含羞 〜在りし日の戀〜

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その時囚人は、どんな心持だらう

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 いつになく短い式も終わり、わたしたちは教室に戻っていました。
 先生が来るまでの間、教室をざわつかせているのは、もっぱら、転校生の話題でした。わたしのクラスの位置からでは、遠目でしか観察できなかったので、憶測の域を出ませんでした。
 洗練された、お金持ちっぽい、両親の離婚、左遷、所詮、女子高生の想像力など、こんなものです。
 背が高い、髪が長い、制服がおしゃれだった、外見に対するものにも、具体的な感想は聞こえてきませんでした。
 なのに、綺麗な人だったと、誰もが口をそろえていうのでした。
 はっきりと顔が見えたわけでもないのに、なぜかそこだけは一致しているのです。
 わたしは流れてくる会話を聞くともなく聞きながら、ぼんやりと席に座っていました。
 でも、心はざわついています。平静を装いながらも、体温は上がりっぱなしでした。
 さりげなさを装って、教室のドアに視線を向けます。もうすぐ姿を現すはずの転校生を、心待ちにします。でも、誰にも悟られないように、人知れず、密やかに——。
「日向——」
「え?」
 顔を上げた先には、沙月ちゃんの顔が、やけに間近に接近していました。もう少しで触れてしまいそうな距離感に、沙月ちゃんもわたしも、慌てて顔を離しました。
「ど、どうしたの?」
 わたしは吃りながら、問いかけます。照れくさくて、目を合わせられません。こころなしか、顔が上気しているようです。それは沙月ちゃんも同様で、あさっての方向を向いてしまいました。
「いやー、どうしたのって、どうもしないけど、どうも気になちゃって」
 言っていることが支離滅裂になっているようだけれど、わたしも少しパニックになっていたので、そこを突っ込むことはできませんでした。それでも沙月ちゃんが何かを気にかけてくれているのだけは理解できました。
「気になるって、なにが?」
 小麦色に日焼けしているのに、なぜか顔が赤いのだけははっきりとわかってしまいます。熱った顔を冷ますように、手のひらを団扇で扇ぐようにひらひらさせています。
「なんか、ぼんやりしたり、ソワソワしたり、いつもの日向じゃないみたいでさ」
「そうかな? ぼんやりしているのはいつものことだし、ソワソワなんてしてたかな?」
「してるよ。落ち着かないみたいだし、考え事してるのか、難しい顔したりしてたし。今だって、顔も赤いし」
 顔が赤くなっているのはお互い様だし、沙月ちゃんのせいだとも言えませんでした。でも、沙月ちゃんは本当にわたしのことをよく見ているなと、感心してしまいました。
 うまく取り繕っていたつもりで、実はまったく隠せてもいなかったようです。
 そんなにわかりやすかったでしょうか。
「ダイジョウブだよ。気にしすぎ」
「だったらいいんだけど、熱中症にでもなったんじゃないかと思って」
「心配、かけちゃった?」
 わたしはちょっと上目遣いで、沙月ちゃんの顔を覗き込みます。
「え、心配ってほどでもないけど……」
「ありがとうね、沙月ちゃん」
 わたしは優しい沙月ちゃんが嬉しくて、素直にお礼を言いました。こんな直球に弱い沙月ちゃんは、せっかく治った顔の赤みをまた復活させるのでした。拗ねたように、怒ったように、いちばんは照れ臭そうに、そっぽを向いて、口の中で何かモゴモゴ呟いていました。
 沙月ちゃんはこんなふうに、いつもわたしのことを気にかけてくれています。朝も、わたしを見つけると、真っ先に挨拶をしてくれます。いつも聞き役のわたしを会話の中に導いてくれるのも、沙月ちゃんです。
 一度何気なく尋ねてみたことがあります。どうしてわたしなんかに構うのかと。
『ほっとけないんだよ』
 この時も、ほんのりと顔を赤らめて、そっぽを向いて答えてくれました。
 同じ歳の女の子に、ほっとけないと言われてしまうわたしもどうかと思います。例えばこれが男の子だったら、心がときめいたりするのでしょうか。あいにく過去にそんな経験のないわたしには、想像するしかありませんでした。それはそれとして、沙月ちゃんの中で、わたしは不甲斐なく、頼りない存在なのだなと、実感してしまいました。若干、ヘコんだのも事実です。
 でも、照れ臭そうにする沙月ちゃんからは、馬鹿にしたり、見下したりする感じはなく、その言葉に、甘えてもいいのかなと思わせる温かさがありました。
 沙月ちゃんの優しさに寄り添っていれば、クラスの中でも孤立することはないでしょう。けして仲間はずれにもされないでしょう。少し、沙月ちゃんを利用しているような後ろめたさを感じないわけでもありません。でも沙月ちゃんなら、それでいいよと、言ってくれそうに思います。わたしが遠慮したり、卑下したりすると、そんなことないと怒られそうな気がします。わたしの都合の良い解釈かもしれないけれど、もっと頼っていいよと、笑ってくれそうに思えます。
「ねえ、日向——」
 目を合わせようとしないのは相変わらずだけど、沙月ちゃんの声のトーンが少し変わりました。真面目な話をしようとしている時の声でした。でも、心なしか、いつもの沙月ちゃんらしくなく、言いにくそうに頭を掻いたりしています。こんな沙月ちゃんは初めて見るかもしれません。
 しばらく逡巡して、思い切ったようにわたしの眼を見つめてきました。
「転校生のことって、そんなに気になる?」
 わたしはどきりとしました。沙月ちゃんのようやく口にした問いかけに、わたしの心が見透かされたように感じました。
「具合が悪いんじゃなかったら、やっぱり転校生が気になっているんじゃないかなって思って」
 沙月ちゃんが本当に聞きたかったのは、このことなのだと、さすがに鈍いわたしにも見当がつきました。そういえば、校庭でも転校生のことで、思わせぶりな態度を見せていたことを思い出しました。
