苦労を思い出して何とか体だけは正常でいられた。魂のない人形のように無感情を心掛けた。
「申し訳ありません。何分恋愛をできる関係ではなかったもので」
言い訳を吐きながらも親父の言葉を否定しない程度に反論をした。いつもならば、このまま悩む態勢になるはずの親父が今回は違っていた。なぜなら…。
「では、今度隣の町のリンドウ家が舞踏会を開くと小耳に挟んだ。お前には、その舞踏会に出席してもらう。これは拒否権がないと思え」
荒々しく話す言葉を否定する気にもなれず…いや、心のどこかでは恋愛のできる環境が欲しくて、この話はその気持ちにとっては良いことだと考え、親父には二つ返事で了承をした。
そして、書斎を出る扉の方に手を掛けると、背後から「ホオズキ、お前の子が早く見たいぞ。」顔を見ていなくても分かる。悲しく懇願している。この約25年間、親父の弱いところなんて見たことも聞いたこともない。ましてや親という言葉に甘えず、厳しく叱ってくれ、ある程度の距離感があり、周りから見れば親子関係とは到底思えない。しかし今、親父は親父としての言葉を話してくれた。親父としての気持ちを向けてくれた。その言葉、声色すべてが私にとっては嬉しかった。
長年、貴族だから、親だからと感情を殺していた親父が、親父としてそこにいる。部屋の扉を閉めるまでは威厳を保つ。しかし長くは続かない。扉がきーっとゆっくり閉じた瞬間、感情が溢れ出てきた。
気づけば、下を向き、声を発することなく泣いている。
そこへ、ゆっくりと優しくツクシが寄り添ってくれた。ポケットから温かいハンカチを取り出して目元を拭いてくれた。その雰囲気は親父といたときとは真逆。ほんのり甘く優しく温まる感じ。恋する愛情とはまた別で親密だけど一定の距離にツクシはいる。貴族だからこそ、威厳を保ちたいのに……その時はツクシには「ありがとう」とだけ言って去った。
だが、ツクシも理解をしているようで、「では。」と私の威厳を保とうと努力してくれた。ツクシのもとから離れて言えなかったことを心の中で呟く。
──ツクシ、ありがとう。私のそばにいてくれて。
その後のことはあまり覚えておらず、確実なのは泣くことをやめて自室にそそくさと戻ったことのみ。あまり覚えていないというのは、記憶をなくしたいからなどという戯言ではない。正しくは考え事をしていて自分の行動したことを覚えていない。覚えていてもすぐ忘れるだろう。
そして考え事というのは三つ。
一つはさきほどの嫁についての話。
もう一つはリンドウ家のヘリオトロープ女公爵について。
そして最後の一つはツクシについて。
嫁については前に不満を爆発させて、再発したため。
リンドウ家のヘリオトロープ女公爵については、ヘリオトロープという女は世界一の美貌を持つと貴族の中では噂になっている、私も男であるから気にはなる。しかし、反対に悪い噂も存在する。それはヘリオトロープという女は、わがままで自分勝手、おまけにヘリオトロープの父親があまり良い人とは言えないこと。
そして最後にツクシについて。貴族と専属メイドで地位の差が激しいからと言って恋をしてはいけないわけではない。私は幼少期のころからツクシに思いを馳せている。しかしどうしても思いを伝えることができず、そして男というのに奥手ということもあり今の今まで叶うことがなかった気持ちだ。
幼少期は叶ってほしいと何度も思ったものだ。だが、貴族社会を考えれば不可能だと確信できるほどには情がうごめき、入れ違いなど日常茶飯事。自分の意志に背くことがあれば、手段を選ばない。いや、選ばないという状況にしか発展しない。
上手くいったとしてもどちらかが負担をし不満を持つ。それが情を交えるというもの。そんなところにツクシを連れて行くわけにはいけない。
するのであれば、同じ貴族の者。または精神が維持できる者。幼少期では、結婚というのは幸せになるものと思いがちだが、私たち貴族にとって国の発展の一つに過ぎない。言わば、その結婚に愛や恋などの思いがなくても成立する。
そんな誰もが嫌だと思う状態にツクシを道連れしたくない。恋がどれだけ大きかろうと上手くいかないことは目に見えている。
「ツクシ…恋をしてしまってすまなかった…」
自室の机に肘を置き、どうにか威厳を汚すことのないように、もし部屋に誰か来てもすぐ親父みたいに凛々しい表情ができるために手で顔を覆い、泣いていることを悟られない程度に肩を震わせる。
私にとっては貴族に生まれたということに後悔している。しかし、家族仲を後悔しているのではない。最低でも家族みな、嫌いだという感情は一切ない。子供の時は怒られれば腹を立てることはあったが、それは気の迷いということにしよう。しかも私にとって親父は憧れだ。あれほどの完璧な貴族はほかにいない。経済においても武道においても長けており、なにかする隙も弱みもない。
……さきほどのあの揺れた感情は弱みなのだろうか。はたまた家族思いとして発せられたものなのか。今の私ではその決定打になる言葉が見つからない。しかし、親父の本心であったことは確かだ。あの親父がそのような言葉を口にしたことは今までに決してなかったからだ。私はどちらにしても嬉しいものだ。弱みを見せたということはそれほどに私を信頼し、信用している証拠。また、家族思いであればこんな私を見捨てることなく、愛情を注いでくれている証拠。どのような回答でも受け入れる準備は整っている。
しかし、現実はそう簡単にはいかない。扉を叩く音が私の耳元に大きな衝撃を与えた。扉を叩いた主は、きっとそう強く叩いていないと主張するはずだ。だが、今の私では心臓が跳び、瞬間の電撃を浴びるような感覚に襲われた。
「は…入れ!」
呼吸と威厳を整えたせいで、言葉が強くなり怒鳴ってしまった。だが、扉の主がうろたえる素振りはなかった。
「失礼いたします。今晩の夕食でお父様が舞踏会の詳細を話したいとのことです」
──やはり、それか。
伝えに来てくれたツクシにそれ以上詮索せず、「そうか」と話を流した。
ツクシが去ってからはもう考えないように違う話題を考えた。
そういえば、町で新しい店ができたとか。しかもこの世界では見たことも感じたこともない触感をする食べ物らしい。きっとツクシを誘ったら……。
最近流行の服があるそうで、メイドたちが盛り上がっていたな。それも和服?という華やかな服らしい。ツクシが着てくれたら似合うだろ……。
そして私は考えることを放棄した。いや、正確にはもう終わった仕事なのにその仕事を見直した。しかし見直しても完璧すぎて直しどころかすぐに終わってしまった。この時だけは完璧な自分を悔やんだ。
だが、時間は有限であるため、あっという間に夕食の時刻になった。いつもよりも早く食事場に行き、メイドや執事が食材の乗った食器を並べている最中に、席に着いた。
まだ、親父たちは来ていないのか。
私がソワソワと心揺さぶられているうちに親父とお袋が共に椅子に腰かけた。今見ても仲が良いなと尊敬する。昔から二人は仲が良く、しかし周りに気遣うのかイチャイチャと花を咲かせることは一切していなかった。いつも近くにいるはずなのにその時まで貴族としての礼儀が成っていて私もアベリアも関心と敬意を募らせていた。
「ホオズキ、さきほどにも言ったがリンドウ家の舞踏会は約二週間後に開催される。服装、髪型など身だしなみは整えておけ」
その言葉に頷きで返答する。お袋もその言葉に助力する形で物申した。
「今回の舞踏会は、お見合いのようなものだと聞きました。きちんと良い嫁を捕まえてくるのですよ。幸運を祈ります」
親父とお袋の言葉に敬意を表し、その場に立ち上がり、手を胸に当て、「ありがたいお言葉、このホオズキの胸に刻みます!」と、食事場全体に響く良い声が出た。周りを横目で窺うとメイドや執事は、親同然の満面の笑みを私に向けている。ここで一つ確信した。
私は良い環境で育ち、周りに恵まれている。
思いを加える形で胸に刻み、溢れ出そうになる涙を堪えた。その後は何度か話を交わしたが、断続的に続く話だったため、すぐに食べ終わってしまい、親父とお袋よりも早めにその場を後にした。自室に向かう最中、背後から聞きなれた声がして振り向く。
「旦那様、さきほどの食事場でのこと、胸に染みました。舞踏会…頑張ってください!」
なぜかその言葉を素直には受け取ることができなかった。昔ならば、「ありがとう」の一つ簡単に言えたはずなのに…。
ホオズキにとってこの気持ちが何なのかはわかるはずがない。いや、今の状況では分からないだろう。それほどまでに緊張と困難が積み重なっている。
「…ツ……ツクシはどうなんだ。好きな人はいないのか?」
咄嗟に放った言葉。これは私にとって気になっている質問。ツクシが真面目に答えるかは彼女次第だが、
どうせなら聞きたい。
「好きな人…ですか……」
少しの沈黙のはずなのに私の中では長く感じる。これは沈黙の時に聞こえる時計の針の音のせいなのか。いや、なのかではない。そうに違いない。
「…ふふ、いますよ!」
なんだ今の笑みは…!不敵な笑みというわけではなかったが私からしたら怖い。
「…そうなのか」
悲しそうに発したが、ツクシは気づいていない様子。私はその状況に安堵しつつ、聞いた私がばかだった…そう自分に言い聞かせて話題を変えようと精一杯思考を動かした。
しかしさきほどのツクシの言葉はホオズキにとって一撃が強く、まるで先端が細いが尾に向かって太くなっているものが心臓を貫く。そして瞬きをする間もなくその鋭い槍はホオズキの心臓を通り抜けた。実際には何もないがホオズキの心はそれほどの穴がポッカリと開いている。
黙っている私に疑問を抱きながら少し頭を傾げるツクシは痺れを切らして自ら話題を振ってくれた。
「旦那様はリンドウ家の舞踏会は楽しみですか?」
その質問に瞬時に答えることはできなかった。しかし息を吞み、覚悟を決めて「あぁ、楽しみだ」とツクシを悲しませないようにした。その悲しませないという意志に至ったことは決して、もしかしたらツクシは私のことが好きなのかと心に花を咲かせて迂闊な考えをしていたわけではない。
その言葉にツクシも悲しみを隠すように頭を傾げたが、ホオズキは気が付くことができなかった。
ツクシがホオズキに抱く思いと同様に。
