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第1章:炎上プロジェクトと問題児(エリート)たち
第1話:バグ報告、あるいは過労死
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けたたましい電子音が、佐藤健司の意識を責め立てていた。
『Pi, Pi, Pi, Pi――』
サーバーラックのどこかから発せられる、単調ながらも鼓膜を直接針で刺すような鋭い警告音。深夜のオフィスに響くその音は、静寂を通り越して墓場のように静まり返った空間で、いつまでも鳴り続けている。
もう何時間、いや、何日この音を聞いているだろうか。健司の思考は粘度の高い泥水の中をかき混ぜるように鈍重で、時間の感覚はとうに失われていた。
窓の外は完全な夜の闇。そこに映るのは、蛍光灯に白々と照らされた自分のやつれた顔だった。三十代になったばかりのはずなのに、生気がなく、目の下には隈が張り付いている。まるで自分ではない誰かを見ているかのようだった。
ITソリューション企業「ネクステップ・イノベーションズ」のプロジェクトマネージャー、それが佐藤健司の肩書だ。そして今、彼が対峙しているのは、明日早朝に最終リリースを控えた大規模システム「プロジェクト・クロノス」で発覚した致命的なバグだった。
眼前のディスプレイに視線を戻す。滝のように赤いエラーログが流れ続ける中、健司の指は無意識に、しかし正確にキーボードを叩き続けていた。コマンドを打ち込み、ログを検証し、ソースコードの該当箇所を特定する。その一連の動作を、機械のように繰り返す。感覚を失った指先は鉛の塊のようで、意志の力だけで無理やり腕を持ち上げていた。
周囲のデスクはすべて空だった。三日前にプログラマーが一人倒れ、昨日の夕方には最後の同僚が「もう限界です」と呟いて帰っていった。彼らを責める気にはなれない。誰もが心身をすり減らし、この理不尽なデスマーチを戦い抜いてきたのだから。だが、プロジェクトマネージャーである自分だけは、この場を放棄するわけにはいかなかった。このプロジェクトの責任者は自分なのだ。
警告音は、もはや耳からではなく、頭蓋骨の内側で直接反響しているかのように感じられた。乾ききった目に、カフェインと涙の代わりに入れた目薬が染みる。朦朧とする意識の表層で、健司はただキーボードを叩き続けた。このシステムを、このプロジェクトを、無事にリリースまで導く。その責任感だけが、彼の身体をこの椅子に縛り付ける最後の枷だった。
朦朧とする意識の底で、いくつもの光景が走馬灯のように明滅を繰り返す。
『――いやあ、佐藤さん、さすがです。それで、本当にちょっとしたお願いなんですが』
三ヶ月前、クライアントとの定例会議。にこやかな笑みを浮かべた担当者の言葉が蘇る。『ここの認証システム、やっぱりSNS連携も追加でお願いできますかね?』
それは「ちょっとしたお願い」などではなかった。リリースを目前に控えた段階での、システムの根幹設計に関わる致命的な仕様変更。健司は喉まで出かかった「不可能です」という言葉を、必死に飲み込んだ。隣に座る上司が先に「PMの佐藤が、必ずや御社のご期待に応えますので」と約束してしまっていたからだ。残された選択肢は、笑顔で「持ち帰り、全力で検討させていただきます」と答えることだけだった。
その日からだ。プロジェクトの進捗を示すガントチャートが、美しい緑色から、破綻を示す危険な赤色へと、ゆっくりと、しかし確実に侵食され始めたのは。
『――佐藤さん。僕、もう…色の区別がつかないんです』
一ヶ月前、深夜のオフィス。若いプログラマーの田中が、虚ろな目でディスプレイを見つめながら呟いた言葉。彼のデスクには、エナジードリンクの空き缶が林立していた。彼の担当箇所は、あの無茶な仕様変更の煽りを最も受けた場所だった。
健司は彼の肩に手を置き、「少し休め」としか言えなかった。プロジェクトマネージャーとして、本当は彼のタスクを巻き取り、スケジュールを調整し、彼を守るべきだった。だが、健司自身も他の炎上案件の火消しに追われ、自分のタスクリストから溢れたものを、彼に押し付けてしまっていた。「大丈夫か」と問う健司に、田中は一度も目を合わせないまま、力なく笑った。「大丈夫ですよ。この山を越えれば、楽になりますから」。
