含羞 〜在りし日の戀〜

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なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ

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 その人は、美しい人でした。
 とても、美しい人でした。


 その年の夏は特別な暑さでした。猛暑日と最高気温を日々更新しているような、毎日でした。
 お盆も過ぎて、八月も終わろうとしているのに、一向に気温の下がる気配もありません。流石に最高気温を更新するということはなくなりましたが、気温は例年よりも高いままで過ぎていくのでした。
 その日も、夕方になると恒例のように襲ってくるゲリラ豪雨が降っていました。
 高校三年生の夏休み、受験が控えていました。
 夏期講習を受けている予備校の教室の窓からぼんやりと豪雨の様子を眺めていました。帰る前に止むだろうか、などと講義もそっちのけで考えていました。豪雨は窓の外の景色を霞ませて、先生の声すらかき消してしまいそうです。
 傘を忘れて横断歩道を駆け抜けていく人、傘さし運転の自転車、諦め顔の雨宿りの人たち、水飛沫を撒き散らす自動車、窓の向こうは、まるで激しい濁流の中の出来事のようで、でも、どこか透き通っています。
 雨に濡れるのは嫌いなのに、なぜかこんな時はあの豪雨の中に駆け出したくなってきます。
「風間、雨は止みそうか?」
 教壇から先生が注意します。くすくすと生徒たちが笑い出します。「もう少しで終わりだから、ちゃんと聞いとけ」
 わたしは一言謝って、愛想笑いのようなものを浮かべます。まただと思うけれど、それがわたしの癖——習慣のようになっているのです。
 わたしはいつだって『笑っている』のです。家族や友達から、よく言われます。ちょっとたれ目なのがそう見せているようです。だからわたしは笑います。濁った空気に風を吹かせて、少しでも透明になるようにと。
 でも、そんな綺麗事じゃない。ただ、これ以上濁らせたくないだけ。笑えば濁った空気を上書きしてくれるから。濁った空気を違う濁りで誤魔化しているだけ。
 もう少しで今日の講義も終わります。ゲリラ豪雨も降りはじめと同じように、いきなり止んでしまうのでしょう。雨の中に駆け出すことはできそうもありません。
 少しずつ夜を深める窓の外を眺めながら、ぼんやりと頬杖をついていました。

 講義が終わって、教室を一歩出ると、そこに待っているのは、容赦ない熱気と湿気でした。冷房に慣れた体にはかなりつらいものです。
 ゲリラ豪雨は講義の終わる頃には、止んでいました。少しは気温を下げてくれたらいいのに、湿度を増すだけで、今夜も熱帯夜が決定です。
 汗が一気に吹き出し、Tシャツを濡らしていきます。こんなことなら、豪雨のなか、一息に濡れそぼったほうがましだと思ってしまいます。
 すでに夜の八時近く、完全に辺りは暗くなって、飲食店やアパレルから漏れる灯りが街を照らし出していました。
 でも、そこは田舎の地方都市です。テレビで見る大都会とは比べ物にもならない、お粗末な灯りです。それでも予備校の入っているビルはこの街の繁華街に近く、学生や会社員、家族連れなど、それなりに人で賑わっています。
 ファストフードの誘いを断り、わたしは教室のみんなとも別れて、自転車置き場に向かいます。ここから十分ほど走れば家に帰り着きます。
 自転車をこぎ出し、風にあたれば、少しは涼しくなるかと思いましたが、温気が体中にまとわりつくようで、不快指数が跳ね上がるようでした。
 小さな街の繁華街などすぐに終わり、住宅が目立ち始めます。駅に近い方にアパートやマンションなどが建ち並び、離れるほどに戸建ての住宅が目立ち始めます。わたしの家は戸建てで、比較的奥まった場所に存在しています。
 五分ほども走ると小さな川沿いの道路に出ます。幅は二、三メートルほどの用水路のような川です。両岸に一車線ずつ道路があり、川に沿って桜並木が続いています。春には桜目当てのそぞろ歩きの観光客のような人たちで、結構賑わいを見せるスポットです。もちろん今は葉桜の季節で、人通りもまばらです。その代わりのように、セミの合唱がうるさいほど響き渡っていました。
 この辺は駅近で春の景観もいいことから、街の中でも一等地に挙げられていました。比較的背の高いマンションが並び、田舎街ながらちょっとした富裕層が暮らす一角でした。
 川沿いとはいえ、吹く風は生暖かく、加えてセミの鳴き声、暑さはいや増すばかりでした。
 急いで自転車を走らせても、体力ばかり使って、却って熱くなるだけだと思い、のんびりとペダルを漕いでいました。帰ったら真っ先にシャワーを浴びたい、そして、夕飯はなんだろうなどと、愚にもつかないようなことを考えていました。
 川沿いの道路の中ほどまでに差し掛かった頃、前方に小型トラックが停まっているのが見えました。歩道に半分乗り上げた状態で、アイドリングのまま、ハザードランプが点滅しています。