「教室のドアの方を見て、待ってるみたいな素振りだし」
 思い切って話し始めたわりには歯切れの悪い沙月ちゃんです。それはいつもの沙月ちゃんらしくありませんでした。体育会系の女の子らしく、もっと遠慮なく、率直に受け答えをするはずでした。
 でも、沙月ちゃんがどうして転校生のことにこだわるのだろうという、疑問も生まれました。沙月ちゃんも転校生に興味が湧いてきたのでしょうか。
 わたしは正直に、以前出会った人かもしれないので、それを確かめたい、と言えばよかったのかもしれません。けれど、確かめたいという気持ちだけでなく、会いたいという渇望を秘めていたわたしは、どこか後ろめたく、正直になれませんでした。
「だって、みんな綺麗な人だったって噂してるし、わたしだって気になっちゃうよ」
 当たり障りのない答えを返しました。
「ホントにそれだけ?」
 沙月ちゃんがまたもや顔を近づけて、わたしの眼を覗き込んできます。嘘をついていないか、確認されているようでした。
「それだけだよぉ」
 ふにゃっと笑いかけます。沙月ちゃんはそれで納得したのか、安心したのか、ほっと胸を撫で下ろすような仕草をしました。
 その時でした。すぐ間近で、シャッターを切る音が聞こえました。
 えっと思って、沙月ちゃんとわたしは音のしたほうへ顔を向けました。
 雪穂がにやにやと笑いながら、スマホを構えていました。
「なにを勝手に写真を撮ってるの?」
 沙月ちゃんが詰め寄ります。雪穂はまるで動じずに、にやっと笑うと、スマホの画面をわたしたちに見せました。
 そこに写っているのは、やけに顔を寄せ合っている女の子ふたり、沙月ちゃんとわたしでした。
「それがどうしたの?」
「これだけじゃないの」
 雪穂はそう言いながら写真をスワイプしました。沙月ちゃんだけに見えるように、スマホの画面を向けました。
「なっ——!」
 沙月ちゃんは絶句してしまいました。画面を凝視したまま、固まっています。
「雪穂、わたしにも見せてよ」
 それは、沙月ちゃんの斜め後方から角度をずらして撮影された写真でした。見方によっては顔と顔がくっついているような、つまりはキスをしているようにも見えるものでした。
「日向、見ちゃダメだって」
 沙月ちゃんは雪穂のスマホを取り上げようとしました。すると雪穂は素早く、伸びてきた沙月ちゃんの手をかわしました。運動神経のいい沙月ちゃんの攻撃をかわすとは、と感心してしまいました。
「なかなかいい写真だよねぇ。エモいわ~」
 雪穂は写真を見ながら、ナゾに体をくねらせています。
「そんな誤解されるような写真はダメだって。すぐに消して!」
 そんな沙月ちゃんの剣幕もどこ吹く風のごとく、雪穂は残念そうな口調で言うのでした。
「日本のスマホってシャッター音がするからダメなのよね。音がしなかったらもっと良い写真が撮れていたのに」
「え、シャッターの音がしないスマホなんてあるの?」
 わたしにとって初耳だったので、思ったままの疑問を口にしました。すると、それが沙月ちゃんのお気に召さなかったのか、わたしを睨みつけました。
「そこじゃないでしょ! 突っ込むところが違う!」
 沙月ちゃんが騒いでいるほど、わたしはあせる気持ちはありませんでした。確かに見方によってはキスをしているように見えます。でも、そう見えるだけで、本当にしているわけではありません。それに、沙月ちゃんとわたしは仲がいいとはいっても、それ以上ではないからです。
「日向はイヤじゃないの? ヘンな噂がたってもいいの?」
 そこへ美也乃さんもやってきて、沙月ちゃんの肩をぽんぽんとなだめるように叩きました。
「まあまあ、雪穂の悪ふざけなんだから、いつものことじゃない」
「わかってるけど、よりにもよって日向とあんな写真なんて——」
 沙月ちゃんはわたしを意味深な眼差しでちらりと見ました。
 美也乃さんがもう一度沙月ちゃんの肩を叩きます。今度はなだめるというより、理解を示すといったニュアンスを感じられました。
「わたし、イヤじゃないよ。沙月ちゃんとなら、いいかも」
 沙月ちゃんに落ち着いてもらうためにも、特に考えもせず発言しました。
 すると、沙月ちゃん、美也乃さん、雪穂、三人がいっせいにわたしに注目しました。三人ともひどく狼狽しているようです。沙月ちゃんにいたっては口をあんぐりと開けてしまっています。こんな反応は予想していませんでした。なにかまずいことを言ってしまったのでしょうか。
 数秒の沈黙の後、沙月ちゃんが夢から覚めたように、数回瞬きをしました。ごくりと唾を飲み込んで、
「え、いいの?」
 沙月ちゃんは絞り出すように言うのでした。
「だって、沙月ちゃんだし」
 わたしはなにかの地雷を踏んだのかもと思いながら、だからこそ、深入りを避けて、得意の誤魔化しの笑顔を浮かべます。沙月ちゃんはなにも言えなくなって、今日何度目かの赤面を見せるのでした。
「はい、雪穂、あんたの負け。その写真は削除しなさい」
 美也乃さんはにこりともせず、雪穂に言い渡しました。雪穂は不満タラタラです。
「えー! 負けってなに? 納得できない。せっかくいい写真が撮れたのに」
 美也乃さんにはなんとなく逆らえないのが、このメンバーの暗黙の了解のようなものでした。
「納得できなくても、人の嫌がることはしちゃいけないの」
「でも、ヒナはイヤじゃないって——」
 美也乃さんの一睨みで雪穂は黙ってしまいました。口の中でぶつぶつと文句を言いながら、スマホを操作し始めました。
「あ、その前に、その写真をわたしに送ってくれない」
「なんで、みゃーちゃんに送るの?」
「どうしても」
 美也乃さんは有無を言わせぬ笑顔を見せました。理由を尋ねることを、許可しない、拒絶の笑みです。ある意味、怒った顔より怖いかもしれません。
 雪穂はしっかりと美也乃さんに写真を送り、それから消去しました。ムキになったようにスマホの画面をわたしたちに見せつけました。
「ゴミ箱からも消すのよ」