「旦那様が良い方と出会えるよう幸運を祈ります」
「ありがとうツクシ」
ツクシはお嬢様のようにスカートを指でつまみ、礼儀正しくお辞儀をしてから部屋の扉をゆっくりと音もたてずに去った。
その背は、その顔は、雰囲気は、悲しそう。
でもどうしてもホオズキは気付かなかった。鈍いにも程があるが、それほどの覚悟を決めたと捉えたほうがよさそうだ。
ホオズキにも余裕がないのだ。貴族であるからではなく、一人の男としてだ。自分に向けられている思いすら気づかないほどには鈍感だ。ツクシもそれを理解したうえで恋心を打ち明けない。
そんなことを考えているうちに、もう大人も寝なくてはならない時間まで経っていた。
その現状をホオズキは自室の時計を横目で確認して、寝床にゆっくりと思い、鎖にでも縛られているように足を運んだ。
そして倒れるように体を倒し、ホオズキの体や心よりも温かい毛布に全身が安心感に包まれたのか眠りについた。
ホオズキが目を覚ましたのは、まだ日の光が人類に一日の初めの挨拶をする少し前。普通ならば、みな眠いと体を丸めるか寝続けるだろう。
しかし、ホオズキは起き上がり、幼少期から決してやめることのなかった習慣がある。
それは剣術だ。
ホオズキはほかの誰よりも覚えるのが早いがそれを実践するとなると話は別だ。そのため、剣術を磨くためには動き続けるほかはない。
庭に赴き、愛用の木刀で素振りを行う。最近は仕事の量が増えてしまい、腕を使うことも多くなった。素振りをするときは歯を食いしばって同じ動作をする。単純かもしれないが長く続けることが難しい。それにホオズキにはツクシの件や嫁の件など、多くの問題を抱えているため、腕の疲れより今後の人生のほうが重い。
逃げたくても逃げることができない。
だが、実際にはホオズキはいつでも逃げることができる。なぜ逃げないかは言うまでもない。
「親父たちが食事場であれほど真剣な顔で言うんだ」
あの二人が今まで食事場では、無言ではあったがそういった話はしてこなかった。それもあって、ホオズキは逃げることができない。しかし、逃げたい気持ちはホオズキのほんの一握りの思い。そのほかは末代…いやそれ以上までこの家系を続けていきたい。親父たちが続けてくれたように。そう考えている。
「よし、覚悟を決める!」
決意の表れに素振りを休んでいた手を動かし、痛みに耐えるのを条件に覚悟を決めた。
素振りを終えて周りに気を配るとすでに日がホオズキの身長より高く昇って余裕の笑みをこぼしているようだ。
「旦那様、お疲れ様です。もうすぐ朝食ですのでお迎えに参りました」
背後から聞こえる声はいつも呼びに来てくれるツクシがいた。
「分かった、ありがとう」
やはり慣れない。
もう何度も呼びに来てくれるのだが、ツクシがいることもあって毎回剣術を行うときは上半身裸になる。好きな人に見られるのはいつになっても慣れない。
しかし、それを表には出していけない。ツクシも私に興味がないのか、無表情のまま下向いて平然としている。
呼びに行くついでにツクシが着替え用の服を持参してくれ、その服に素早く着替えて、食事場へ向かった。
すでに親父たちがそこにいた。すぐさま自分の席に座り、食べ物を口に運ぶ。
「ホオズキ、昨夜の話の続きだが当日は馬車を用意するから、それに乗ってリンドウ家の舞踏会に向かってくれ」
一旦、食べることをやめ、了承しました。という意を見せるために相槌を打ち、再び食べ物を食した。
その後はいつもと変わらず、運ばれてきた自分のできる仕事を熟し、暇の時間にツクシが用意してくれた茶を飲み干し、再度仕事に戻る。
そして食事の時間では食事場に赴き食べ、自室で寝て起きたら剣術を行う。
それを舞踏会前日まで続けた。
少し隈が目立つ。しかし、何とかツクシが自慢の化粧で補ってくれた。
ありがとう。と軽く相槌をしてなるべくツクシの顔を直視しないように心掛けた。
もう出発の時間になり、親父が準備してくれた馬車に駆け込むように乗って執事やメイドたちが手を振って出発を見送ってくれた。家が見えなくなるくらいに薄っすらと玄関から出てくる親父たちがいて、見送ってくれなかったな。と悲しみに暮れ、ゆっくりと座り直す。
しかしホオズキはキチンと見ていなかった。実際、親父たちは見ていた…いや覗き込むように玄関の扉から目を向けていた。
ローリエ家の領土からリンドウ家の領土まで数時間はかかる。それまで馬車の中…ホオズキの頭の中はツクシのことでいっぱいだった。決意を固めたからと言ってホオズキも一人の男だ。すぐに諦めることはできない。
だがもし仮にツクシよりもいい人を見つければどうだろうか。男とは言え、性欲には勝てない。魅了されてはなすすべなし。
時間はあっという間に今回の会場が見えてきた。もう外は夕方になりかけ、舞踏会の食事は夜食として代用できそうだ。数時間も馬車を運転してくれた者に謝礼をして、綺麗ないろんな色があちらこちらに彩って美しいという言葉が似合う扉を押し、夜とはまた別な大きなシャンデリアに光を当てられ、眩しいと感じ、手を目の先に光を遮るように耐えた。
「まだ、主役のヘリオトロープ女公爵はお見えではないのか?」
世界一の美貌を持つと貴族の中では噂されているヘヘリオトロープ女公爵が今いる全体に対し半数の男がどよめいていないということはないと考え着くだろう。
「しかし、ヘリオトロープ女公爵という者、一回でも目に入れたいと思っていた」
早速、長机に置かれた食事を一つずつ取り、健康にも気を付けた。
「今回は娘主催の舞踏会に来ていただきありがとうございます」
今、話している者はヘリオトロープ女公爵の父であるリュウキンカだ。圧のある声だが、私はあの者の裏を知っている。そのため、今吐き出した言葉に家族思いの欠片もこもってないことは重々承知だ。その裏とは、リュウキンカはヘリオトロープ女公爵のことや母、ガーベラのことを一ミリも家族として見ていない。見ているとすれば経済として、権力として。
──みなが口にするだろう。
「なぜ、ガーベラはリュウキンカと結婚をしたのか……しかし、そのおかげでヘリオトロープ女公爵が生まれたのだから喜ばしいことだ」と。
これはもう手のひら返しとそう変わりない。もう結婚した美しきガーベラには興味なく、その娘を狙い、目を光らせている。これぞ、男の本能というものだろうか。同じ男だが、本当にみっともないと思う。顔が良いだけで、恋に落ち、そして求婚をする。貴族社会では当たり前なのだろうが。私の人生ではそういった考えに至るまで相当な時が必要だ。
結局、男にとって女は、性的な者かつ経済的な者にしか見えていない。私の初恋は、ツクシだが、元々はあの者の優しさに惚れたのだ。…それが七割。残り三割は…顔。だが、決して顔のみで惚れたのではない。断じて違う。
もう考えるのはやめよう。せっかくの美味しい食べ物が台無しになってしまう。
ホオズキは、そう思いながら目の前に並ぶ食べ物の数々にフォークを差し、自分の皿にのせて口に放り込む。
…美味しい。
今、ホオズキの頭の中はそのことで一面染められている。
「おい…あの美しい女、ヘリオトロープ女公爵じゃねぇか?」
美味しい食べ物を堪能しているときに耳に届いた言葉は他の男の小言だ。美しさには興味ないとはいえ、公爵の名を持つ者なため顔を向けるほかはない。
そして今見ている者のほとんどがこう言う。
「お綺麗な女だ。ぜひ、嫁に持っていきたい」
しかし、その思いは叶うはずがない。
なぜならば、その美しき者はある男のもとへ急ぎ歩き出した。まさに獲物を追いかける強き獣のように。
その光景をホオズキは横目に気にも留めず、他の女性に目を向けた。ホオズキ以外の男のほとんどは美しき者に目を奪われ、その者の行動に理解が追い付いていない。
ホオズキはヘリオトロープ女公爵以外の者を見て、良い人はいないか選別している。そこへ、会場端のソファに腰を休め、今の会場に馴染めない者がいた。そして、瞬間にホオズキは目を奪われてしまった。もう、あの女性を忘れ今は、目の前に静かに座ってなんとか溶け込もうと必死な女性に。
「そこの美しい女性。私と話さないか?」
その言葉には恐れや不安は一切なく、話したい一心だとお見受けできる。また、その女性もその問いに答えるように口を開き、こう申した。
「はい、わたくしとですか?」
よそよそしく話す女性は、まだ晴れるのに時間がかかる天候のようであった。
「私は、ローリエ・ホオズキ。あなたの名前は?」
「わたくしは、シオンと申します」
彼女は家名を明かさず、名前のみ答えた。しかし、ホオズキにとってそんなことは大したことないに等しい。それほどまでにシオンのことが気になり、心の中は彼女一色なのだろう。
「体調が悪いのか?」
今のホオズキは、いつものように礼儀を欠かさずに話すことがままならない。だが、紳士らしく決して女性から話題を出さないように必死だ。
「…えぇ。生まれつき体調が少し悪くなる時が多々あります。今宵も、本当は体調を万全にしようと早めに寝たのですが、この舞踏会に来る際、馬車で酔ってしまい、今ここでお休みさせていただいています」
「そうか。では、ここで話を続けよう。……私と付き合ってくれないか?急に言ってすまない。私はあなたに惚れ、嫁として迎えたいのだ」
「………あなた様はわたくしのことをご存じで仰っていますか?わたくしの体は、今日のように晴天の昼でさえ、外に出てしまえば体を壊し、部屋に引きこもる形になってしまいます。そういったことがほぼ毎日ございます。それでも!……あなた様は求婚をしますか?」
今、ホオズキの心は今後のことを軽い想像でしか物を言えない状態。なので。
「あぁ、私はあなたが一緒にいてくれればうれしいぞ。その体も愛そう」
「その言葉に嘘偽りはありませんね?」
「ない」
ホオズキは断言した。
しかし、彼の心は今後どうなるのかは、今はまだ分からない。
その後、二人は順調に進んだ。
ホオズキの両親は、シオンを見るなり、嬉しく迎えた。そして、今でいうスピード結婚を行った。そして、離れに家を建て、二人と複数の執事、メイドを招き、暮らすことになった。
だが、その人生は長くは続かなかった。
──あぁ、男はなんて自分勝手なのだろうか。
いやそう思うのは、ホオズキだからなのか?
