含羞 〜在りし日の戀〜

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ゆきてかへらぬ

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「もう、明るくなってきたし、これ以上彼女を待たせたくないから」
 常夜灯のオレンジ色のほのかな灯りで満たされていた部屋が、いつの間にかカーテン越しの朝の光で満たされていました。
 今日もいい天気なんだな、と刹那気が逸れてしまいました。
 随分と長い時間話していたようです。
 玲花は足を踏み出します。張り付いた何かを断ち切るように——。
 足掻かなければ——、足掻かなければ、玲花は本当に行ってしまう。
「わたしもいっしょに行く! いっしょに連れて行って!」
「いっしょに行ってどうするの?」
「わかんない! わかんないけど、このままじゃ、玲花はもう戻ってこない気がする」
「それも——、それもいいかなって思ってる」
「ヤダよ!」
「もう、決心したんだ」
「この部屋はどうするの? わたしを置き去りにするつもり?」
「だから、合鍵を渡したんだよ。わたしがいついなくなってもいいように」
 わたしは愕然としました。昨夜、クリスマスプレゼントだと渡された合鍵にはそんな意味があったのです。
 いつでも玲花の部屋を訪ねられると、単純に喜んでいたわたしはなんだったのでしょう。
 玲花が在宅中に訪ねると、おかえりと迎えてくれる。
 玲花が留守でも、わたしはひとりで料理を作り、帰ってきた玲花がただいまと微笑む。
 卒業して、いっしょに暮らす前の予行練習。
 これじゃあ、半同棲じゃないかなんて、浮かれきっていた。
 様々な妄想や夢想をしていたのに——。
 バカみたい、バカみたい、バカみたい——!
 わたしはその場に崩れ落ちました。
 もう、涙も流れません。
 わたしにとって突然の別れは、玲花にとっては以前から計画された別れだったのです。
「本当に行くね」
 乾いた玲花の声。
 足を一歩踏み出す気配がします。
「——もうすぐ卒業だよ」
 また一歩。
「——大学はどうするの?」
 また一歩。
「いっしょに暮らそうって言ったのに——」
 一瞬足が止まり、呟かれた言葉は、
「ごめんね」
 そして、玲花はもう立ち止まりませんでした。
 寝室を出ていき、しばらくすると玄関のドアが静かに閉まる音が聞こえてきました。
 その場に崩れ落ちたままだったわたしは、その音にはっと顔を上げ、足をもつれさせながらも駆け出しました。
 靴を履くのももどかしく裸足のまま、玄関のドアを開け、通路にまろびでました。
 エレベーターに乗り込み、今まさにドアを閉めようとする玲花の姿が見えました。
「待って!」
 届いたのか届かなかったのか、玲花は顔を上げませんでした。するするとドアが閉じ、玲花の姿は見えなくなりました。
 あまりの呆気なさに、思考が停止してしまいそうでした。けれど、すぐに、このままではと気を取り直し、駆け出そうとしました。
 エレベーターは今降りていったばかりです。ならば階段のほうが早いかもしれない。
 咄嗟に判断して、足を踏みだそうとした時、強い北風が全身に吹き付けてきました。
 地上五階に吹く風は痛いほど冷たく、強烈な寒さを防ぐには、わたしはあまりに無防備でした。
 まだパジャマのままでした。
 わたしは再び崩れ落ちました。
 すぐに、コンクリートの床の冷たさが下半身から這い上がってきました。
 自分の間抜けさに呆れてしまいます。あるいは、着替えさせないのも、玲花の計算のうちだったのでしょうか。だとしたら、玲花の策略に、まんまとはまってしまったわけです。
 このままでは、追いかけることもできない。
 すぐに着替えれば——、でも追いつけるだろうか。
 エレベーターはすでに一階に到着していました。
 また北風が吹き付けてきました。上半身も下半身も、耐え難いほど冷えてきました。
 それでも立ち上がる気にもならず、なんとなく空を見上げました。
 晴れています。
 冬の朝の明けたばかりの澄み切った、どこまでも青い空でした。一片の雲すら見えない、青い空でした。
 わたしはなぜだか笑いが込み上げてきました。
 玲花の仕打ち、わたしの間抜けさ、まだ見ぬ彼女の身勝手さ、それらすべてが、滑稽に思えて、声を出して笑いました。
 笑いすぎて、咳き込んで、涙を流して、鼻水さえ垂れてきて、なんてかっこ悪くて、惨めなんだろうと思いました。
 そうすると逆に冷静になって、ぴたりと笑いが止みました。
 北風がひとつ、わたしの体を震わせて吹きすぎていきました。