 美也乃さんのダメ押しが入ります。見透かされたのか、雪穂は渋い顔をしてスマホの操作を続けました。
 このコントのような騒動で、転校生の話題から話がそれたことは、わたしにとって幸いでした。あまり深く追及されても、正直に答えにくかったのです。
 しばらくして、チャイムが鳴りました。生徒たちは、各々自分の席に戻っていきます。けれど、前後左右の席でお喋りは続きます。もっぱら転校生に関してです。
 わたしはお喋りに加わることなく、教室のドアが開くのを待ちわびていました。きっと、この教室の誰よりも転校生の登場を待ち望んでいます。その想いを隠しつつ、抑えつつ、ちらちらとドアに視線だけを向けていました。
 そんなわたしに時折ちらちらと視線を向けてくるのは沙月ちゃんです。わたしの席より三つほど離れた斜め前にあります。後ろを振り向くような体勢になるので、さりげなさを装いながら、どうしてもあからさまに見えてしまうのでした。転校生についての話題が消化不良だったのでしょう。
 沙月ちゃんのスマホに着信があったのが見てとれました。一旦は机の中にしまっていたスマホを取り出し、確認しています。
 すると、まず驚き、画面を食い入るように見つめ、嬉しそうににやにやと笑い出しました。それから、美也乃さんに向かってグッジョブというように、親指を立ててみせるのです。それに応えて、美也乃さんも小さく親指を立てました。
 二人の間でどんなやり取りがあったのかわかりませんが、少なくとも沙月ちゃんには吉報だったようです。スマホの画面を見ては恍惚と幸せそうな笑みを浮かべていました。もちろん、時折わたしの方をチラ見するのは忘れてはいませんでした。そこに、照れている様子が加わったような気がします。
 わたしは沙月ちゃんの隙をつくように、ドアに視線を走らせます。
 わたしがこんなにも、誰かのことに興味を持ったり、再会を願ったりするのは、初めてのことかもしれません。自分の気持ちに戸惑いながらも、その奥にある期待は紛れようもなく正直な心でした。
 もうわたしの中で、転校生はあの人だと、なんの根拠もなく、確信に育っていました。
 会いたい、たったひとつの願いは、会わせてほしい、という祈りに昇華して、会える、という確信に変わりました。
 ドアが開く音がしました。
 生徒は前を向き、ざわめきが収まりました。
 わたしは思わず下を向いていました。いざとなると、からだが萎縮してしまっていました。祈りは通じるのか、通じなかったときの落胆を考えると、到底顔を上げられるものではありませんでした。
 聞きなれた、だるそうに引きずるような靴音がします。それは細川先生の足音でしょう。
 それに続く靴音は聞こえませんでした。でも、もうひとり誰かが教室に入ってきた気配は伝わってきました。
 そして、教室が沈黙してしまいました。衣擦れの音も、咳払いの音さえ聞こえてこない静寂でした。
 わたしはその海の底のような静寂の理由を、確かめなければなりません。わたしは顔を上げました。
 わたしの目に飛び込んできたのは、見知らぬ高校の制服をきた、見知らぬ女子生徒でした。
 いえ、知らないのは制服だけで、あの人は知っています。忘れもしない、まさにあの夜に出会った、あの美しい人でした。制服とTシャツの違い、髪を結んでいたかいないかの違い、装いの違いはあるけれど、間違えるはずがありません。祈るほどに会いたいと願った人を、間違えるはずがないのです。
 わたしは息を詰めてあの人を見つめていました。高校の制服姿のなのに、やけに大人びて見えます。わたしが初めて出会った時に、年上の女性だと間違えたとしても、おかしくはありません。
 教室の時間が止まったように、静寂はしばらく続いていました。わたしと同じように、息をつめてあの人を見つめているのです。
 絶対的、圧倒的なものの登場に、誰しもが言葉を失っていたのです。
「キレイ……」
 どの席の誰が呟いたのかは、わかりません。その一言は本当に小さな呟きでしたが、静寂に満たされた教室の中では、やけに鮮明に大きく聞こえたのでした。
 教室の時間が、ざわりと動き出しました。小波のように、囁き声が伝播していきます。内緒話のように秘めやかで、大きな声で話すことを躊躇うようでした。
 わたしはといえば、胸の高まりを抑えるのに、懸命でした。再会できた喜び、覚えていてくれているだろうかという期待、そして、あの夜のわたしの言動の羞恥、いろんな感情が入り乱れて、自分でも困惑していました。
 さわさわと教室に満たされる言葉たちは、キレイ、ステキ、大人っぽい、モデルみたいなど、称賛するものばかりが聞こえてきました。
 わたしはその声に耳を傾けながら、冷静さを取り戻しつつありました。もちろん、心臓の鼓動は速まったままです。教壇に立つあの人から目が離せないままです。
 それでも、どこからか優越感のようなものが湧き上がってくるのでした。
 わたしはあの人を知っています。確かに顔を見ただけです。名前も知りません。声も聞いてはいません。でも、あの人の私服姿を知っています。住んでいるマンションだって知っています。この街に引っ越してきた日も知っています。
 そしてなにより、誰よりも早く、あの人の美しさに気付き、心奪われたのは、わたしなのです。
 わたしは一心にあの人を見つめます。そうすれば、あの人がわたしのほうを見つめ返してくれるような気がしたのです。
 しかし、あの人は教室に入ってきた時から、ずっと俯いてばかりでした。緊張で顔が上げられないといった様子は見受けられませんでした。その逆によくいえば堂々と、悪くいえば高慢とも取れる態度でした。
 教室の同級生に関心を示さない、それどころか、自分が転校生ということも気にしていない、退屈な日常をただやり過ごそうとしているような、周りのことにまるで無関心なようでした。
 教室内の話し声のトーンが、一段上がり始めた頃、先生がようやく口を開きました。
「改めておはよう。暑い中、始業式ご苦労さんだったな」
 短い挨拶の後、先生は隣に立つ転校生にチラリと視線を向けました。