その翌日、田中は会社に来なくなった。
『――君をプロジェクトマネージャーに据えたのは何のためだと思ってるんだね、佐藤君』
そして、一週間前。スケジュールの破綻と品質低下のリスクを直訴した時の、部長の言葉が頭にこびりついて離れない。「現場はもう限界です。このままでは、リリースは不可能です」。必死の訴えに、部長はデスクの上のゴルフ雑誌から一度も目を離さなかった。「PMなら何とかするのが仕事だろう。方法は君に任せる。クライアントの信頼を裏切るような報告は、まさかしてこないよな?」。そう言って、彼は健司の肩を軽く叩いた。「期待しているよ」。
それは激励ではなかった。すべての責任を現場に押し付け、自分は一切関知しないという、冷酷な最終通告だった。
そうだ。いつだってそうだ。
クライアントの期待。疲弊する仲間たちの信頼。そして、上司からの責任。そのすべてに応えなければならない。プロジェクトマネージャーなのだから。俺が、俺が何とかしなければならないのだ。
健司は、ただその一心で、すり減っていく心身に鞭を打ち、思考を現在へと引き戻した。今は感傷に浸る暇などない。目の前の赤いエラーログを止める。そのたった一つのタスクのために。
どれほどの時間が経っただろうか。健司の思考が、ついにエラーログの奔流の中から、たった一つの、致命的な矛盾を抱えたコードの記述を捉えた。
「…見つけた」
乾いた唇から、かすれた声が漏れる。これだ。この一行が、すべての不具合の元凶だった。アドレナリンが、限界を超えた身体に最後の活力を注ぎ込む。指が、これまでが嘘のように軽やかに、そして正確にキーボードの上を舞った。修正コードを打ち込み、保存し、最後のテスト実行コマンドを叩き込む。
エンターキーを押す小指に、全身の重みが乗っていた。
画面に、コンパイルの進捗を示すバーが表示される。
10%… 30%… 50%…。
順調だ。今度こそいける。健司は祈るように画面を見つめた。
その時だった。
ズキリ、と心臓が鈍く痛んだ。まるで内側から冷たい針で刺されたような、嫌な痛み。(…疲れか)彼は胸の痛みを無視しようとした。プロジェクトの最終盤ではよくあることだ。気のせいだと自分に言い聞かせる。
70%… 85%… 90%…。
バーの進捗は止まらない。あと少し。あと少しで、この長い戦いが終わる。だが、身体の異常は、もはや無視できるレベルではなかった。警告音を鳴らし続けていたのは、サーバーではなく、自分自身の肉体だったのかもしれない。
視界がぐにゃりと歪み始め、ディスプレイの光が滲み、焦点が合わなくなる。耳鳴りが、あの電子音に重なって、不快な和音を奏でていた。呼吸が浅く、速くなる。空気を吸い込んでいるはずなのに、まるで肺に届いていないかのような、息苦しさ。
95%… 98%…
まずい、と健司の本能が叫んでいた。立ち上がろうとするが、足に力が入らない。まるで自分のものではないかのように、身体が言うことを聞かない。
そして。
進捗バーが99%で、ピタリと止まった。画面に、たった一行、無慈悲な赤いエラーメッセージが表示される。致命的エラー。修正不可能な、論理矛盾。健司が施した修正は、別の、さらに深刻なバグを誘発してしまっただけだった。
万策尽きた。
その事実を認識した瞬間、彼の胸を突き刺していた冷たい針が、灼熱の杭へと変わった。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。凄まじい痛みが全身を駆け巡り、彼の意識を焼き切ろうとする。指先から力が抜け、キーボードが床に滑り落ち、甲高い音を立てた。机の縁に掴まろうとした手も、虚しく空を切る。
身体が、ゆっくりと椅子から傾いでいく。スローモーションのように世界が横倒しになっていく。床に叩きつけられた衝撃も、もはや遠い世界の出来事のようだった。
薄れゆく意識の中、床に倒れた彼の瞳が、最後の力を振り絞ってディスプレイを捉える。滲んだ視界に映るのは、あの絶望的な数字。
【プロジェクト進捗率:99%】