結婚して何年かは、病弱に生まれたシオンを愛し、ベッドで横になる姿を見てもなお、美しいと思い、過保護に子を見るように看病していた。
シオンが欲しいと言ったものはなんでも手に入れようと努力した。
それが小さなものばかり。
りんごを剥いてほしいだの、抱きしめてほしいだの、いやシオンのことだ。軽いものしか頼まなかったのだろう。
とうとうホオズキは聞きたくなくなり、シオンへの愛が薄れていった。
しかもその願いを煩わしく思う。
だが、シオンはそれに気づいていても離婚を言い渡すことも距離を置きたいとも言わない。それはホオズキも同じ、一度でも美しいと思ったのだ。簡単に愛情がなくなっても外見での考えは完全には消えなかった。いや、病気が治って今よりももっと美しく輝く女性になると、信じ願っている。
「あなた様は、私のことをもう愛してはくれないのですか。…いや愛してはくれているはず、ただこんな体に生まれた私が嫌いなだけ」
シオンはもう壊れてしまった。
希望を捨てることを忘れ、タイミングを失くし己やホオズキを傷つけないような考え方をして気を逸らす。これこそが、愛に落ちた者たちの関係。
事件……修羅場が今宵に起こってしまう。
「あ、あなた様。その女の方は誰なのですか?」
久しぶりに体が動き、あの舞踏会のホオズキのように、自らが進んで彼の元へ歩み寄った。
その考えに至ったのは、ある話を聞いたからだろう。
「ねぇ、聞きましたか?執事長。ホオズキ様がシオン様以外の女の方が好きらしいですよ」
「…ここで話すことではありません。誰かに聞かれていたらどうするのですか?シオン様がいたら」
「大丈夫ですよ。だってシオン様は……」
シオンはその後の話が聞こえないほど、驚愕する話を耳にした。
ホオズキ様、わたくし以外を…。いいえ、ホオズキ様がそんなことをするはずがございません。
噂です。噂だから、気にすることは…。
シオンの目からは大粒の涙がいくつも落ち、止まることを知らない。
ならば今夜、ホオズキ様の元へ行きます。今日はいつもより体が動きます。これも神様が私を前に押し出して噂が違うと証明させるためです。
しかし、その場面はシオンにとっては最悪な結果。それが現実になってしまったのだ。
「あなた様、その横にいらっしゃる酔いに負けていらっしゃるお方は誰ですか?」
周囲を見渡すと、お見受けの二つのグラスに多少のアルコールと思われるものが入っていると読み取れた。
世間をあまり見てこられなかったシオンでさえ、今の状況が理解できている。
そう、噂通り浮気だ。
「シオン、これはその…誤解なんだ。ただ二人で話しているだけ!お酒は、気分転換だ!」
ホオズキは次々と口から嘘を並べ、もう一息でぼろを出すような雰囲気だ。だが、シオンはそんなことを望んではいない。望んでいることは二つ。その女がいてもなお、自分のことを愛してくれるのか。そして今後その女以外にも浮気をするのか。
元々、シオンは結婚自体できないと思っていて舞踏会での出来事は夢のようだと考えている。そして結婚という幸せを手に入れて、心が揺らぎ、ホオズキが浮気をするだろうと予知ではなく覚悟を決めていた。結果的には浮気をされたが、さほど彼女は悲しみも堕落的な思いも湧き出ることはなかった。出たのは、「それでも、私を捨てないでほしい」という願う言葉。
だが、その言葉を聞けばホオズキは現を抜かし再び浮気をする。シオンも器が広いと噂されていても人間だ。いつかは限界が来る。今はまだ来ないだけ。
「ホオズキ様、わたくしのことはいいのでその女性と楽しまれてください」
言い捨てるのと同時に開いたままの扉を閉めた。
その扉は二つの意味を持つ。一つは現世の開いたままの扉。もう一つは、ホオズキへの軽蔑と哀れみ。
そして噂好きなメイドが今回の出来事を館中に言いふらした。しかし、思ったよりもほかの執事やメイドは驚くことはなかった。
あったのは一言。
「やはりですか」
一つの糸が切れた瞬間、ホオズキは隠す必要がもうなくなったと安堵し、その後はシオンが近くにいてもお構いなしに女を呼んでは欲の発散に使うだけ。決してシオン以上の関係にはならなかった。これは、爵位のこともあるのか。はたまた…。
彼女はその後に考えることはなかった。考えたくもないことをわざわざ考えるほど大馬鹿者ではない。
「シオン様!いいのですか?!ホオズキ様がシオン様以外と仲睦まじい様子になられても!」
ある一人のメイドが注意のような言葉を発し、シオンは固まったまま沈黙を挟む。しかし返ってきた言葉に生気はなかった。
「いいのです。ホオズキ様が幸せであればそれで…わたくしはそれだけで嬉しいのです」
メイドは絶句。部屋の中では哀れみと憎しみの混じった空気が漂うことも知らず、怒りも忘れ、堕落するのが素人でもわかる。
それ以上、メイドはシオンに問うことはなく、必要最小限の動きで茶を入れ直し、部屋を去った。
立ち去った後の部屋には哀れみは残りつつ、憎しみが消え去り、悲しい雨が降り注ぐ。悲しい雨は雫一つが花びらに当たれば、円を描くように枯れて崩れる。
「あなた様は、きっと今も心のどこかでわたくしのことを思っていると信じています」
ベッドで一つの動きさえないシオンは、口だけを動かし、自分の不安を払っている。
シオンは知っている。もう、ホオズキが自分のことをあまり思ってなく、他に気を取られるくらいに精神が安定していないのだと。
だが、それを分かって理解したうえで別れを切り出さず、今を生きている。もし、彼女自身から話せば、離婚という形にはできる。でもそれをしてしまえば彼女の人生は終わり、今よりも辛いものになると悟っている。また気が進まないのは彼女の勇気の無さだ。一つの言葉を言えば済むことをあの人の思いという重い鎖で縛られて抜け出すこともできない臆病者だ。辛口で話さねば、シオンに同情してしまう。同情すると勇気の一つもできず、このまま進み、死んでしまう。
あの浮気事件からホオズキは浮気をする回数や頻度が増えて、シオンが近くにいてもお構いなしになってきている。
メイドや執事たちもシオンの同情を通り過ぎて呆れを感じている。
「シオン様!?シオン様、大丈夫ですか!?」
静まり返った深夜。窓から外を覗けば、いつも通り街灯がいくつか灯っていて町の者も眠りに着こうと急ぎ焦る時間帯。その明かりが消えるような町と息を合わせるようにシオンも冷たく、動きを亡くした。
慌てたメイドはすぐに寝間着の上から耳を押し当て、その段々と動きを無くす揺れを聞く。
…ドクン…ドクン……ドク………ン………。
消えゆく心の鼓動を正常化するために、メイドは呼吸を確認して、ないことに焦りを感じた。
「誰か!!医者を呼んできて!!」
自分の知識をフル活用し、まずは胸の真ん中の固く窪みがある場所に手首の固い部分を当てる。
1,2,3,4……。
三十回したあとは休むことなく、人工呼吸を瞬時に行い、それを繰り返す。
「生きて!シオン様生きて!」
叫びを動かす手の勢いに乗せて時間を忘れるくらい繰り返す。
しばらくして、医者が大きな声を廊下に響かせて近くに歩み寄った。そして、スムーズに交代して繰り返し胸骨圧迫、人工呼吸。
心肺蘇生をしてから時間が早く経ったと感じたのは、医者の言葉を耳にしたからだ。
「……もう、無理です…ね。始まってから10分は経ったはずです。おそらく子供のころにできた病気が再発してしまったのでしょう」
病気…シオン様が患ったものは『散炭病)』という名を持ち、主な症状は吐き気、嘔吐、精神混乱、血液硬化、心拍減少、幻覚、そして唯一シオン様のみ持っていた症状で、脚の膠着状態。
これらは数分耐えればよくなるもの。しかし、脚の膠着状態だけは異なり、いつどこでどのような形で発症するのかが分からない。だからこそ、歩くことさえ怖えてしまう。
「ローリエ・シオン、死亡を確認」