 その何気ない仕草に、再び教室は静けさを取り戻します。転校生より、今席についている生徒たちのほうが、緊張しているといった、不思議な雰囲気でした。
「さっきから気になっているようだし、転校生を紹介する」
 先生はチョークを持つと、黒板に大きくあの人の名前を書きました。
雨森あめのもり玲花』
「雨森、まずは君から挨拶をしてくれ」
 あの人が——、雨森さんが初めて顔を上げました。その瞬間、教室が改めて、ため息をつきました。
 わたしの鼓動も、また一段、跳ね上がるのでした。
 こんな田舎町の女子高には、絶対存在しないタイプの女の子です。制服も都会的な感じがして、わたしたちのような野暮ったさを感じられません。高三にもなると、校則違反にならない程度に化粧やネイルを施す生徒も出てきます。でもそんな小手先の装飾など、背伸びしているとしか感じられなくなります。雨森さんは化粧っ気もなく、長い髪もブラシを通したままのよう、特に装飾品も身につけてはいません。それでもその立ち姿だけで、オーラのようなものを感じ、わたしたちを圧倒してしまうのです。
 一泊の間を置いて、雨森さんは形のいい唇を開きました。
「雨森玲花です。よろしくおねがいします」
 初めて耳にする、雨森さんの声でした。少し低めの落ち着いた、それでいて一言一言がはっきりと聞き取りやすい、美しい声でした。
 もう少し、声を聞きたい、そう思えるほど、わたしの耳に心地よく響きました。しかし、淡いピンク色の唇から出てきたのは、そっけないとも思える、本当にたった一言だけでした。その後に続く言葉を期待して待つのですが、雨森さんは役目を終えたとばかりに、また俯いてしまいました。
「卒業まで半年ほどしかないけど、仲良くしてやってくれ。あと制服だけど、前の学校のままの制服で許可されているから、最初は違和感があるかもしれないけど、そのうち慣れるだろう」
 細川先生は一旦言葉を区切り、教室の中を見廻しました。わたしの方向で顔を止めました。
「風間の隣りが空いてたな。雨森は窓際の一番後ろの席だな」
 生徒の視線がいっせいにわたしに向けられました。羨望、嫉妬、憧憬、そして憐憫。さまざまな感情のこもった、無言の視線でした。全員の視線を一身に集めて、わたしはどんな表情をすればわかりませんでした。だから、いつものように曖昧に笑ってみせます。
 だって、わたしの隣りにしか空いた席はなく、先生が提案したのであって、だから雨森さんがその席に座るのは必然であって、わたしが催促したわけでもなく、わたしにはなんの決定権もないわけで——。
 誰になんの言い訳を考えているのかもわからないまま、ことは進んでいきます。
 先生は雨森さんを促し、席に着くように指示しました。
 沙月ちゃんと眼が合いました。なぜか心配そうな表情をしていました。そんな沙月ちゃんにいつものように、へらっと笑いかけます。すると、沙月ちゃんもへらっと笑い返してくれました。
 静かな教室に、雨森さんの靴音だけが聞こえていました。規則正しい音、背筋をピンと伸ばして、綺麗な姿勢で近づいてきます。
 一度顔を上げてわたしを見ました。わたしのことを憶えているだろうかと、期待こ込めて、笑いかけてみました。
 けれど、雨森さんはまったく反応しませんでした。それどころか、すぐにわたしを見るのをやめてしまうのです。
 あの夜の、すれ違っただけのような出会いでは、印象にも残らなかったのでしょうか。でも、雨森さんがわたしを訝るような、睨みつけるような、そんな表情で見ていたのを思い出します。しっかりと顔を見ているはずなのにと、がっかりしてしまいました。
 わたしは落胆しつつも、けして悲観はしていませんでした。
 とりあえずでも、再会できたのですから。
 しかも、同じ学校、同じ学年、同じクラスで、さらに、隣の席だなんて、まさに奇跡的な再会ではないでしょうか。半年とはいえ、これから親睦を深めていけばいいのです。
 こんなに積極的に誰かと友達になろうと思ったのは、高校生になってから初めてかもしれません。わたし自身驚いています。そして戸惑ってもいます。
 こんな気持ちになったのも、親しくなるにつれ、わかってくるのかもしれません。
 教壇から席に着くまでの、短い移動の間も、雨森さんは注目を集めていました。歩く姿が、見惚れるほど、美しいのです。まるでランウェイを歩くモデルのようでもありました。
 ふわりと席につき、前を向きます。
「風間、雨森に色々教えてやってくれ」
 先生から、直々に頼まれてしまいました。願ったり叶ったりとはこのことです。親しくなるにはもってこいのシチュエーションです。
 わたしは緊張を押し隠しながら、若干張り切り気味に挨拶をしました。
「よろしく、風間日向です」
 いつもの誤魔化すような曖昧な笑みではなく、わたしなりに歓迎の気持ちを込めた笑みを浮かべたつもりでした。
「よろしく……」
 雨森さんの返答はとても簡潔でした。わたしを一瞥して、たった一言です。声も小さく無愛想で、面倒臭そうで、取り付く島もないとはこのことでした。すぐに窓の外を向いて、頬杖をついてしまいました。
 わたしは笑顔を貼りつけたまま、固まってしまいました。こんな態度は想定外でした。どうしたらいいのか、小さくパニックになりかけました。
 と同時に、教室の空気が張り詰めていくのを感じました。ただでさえ、注目を集めている転校生が、初日にやらかす態度ではありません。
 緊張して、ついそっけない態度を取ってしまったと、フォローもできないほど、意図的でした。わたしにというより、わたしたちに興味がない、わたしたちに興味を持たれたくない、ともかく、排他的のなにものでもありません。
「わからないことや、困ったことがあったら、なんでも聞いてね」
 わたしは教室の雰囲気を読み取り、そして、なんとか雨森さんとの関係を築けるようにと、精一杯笑顔を作り、話しかけました。
「だいじょうぶです」
「え?」
 雨森さんは頬杖をついて、窓の外を眺めたままでした。はっきりと聞き取れなかったわたしに対して、ようやく視線だけを向けてこういうのでした。