ああ、そうか。俺の人生も、このプロジェクトと同じだったんだな。あと、たった1%が、どうしても届かなかった。
健司の唇から、最後の言葉が、空気のかすれる音と共に漏れた。
「……進捗、ダメでした」
それは、誰に言うでもない、彼自身の人生に対する、最後のプロジェクト完了報告だった。そして、彼の意識は、完全な闇に沈んだ。
どれくらいの時間が経ったのか。あるいは、一瞬のことだったのかもしれない。佐藤健司の意識は、深く、どこまでも静かな水底から、ゆっくりと浮上するように覚醒した。
最初に感じたのは、圧倒的なまでの「無」だった。
あれほど頭蓋を苛んでいたサーバーの警告音が、ない。胸を灼くような激しい痛みが、ない。肩にのしかかっていた、鉛のような疲労感が、ない。何もかもが消え失せ、ただ穏やかな静寂だけがあった。
健司は、ゆっくりと目を開けた。
そこはオフィスではなかった。冷たくて硬い床も、無機質なデスクも、天井の蛍光灯も、どこにもない。ただ、どこまでも続く、純白の空間。上下も左右も奥行きさえも曖昧な、光に満たされた完全な虚無。身体は、まるで無重力空間にいるかのように、ふわりと宙に浮いていた。
(病院…でもないな。ここは、一体…)
自身の最後の記憶を探る。そうだ、自分は、プロジェクトの最終盤で倒れたのだ。あの絶望的な赤いエラーメッセージを、床の上から見上げて…。そこまで思い至り、健司はすべてを理解した。ああ、そうか。俺は、死んだのか。
プロジェクトは、リリースされることなく炎上したまま。そして、責任者である自分もまた、プロジェクトと共に、その生涯を終えた。不思議と、恐怖も後悔も湧き上がってこなかった。むしろ、心に広がっていたのは、長い長いデスマーチをようやく終えた兵士のような、深い安堵と解放感だった。
もう、誰も期待しない。もう、何も背負わなくていい。
(思ったより、ずっと、楽だな…)
健司は、その穏やかな虚無に、意識を溶かすように身を委ねた。
その静寂が破られたのは、唐突だった。
『――もしもし? あー…、聞こえてます? こちら、神界システム管理部、新規死亡者(ユーザー)対応窓口ですけど』
どこからともなく、しかしはっきりと、少し間延びした、そしてどこか事務的な女性の声が、健司の頭上に響き渡った。
『Pi, Pi, Pi, Pi――』
サーバーラックのどこかから発せられる、単調ながらも鼓膜を直接針で刺すような鋭い警告音。深夜のオフィスに響くその音は、静寂を通り越して墓場のように静まり返った空間で、いつまでも鳴り続けている。
もう何時間、いや、何日この音を聞いているだろうか。健司の思考は粘度の高い泥水の中をかき混ぜるように鈍重で、時間の感覚はとうに失われていた。
窓の外は完全な夜の闇。そこに映るのは、蛍光灯に白々と照らされた自分のやつれた顔だった。三十代になったばかりのはずなのに、生気がなく、目の下には隈が張り付いている。まるで自分ではない誰かを見ているかのようだった。
ITソリューション企業「ネクステップ・イノベーションズ」のプロジェクトマネージャー、それが佐藤健司の肩書だ。そして今、彼が対峙しているのは、明日早朝に最終リリースを控えた大規模システム「プロジェクト・クロノス」で発覚した致命的なバグだった。
眼前のディスプレイに視線を戻す。滝のように赤いエラーログが流れ続ける中、健司の指は無意識に、しかし正確にキーボードを叩き続けていた。コマンドを打ち込み、ログを検証し、ソースコードの該当箇所を特定する。その一連の動作を、機械のように繰り返す。感覚を失った指先は鉛の塊のようで、意志の力だけで無理やり腕を持ち上げていた。
周囲のデスクはすべて空だった。三日前にプログラマーが一人倒れ、昨日の夕方には最後の同僚が「もう限界です」と呟いて帰っていった。彼らを責める気にはなれない。誰もが心身をすり減らし、この理不尽なデスマーチを戦い抜いてきたのだから。だが、プロジェクトマネージャーである自分だけは、この場を放棄するわけにはいかなかった。このプロジェクトの責任者は自分なのだ。