 近づくにつれて、荷台に描かれたロゴが読み取れるようになってきました。わたしでも知っている引越し会社の名前でした。
 トラックが停まっているのは、とあるマンションの前でした。それはこの街でも特に高級と言われるマンションです。
 わたしは、手前までくると、自転車を停めていました。
 なんとなく、マンションに引っ越ししてきた人に興味を持ったのでした。こんな高級マンションに住めるような人はどんな人なのだろうかといった、単純な好奇心でした。
 わたしにはまったく関係ないけれど、ちょっとした野次馬根性も混じっていたのかもしれません。
 ここで待っていれば、すぐに出てくるのかという、素朴な疑問もわきましたが、程なくして、マンションのエントランスから話し声が聞こえてきました。
 自動ドアが開き、まず出てきたのは会社のロゴの入ったキャップとポロシャツを身につけたふたりの男性でした。地声なのか憚りのない大きな声で話していました。
「いやー、すみませんでしたね。渋滞に巻き込まれなければ、もっと早く終わらせられたんですけど。こんな時間になっちゃって」
 ふたりの後から出てきたのは、四十代後半くらいの品のいい感じの女性と、もうひとり、二十歳前後に見える若い女性でした。きっと親子なのでしょう。雰囲気が似ていました。
 若い女性は男性たちから身を隠すように、母親の背中に身を寄せるようにして、立ち止まりました。
 一目見た瞬間、時が、とまりました。
 蝉の声もやみ、蒸し暑さも忘れるほどでした。
 わたしは自覚もないまま、またがっていた自転車から降りていました。呆然と、立ち尽くす、という表現が適切なほど、圧倒されていました。
 マンションのエントランスから漏れる、ぼんやりとした灯りに浮かび上がるその人は、とても美しかったのです。
 歳は二十歳くらいでしょうか。終始俯き加減で、わたしからは横顔だけしか見えませんでした。身長は一七〇センチはありそうで、小柄なわたしとは一〇センチ近く離れていそうでした。長い髪を後ろで無造作に結んでいました。化粧っ気のない肌は白く淡く、切長の眼が、意志の強そうな雰囲気を醸し出していました。
 ざっくりと着こなしたTシャツとスリムなジーンズは、引っ越しの荷物を整理するために、動きやすい服装を選んだためなのでしょう。全体にラフでありながら、長身とスタイルの良さで、決して着崩れていない、気高さのようなものまで感じられます。
 その人のまわりだけ、透明の涼やかな膜で覆われているようでした。その特別なオーラは、雑誌やテレビで見る、モデルから発せられるもののようでした。
 実際、わたしはただただ見惚れていました。時間も忘れ、暑さも忘れ、その人に魅入っていたのでした。
 母親らしき女性と業者の男性が簡単に挨拶を交わしていました。それが終わると、業者のトラックは走り去っていきました。
「遅くなちゃったわね」
 女性が後ろを振り返りました。「少しお腹がすいたわね。何か食べにいきましょう」
 女性に話しかけられたその人が顔を上げました。その時、ようやくわたしの存在に気がついたようでした。
 さぞかし、わたしは間抜け面を晒していたと思います。自転車を支えたまま、黙って突っ立って、その人を凝視していたのですから。
 その人は、わたしを睨みつけるように、訝しげに、眉根に皺を寄せて怒っているかのように、見つめるのでした。
 わたしはその視線を受けてなお、まともな反応ができませんでした。
 睨まれて萎縮して、立ちすくんでいたわけではありません。
 わたしは新たな気持ちで、その人に見惚れてしまっていたのです。
 こんな怒ったような表情ですら、美しい。
 すると、女性のほうも、その人の視線の先にいる、わたしの存在に気がつきました。
「なに、知り合いなの?」
 女性の問いかけに、その人は無言で首を振りました。
 わたしはそこでようやく我に返ったのです。セミの声や、生ぬるい空気が、一気にわたしを包み込んできました。
 わたしは全身がカッと熱くなりました。顔も真っ赤に染まっていたと思います。背中にはさっきまでとは違う種類の汗が流れてきました。
 いつもなら、こんな気まずいときは、ごまかしのような、薄ら笑いで切り抜けようとするのですが、なぜかこの時はそれができなかったのです。
 無遠慮で、覗き見のような恥ずかしい行為がばれたという、思いが強かったのです。
 わたしは俯いて視線をそらすのが精一杯でした。
 何か言い訳の台詞を必死で探すのですが、頭は真っ白になって、なにも思いつきません。
 わたしはもともと、他人と喋るのが苦手で、初対面の人だと尚更でした。しかも、自分に非があるような場面で、とても冷静に考え事などできませんでした。
 わたしにできるのは、すぐにでもこの場を立ち去ることでした。自転車のハンドルを握る手に、力が入ります。このまま、自転車に飛び乗って、逃げ出してしまうことしか、思いつきませんでした。
 顔を上げなくても、その人の訝しる視線は、痛いほど感じられました。
 まさに自転車にまたがろうとした時でした。
「ちょうどよかった、ねえ、あなた——」
 それは母親のほうの声でした。明らかに、わたしに呼びかけていました。同時に足音も近づいてきます。
