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おかえり2

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 だけど、どんなに十分だと言い聞かせても。
切なさや恋しさなんて、簡単にどうにかなるものじゃなくて……

 例えば、シャンプーする時とか。
日課になったガムを口にする時とか。
つい夕食のメニューを考えたりとか。
母さんから教わった新メニューを、食べさせてあげたくなったりとか。
ひとりでベッドに潜る時とか。
抱き包んで髪を撫でてくれた手が、もうない事だとか。
日常のあらゆる場面で、響との生活が再生されて……
苦しいほど、やるせない思いで埋め尽くされる。

 いつしか依存してた、その安定剤の副作用は……
きっと愛情で。
その離脱症状は、こんなにも沸き起こってて……
響に会いたい。

 毎日当たり前のようにその顔を映してたのに。
一真との思い出以外残したくなかった私には、その人の写真すらない。

 だけど私は大丈夫。
そう言い聞かせてるだけかもしれないけど……
響が私たちの子供と呼んだ、ロゼとモスが傍にいるし。
そのすくすくと育つ姿が元気をくれるから。

 そして手強い中途覚醒で、ひとり泣いても……

〈彼女が泣いている
だけど大丈夫だから
決して気休めなんかじゃなく
断薬を成し遂げたあなたなら
立ち直る意思があるあなたなら
きっと中途覚醒も乗り越えられる
きっと俺が大丈夫にする〉

 響の綴ったこの文字達が、確かに存在したその想いが、ずっと寄り添ってくれてるから。

 ねぇ響、こんなにも……
私の世界は、響がくれた言葉で溢れてる。
きっとそれが、この世界で生きる支えになる。
だから大丈夫……
大丈夫。


 でも会いたくて……
響と別れて約2週間が過ぎた、日曜。
しばらくしてなかった父の日の、プレゼントを買いに街に出て……
この前プレオープンを迎えた、響が働く新店舗にも足を伸ばした。

 もちろん直接会うわけじゃなく、近くから店内を覗くだけ。
人混みに隠れて、響の姿を探すと……
突然その人が、お客さんのお見送りで店先に現れた。

 心臓が飛び跳ねて、とっさに背を向けると。
喧騒に紛れて、響の柔らかな声が鼓膜をかすめた。

 その姿をそうっと覗くと……
飛び込んできた愛しい笑顔に、胸がぎゅうっと掴まれる。

 少し痩せてはいたけど、その人は生き生きと輝いてて……
ちひろさんと、うまくいったのだろう。

 それはこの胸が張り裂けそうなほど、切ないけれど……
彼女との夢に近づくその店で、頑張ってる響を背に。
私も一歩踏み出した。

 頑張ってね、響……
私もゆっくり、明日に向かって頑張ろう。


 そうして、来た道を戻ってると……
さっきは緊張してて気づかなかった、アジアン雑貨店が目に映る。

 母の日は終わったけど、父の日同様ここ数年は何もしてなくて……
アジアン雑貨にはまってる母さんにも、何かプレゼントを買おうと思った。

 そこは他の同系統店にないような、珍しい商品が並んでて……
その人が好きそうな、夏にぴったりのバッグを選ぶと。
レジの傍で、一風変わった木の皮の和紙を見つけた。

 今まで見て来たその類のものと違って、かなり粗くすかれたそれは……
そのまま木の皮が混ざったムラのある厚みと、大小無数の変則でいびつな裂け目で織り成され。

 ランプシェードに取り入れたら、きっと幻想的な光と翳りを創り出すだろう。
そう思ってふと、イメージがあの夕陽海岸に結びつく。

 高い天井から、ペンダントライトで夕陽のワインレッドを広げて……
ブラケットライトで、ロゼとラベンダーを散りばめて……
干渉し合う光たち。
そして、その翳りが干潟をかたどる。

 それらの配列や光量・光質のバランスが、次々と頭の中でデザインされて……
瞬間、ドクンと。
心臓が再び、目醒めの音を奏でた。

 私、今……照明の事を考えてた。
信じられない現状に、強く動揺しながらも……
解き放たれたように溢れ出す情熱。

 懐かしい感覚と、例えようのない感情で埋め尽くされた胸が……
一気に弾けて、涙に変わる。

 私はやっぱりこの世界から離れられない。
そう、私の魂が……
色を、光を、その織りなす世界を愛してる。

ー「向き合えない時間も必要な時間で、それにもきっと意味があるんだよ」ー

 うん、そうだねっ……
向き合えない時間があったからこそ。
その間に心が回復出来て、自分から切り離せない世界だと確信出来たんだ。

 それはごく自然に、ゆるやかに……
そして、ある日ふいに。

 そうやって情熱を受け入れる事が出来たのは、紛れもなく響のおかげで……
その人が、一真への後悔を和らげてくれから。
あの夕陽の世界を見せてくれたから。

ー「立ち直るタイミングなんてさ。
ある日突然、ふらっとやって来るもんだよ。
ただいま、って」ー
ふとその言葉を思い出して、堪らずうっと嗚咽を零した。

「おかえりっ……」
思わずそう呟いた私は、感極まって。
その場で泣き声を上げてしまった。

 おかえり、本当の私。
そしてありがとう響……
ねぇ響、ありがとうっ……



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