警告音は、もはや耳からではなく、頭蓋骨の内側で直接反響しているかのように感じられた。乾ききった目に、カフェインと涙の代わりに入れた目薬が染みる。朦朧とする意識の表層で、健司はただキーボードを叩き続けた。このシステムを、このプロジェクトを、無事にリリースまで導く。その責任感だけが、彼の身体をこの椅子に縛り付ける最後の枷だった。
朦朧とする意識の底で、いくつもの光景が走馬灯のように明滅を繰り返す。
『――いやあ、佐藤さん、さすがです。それで、本当にちょっとしたお願いなんですが』
三ヶ月前、クライアントとの定例会議。にこやかな笑みを浮かべた担当者の言葉が蘇る。『ここの認証システム、やっぱりSNS連携も追加でお願いできますかね?』
それは「ちょっとしたお願い」などではなかった。リリースを目前に控えた段階での、システムの根幹設計に関わる致命的な仕様変更。健司は喉まで出かかった「不可能です」という言葉を、必死に飲み込んだ。隣に座る上司が先に「PMの佐藤が、必ずや御社のご期待に応えますので」と約束してしまっていたからだ。残された選択肢は、笑顔で「持ち帰り、全力で検討させていただきます」と答えることだけだった。
その日からだ。プロジェクトの進捗を示すガントチャートが、美しい緑色から、破綻を示す危険な赤色へと、ゆっくりと、しかし確実に侵食され始めたのは。
『――佐藤さん。僕、もう…色の区別がつかないんです』
一ヶ月前、深夜のオフィス。若いプログラマーの田中が、虚ろな目でディスプレイを見つめながら呟いた言葉。彼のデスクには、エナジードリンクの空き缶が林立していた。彼の担当箇所は、あの無茶な仕様変更の煽りを最も受けた場所だった。
健司は彼の肩に手を置き、「少し休め」としか言えなかった。プロジェクトマネージャーとして、本当は彼のタスクを巻き取り、スケジュールを調整し、彼を守るべきだった。だが、健司自身も他の炎上案件の火消しに追われ、自分のタスクリストから溢れたものを、彼に押し付けてしまっていた。「大丈夫か」と問う健司に、田中は一度も目を合わせないまま、力なく笑った。「大丈夫ですよ。この山を越えれば、楽になりますから」。
その翌日、田中は会社に来なくなった。
『――君をプロジェクトマネージャーに据えたのは何のためだと思ってるんだね、佐藤君』
そして、一週間前。スケジュールの破綻と品質低下のリスクを直訴した時の、部長の言葉が頭にこびりついて離れない。「現場はもう限界です。このままでは、リリースは不可能です」。必死の訴えに、部長はデスクの上のゴルフ雑誌から一度も目を離さなかった。「PMなら何とかするのが仕事だろう。方法は君に任せる。クライアントの信頼を裏切るような報告は、まさかしてこないよな?」。そう言って、彼は健司の肩を軽く叩いた。「期待しているよ」。
それは激励ではなかった。すべての責任を現場に押し付け、自分は一切関知しないという、冷酷な最終通告だった。
そうだ。いつだってそうだ。
クライアントの期待。疲弊する仲間たちの信頼。そして、上司からの責任。そのすべてに応えなければならない。プロジェクトマネージャーなのだから。俺が、俺が何とかしなければならないのだ。
健司は、ただその一心で、すり減っていく心身に鞭を打ち、思考を現在へと引き戻した。今は感傷に浸る暇などない。目の前の赤いエラーログを止める。そのたった一つのタスクのために。
どれほどの時間が経っただろうか。健司の思考が、ついにエラーログの奔流の中から、たった一つの、致命的な矛盾を抱えたコードの記述を捉えた。
「…見つけた」
乾いた唇から、かすれた声が漏れる。これだ。この一行が、すべての不具合の元凶だった。アドレナリンが、限界を超えた身体に最後の活力を注ぎ込む。指が、これまでが嘘のように軽やかに、そして正確にキーボードの上を舞った。修正コードを打ち込み、保存し、最後のテスト実行コマンドを叩き込む。
エンターキーを押す小指に、全身の重みが乗っていた。
画面に、コンパイルの進捗を示すバーが表示される。
10%… 30%… 50%…。
順調だ。今度こそいける。健司は祈るように画面を見つめた。
その時だった。
ズキリ、と心臓が鈍く痛んだ。まるで内側から冷たい針で刺されたような、嫌な痛み。(…疲れか)彼は胸の痛みを無視しようとした。プロジェクトの最終盤ではよくあることだ。気のせいだと自分に言い聞かせる。