医者が優しく白いハンカチを顔に被せ、涙をハンカチの代わりに手で拭った。周りの人たちは、どうにか声を堪えても涙が出てしまっている。ハンカチで拭う者や拭うことも忘れ、泣く者もいる。
しかしこの部屋…この館にホオズキの姿は見当たらない。見つけたとき、暗く闇に囲まれた世界から馬車を経て館へ戻ってきた。それも何も私は悪くないと堂々たる姿勢で。メイドたちはその姿を見て腹が立ち、泣くのすらやめ、怒りが芽生えた。
「え、シオンが死んだ?…いやそんなはずはない。…嘘だ。嘘だ!」
慌てた様子に声も震え、感情が揺らぐ。
今の状況は簡潔に言えば、『当たり前だと思っていた大切なものを失って、消えてから大切なもののありがたさに気づき、当たり前だったものに後悔している』といった具合に己の心を責め立て嘆き崩れる。
哀れなり。そして悲しい者。失ったものは元には戻らないことを理解していないのがホオズキのダメなところ……いや、本来は想像してこそ、理解が深まるもの。だからこそ、今回の問題はホオズキの想像力の無さと己への甘えと愚かさ。
「シオンよ、すまない…すまない」
膝を自室の冷たく悲しみに包まれた床につき、雪崩のように倒れ、朝の陽ざしが窓から注がれるまでホオズキは泣いた。頭が痛くなろうが、声が枯れようが、貴族という威厳が壊れようが、関係なく悲しんだ。
周りの人はその姿を見ても「足りない」と言うだろう。それほどまでにシオンは慕われていて周りがシオンに支えられてきたのだと改めて実感した。シオンは優しく明るい方だった。何事にも怒らず決して文句も吐かない。言うとするならば、冗談交じりの言葉と優しく朗らかな笑顔を添えて。
ホオズキは確実に大切かつ大事なものを失った。
しかし、その報いを返すことはできない。なぜならば。周りがなにを言っても貴族としての威厳という鎖に縛られて、ホオズキ自身が落下することを拒んでいる。
結局、シオンの死因は病気の再発、という形となりホオズキの浮気は民に知れ渡ることはなかった。今までのホオズキなら喜ばしいことだろうが、今回は違う。失ったものが大きすぎるのだ。己の傷も深い。
「すまない…本当にすまないシオンよ。戻ってきてくれ……」
今宵も願うが神はその願いを聞き入れることもしない。それが人生であり運命だ。もうホオズキの相手をしてくれる者は館には存在しない。館を出て民たちに相談をすれば少しは心が晴れるかもしれない。しかし今話せばほころびを出し、民たちにホオズキの浮気がバレて、信用を失う。そして今はそんな勇気を持ち合わせていない。持っていても現状は変わらない。
大切なものを失えばどうなるかは目に見えているはずなのに……哀れだ。
その後、ホオズキは死んだ。
死因として自ら崖から落ちた。その遺体が見つかったのは死んでから三年の月日が経ったころ。それまでホオズキがいなくなっても探す者がおらず、その崖の下を探検家が歩いているときに生前、シオンから受け取った素朴だが小さなネックレスが光ったそうだ。
これは神がホオズキを助けるために仕向けたことではない。また神でさえ、ホオズキを助けようとはしない。だからこれは……。
大切なものはいつか突然、離れ離れになる。だからこそ今、当たり前を当たり前だと思わず、大事にするしかない。
「シオンとホオズキよ、死の世界でまた出会い、そこでは失敗のないように。頑張りなさい」
実際このようなことを考えるほど私の領土は荒れ、貧乏な暮らしを強いられている。ローリエ家は代々植物に対する知識を生業にし、暮らしてきた。
しかし最近は医学が発展。植物での治療も減っていき、現在では加工物での医療が盛んだ。
私(ローリエ家)が見たところ、加工物での医療では副作用を引き起こしたり、別の病気にかかったりなどの可能性が考えられる。
けれど民衆どもは、加工物という新しいものに目がくらみ、本来の用途を忘れ洗脳されてしまった。
そのせいで植物での医療が衰退しつつある。
私の代では絶対に終わらせたくはない。だが、現状を見るとそれもまた難しい。代々続いてきた先代方が編み出した技術を途絶えさせるわけには……。
「旦那様。お父様がお呼びです」
そう言った者はここの専属メイドであるツクシという女性だ。大きな部屋の扉を気品よく開ける仕草はまさに可憐で美しい。彼女は私が若い頃から共にいて幼馴染という言葉に適している関係だ。あの頃の関係からもう15年。私もそろそろ25歳を迎える。親父の言いたいことは、「嫁を貰え。」だろう。最近はそのことしか口にしない。そろそろ耳にタコができて飽き飽きしている。
だが、親父の言うことにも共感はできる。嫁を作らなければもし仮に私の代が続いても後継者がいないと技術を受け継ぐこともできない。
「伝達ありがとうツクシ。すぐ向かうよ」
一つのお辞儀と共に部屋の扉を閉め、去っていった。
そういえば、幼少期の話だが、親父からツクシを嫁にしないかとニヤニヤと揶揄うように問いかけてきたが、その時が幼少期ということもあって軽いノリで答えるつもりだったが心がその行動を拒否した。なぜなら、これは私だけの問題ではなく、ツクシの意志もあるからだ。
ツクシは私よりも地位が低いとはいえ、私の言葉一つで嫁にすることができるがそんなこと…強制はさせたくない。だからこそ、真剣に考えるべきなんだと気が付いた。その気持ちのおかげでその日は軽いノリではなく、さりげない返事とともに愛想笑いをして逃げることができた。
しかし今でさえ、ツクシの意志を聞けないまま、俺よりも何倍も生きている親父でさえ人生の中でほんの数秒のことは覚えていないみたいだ。案の定、その頃と同じことで今もなお悩んでいる。
幼少期の私はあの頃に何でも言える状態であればこう言うであろう「ツクシと結婚したい。」と軽口をたたくくらいには偉そうに。だが今考えれば言わなかった現実に安堵している。それほどまでに親父は行動力が高く、きっと…いや必ずツクシに迷惑をかける。あとツクシは子どものころから私のことを恋人としては見ない…というか見ることができないだろう。一番の理由は貴族と専属メイドで地位の差が激しい。あの時の親父は冗談をよく言う人だ。おおよそ、あの時も冗談で口にしたのだ。きっとそうだ。
だが、あの時の親父の言葉は嬉しかったな。冗談でも嬉しい。現実を見たら絶対に叶わない希望にすぎない。希望を持っても叶うかはその場次第。大人になるまでの経験で得た知識だ。希望を持ったところで環境、考え方、接する相手によって決まること。最初は貴族なんかと思うことも少なくなかった。
しかし貴族の家系に生まれてしまったからには受け入れるしか方法はない。これも人生を経て得た知識だ。大人になれば知識も広がると教えてくれた家庭教師がいたが、大人になる前の方が得る知識が多い。貴族社会でやっていける確率は、今は高いかもしれないが子供の時の私のままでは、霧に隠れた花と同じ。気づかれずに踏まれるのが運命というやつだ。抗うにはその甘い考えをやめろ…。親父の言っていた言葉は大半が合っていて少し怖い。やはり、理想と現実は異なる。どうしても無理なこともある。悲しいことだ。
この考えていることを口で喋れば何十分もかかることなのに不満が溜まっているせいでたったの数分しか経っていない。
不満をいつまで言ってもキリがない。そう心に刻み、重い扉を堂々と開き、親父のいる書斎に足を向け歩んだ。
正直「嫁などいらない」
つい口に出てしまったが、恋愛などくそだ。ローリエ家を支えるという目的で恋愛はしたくない。きちんと愛したいと思った人を愛したい。
しかし、どう抵抗しても未来は未来だ。預言者だの予知者だの未来を見ることができる者がこの世にはいる。しかし、私からしたら未来は見ても見なくても変えることは不可能。未来を変えることなどできるはずがない。
そう考えているうちに親父が呼びつけた書斎に着いた。さきほどの感情やいつの間にか荒れていた呼吸を整え、扉に手を掛けた。