「だいじょうぶです。わたしに構わなくても、ほっといてくれても、自分で適当にやれますから」
 その声は、小さいながらも、発音ははっきりとしていて、わたしの心にしっかりと突き刺さったのでした。今度こそ、わたしは固まってしまいました。笑顔のままなのに、涙が滲んでくるのがわかります。雨森さんはすぐに窓の外へ視線を戻しました。
 雨森さんの発言は、前の席の生徒にもしっかり届いたようで、その生徒はギョッとして振り返っていました。信じられないものを目撃した表情で、雨森さんを二度見したあと、前に向き直りました。そして自分の前の席の生徒の背中を叩きます。
 そこからは早いものでした。まるで伝言ゲームのように、雨森さんの発言は教室中に広がっていきました。わたしたちの席から一番離れた席まで到達するのは、あっという間でした。ささやきは次第に大きくなっていきます。
 確実に教室の空気が変わりました。険悪で、不穏な、今にも何かが起こりそうな空気でした。
『なんか感じ悪い』
『ちょっとキレイだからって』
『田舎もんだからってバカにしてんじゃないの』
 もっとひどい言葉も聞こえてきます。
 雨森さんにも届いているはずなのに、まるで微動だにしません。自分の発言なので、これくらいの悪評は予測済みだったのかもしれません。
 しかし、わたしはこれほどまでの重く黒い空気に耐えられるほど、強くはありません。まるでわたしが責められているように感じられて、さすがに笑顔も引っ込んでしまいました。いつもみたいに、ダイジョウブ、気にしてないから、などと笑って言えるほどの余裕はありません。相変わらず、涙は滲んではいるけれど、流れ出すほどではありません。
『日向がカワイソウ』
 そんなささやきが耳に届きました。そうか、と思いました。わたしはカワイソウな子で、だったら、このまま泣き出してもいいのかな、と。
 でも、と思いとどまります。
 このままわたしが泣いてしまっては、雨森さんは確実に悪者になってしまいます。それだけは避けたい事態でした。
 せっかく再会できた、それだけです。その奇跡を無駄にしないためにも、雨森さんとの今後を、諦めたくはありませんでした。
 もっと仲良くなりたいのです。どうしてそんなに美しいのか、どうしてこの街にやってきたのか、どうしてあのマンションを選んだのか、あの夜は何を食べたのか、どんな些細なことでもいい、仲良くなって、雨森さんのことを知りたいのです。そうして新たに生まれた疑問——どうしてそんな排他的な態度なのか、それすらも知りたいと思うのです。
 わたしは涙をこらえます。俯いて、軽く唇を噛んで、この嵐をやり過ごそうとしました。そうすれば、雨森さんにも、このクラスに馴染めるチャンスが来ることを信じました。
 どうしてわたしはこんな時にこそ発言できないのかと悔しくなります。わたしが初めて積極的に親しくなりたいと思った人なのに、なにもできない自分が情けなくなります。たった一言、わたしはダイジョウブ、とだけでも言えばいいのです。なのに、わたしにはその勇気が出ない——。
「ちょっと、あんた!」
 その時でした。少し離れた席で、椅子を鳴らして立ち上がった生徒がいました。
 沙月ちゃんでした。
 雨森さんを睨みつけて、明らかに怒っていました。
「日向が親切で言ってくれてんのに、そんな言い方ないんじゃない⁉︎」
 沙月ちゃんの剣幕に、一度はざわつき始めた教室も、しんと静まり返ってしまいました。沙月ちゃんの荒い息遣いだけが、際立つようでした。
 わたしは沙月ちゃんを見て、雨森さんを見て、最終的に沙月ちゃんを見ました。わたしと眼が合うと、安心させるように、にこりと笑いかけてくれました。
「こっち向きなよ! シカトしてるつもり!」
 沙月ちゃんの押さえてはいるけれど、確かに怒気を含んだ声が響き渡ります。
 他の生徒たちは固唾を飲んで、成り行きを見守っています。
 沙月ちゃんがわたしを守ろうとしてくれているのはわかります。でもそうじゃないのです。わたしが求めているのは、雨森さんを糾弾することではないのです。
 その逆に、雨森さんと和解できる道を作ってほしいのです。
 当事者のわたしもなにか言えればいいのに、緊迫した場面に呑まれてしまっていました。沙月ちゃんをなだめる一言でも言えばいいのに、その一言すら出ません。臆病すぎる自分が嫌になります。カワイソウなわたしはこんな時にもカワイソウなのです。
 雨森さんはめんどくさそうに頬杖をはずして、沙月ちゃんの方に顔を向けました。まったく臆した様子もなく、真っ直ぐに沙月ちゃんを見つめ返しました。
「どうせ、半年しかいないわけだし、そんなに気を遣っていただかなくても結構ですって、言ってるんですけど」
 この発言は教室中に届きました。けして大きな声ではありません。よく通る声で、一語一語をはっきりと発音するのです。強い意志を感じさせる言葉でした。
 それだけに、その言葉は挑発しているようで、教室内の温度がまたも跳ね上がりました。
 沙月ちゃんは怒りのあまり絶句してしまいました。なにか言おうとしますが、言葉になりません。
 一度は静まったざわめきが、徐々に高まっていきます。イヤな空気は教室を満たし、今にも爆発してしまいそうでした。
「沙月ちゃん……」
 たまらず発した、わたしの小さな呼びかけに、沙月ちゃんは反応しました。わたしは呼びかけて、沙月ちゃんの注意を引けたのはよかったものの、その後の言葉が出てきませんでした。
 首を左右に振って、自分でもこんな時に意味不明の、弱々しい笑みを浮かべることしかできませんでした。ただ、もうやめてほしい、怒らないでほしい、その想いが通じることを懇願するのみでした。
 沙月ちゃんはわたしの笑みをどのように解釈したのでしょう。大きくひとつ頷くと、再び雨森さんを睨みつけました。そして、椅子をガタリと音をさせて、一歩踏み出そうとしました。その右手は硬く握り拳になっていました。
 違う……!