70%… 85%… 90%…。
バーの進捗は止まらない。あと少し。あと少しで、この長い戦いが終わる。だが、身体の異常は、もはや無視できるレベルではなかった。警告音を鳴らし続けていたのは、サーバーではなく、自分自身の肉体だったのかもしれない。
視界がぐにゃりと歪み始め、ディスプレイの光が滲み、焦点が合わなくなる。耳鳴りが、あの電子音に重なって、不快な和音を奏でていた。呼吸が浅く、速くなる。空気を吸い込んでいるはずなのに、まるで肺に届いていないかのような、息苦しさ。
95%… 98%…
まずい、と健司の本能が叫んでいた。立ち上がろうとするが、足に力が入らない。まるで自分のものではないかのように、身体が言うことを聞かない。
そして。
進捗バーが99%で、ピタリと止まった。画面に、たった一行、無慈悲な赤いエラーメッセージが表示される。致命的エラー。修正不可能な、論理矛盾。健司が施した修正は、別の、さらに深刻なバグを誘発してしまっただけだった。
万策尽きた。
その事実を認識した瞬間、彼の胸を突き刺していた冷たい針が、灼熱の杭へと変わった。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。凄まじい痛みが全身を駆け巡り、彼の意識を焼き切ろうとする。指先から力が抜け、キーボードが床に滑り落ち、甲高い音を立てた。机の縁に掴まろうとした手も、虚しく空を切る。
身体が、ゆっくりと椅子から傾いでいく。スローモーションのように世界が横倒しになっていく。床に叩きつけられた衝撃も、もはや遠い世界の出来事のようだった。
薄れゆく意識の中、床に倒れた彼の瞳が、最後の力を振り絞ってディスプレイを捉える。滲んだ視界に映るのは、あの絶望的な数字。
【プロジェクト進捗率:99%】
ああ、そうか。俺の人生も、このプロジェクトと同じだったんだな。あと、たった1%が、どうしても届かなかった。
健司の唇から、最後の言葉が、空気のかすれる音と共に漏れた。
「……進捗、ダメでした」
それは、誰に言うでもない、彼自身の人生に対する、最後のプロジェクト完了報告だった。そして、彼の意識は、完全な闇に沈んだ。
どれくらいの時間が経ったのか。あるいは、一瞬のことだったのかもしれない。佐藤健司の意識は、深く、どこまでも静かな水底から、ゆっくりと浮上するように覚醒した。
最初に感じたのは、圧倒的なまでの「無」だった。
あれほど頭蓋を苛んでいたサーバーの警告音が、ない。胸を灼くような激しい痛みが、ない。肩にのしかかっていた、鉛のような疲労感が、ない。何もかもが消え失せ、ただ穏やかな静寂だけがあった。
健司は、ゆっくりと目を開けた。
そこはオフィスではなかった。冷たくて硬い床も、無機質なデスクも、天井の蛍光灯も、どこにもない。ただ、どこまでも続く、純白の空間。上下も左右も奥行きさえも曖昧な、光に満たされた完全な虚無。身体は、まるで無重力空間にいるかのように、ふわりと宙に浮いていた。
(病院…でもないな。ここは、一体…)
自身の最後の記憶を探る。そうだ、自分は、プロジェクトの最終盤で倒れたのだ。あの絶望的な赤いエラーメッセージを、床の上から見上げて…。そこまで思い至り、健司はすべてを理解した。ああ、そうか。俺は、死んだのか。
プロジェクトは、リリースされることなく炎上したまま。そして、責任者である自分もまた、プロジェクトと共に、その生涯を終えた。不思議と、恐怖も後悔も湧き上がってこなかった。むしろ、心に広がっていたのは、長い長いデスマーチをようやく終えた兵士のような、深い安堵と解放感だった。
もう、誰も期待しない。もう、何も背負わなくていい。
(思ったより、ずっと、楽だな…)
健司は、その穏やかな虚無に、意識を溶かすように身を委ねた。
その静寂が破られたのは、唐突だった。
『――もしもし? あー…、聞こえてます? こちら、神界システム管理部、新規死亡者(ユーザー)対応窓口ですけど』
どこからともなく、しかしはっきりと、少し間延びした、そしてどこか事務的な女性の声が、健司の頭上に響き渡った。
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