 わたしは顔を上げられないまま、身を硬くして、立ちすくむことしかできませんでした。
「地元の子なの?」
 思いのほか、柔らかい声音でした。少し安堵しながらも、顔を上げることはできませんでした。辛うじて、小さく頷くだけでした。
「わたしたち、今日引っ越してきたばかりで、この辺のことよく知らないの」
 やけに声が近いと感じて、おずおずと顔を上げました。予想していたよりも間近に女性の顔がありました。しっかりと化粧をして、歳相応のものは感じられましたが、この女性も、やはり綺麗な人でした。
 娘の年齢から考えて、四十代後半だと思われるのに、とても若々しく、活力にあふれ、どこか人を惹きつける、凛としたオーラを感じました。
 しっかりとわたしの目を見て話しかける様子は、自分に自信を持っている人特有の、ある種の傲慢ささえ感じられます。
「この辺に、食事のできるところはないかしら?」
 女性の視線の圧から逃れるように、さりげなく視線をそらしました。
 エントランス付近に佇んだままのその人は、すでにわたしに興味を無くしてしまったかのようでした。俯いて、ぼんやりと一点を見据えたまま立っていました。女性とは真逆の存在感でした。美しいけれど、廃退的で生命力を感じられない、自棄とも諦念とも受け取れる、そんな雰囲気でした。
 その人の佇まいも気にはなりましたが、それよりも、その人がすでにわたしに関心がないことのほうが、寂しかったのでした。
 女性の方に視線を戻して、飲食店の集まっている駅前の道順を説明しました。
「この川沿いの道をまっすぐに行って——」
 人見知りのわたしは、しどろもどろになって説明を続けました。
 わたしのわかりにくいだろう道順を聞きながら、女性は微笑みをたやしませんでした。
「ありがとう。駅のほうに行けばいいのね」
「でも、歩いて行くのには遠いかもです」
「だいじょうぶよ、街の様子も知りたいし、散歩がてらにちょうどいいわよ」
 わたしはそんなものかと、黙って頷きました。もうそろそろ退散の時です。あまり遅くなっても、母に心配をかけてしまいます。
 わたしは名残惜しげにその人のほうに視線を走らせます。
 一瞬、目が合ったように感じました。気のせいかもしれません。顔はわたしのほうに向いています。なのに、わたしではない、なにか違うものを見ているようでした。
 その人はまた俯いてしまいました。
 自分でもおかしくなるくらい、わたしは落胆していました。その人はわたしにまったく関心がないのだと、思い知らされたようでした。
 肩を落としながら、自転車にまたがることも忘れて、ゆっくりと女性の前を通り過ぎました。
「あら?」
 女性が声を上げました。わたしはまだなにか用があるのかと、立ち止まり振り返りました。女性はわたしの自転車を見ていました。
「あなた、福綾女子の生徒なのね? 何年生かしら?」
 わたしは自転車通学なので、許可証の鑑札シールが後輪の泥除けに貼ってあるのです。女性はそれに興味を示したようでした。どうして、と思いながらも、隠すほどのことでもないので、三年生だと答えました。
 女性は満足そうに微笑んで、そうなのね、と何度か頷いていました。
 わたしは不意にいたたまれなくなりました。ただの片田舎の高三の女子とファッション誌から抜け出てきたような親子、しかもこんな高級マンションに住んでしまえるのです。
 立場というのか、格というのか、ともかくわたしとは住む世界が違うのです。自分が卑屈になっているようで、とにかくこの場を離れたくなりました。
 それでも、その人の姿をもう一度見てみたいという気持ちは抗いがたく、未練がましくエントランスのほうに顔を向けました。
 その人は変わらず、ぼんやりとそこに佇んでいました。淡い灯りに浮かび上がるその人は、とても美しいのです。それは消え入る刹那の美しさ、儚さの美しさ。
 いつ消滅してもおかしくない、霞のようでした。
 どうしてそんな印象を持ってしまったのか、消えてほしくはないのに——。
 わたしは自転車にまたがり、ペダルに力を込めます。
 ありがとうという、女性の声を背に、わたしはグングン、スピードを上げていきます。
 熱帯夜がわたしを包み込みます。生ぬるい風にわたしは現実を取り戻すようでした。背中を流れる汗が、嫌なふうにシャツを湿らせていきます。
 セミの声は相変わらずうるさいほどです。それでも、その中に物悲しい、晩夏を思わせる声も混じっています。
 八月がもうすぐ終わろうとしています。九月になれば二学期が始まり、わたしたち三年生は、最終的な進路を決めなくてはなりません。漠然と大学、もしくは短大に進学を希望してはいるものの、具体的にいきたい学校も決められていませんでした。
 わたしはなにになりたいのか、そもそも、わたしは何者かになれるのか、それすらも見通せてはいませんでした。
 その人は何者なのでしょうか。
 また会えるだろうかと、その人の住むマンションから遠ざかるほどに、気持ちは強くなるのでした。
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