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第11話:西の農村の奇跡
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工房での三日三晩の研究を経て、私はついに対抗策を完成させた。
それは、一見するとただの地味な茶色い練り香だった。工房の裏の森や城の庭園から採取した、ごくありふれた薬草や松の樹脂を丹念にすり潰し、練り上げたものだ。高価な材料も希少な素材も使っていない。重要なのは、その配合比率と、素材が持つ「香り」の組み合わせだけだった。
「できました、公爵様」
完成した数十本の練り香を桐の箱に納めて、私はユリウスの執務室へ運んだ。
彼はその素朴な棒を一本つまみ上げ、怪訝そうに眺めている。
「これが……答えだと?」
「はい」
私は自信を持って頷いた。
「これは、私が『偽りの春の香り』と名付けたお香です。銀葉病の菌は、春先の雨上がりの土から発せられる特定の有機物の匂いを合図に、繁殖のための胞子を放出するという仮説を立てました。このお香は、その『春の匂い』を疑似的に再現し、菌を騙すのです」
「騙す?」
「はい。菌にこの香りを『春が来た』と誤認させ、一斉に胞子を放出させます。しかし、この香りには、胞子を覆う薄い膜だけを溶かす特殊な成分を混ぜ込んであります。発芽準備のできていない無防備な菌は、自らの力に耐えられず自滅します」
ユリウスは黙って説明を聞いていた。かつての侮蔑はなく、未知の技術に対する真摯な探求の色が瞳に浮かんでいる。
「……面白い。戦わずして敵の自滅を誘うか。お前らしいやり方だな」
彼はそう言い、立ち上がった。
「すぐに西の村へ向かう。準備をしろ」
再び訪れた西部の農村は、以前よりもさらに沈んだ空気に包まれていた。銀葉病は私たちの不在中も着実に勢力を広げているようだった。
村人たちは、期待よりも諦めに近い感情を抱いているように見える。
ユリウスの指示で、被害が最も深刻な畑の一区画が実証実験の場として提供された。
私は村人たちに、練り香を畑の周囲の地面に等間隔で差し込むよう、やり方を説明する。
「こんな棒切れで、本当に何とかなるのかねぇ……」
一人の農夫が不安げに呟いた。その声は村人全体の思いを代弁していた。彼らはこれまで何度も役人や学者に期待し、裏切られてきたのだから。
私は深く頭を下げて言った。
「どうか私を信じてくださいとは申しません。ただ、この子たちの力を信じてください」
自分たちで育てた薬草から作った練り香を愛おしげに見つめて。
「この香りには、この土地の土と水と風の力が詰まっています。きっと皆さんの畑を救う力になるはずです」
私の言葉に嘘も飾りもなかった。
村人たちは顔を見合わせ、やがて村長の老人が静かに頷いた。
「……分かりました。お嬢様の言う通りにやってみましょう」
彼らは半信半疑ながらも、指示通り一本また一本と練り香を畑に設置していった。
ユリウスは少し離れた場所から静かに見守っていた。そして村長に言った。
「結果が出るまで、我々もこの村に滞在させてもらう」
その言葉は村人たちに、小さくも確かな希望の光を与えたようだった。
その夜、私たちは村長の家に泊まった。
夕食後、村長の孫である小さな子供たちが時折苦しそうに咳をしていることに気づく。淀んだ空気が幼い彼らの体を蝕んでいるのだ。
私は昼間に見つけたカモミールの花と鎮静作用のあるミントの葉を少量のお湯で蒸らし、即席の芳香浴をさせた。優しい香りが部屋に満ちると、子供たちの呼吸は穏やかになり、やがて安らかな寝息を立て始めた。
「ありがてぇ、ありがてぇ……」
村長の妻である老婆が涙ながらに私の手を握った。
その光景をユリウスは部屋の入り口の柱に寄りかかりながら静かに見ていた。彼の視線は子供たちを優しく見守る私の姿に注がれている。自分の知らない私の側面をまた一つ見つけた瞬間だった。
それから一週間が過ぎた。
運命の日。早朝、村長の家に一人の若い農夫が息を切らして駆け込んできた。