 わたしも思わず立ち上がっていました。
 それと同時に、まるでタイミングを見計らったように、パンと手を打ち鳴らす音が響きました。
「はい、そこまで!」
 細川先生でした。
 女子ばかりの教室で、大人の男性の声はある意味迫力がありました。細川先生自身も、あまり大声を出すタイプではありません。そのこともあって、教室はしんと静まり返って、先生に注目しました。
 沙月ちゃんは出しかけた足を引っ込めました。雨森さんは無表情のままで、先生の方に向き直りました。
 わたしはほうっと、大きく息を吐き出しました。
「まずは、藤島と風間は席について」
 沙月ちゃんとわたしは大人しく席につきました。
「雨森、君の言う通り、半年しかこの学校にいないかもしれない。でも、半年っていう時間は決して短いものではないと思う。それに、人と人の付き合いっていうのは、長い短いっていう時間だけのものじゃないんじゃないかな。どれだけ他の人と深く付き合ってきたかってことだと思うんだけどな。雨森みたいに、最初から他人を拒絶してしまったら、せっかくの出会いが無駄になってしまう。風間は君のことを考えて、声をかけてくれてるわけだし、仲良くなれるはずのものもなれなくなってしまう。それに、藤島が怒るのも無理はないと思う。せっかく歓迎しようとしているのに、それに水を差されたわけだから、当然だと思うよ。クラスのみんなも同じだと思う」
 先生はそこで言葉を切りました。一度教室の生徒の顔を一人一人見回します。そうして、雨森さんのところで、視線を止めました。
「雨森、少し時間がかかってもいいから、もう少しみんなと打ち解けることを考えてくれないかな」
 先生の言葉に、雨森さんは小さく頷きました。
「さて、みんなも改めて仕切り直しで、雨森と仲良くしてやってくれ。風間、大丈夫だな。雨森に色々教えてやってくれ」
 わたしはこの微妙な空気感の中で、しっかりとした返事ができず、ただ頷くだけでした。
「藤島、お前も怒ってばかりいないで、頼んだよ」
 沙月ちゃんは頷きはしたものの、まだイライラした様子は隠せはしませんでした。
 それが、このクラスのみんなの気持ちを代弁していました。先生がいくら説得しようと、一度生まれた不信感のようなものは、そう簡単には払拭できません。どんよりと、殺伐とした空気は教室の中にしっかりと沈澱していました。
 チラリと見た雨森さんは、すでに窓の外を見ていました。クラスのそうした雰囲気にはまるで無関心なのが伺えました。

「ちきしょう! なんなんだよ、あいつは! 何様のつもりなんだよ!」
 沙月ちゃんが怒鳴り声と共に、拳を机に振り下ろしました。そこはわたしの隣の窓際の席です。すでに主人あるじは帰ってしまいました。よほど力任せに振り下ろしてしまったのか、イテテなんて言いながら、拳をさすっています。
 雨森さんはホームルームが終わると、すぐに帰っていきました。もちろん、さよならの一言もなく、こちらから声をかけるいとまもありませんでした。全身から拒絶のオーラを発し、声をかけるのさえ憚られるようでした。わたしは隣の席にいながらオロオロとして、颯爽という表現がピッタリの後ろ姿を見送るしかありませんでした。
 それでも、沙月ちゃんだけは引き止めようと声をかけました。「ちょっと、待ちなよ!」という叫びも虚しく、雨森さんは振り返ることもなく、教室を出ていきました。後を追いかけようとしましたが、流石にそれは自制したようでした。
 悔しそうに、閉じられたドアを見つめた後、足音も高く雨森さんの席に来て、ドスンと腰を下ろし、拳を叩きつけたのでした。
 自然にというのか、必然的というのか、私たちの周りに生徒が集まってきました。もちろん美也乃さんと雪穂の姿もあります。
 早速、話題は雨森さんへの批判になりました。次々と罵詈雑言が吐き出されてきます。
 傲慢、高飛車、冷徹、横柄、破廉恥、etc.
 なかなか口にするには憚られる内容まで飛び出してくるのでした。
 どれほど雨森さんの言葉と態度が、みんなを怒らせたのかがわかります。仲良くなろうとするような次元の話ではありません。両者の歩み寄りなのか、話し合いが必要なのではないでしょうか。
 しかし、雨森さんにそんな関係の修復をしようとする意思がないことは、すぐに帰宅したことで明白です。細川先生の言葉には、一旦頷いたものの、その後で、すぐに窓の外に顔を向けたことからもわかるように、その場を取り繕うための方便だったのです。つまり、雨森さんは最初の宣言通り、このクラスに馴染む気もなければ、親しい友達を作ろうとする気もないのです。
 先生に雨森さんのことを託されたわたしは、どう対処すればいいのか途方に暮れるばかりです。
 いえ、それだけでなく、個人的にも雨森さんと親しくなりたいわたしとしては、ここをどう乗りきればいいのか、悩んでしまいます。
 散々悪口を吐き出した後、クラスメイトたちはいくらかすっきりした顔をして、帰宅したり、他のグループへ合流したりと、それぞれ解散していきました。
「それにしても、腹が立つ!」
 みんながいなくなり、沙月ちゃん、美也乃さん、雪穂、そしてわたしのいつもの四人が残りました。少しは冷静になった沙月ちゃんでしたが、改めて叫んでいました。
「そろそろ落ち着いてよ。サッちゃんは怒りすぎだよ。血管切れちゃうよ」
 雪穂が沙月ちゃんをなだめます。
「だって、雪穂も美也乃も腹が立たないの⁉︎ 特に日向! あんたはなんとも思わないわけ⁉︎」
「え、あ、わたし——」
「そうあんたは腹が立たないのかって? 一番の被害者は日向自身なんだよ。あんな態度を取られて、何も感じないわけないよね」
 被害者と呼ばれて、わたしは内心イヤな気持ちになりました。その表現はなんだか違うと思ったのです。
「わたしは、腹が立つより、悲しいし、寂しくなった」