扉を開いたとき、部屋には、一面に分厚い本がびっしりと綺麗に、汚れや乱雑さもなく並んでいた。その扉の正面奥に親父が眼鏡をかけて何か資料を書いていた。何度見ても、何年も見ても、親父の服にはしわ一つなく、感情にも怯えや緊張というものはないのだろう。
立ち振る舞いや凛々しさが、この目で姿を見た瞬間から素人でも伝わってくる。前にチューターが言っていた言葉を思い出した。
「礼儀作法というものは己に問わず相手の尊厳を守るために使用するものだと考えます。したがって、服装や表情、姿勢、言葉使いなど、日常で何気なく使われるものでも、己や相手の尊厳を守るためには工夫が必要です。本だけを見て書かれていることをそのまま行うことはよくありません。自ら工夫し、相手の立場になって考えることも時には大切です。ホオズキさんはお友達がおられますよね。その方にも礼儀を忘れてはいけません。いいですね?面倒だと感じることもあるかもしれません。しかし、ボロが出てしまえば、そこに付け込まれ利用されることも少なくありません。ですので、対策をするのも大切ですし、信用のある方を作るのも一つの手です。あなたは次期ここの領主になる方。尊厳を失ってはいけません。……さぁ、ホオズキさん。少し休憩を取り、次はお茶会の練習を致します。もし、お誘いをいただいた際に粗相があってはいけません。なので今のうちに身につけておきましょう」
チューターであるアベリアは、教育においては厳しい者だがどうしても授業以外の姿も知っているため、苛立つことができない。
授業終わりは大抵、昼食のころだから誘ってみると笑顔を崩さず「お言葉に甘えさせていただきます。」と言って了承してくれる良い人だ。
だからこそ、話していて楽しい。アベリアは決して自慢をしない。自分語りをするにしても私が問わなければ話すことはない。
しかも大体は、私が口走って話し込んでしまう。だがアベリアはその笑顔という表情を全く変えることはない。私もその笑顔は心地よかったし、これが礼儀作法の授業で受けた表情の大切さなのかと授業の振り返りにも繋がって、礼儀作法が楽しいと感じた。
そして今もなお、そう思う。今目の前にいる親父は表情一つ変えず、厳しく真剣で集中している顔だ。その顔は幼少期から見ていて、かっこいいと顔をキラキラと輝かせていた。それなのに、今になっては恐れ怖がっているのだ。
幼少期など、出来事一つで思いが変わるものだ。今は出来事一つであらゆる思いやその後を想定して、怯え、怖がり、何もかもを恐れてしまう。
これが大人という者だと学んだ。それがローリエ・ホオズキの人生だと。
「お父様、呼ばれて参りました。どうなさいましたか?」
少しの沈黙と共に親父は、書類に書いていた動作をやめ、ペンを置き、手を組みながら私の顔を睨みつけるように見てきた。
「前々から言ってきたが、そろそろ真面目に嫁を作れ」
はぁ結局、その話か。もう聞き飽きた。
しかし、大事なことだからこそ何度も聞く。トラウマ…というほどではないが、私の聞きたくない言葉の一つだ。威圧的な親父とその者から発せられた言葉。怯える条件が揃ってしまった。心は恐れていたもののアベリアの教えや今までの貴族社会での苦労を思い出して何とか体だけは正常でいられた。魂のない人形のように無感情を心掛けた。
「申し訳ありません。何分恋愛をできる関係ではなかったもので」
言い訳を吐きながらも親父の言葉を否定しない程度に反論をした。いつもならば、このまま悩む態勢になるはずの親父が今回は違っていた。なぜなら…。
「では、今度隣の町のリンドウ家が舞踏会を開くと小耳に挟んだ。お前には、その舞踏会に出席してもらう。これは拒否権がないと思え」
荒々しく話す言葉を否定する気にもなれず…いや、心のどこかでは恋愛のできる環境が欲しくて、この話はその気持ちにとっては良いことだと考え、親父には二つ返事で了承をした。
そして、書斎を出る扉の方に手を掛けると、背後から「ホオズキ、お前の子が早く見たいぞ。」顔を見ていなくても分かる。悲しく懇願している。この約25年間、親父の弱いところなんて見たことも聞いたこともない。ましてや親という言葉に甘えず、厳しく叱ってくれ、ある程度の距離感があり、周りから見れば親子関係とは到底思えない。しかし今、親父は親父としての言葉を話してくれた。親父としての気持ちを向けてくれた。その言葉、声色すべてが私にとっては嬉しかった。
長年、貴族だから、親だからと感情を殺していた親父が、親父としてそこにいる。部屋の扉を閉めるまでは威厳を保つ。しかし長くは続かない。扉がきーっとゆっくり閉じた瞬間、感情が溢れ出てきた。
気づけば、下を向き、声を発することなく泣いている。
そこへ、ゆっくりと優しくツクシが寄り添ってくれた。ポケットから温かいハンカチを取り出して目元を拭いてくれた。その雰囲気は親父といたときとは真逆。ほんのり甘く優しく温まる感じ。恋する愛情とはまた別で親密だけど一定の距離にツクシはいる。貴族だからこそ、威厳を保ちたいのに……その時はツクシには「ありがとう」とだけ言って去った。
だが、ツクシも理解をしているようで、「では。」と私の威厳を保とうと努力してくれた。ツクシのもとから離れて言えなかったことを心の中で呟く。
──ツクシ、ありがとう。私のそばにいてくれて。
その後のことはあまり覚えておらず、確実なのは泣くことをやめて自室にそそくさと戻ったことのみ。あまり覚えていないというのは、記憶をなくしたいからなどという戯言ではない。正しくは考え事をしていて自分の行動したことを覚えていない。覚えていてもすぐ忘れるだろう。
そして考え事というのは三つ。
一つはさきほどの嫁についての話。
もう一つはリンドウ家のヘリオトロープ女公爵について。
そして最後の一つはツクシについて。
嫁については前に不満を爆発させて、再発したため。
リンドウ家のヘリオトロープ女公爵については、ヘリオトロープという女は世界一の美貌を持つと貴族の中では噂になっている、私も男であるから気にはなる。しかし、反対に悪い噂も存在する。それはヘリオトロープという女は、わがままで自分勝手、おまけにヘリオトロープの父親があまり良い人とは言えないこと。
そして最後にツクシについて。貴族と専属メイドで地位の差が激しいからと言って恋をしてはいけないわけではない。私は幼少期のころからツクシに思いを馳せている。しかしどうしても思いを伝えることができず、そして男というのに奥手ということもあり今の今まで叶うことがなかった気持ちだ。
幼少期は叶ってほしいと何度も思ったものだ。だが、貴族社会を考えれば不可能だと確信できるほどには情がうごめき、入れ違いなど日常茶飯事。自分の意志に背くことがあれば、手段を選ばない。いや、選ばないという状況にしか発展しない。
上手くいったとしてもどちらかが負担をし不満を持つ。それが情を交えるというもの。そんなところにツクシを連れて行くわけにはいけない。
するのであれば、同じ貴族の者。または精神が維持できる者。幼少期では、結婚というのは幸せになるものと思いがちだが、私たち貴族にとって国の発展の一つに過ぎない。言わば、その結婚に愛や恋などの思いがなくても成立する。
そんな誰もが嫌だと思う状態にツクシを道連れしたくない。恋がどれだけ大きかろうと上手くいかないことは目に見えている。
「ツクシ…恋をしてしまってすまなかった…」
自室の机に肘を置き、どうにか威厳を汚すことのないように、もし部屋に誰か来てもすぐ親父みたいに凛々しい表情ができるために手で顔を覆い、泣いていることを悟られない程度に肩を震わせる。
私にとっては貴族に生まれたということに後悔している。しかし、家族仲を後悔しているのではない。最低でも家族みな、嫌いだという感情は一切ない。子供の時は怒られれば腹を立てることはあったが、それは気の迷いということにしよう。しかも私にとって親父は憧れだ。あれほどの完璧な貴族はほかにいない。経済においても武道においても長けており、なにかする隙も弱みもない。