「大変だ!大変なんだ、公爵様、リーナ様!畑に来てくだせぇ!」
その声は悲鳴ではなく、歓喜に震えていた。
私たちは村人と共に実験区画の畑へ急いだ。
そこで広がっていた光景に、誰もが言葉を失った。
畑はくっきりと二つの世界に分かれていた。
練り香を設置しなかった区画は以前と変わらず、不気味な銀色に覆われ、死の匂いを放っている。
だが、練り香を設置した区画は違った。忌まわしい銀色の輝きは跡形もなく消え、小麦の葉は生命力に満ちた緑色を取り戻していた。
そして何より、その土の間から無数の小さな新しい若葉が太陽の光を浴びようと力強く芽吹いていた。
それは誰の目にも明らかな再生の光景だった。
静寂が畑を支配し、誰もが目の前の奇跡を信じられない表情で見つめている。
やがて村長の妻である老婆がその場にへたり込み、声を上げて泣き始めた。
それが合図となり、次々と歓声が上がった。
「おお…!緑だ!緑の色に戻ってる!」
「芽が出てる!新しい芽が出てるぞぉ!」
歓喜の声が畑全体に広がり、人々は抱き合い涙を流しながら、自分たちの土地が救われたことを全身で喜んでいた。
その歓声の中心で、私はただ呆然と立ち尽くしていた。
(成功したんだ……)
自分の力が本当に人々を救った実感が、遅れて胸に温かな奔流となって流れ込んでくる。
その時、歓喜の輪の中から村長の老人が私の元へまっすぐやってきた。深く皺だらけの腰を折り、感謝に震える声で言った。
「ありがとうございます……!ありがとうございます、お嬢様!」
彼はゆっくり顔を上げ、はっきりした声でこう言った。
「あんたは……いや、あなたは、我々の土地と未来を救ってくださった……『香りの魔術師』様だ!」
その言葉を聞き、村人たちも次々と私を取り囲み感謝の言葉を口にした。
「魔術師様、ありがとう!」
「もう諦めていたんだ……」
彼らの飾り気のない真っ直ぐな感謝は、王都で浴びせられたどんな嘲笑よりも私の心を強く温かく揺さぶった。
私の瞳から自然と熱い涙が溢れた。
ユリウスは少し離れた場所から腕を組んでその様子を見守っていた。
いつもの完璧なポーカーフェイスだが、口元には誰にも気づかれないわずかな誇らしげな笑みが浮かんでいた。
涙に濡れた私の瞳だけがそれを確かに捉えていた。
それは、一見するとただの地味な茶色い練り香だった。工房の裏の森や城の庭園から採取した、ごくありふれた薬草や松の樹脂を丹念にすり潰し、練り上げたものだ。高価な材料も希少な素材も使っていない。重要なのは、その配合比率と、素材が持つ「香り」の組み合わせだけだった。
「できました、公爵様」
完成した数十本の練り香を桐の箱に納めて、私はユリウスの執務室へ運んだ。
彼はその素朴な棒を一本つまみ上げ、怪訝そうに眺めている。
「これが……答えだと?」
「はい」
私は自信を持って頷いた。
「これは、私が『偽りの春の香り』と名付けたお香です。銀葉病の菌は、春先の雨上がりの土から発せられる特定の有機物の匂いを合図に、繁殖のための胞子を放出するという仮説を立てました。このお香は、その『春の匂い』を疑似的に再現し、菌を騙すのです」
「騙す?」
「はい。菌にこの香りを『春が来た』と誤認させ、一斉に胞子を放出させます。しかし、この香りには、胞子を覆う薄い膜だけを溶かす特殊な成分を混ぜ込んであります。発芽準備のできていない無防備な菌は、自らの力に耐えられず自滅します」
ユリウスは黙って説明を聞いていた。かつての侮蔑はなく、未知の技術に対する真摯な探求の色が瞳に浮かんでいる。
「……面白い。戦わずして敵の自滅を誘うか。お前らしいやり方だな」
彼はそう言い、立ち上がった。
「すぐに西の村へ向かう。準備をしろ」
再び訪れた西部の農村は、以前よりもさらに沈んだ空気に包まれていた。銀葉病は私たちの不在中も着実に勢力を広げているようだった。
村人たちは、期待よりも諦めに近い感情を抱いているように見える。
ユリウスの指示で、被害が最も深刻な畑の一区画が実証実験の場として提供された。
私は村人たちに、練り香を畑の周囲の地面に等間隔で差し込むよう、やり方を説明する。