「なにをわけわかんないこと言ってるの⁉︎ お友達になれないから悲しいとか、冷たい態度だったから寂しいとか、そんなことを思ってるんじゃないよね。それもこれも、あいつが日向にふざけた態度を取ってたからじゃない! こういう時は怒ってもいいの!」
 沙月ちゃんは頭を抱えてしまいました。
 沙月ちゃんが言っていることは、こんなわたしにだってわかります。
 わたしは怒ったことがほとんどありません。何か気に障ったことがあっても、それを直接口にすることはありません。ただ、黙ってその負の感情が過ぎ去るのを待ちます。そして、笑うのです。争いや諍いを避けるために、ある意味誤魔化しの笑みを浮かべるのです。
 そんなふうに色々の問題を棚上げ、もしくは先送りにして、笑って通り過ぎてきたのです。
 人付き合いが苦手で、ひとりきりで過ごすほうが気楽だとすら思っている人間です。それでも、誰かに繋がっていたいし、わたし自身ひとりで生きていけるほど強くはありません。誰かに依存して、支えてもらって、ようやく笑うこともできるのです。
 雨森さんのように、あそこまで振り切った態度には到底出られません。他人を拒絶し、排除し、孤独や孤高を保てるほど、強くはないのです。
 悲しみも寂しさも、きっと沙月ちゃんに言われた通りなのだと思います。それはわたしの弱さの現れです。沙月ちゃんのように感情を爆発させても構わないのかもしれません。
 でも、わたしはあの雨森さんを知りたいと思ってしまったのです。
 あの夜に出会えたのを運命と感じるなら、やはり今の状況を奇跡と呼んでいいのではないでしょうか。
 そう、わたしは雨森さんを知りたい。
 なぜ高三の二学期という、中途半端な時期に転校してきたのか、なぜ友達もいらないなどと思うようになったのか、それだけではなく、幼少期のことから、これから未来のことまで、知りたいのです。
 そのためには、どうしたらいいのでしょう。こんな最悪の始り方はまさに想定外でした。誰かに相談したり助けてもらえるような雰囲気でもありません。
 こんな時、わたしの笑顔など、まったく役に立たないのです。
 ぽんぽんと肩を叩かれました。沙月ちゃんが心配そうに顔を覗き込んでいました。
「ごめんね、日向を攻めてるわけじゃないからね」
 黙り込んだしまったわたしを気遣ってくれます。
 わたしのほうこそ、ごめんなさいです。沙月ちゃんはわたしのことをこんなに考えてくれているのに、わたしは雨森さんのことばかり考えています。
「わかってるよ、沙月ちゃん。わたしはダイジョウブ。沙月ちゃんの気持ちもよくわかっているから」
「わ、わたしの、気持ち——!」
 沙月ちゃんはあたふたして、なぜか美也乃さんに助けを求めるように手を伸ばしました。美也乃さんはその手をつかむと、落ち着かせるように軽く握りしめました。
 そのふたりだけにわかるような、一連のやりとりでした。
「わたしのために、怒ってくれてるんだもんね。ありがとう、沙月ちゃん」
 沙月ちゃんはわたしから眼を逸らしてしまいました。
「日向のためっていうか、わたしあんなやつは嫌いだし、許せないし……、せっかく話しかけた日向に対して、あんな態度を取るのも納得できなかったっていうか……」
 歯切れの悪い口調で、言い訳のようにボソボソと喋る沙月ちゃんは可愛らしくて、それだけで気持ちがほっこりしました。
「うん、わかってる。とても嬉しかった」
「あ、ありがと……。でもね、日向、もうあんなやつに関わらないほうがいいよ」
 この時の沙月ちゃんは真顔で、口調も少しきついものでした。わたしは曖昧に言葉を濁すしかありませんでした。
「これで、サッちゃんも落ち着いたよね。ひとりで熱くなっても仕方ないよ」
 雪穂がこの場をうまく収めたような、変な感じになってしまいました。お調子者の雪穂らしいまとめかたでした。
「そろそろ帰ろうか。二学期が始まった記念に、みんなでカラオケでも行かない?」
「いいね、わたしゃ、このモヤモヤを吹き飛ばしたい!」
「それでこそ、サッちゃんだ! ヒナももちろん行くよね?」
 今日は塾もお休みなので、もちろん行きます。そして、美也乃さんはと見ると、何か考え事をしているようでした。腕を組んで、顎に右手を当てている姿は、様になっています。わたしのように、ぼんやりとしている姿と考え事をしている姿がほとんど同じにしか見えないのとは、雲泥の差があります。
「みゃーちゃん、どうかした? カラオケ、行くでしょ?」
 雪穂が美也乃さんに尋ねます。
「うん、ちょっとね」
 美也乃さんは軽く肩をすくめてみせました。
「ちょっと、どうした?」
「なんでもない、思い過ごしだと思う。それより、カラオケに行くんでしょ」
「そうそう、イヤなことは、大声で歌っちゃえばすぐに忘れる!」
「それは雪穂だけだから」
 美也乃さんの一言に、みんなでひとしきり笑った後、わたしたちは教室を後にしました。

 今夜もわたしはあのマンションの前に来ていました。もちろん、雨森さんの住むマンションです。
 エントランスから十メートルほど離れた、街灯の届かない暗がりで、自転車を降りて待っていました。
 あたりはすでに暗くなっていました。でも夏の名残の暑さは変わりはありませんでした。セミの声だけは心なしか弱まって感じられました。
 あの夏休みの夜から、ほとんど欠かさずここに来ていました。目的は雨森さんに会うためです。それ以外にありませんでした。会ってどうすればいいのかも考えずに、ただただ会いたい一心で、マンションのエントランスを眺めていました。
 まるでストーカーだと自嘲し、母親の方に鉢合わせでもしたらどうしようかとも思いましたが、どうしてもここに向かい、自転車を停めてしまうのをやめられなかったのです。塾の往復で使う道だったのも、大きな要因でした。通り道、そんな言い訳も許されるのではないかと思ったのです。
 わたしがこんなにもひとつのことにのめり込むのは、本当に珍しいことでした。