 わたしはゆっくりと立ち上がります。お尻や足についた埃を払って、部屋に戻りました。
 洗面所に行き、冷たい水で顔を洗います。
 鏡に映った誰かの顔は、泣き腫らしてものすごく醜く見えました。
 それなのに、その両の瞳だけは凛と輝いているようでした。
 まだ足掻ける。
 まだできることはある。
 そう訴えているようでした。
 そうして、鏡の誰かと見つめあっているうちに、その誰かはわたしに融合するのでした。
 寝室に着替えを取りにいきます。すぐに浴室に戻り、パジャマと下着を脱ぎ捨てます。
 シャワーを浴びることにしました。
 シャワーを浴びながら、追いかけようと決心しました。もちろん、玲花を追いかけるのです。
 シャワーを浴びている暇があれば、すぐにでも追いかければいいのにとも思いました。でも、気持ちを切り替えること、綺麗な自分でいること、それらがとても大切な儀式のように感じられたのです。
 シャワーを手早く終わらせ、衣服を身につけ、髪の毛を乾かします。
 リビングに戻ると、テーブルの上には、鍵と口紅。昨夜、酔っていたので、そのままにしてしまっていたようです。
 置きっぱなしになっていた卓上ミラーに自分の顔を映します。泣いた後なので、目の周りはうっすらと赤く腫れています。化粧水くらいしか持っていないので、誤魔化しようがありません。
 せめてもと、玲花にもらったクリスマスプレゼントの口紅をつけてみます。
 濃い目のピンク色はやはりわたしにはまだ早いと思えるのです。この色に似合うわたしになれるのでしょうか。そのためには、玲花が側にいてくれないと、自信がありません。
 そういえば、わたしがあげたネックレスはどうしたのだろう?
 テーブルの上には見当たりません。寝室の机の上にもなかったように思えます。
 きっと、玲花がまだ身につけているはずです。
 それだけは信じたい。
 信じられれば、わたしは玲花を追いかけられるのです。
 玲花がくれた口紅、わたしがあげたネックレス。
 それだけが玲花とわたしを繋ぐ確かなものだと思うのです。
 けれど、追いかけてどうすればいいのかすらわからない。
 そもそも、玲花の実家の住所すら知らない。
 とりあえず、霧山学園のある街へ行こうと決めました。
 玲花は、わたしのことが好きだと言ってくれました。そうして、接唇くちづけもしてくれました。
 無駄だとは思いながらも、LINEを送ってみました。しばらく待ってみましたが、既読がつく気配はありません。開く気もないのか、すでにブロックされているのか——、そんなことはどうでもいいと開き直りにも似た気持ちになります。
 玲花を追いかけると決心したのです。
 わたしは鍵を手に取りました。もちろんこの玲花の部屋の鍵です。
 この鍵も、わたしが後腐れなく出ていけるようにではないのかもしれません。
 もしかして、この部屋を守ってほしいのではないかとも思えるのです。
 この小さな田舎街で、玲花が唯一帰れる場所を、わたしに託したのではないのでしょうか。
 それに、わたしが泊まりにきた日を選んで、出て行こうとしたことにも疑問が残ります。本当は引き止めて欲しかったのではないのでしょうか。もっと強い言葉で、行かないでほしいと訴えれば、あるいは——。
 都合のいい解釈なのかもしれません。
 それでもいい。玲花がわたしの元に帰ってくるという希望を持てるから。
 それなら、ここで待つというのもひとつの案です。
 でも、わたしは待っていられない。
 ここでひとり待っているなんて耐えられないのです。
 わたしは身支度を調えると、玲花の部屋の鍵を握り締めます。
 そもそも、玲花を探し出せるのか怪しいのです。そして、会えたとしても、連れ戻すことができるのでしょうか。それでも今行かなければ後悔するのは目に見えています。
 わたしは立ち上がり、歩き出し、ドアを開けます。
 北風は冷たいけれど、空は快晴です。
 ドアをゆっくりと閉めます。
 わたしは唇に触れます。しっとりと指に吸い付く感覚に心が震えます。
 再会できたら、接唇くちづけをしよう。玲花がくれた口紅を、玲花の唇に写してあげる。そうすれば、わたしは玲花の色に、玲花はわたしの色に染まる。
 ふたりは繋がれるかもしれません。
 そうしてふたりで一緒にこの街に帰ってくるのです。この玲花から預かった鍵でドアを開け、お帰りなさいと、玲花を迎えるのです。
 だから今は、しっかりと鍵をかけて、この部屋を守るのです。
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