……さきほどのあの揺れた感情は弱みなのだろうか。はたまた家族思いとして発せられたものなのか。今の私ではその決定打になる言葉が見つからない。しかし、親父の本心であったことは確かだ。あの親父がそのような言葉を口にしたことは今までに決してなかったからだ。私はどちらにしても嬉しいものだ。弱みを見せたということはそれほどに私を信頼し、信用している証拠。また、家族思いであればこんな私を見捨てることなく、愛情を注いでくれている証拠。どのような回答でも受け入れる準備は整っている。
しかし、現実はそう簡単にはいかない。扉を叩く音が私の耳元に大きな衝撃を与えた。扉を叩いた主は、きっとそう強く叩いていないと主張するはずだ。だが、今の私では心臓が跳び、瞬間の電撃を浴びるような感覚に襲われた。
「は…入れ!」
呼吸と威厳を整えたせいで、言葉が強くなり怒鳴ってしまった。だが、扉の主がうろたえる素振りはなかった。
「失礼いたします。今晩の夕食でお父様が舞踏会の詳細を話したいとのことです」
──やはり、それか。
伝えに来てくれたツクシにそれ以上詮索せず、「そうか」と話を流した。
ツクシが去ってからはもう考えないように違う話題を考えた。
そういえば、町で新しい店ができたとか。しかもこの世界では見たことも感じたこともない触感をする食べ物らしい。きっとツクシを誘ったら……。
最近流行の服があるそうで、メイドたちが盛り上がっていたな。それも和服?という華やかな服らしい。ツクシが着てくれたら似合うだろ……。
そして私は考えることを放棄した。いや、正確にはもう終わった仕事なのにその仕事を見直した。しかし見直しても完璧すぎて直しどころかすぐに終わってしまった。この時だけは完璧な自分を悔やんだ。
だが、時間は有限であるため、あっという間に夕食の時刻になった。いつもよりも早く食事場に行き、メイドや執事が食材の乗った食器を並べている最中に、席に着いた。
まだ、親父たちは来ていないのか。
私がソワソワと心揺さぶられているうちに親父とお袋が共に椅子に腰かけた。今見ても仲が良いなと尊敬する。昔から二人は仲が良く、しかし周りに気遣うのかイチャイチャと花を咲かせることは一切していなかった。いつも近くにいるはずなのにその時まで貴族としての礼儀が成っていて私もアベリアも関心と敬意を募らせていた。
「ホオズキ、さきほどにも言ったがリンドウ家の舞踏会は約二週間後に開催される。服装、髪型など身だしなみは整えておけ」
その言葉に頷きで返答する。お袋もその言葉に助力する形で物申した。
「今回の舞踏会は、お見合いのようなものだと聞きました。きちんと良い嫁を捕まえてくるのですよ。幸運を祈ります」
親父とお袋の言葉に敬意を表し、その場に立ち上がり、手を胸に当て、「ありがたいお言葉、このホオズキの胸に刻みます!」と、食事場全体に響く良い声が出た。周りを横目で窺うとメイドや執事は、親同然の満面の笑みを私に向けている。ここで一つ確信した。
私は良い環境で育ち、周りに恵まれている。
思いを加える形で胸に刻み、溢れ出そうになる涙を堪えた。その後は何度か話を交わしたが、断続的に続く話だったため、すぐに食べ終わってしまい、親父とお袋よりも早めにその場を後にした。自室に向かう最中、背後から聞きなれた声がして振り向く。
「旦那様、さきほどの食事場でのこと、胸に染みました。舞踏会…頑張ってください!」
なぜかその言葉を素直には受け取ることができなかった。昔ならば、「ありがとう」の一つ簡単に言えたはずなのに…。
ホオズキにとってこの気持ちが何なのかはわかるはずがない。いや、今の状況では分からないだろう。それほどまでに緊張と困難が積み重なっている。
「…ツ……ツクシはどうなんだ。好きな人はいないのか?」
咄嗟に放った言葉。これは私にとって気になっている質問。ツクシが真面目に答えるかは彼女次第だが、
どうせなら聞きたい。
「好きな人…ですか……」
少しの沈黙のはずなのに私の中では長く感じる。これは沈黙の時に聞こえる時計の針の音のせいなのか。いや、なのかではない。そうに違いない。
「…ふふ、いますよ!」
なんだ今の笑みは…!不敵な笑みというわけではなかったが私からしたら怖い。
「…そうなのか」
悲しそうに発したが、ツクシは気づいていない様子。私はその状況に安堵しつつ、聞いた私がばかだった…そう自分に言い聞かせて話題を変えようと精一杯思考を動かした。
しかしさきほどのツクシの言葉はホオズキにとって一撃が強く、まるで先端が細いが尾に向かって太くなっているものが心臓を貫く。そして瞬きをする間もなくその鋭い槍はホオズキの心臓を通り抜けた。実際には何もないがホオズキの心はそれほどの穴がポッカリと開いている。
黙っている私に疑問を抱きながら少し頭を傾げるツクシは痺れを切らして自ら話題を振ってくれた。
「旦那様はリンドウ家の舞踏会は楽しみですか?」
その質問に瞬時に答えることはできなかった。しかし息を吞み、覚悟を決めて「あぁ、楽しみだ」とツクシを悲しませないようにした。その悲しませないという意志に至ったことは決して、もしかしたらツクシは私のことが好きなのかと心に花を咲かせて迂闊な考えをしていたわけではない。
その言葉にツクシも悲しみを隠すように頭を傾げたが、ホオズキは気が付くことができなかった。
ツクシがホオズキに抱く思いと同様に。
「旦那様が良い方と出会えるよう幸運を祈ります」
「ありがとうツクシ」
ツクシはお嬢様のようにスカートを指でつまみ、礼儀正しくお辞儀をしてから部屋の扉をゆっくりと音もたてずに去った。
その背は、その顔は、雰囲気は、悲しそう。
でもどうしてもホオズキは気付かなかった。鈍いにも程があるが、それほどの覚悟を決めたと捉えたほうがよさそうだ。
ホオズキにも余裕がないのだ。貴族であるからではなく、一人の男としてだ。自分に向けられている思いすら気づかないほどには鈍感だ。ツクシもそれを理解したうえで恋心を打ち明けない。
そんなことを考えているうちに、もう大人も寝なくてはならない時間まで経っていた。
その現状をホオズキは自室の時計を横目で確認して、寝床にゆっくりと思い、鎖にでも縛られているように足を運んだ。
そして倒れるように体を倒し、ホオズキの体や心よりも温かい毛布に全身が安心感に包まれたのか眠りについた。
ホオズキが目を覚ましたのは、まだ日の光が人類に一日の初めの挨拶をする少し前。普通ならば、みな眠いと体を丸めるか寝続けるだろう。
しかし、ホオズキは起き上がり、幼少期から決してやめることのなかった習慣がある。
それは剣術だ。
ホオズキはほかの誰よりも覚えるのが早いがそれを実践するとなると話は別だ。そのため、剣術を磨くためには動き続けるほかはない。
庭に赴き、愛用の木刀で素振りを行う。最近は仕事の量が増えてしまい、腕を使うことも多くなった。素振りをするときは歯を食いしばって同じ動作をする。単純かもしれないが長く続けることが難しい。それにホオズキにはツクシの件や嫁の件など、多くの問題を抱えているため、腕の疲れより今後の人生のほうが重い。
逃げたくても逃げることができない。
だが、実際にはホオズキはいつでも逃げることができる。なぜ逃げないかは言うまでもない。
「親父たちが食事場であれほど真剣な顔で言うんだ」
あの二人が今まで食事場では、無言ではあったがそういった話はしてこなかった。それもあって、ホオズキは逃げることができない。しかし、逃げたい気持ちはホオズキのほんの一握りの思い。そのほかは末代…いやそれ以上までこの家系を続けていきたい。親父たちが続けてくれたように。そう考えている。
「よし、覚悟を決める!」
決意の表れに素振りを休んでいた手を動かし、痛みに耐えるのを条件に覚悟を決めた。