「こんな棒切れで、本当に何とかなるのかねぇ……」
一人の農夫が不安げに呟いた。その声は村人全体の思いを代弁していた。彼らはこれまで何度も役人や学者に期待し、裏切られてきたのだから。
私は深く頭を下げて言った。
「どうか私を信じてくださいとは申しません。ただ、この子たちの力を信じてください」
自分たちで育てた薬草から作った練り香を愛おしげに見つめて。
「この香りには、この土地の土と水と風の力が詰まっています。きっと皆さんの畑を救う力になるはずです」
私の言葉に嘘も飾りもなかった。
村人たちは顔を見合わせ、やがて村長の老人が静かに頷いた。
「……分かりました。お嬢様の言う通りにやってみましょう」
彼らは半信半疑ながらも、指示通り一本また一本と練り香を畑に設置していった。
ユリウスは少し離れた場所から静かに見守っていた。そして村長に言った。
「結果が出るまで、我々もこの村に滞在させてもらう」
その言葉は村人たちに、小さくも確かな希望の光を与えたようだった。
その夜、私たちは村長の家に泊まった。
夕食後、村長の孫である小さな子供たちが時折苦しそうに咳をしていることに気づく。淀んだ空気が幼い彼らの体を蝕んでいるのだ。
私は昼間に見つけたカモミールの花と鎮静作用のあるミントの葉を少量のお湯で蒸らし、即席の芳香浴をさせた。優しい香りが部屋に満ちると、子供たちの呼吸は穏やかになり、やがて安らかな寝息を立て始めた。
「ありがてぇ、ありがてぇ……」
村長の妻である老婆が涙ながらに私の手を握った。
その光景をユリウスは部屋の入り口の柱に寄りかかりながら静かに見ていた。彼の視線は子供たちを優しく見守る私の姿に注がれている。自分の知らない私の側面をまた一つ見つけた瞬間だった。
それから一週間が過ぎた。
運命の日。早朝、村長の家に一人の若い農夫が息を切らして駆け込んできた。
「大変だ!大変なんだ、公爵様、リーナ様!畑に来てくだせぇ!」
その声は悲鳴ではなく、歓喜に震えていた。
私たちは村人と共に実験区画の畑へ急いだ。
そこで広がっていた光景に、誰もが言葉を失った。
畑はくっきりと二つの世界に分かれていた。
練り香を設置しなかった区画は以前と変わらず、不気味な銀色に覆われ、死の匂いを放っている。
だが、練り香を設置した区画は違った。忌まわしい銀色の輝きは跡形もなく消え、小麦の葉は生命力に満ちた緑色を取り戻していた。
そして何より、その土の間から無数の小さな新しい若葉が太陽の光を浴びようと力強く芽吹いていた。
それは誰の目にも明らかな再生の光景だった。
静寂が畑を支配し、誰もが目の前の奇跡を信じられない表情で見つめている。
やがて村長の妻である老婆がその場にへたり込み、声を上げて泣き始めた。
それが合図となり、次々と歓声が上がった。
「おお…!緑だ!緑の色に戻ってる!」
「芽が出てる!新しい芽が出てるぞぉ!」
歓喜の声が畑全体に広がり、人々は抱き合い涙を流しながら、自分たちの土地が救われたことを全身で喜んでいた。
その歓声の中心で、私はただ呆然と立ち尽くしていた。
(成功したんだ……)
自分の力が本当に人々を救った実感が、遅れて胸に温かな奔流となって流れ込んでくる。
その時、歓喜の輪の中から村長の老人が私の元へまっすぐやってきた。深く皺だらけの腰を折り、感謝に震える声で言った。
「ありがとうございます……!ありがとうございます、お嬢様!」
彼はゆっくり顔を上げ、はっきりした声でこう言った。
「あんたは……いや、あなたは、我々の土地と未来を救ってくださった……『香りの魔術師』様だ!」
その言葉を聞き、村人たちも次々と私を取り囲み感謝の言葉を口にした。
「魔術師様、ありがとう!」
「もう諦めていたんだ……」
彼らの飾り気のない真っ直ぐな感謝は、王都で浴びせられたどんな嘲笑よりも私の心を強く温かく揺さぶった。
私の瞳から自然と熱い涙が溢れた。
ユリウスは少し離れた場所から腕を組んでその様子を見守っていた。
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