 これまで、何事に対しても、広く浅くの興味しか持ってこなかったわたし自身が、一番困惑していました。
 趣味らしい趣味もなく、読書や映画、音楽など人並みには手を出すけれど、のめり込むほどではありません。スポーツやアウトドア関係はまるでダメで、沙月ちゃんが陸上部なので、大会があれば応援に行ったりする程度です。
 料理やお菓子作りはそれなりにできます。たまに夕飯を作ったり、お菓子も学校に持ってきてクラスで配ったりしています。それはそれで好評ではあるけれど、夢中になっているかといえば、即答はできかねます。
 もちろん、上達したいとか、誰かに喜んでほしいとか、そんな考えも持っています。けれどそれ以上に、それがわたしの居場所を確保するための手段だからなのです。
 対人関係にしても同様で、広く浅くがわたしの処世術ともいえます。
 友達と呼べる人はいるけれど、親友とまでは呼べない、そんな関係ばかりです。だって、わたしはその中にいられるだけで、満足なのです。幼い頃から人見知りの激しかったわたしは、自分から話しかけたりすることのできない子でした。いつも母親のスカートの影に隠れて、相手が話しかけてくれるのを待っているような子でした。笑顔で遊ぼと手を差し伸べられて、初めて一歩を、ただしおずおずと踏み出せるような子だったのです。
 子ども同士のグループの中で、わたしは常に誰かに付き従っていたように思います。リーダー格の子が鬼ごっこといえば鬼ごっこ、おままごとといえばおままごと、わたしは黙ってその遊びに賛成していました。せっかくこんなわたしを誘ってくれたのだからという、そんな気持ちもあったのかもしれません。一生懸命ついていき、はぐれないようにしていました。
 成長するにつれ、人見知りは多少改善されたとはいえ、引っ込み思案は治りませんでした。積極的に話しかけることは相変わらず苦手で、新しく友達を作るのには、とても時間がかかっていました。
 そんなわたしが、雨森さんに対しては積極的に関わろうとしているのです。しかもわたし自ら行動しようとしています。
 この心境の変化はどうしたことでしょうか。
 美しい人だから?
 声が綺麗だから?
 笑顔を見せないから?
 高級マンションに住んでいるから?
 冷たいから?
 高慢だから?
 クラスを惑わせる発言をしたから?
 全部当てはまります。けれど何かが足りません。芯になるもの核になるもの、何かが足りないのです。
 これまで、誰かひとりに固執することなんてありませんでした。誰かと仲良くなっても、その人のことを深く知ろうとはしませんでした。それは、わたしと仲良くしてくれるだけで、本当に嬉しかったからです。その人がわたしと一緒に過ごしてくれるだけで、満足でした。わたしと一緒にいて、退屈じゃないだろうか、飽きてこないだろうかと、常に考えています。だからわたしはせめて笑顔を絶やさないように、努めています。わたしと仲良くしてくれる人を不愉快にさせたくはないのです。だから、その人がわたしと仲良くしてくれる理由なんて考えません。ただ、こんなわたしを受け入れてくれる優しい人なのだと、信じています。
 そして、わたしはふたりきりという場面が苦手です。ほとんど、ニコニコと笑って相槌を打つだけのわたしには、気の利いた答えができません。少し的外れな答えをして、場をしらけさせるのが関の山です。逆に話題を作るのもできません。言葉のキャッチボールなんて言うけれど、わたしには到底できない芸当です。一語一語を考えながら、言葉にするので精一杯なのです。しかも考えて出した言葉は的外れで、すぐに話題は尽きてしまいます。途切れた後の沈黙が、耐えられません。わたしがやらかしたと言う思いが、さらに口を重くします。何か話さなければと焦れば焦るほど、言葉は出ることもなく、わたしは意味のない笑みをにへらと浮かべるのです。
 そして、笑顔の裏で自己嫌悪。
 だから、三人以上のグループが気楽です。友人たちの会話に、頷いたり、短い合いの手を入れたり、わたしが話さなくても会話は続いていきます。的外れなわたしの答えも、スルーされたり、フォローされたり、嫌な沈黙も訪れません。わたしは一歩下がって、ニコニコと笑顔を浮かべていればいいのです。
 こんなわたしが、雨森さんを知りたいと思ったのです。そして、わたしの方から仲良くなりたいと思ったのです。
 初めて出会った夜から、その気持ちはすでに芽生えていたのでしょう。外見の美しさを知りました。でも声を聞くことはできませんでした。だから、声を聞きたい、話をしてみたい、そんな単純な気持ちから始まったのだと思います。
 夏休みの間、足繁くマンションに通っていたのにも拘らず、全く会えませんでした。しかし、二学期の始業式、雨森さんは転校生として、あっけなく再会できたのです。雨森さんの声が聞けました。わたしの隣の席になり、思い切ってわたしから話しかけました。でも、冷たくあしらわれてしまいました。さらに、誰とも仲良くするつもりはないと、宣言までされました。
 それでもなお、わたしは雨森さんと仲良くなりたいと思ったのです。排他的な態度のことも含めて、雨森さんと言う少女を知りたい、理解したいと思ったのです。
 わたしが、こんなにも特定の誰かに興味を惹かれたことに、わたしの心は乱れています。この気持ちの正体を知りたいと願っています。
 今夜も雨森さんがマンションから出てくることはありませんでした。でも、明日になればまた会えるのです。それはこれまでとは違う、小さな希望でした。
 今夜もまた会えなかったという落胆はあります。でもそれは昨夜感じた落胆とは違います。
 雨森さんの態度がどうであれ、とりあえず、会えることは約束されているのです。
 明日が待ち遠しいと言う気持ちは、いつ以来の気持ちなのか、わたしは自転車を漕ぎ出し、家路につきました。
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