素振りを終えて周りに気を配るとすでに日がホオズキの身長より高く昇って余裕の笑みをこぼしているようだ。
「旦那様、お疲れ様です。もうすぐ朝食ですのでお迎えに参りました」
背後から聞こえる声はいつも呼びに来てくれるツクシがいた。
「分かった、ありがとう」
やはり慣れない。
もう何度も呼びに来てくれるのだが、ツクシがいることもあって毎回剣術を行うときは上半身裸になる。好きな人に見られるのはいつになっても慣れない。
しかし、それを表には出していけない。ツクシも私に興味がないのか、無表情のまま下向いて平然としている。
呼びに行くついでにツクシが着替え用の服を持参してくれ、その服に素早く着替えて、食事場へ向かった。
すでに親父たちがそこにいた。すぐさま自分の席に座り、食べ物を口に運ぶ。
「ホオズキ、昨夜の話の続きだが当日は馬車を用意するから、それに乗ってリンドウ家の舞踏会に向かってくれ」
一旦、食べることをやめ、了承しました。という意を見せるために相槌を打ち、再び食べ物を食した。
その後はいつもと変わらず、運ばれてきた自分のできる仕事を熟し、暇の時間にツクシが用意してくれた茶を飲み干し、再度仕事に戻る。
そして食事の時間では食事場に赴き食べ、自室で寝て起きたら剣術を行う。
それを舞踏会前日まで続けた。
少し隈が目立つ。しかし、何とかツクシが自慢の化粧で補ってくれた。
ありがとう。と軽く相槌をしてなるべくツクシの顔を直視しないように心掛けた。
もう出発の時間になり、親父が準備してくれた馬車に駆け込むように乗って執事やメイドたちが手を振って出発を見送ってくれた。家が見えなくなるくらいに薄っすらと玄関から出てくる親父たちがいて、見送ってくれなかったな。と悲しみに暮れ、ゆっくりと座り直す。
しかしホオズキはキチンと見ていなかった。実際、親父たちは見ていた…いや覗き込むように玄関の扉から目を向けていた。
ローリエ家の領土からリンドウ家の領土まで数時間はかかる。それまで馬車の中…ホオズキの頭の中はツクシのことでいっぱいだった。決意を固めたからと言ってホオズキも一人の男だ。すぐに諦めることはできない。
だがもし仮にツクシよりもいい人を見つければどうだろうか。男とは言え、性欲には勝てない。魅了されてはなすすべなし。
時間はあっという間に今回の会場が見えてきた。もう外は夕方になりかけ、舞踏会の食事は夜食として代用できそうだ。数時間も馬車を運転してくれた者に謝礼をして、綺麗ないろんな色があちらこちらに彩って美しいという言葉が似合う扉を押し、夜とはまた別な大きなシャンデリアに光を当てられ、眩しいと感じ、手を目の先に光を遮るように耐えた。
「まだ、主役のヘリオトロープ女公爵はお見えではないのか?」
世界一の美貌を持つと貴族の中では噂されているヘヘリオトロープ女公爵が今いる全体に対し半数の男がどよめいていないということはないと考え着くだろう。
「しかし、ヘリオトロープ女公爵という者、一回でも目に入れたいと思っていた」
早速、長机に置かれた食事を一つずつ取り、健康にも気を付けた。
「今回は娘主催の舞踏会に来ていただきありがとうございます」
今、話している者はヘリオトロープ女公爵の父であるリュウキンカだ。圧のある声だが、私はあの者の裏を知っている。そのため、今吐き出した言葉に家族思いの欠片もこもってないことは重々承知だ。その裏とは、リュウキンカはヘリオトロープ女公爵のことや母、ガーベラのことを一ミリも家族として見ていない。見ているとすれば経済として、権力として。
──みなが口にするだろう。
「なぜ、ガーベラはリュウキンカと結婚をしたのか……しかし、そのおかげでヘリオトロープ女公爵が生まれたのだから喜ばしいことだ」と。
これはもう手のひら返しとそう変わりない。もう結婚した美しきガーベラには興味なく、その娘を狙い、目を光らせている。これぞ、男の本能というものだろうか。同じ男だが、本当にみっともないと思う。顔が良いだけで、恋に落ち、そして求婚をする。貴族社会では当たり前なのだろうが。私の人生ではそういった考えに至るまで相当な時が必要だ。
結局、男にとって女は、性的な者かつ経済的な者にしか見えていない。私の初恋は、ツクシだが、元々はあの者の優しさに惚れたのだ。…それが七割。残り三割は…顔。だが、決して顔のみで惚れたのではない。断じて違う。
もう考えるのはやめよう。せっかくの美味しい食べ物が台無しになってしまう。
ホオズキは、そう思いながら目の前に並ぶ食べ物の数々にフォークを差し、自分の皿にのせて口に放り込む。
…美味しい。
今、ホオズキの頭の中はそのことで一面染められている。
「おい…あの美しい女、ヘリオトロープ女公爵じゃねぇか?」
美味しい食べ物を堪能しているときに耳に届いた言葉は他の男の小言だ。美しさには興味ないとはいえ、公爵の名を持つ者なため顔を向けるほかはない。
そして今見ている者のほとんどがこう言う。
「お綺麗な女だ。ぜひ、嫁に持っていきたい」
しかし、その思いは叶うはずがない。
なぜならば、その美しき者はある男のもとへ急ぎ歩き出した。まさに獲物を追いかける強き獣のように。
その光景をホオズキは横目に気にも留めず、他の女性に目を向けた。ホオズキ以外の男のほとんどは美しき者に目を奪われ、その者の行動に理解が追い付いていない。
ホオズキはヘリオトロープ女公爵以外の者を見て、良い人はいないか選別している。そこへ、会場端のソファに腰を休め、今の会場に馴染めない者がいた。そして、瞬間にホオズキは目を奪われてしまった。もう、あの女性を忘れ今は、目の前に静かに座ってなんとか溶け込もうと必死な女性に。
「そこの美しい女性。私と話さないか?」
その言葉には恐れや不安は一切なく、話したい一心だとお見受けできる。また、その女性もその問いに答えるように口を開き、こう申した。
「はい、わたくしとですか?」
よそよそしく話す女性は、まだ晴れるのに時間がかかる天候のようであった。
「私は、ローリエ・ホオズキ。あなたの名前は?」
「わたくしは、シオンと申します」
彼女は家名を明かさず、名前のみ答えた。しかし、ホオズキにとってそんなことは大したことないに等しい。それほどまでにシオンのことが気になり、心の中は彼女一色なのだろう。
「体調が悪いのか?」
今のホオズキは、いつものように礼儀を欠かさずに話すことがままならない。だが、紳士らしく決して女性から話題を出さないように必死だ。
「…えぇ。生まれつき体調が少し悪くなる時が多々あります。今宵も、本当は体調を万全にしようと早めに寝たのですが、この舞踏会に来る際、馬車で酔ってしまい、今ここでお休みさせていただいています」
「そうか。では、ここで話を続けよう。……私と付き合ってくれないか?急に言ってすまない。私はあなたに惚れ、嫁として迎えたいのだ」
「………あなた様はわたくしのことをご存じで仰っていますか?わたくしの体は、今日のように晴天の昼でさえ、外に出てしまえば体を壊し、部屋に引きこもる形になってしまいます。そういったことがほぼ毎日ございます。それでも!……あなた様は求婚をしますか?」
今、ホオズキの心は今後のことを軽い想像でしか物を言えない状態。なので。
「あぁ、私はあなたが一緒にいてくれればうれしいぞ。その体も愛そう」
「その言葉に嘘偽りはありませんね?」
「ない」
ホオズキは断言した。
しかし、彼の心は今後どうなるのかは、今はまだ分からない。
その後、二人は順調に進んだ。
ホオズキの両親は、シオンを見るなり、嬉しく迎えた。そして、今でいうスピード結婚を行った。そして、離れに家を建て、二人と複数の執事、メイドを招き、暮らすことになった。
だが、その人生は長くは続かなかった。
──あぁ、男はなんて自分勝手なのだろうか。
いやそう思うのは、ホオズキだからなのか?
