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第一話

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 見慣れない石天井。
 背中に伝わる冷たく硬い床。
 そこが自分の知らない場所であることしかわからない。

 記憶には靄がかかったようで、当たり前のことが断片的に思い出せるだけ。
 私、田中奈々は陸上部所属だったはず、高校の名前は、思い出せない。家族の顔も、友達の顔も、モザイクがかかっているみたいだ。

 とりあえず体を起こす。周囲には誰もいないようで、水の流れる音がする。
 この空間は通路の中継ぎのようで穴などは見当たらない。
 ここで寝ている意味もないので、通路に沿って動き出してみる。

 数分ほど歩いたのち、壁のそばに虫のような生き物を見つける。カマキリのような形をしているが、大きい。大型犬ほどはある。
 カマキリ(仮)はこちらの接近に気づいたようで、大きな目をぎょろりとうごかし、体もこちらへ向ける。

 私は動かない。いや、動けない。
 こんなものを目の前にして、動ける人間などいるのだろうか。

 じわじわと距離を詰められ、大きな鎌が振りかぶられる。

 私の首を狙って振られた鎌は私の頭の上、髪にかすって通り過ぎる。無意識に後ずさりしていた私は、つまづいて尻餅をついたことで鎌に当たらず済んだ。

 私は混乱したまま、後方へ飛びのく。
 生命の危機を間近に感じたことで本能が体を動かす。

 瞬間、走り出す。
 その行動に思考など介在しなかった。
 ただ、その化け物から離れるため、無心でひたすら走る。




 ほんの少しだけ冷静さを取り戻す。化け物は追いかけてきているのだろうか、驚いて固まっているのだろうか。
 わからない。
 それでも振り返れない。
 あの大きな鎌が、未だにすぐ後ろで振りかぶられているかもしれない。

 焦りと恐怖からか、鼻も耳ももうまともに機能していない。
 目の前に広がる光景だけしか、信じられない。
 目の前の、いつまでも変わらない石造りの光景しか。





 何度か分かれ道にあった気がする。
 その度に何もいないところへ走る。
 何度か階段も登った気がする。
 下り階段はなかった気がする。

 どれだけ時間がたったかもわからない。1分も経っていないのか、何年も走っているのか。

 わからない、ずっと全力疾走だから。
 なぜか、速度が落ちないから。
 なぜか、息が切れないから。






 また、意識を失っていたみたいだ。
 何度目かなんてわからない。足は動き続けているけど。
 走って、登って、走って、登って。
 一体ここは何階まであるのだろう。
 外を覗けるようなものはここまで一つもなかった、はず。
 何か高いビルの中にでもいるのだろうか。
 それとも気づかないうちに下り坂を走っているのだろうか。







「なんだ、あれ。」
 久しぶりに声を出した気がする。

 何度か見た、狼みたいな動物、トラックくらいはあるけど。
 そのそばに、見慣れない動物が、4匹。
 その動物は、布のようなものをまとい、硬そうな棒状のものを持って狼と相対していて、

 人間だった。
 間違いない。
 間違えようがない。

 もうしばらく見ていない、どころか想像すらしていなかった。自分以外の人間。

 叫びたいほど喜び、そして気づく。

 明らかに劣勢、どころか死にかけている。ローブを着た女性は後ろで倒れているし、鎧を着た大男は左腕がない。残りの2人も手に持った武器が折れ、服もボロボロだった。
 対して狼は見た限り、返り血がついている程度で大きな傷はない。

 近づくべきだろうか、助けるべきだろうか。
 いや、そんなわけがない。確実に死んでしまう。死体が増えるだけだ。

 自分以外にもここには人間がたくさんいるはずだ。その希望が湧いた、この人たちのおかげで。
 助けを求めるなら、こんな死にかけの人たちじゃなくても。

 そんな思考なんてなかったかのように、私の体は、足は、その人たちのもとに向かう。
 正論なんてものでは、私を止められなかった。
 とうの昔に限界だった。
 ただただ恐怖を感じて走り続けて、やっと会えた人間から。
 目を離せるわけがなかった、走り去れるわけがなかった。


 走り続けて少しだけ手に入れた冷静さで考える。
 どうやって戦うか、どうやって守るか。



 ……無理だ。
 冷静になっても無理なものは無理。
 そもそも武器も何もないんだ、まともに向き合えるわけがない。喧嘩だって1度もしたことないんだから。

 無駄なことばかり考えている間に距離が迫ってきた。もう計画を立ててる余裕も時間もない。
 まともな攻撃手段も思いつかなかった。
 なんとか隙だけは作って、あとはあの人たち次第でしかない。

 走って突っ込んでドロップキック、これで行こう。
 まあやったことなんてないけど、直前で踏み切ればなんとかなるはず。思考がふわついてきている気がするけど、もうどうしようもない。狼は反対を向いていて気づいていないみたいだし、このままいこう。
 
 あの人たちも気づいてない気がするけど。
 まあ伝えようもない。


 地面を蹴る。
 空中で、足を前方へ向ける。
 ここにきて、急に湧いた恐怖で目は閉じてしまった。
 化け物に当たったはずの足の裏から感じるのは、

 とても軽い感触。
 発泡スチロールでも蹴っ飛ばしてしまったかのような。
 直後、その感触にまるで似つかわしくない轟音がなりひびく。そのまま私は地面へと倒れこむ。
 すぐさま目を開き、砂埃が収まるとすぐに体を起こし、周りを確認する。

 そこにいたはずの狼がいない。自分の背丈の2倍ほどはあったその姿がない。
 周りには、怪奇現象でも目の当たりにしたかのような表情をした人間が3人いるだけ。

 状況の把握以上に思考が進まず、その場の全員が呆然と立ち尽くしていた。

 そして、数分間の沈黙が破られる。

「か、神、、、、いや、、聖女、さま?」
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