結婚して何年かは、病弱に生まれたシオンを愛し、ベッドで横になる姿を見てもなお、美しいと思い、過保護に子を見るように看病していた。
シオンが欲しいと言ったものはなんでも手に入れようと努力した。
それが小さなものばかり。
りんごを剥いてほしいだの、抱きしめてほしいだの、いやシオンのことだ。軽いものしか頼まなかったのだろう。
とうとうホオズキは聞きたくなくなり、シオンへの愛が薄れていった。
しかもその願いを煩わしく思う。
だが、シオンはそれに気づいていても離婚を言い渡すことも距離を置きたいとも言わない。それはホオズキも同じ、一度でも美しいと思ったのだ。簡単に愛情がなくなっても外見での考えは完全には消えなかった。いや、病気が治って今よりももっと美しく輝く女性になると、信じ願っている。
「あなた様は、私のことをもう愛してはくれないのですか。…いや愛してはくれているはず、ただこんな体に生まれた私が嫌いなだけ」
シオンはもう壊れてしまった。
希望を捨てることを忘れ、タイミングを失くし己やホオズキを傷つけないような考え方をして気を逸らす。これこそが、愛に落ちた者たちの関係。
事件……修羅場が今宵に起こってしまう。
「あ、あなた様。その女の方は誰なのですか?」
久しぶりに体が動き、あの舞踏会のホオズキのように、自らが進んで彼の元へ歩み寄った。
その考えに至ったのは、ある話を聞いたからだろう。
「ねぇ、聞きましたか?執事長。ホオズキ様がシオン様以外の女の方が好きらしいですよ」
「…ここで話すことではありません。誰かに聞かれていたらどうするのですか?シオン様がいたら」
「大丈夫ですよ。だってシオン様は……」
シオンはその後の話が聞こえないほど、驚愕する話を耳にした。
ホオズキ様、わたくし以外を…。いいえ、ホオズキ様がそんなことをするはずがございません。
噂です。噂だから、気にすることは…。
シオンの目からは大粒の涙がいくつも落ち、止まることを知らない。
ならば今夜、ホオズキ様の元へ行きます。今日はいつもより体が動きます。これも神様が私を前に押し出して噂が違うと証明させるためです。
しかし、その場面はシオンにとっては最悪な結果。それが現実になってしまったのだ。
「あなた様、その横にいらっしゃる酔いに負けていらっしゃるお方は誰ですか?」
周囲を見渡すと、お見受けの二つのグラスに多少のアルコールと思われるものが入っていると読み取れた。
世間をあまり見てこられなかったシオンでさえ、今の状況が理解できている。
そう、噂通り浮気だ。
「シオン、これはその…誤解なんだ。ただ二人で話しているだけ!お酒は、気分転換だ!」
ホオズキは次々と口から嘘を並べ、もう一息でぼろを出すような雰囲気だ。だが、シオンはそんなことを望んではいない。望んでいることは二つ。その女がいてもなお、自分のことを愛してくれるのか。そして今後その女以外にも浮気をするのか。
元々、シオンは結婚自体できないと思っていて舞踏会での出来事は夢のようだと考えている。そして結婚という幸せを手に入れて、心が揺らぎ、ホオズキが浮気をするだろうと予知ではなく覚悟を決めていた。結果的には浮気をされたが、さほど彼女は悲しみも堕落的な思いも湧き出ることはなかった。出たのは、「それでも、私を捨てないでほしい」という願う言葉。
だが、その言葉を聞けばホオズキは現を抜かし再び浮気をする。シオンも器が広いと噂されていても人間だ。いつかは限界が来る。今はまだ来ないだけ。
「ホオズキ様、わたくしのことはいいのでその女性と楽しまれてください」
言い捨てるのと同時に開いたままの扉を閉めた。
その扉は二つの意味を持つ。一つは現世の開いたままの扉。もう一つは、ホオズキへの軽蔑と哀れみ。
そして噂好きなメイドが今回の出来事を館中に言いふらした。しかし、思ったよりもほかの執事やメイドは驚くことはなかった。
あったのは一言。
「やはりですか」
一つの糸が切れた瞬間、ホオズキは隠す必要がもうなくなったと安堵し、その後はシオンが近くにいてもお構いなしに女を呼んでは欲の発散に使うだけ。決してシオン以上の関係にはならなかった。これは、爵位のこともあるのか。はたまた…。
彼女はその後に考えることはなかった。考えたくもないことをわざわざ考えるほど大馬鹿者ではない。
「シオン様!いいのですか?!ホオズキ様がシオン様以外と仲睦まじい様子になられても!」
ある一人のメイドが注意のような言葉を発し、シオンは固まったまま沈黙を挟む。しかし返ってきた言葉に生気はなかった。
「いいのです。ホオズキ様が幸せであればそれで…わたくしはそれだけで嬉しいのです」
メイドは絶句。部屋の中では哀れみと憎しみの混じった空気が漂うことも知らず、怒りも忘れ、堕落するのが素人でもわかる。
それ以上、メイドはシオンに問うことはなく、必要最小限の動きで茶を入れ直し、部屋を去った。
立ち去った後の部屋には哀れみは残りつつ、憎しみが消え去り、悲しい雨が降り注ぐ。悲しい雨は雫一つが花びらに当たれば、円を描くように枯れて崩れる。
「あなた様は、きっと今も心のどこかでわたくしのことを思っていると信じています」
ベッドで一つの動きさえないシオンは、口だけを動かし、自分の不安を払っている。
シオンは知っている。もう、ホオズキが自分のことをあまり思ってなく、他に気を取られるくらいに精神が安定していないのだと。
だが、それを分かって理解したうえで別れを切り出さず、今を生きている。もし、彼女自身から話せば、離婚という形にはできる。でもそれをしてしまえば彼女の人生は終わり、今よりも辛いものになると悟っている。また気が進まないのは彼女の勇気の無さだ。一つの言葉を言えば済むことをあの人の思いという重い鎖で縛られて抜け出すこともできない臆病者だ。辛口で話さねば、シオンに同情してしまう。同情すると勇気の一つもできず、このまま進み、死んでしまう。
あの浮気事件からホオズキは浮気をする回数や頻度が増えて、シオンが近くにいてもお構いなしになってきている。
メイドや執事たちもシオンの同情を通り過ぎて呆れを感じている。
「シオン様!?シオン様、大丈夫ですか!?」
静まり返った深夜。窓から外を覗けば、いつも通り街灯がいくつか灯っていて町の者も眠りに着こうと急ぎ焦る時間帯。その明かりが消えるような町と息を合わせるようにシオンも冷たく、動きを亡くした。
慌てたメイドはすぐに寝間着の上から耳を押し当て、その段々と動きを無くす揺れを聞く。
…ドクン…ドクン……ドク………ン………。
消えゆく心の鼓動を正常化するために、メイドは呼吸を確認して、ないことに焦りを感じた。
「誰か!!医者を呼んできて!!」
自分の知識をフル活用し、まずは胸の真ん中の固く窪みがある場所に手首の固い部分を当てる。
1,2,3,4……。
三十回したあとは休むことなく、人工呼吸を瞬時に行い、それを繰り返す。
「生きて!シオン様生きて!」
叫びを動かす手の勢いに乗せて時間を忘れるくらい繰り返す。
しばらくして、医者が大きな声を廊下に響かせて近くに歩み寄った。そして、スムーズに交代して繰り返し胸骨圧迫、人工呼吸。
心肺蘇生をしてから時間が早く経ったと感じたのは、医者の言葉を耳にしたからだ。
「……もう、無理です…ね。始まってから10分は経ったはずです。おそらく子供のころにできた病気が再発してしまったのでしょう」
病気…シオン様が患ったものは『散炭病)』という名を持ち、主な症状は吐き気、嘔吐、精神混乱、血液硬化、心拍減少、幻覚、そして唯一シオン様のみ持っていた症状で、脚の膠着状態。
これらは数分耐えればよくなるもの。しかし、脚の膠着状態だけは異なり、いつどこでどのような形で発症するのかが分からない。だからこそ、歩くことさえ怖えてしまう。
「ローリエ・シオン、死亡を確認」
医者が優しく白いハンカチを顔に被せ、涙をハンカチの代わりに手で拭った。周りの人たちは、どうにか声を堪えても涙が出てしまっている。ハンカチで拭う者や拭うことも忘れ、泣く者もいる。
しかしこの部屋…この館にホオズキの姿は見当たらない。見つけたとき、暗く闇に囲まれた世界から馬車を経て館へ戻ってきた。それも何も私は悪くないと堂々たる姿勢で。メイドたちはその姿を見て腹が立ち、泣くのすらやめ、怒りが芽生えた。
「え、シオンが死んだ?…いやそんなはずはない。…嘘だ。嘘だ!」
慌てた様子に声も震え、感情が揺らぐ。
今の状況は簡潔に言えば、『当たり前だと思っていた大切なものを失って、消えてから大切なもののありがたさに気づき、当たり前だったものに後悔している』といった具合に己の心を責め立て嘆き崩れる。
哀れなり。そして悲しい者。失ったものは元には戻らないことを理解していないのがホオズキのダメなところ……いや、本来は想像してこそ、理解が深まるもの。だからこそ、今回の問題はホオズキの想像力の無さと己への甘えと愚かさ。
「シオンよ、すまない…すまない」
膝を自室の冷たく悲しみに包まれた床につき、雪崩のように倒れ、朝の陽ざしが窓から注がれるまでホオズキは泣いた。頭が痛くなろうが、声が枯れようが、貴族という威厳が壊れようが、関係なく悲しんだ。
周りの人はその姿を見ても「足りない」と言うだろう。それほどまでにシオンは慕われていて周りがシオンに支えられてきたのだと改めて実感した。シオンは優しく明るい方だった。何事にも怒らず決して文句も吐かない。言うとするならば、冗談交じりの言葉と優しく朗らかな笑顔を添えて。
ホオズキは確実に大切かつ大事なものを失った。
しかし、その報いを返すことはできない。なぜならば。周りがなにを言っても貴族としての威厳という鎖に縛られて、ホオズキ自身が落下することを拒んでいる。
結局、シオンの死因は病気の再発、という形となりホオズキの浮気は民に知れ渡ることはなかった。今までのホオズキなら喜ばしいことだろうが、今回は違う。失ったものが大きすぎるのだ。己の傷も深い。
「すまない…本当にすまないシオンよ。戻ってきてくれ……」
今宵も願うが神はその願いを聞き入れることもしない。それが人生であり運命だ。もうホオズキの相手をしてくれる者は館には存在しない。館を出て民たちに相談をすれば少しは心が晴れるかもしれない。しかし今話せばほころびを出し、民たちにホオズキの浮気がバレて、信用を失う。そして今はそんな勇気を持ち合わせていない。持っていても現状は変わらない。
大切なものを失えばどうなるかは目に見えているはずなのに……哀れだ。
その後、ホオズキは死んだ。
死因として自ら崖から落ちた。その遺体が見つかったのは死んでから三年の月日が経ったころ。それまでホオズキがいなくなっても探す者がおらず、その崖の下を探検家が歩いているときに生前、シオンから受け取った素朴だが小さなネックレスが光ったそうだ。
これは神がホオズキを助けるために仕向けたことではない。また神でさえ、ホオズキを助けようとはしない。だからこれは……。
大切なものはいつか突然、離れ離れになる。だからこそ今、当たり前を当たり前だと思わず、大事にするしかない。
「シオンとホオズキよ、死の世界でまた出会い、そこでは失敗のないように。頑張りなさい」
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