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第3章:偽りの繁栄と経済戦争
第64話:最重要インシデント「ミレット村」
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「―――これは、パーティが、最優先で対応すべき、最重要インシデントです」
ケンジが放った静かだが鋼のように揺るぎない宣言。その言葉が、まるで石を投げ入れたかのように、塔の一室に満ちる重く冷たい沈黙の湖面に、いつまでも波紋を広げていた。
床に膝をつき、嗚咽を漏らしていたシーナの震えが、ぴたりと止まる。彼女は信じられないものを見るようにゆっくりと涙に濡れた顔を上げた。フードは完全に脱げ落ち、月明かりが、彼女のあまりにも無防備で、混乱しきった表情を容赦なく照らし出していた。
その翡翠のように美しい、しかし今はただ絶望の色に染まった瞳が、まっすぐにケンジを捉える。彼女の唇がわずかに震え、かすかに開閉を繰り返した。
(…なんて、言ったんだ…? こいつは…)
シーナの頭は完全な白紙だった。ほんの数秒前まで、彼女は自らのあまりにもみじめで個人的な問題を告白していたのだ。パーティの金を使い込み、仲間を騙していたという、裏切りにも等しい罪を。彼女が覚悟していたのは、ケンジからの罵倒か、軽蔑の眼差し。最悪の場合、このパーティからの追放。それらすべてを受け入れる覚悟はできていたはずだった。
だが、ケンジが与えたのはそのどれでもなかった。
最重要インシデント?
パーティが最優先で対応すべき?
彼女の個人的な失敗と絶望が、なぜこのチーム全体の最も重要な課題になるというのか。シーナにはその意味が全く理解できなかった。これは同情か? あるいは哀れみか?
いや、違う。
目の前で自分を見下ろすケンジの瞳。そのあまりにも冷静で、一切の感情を排した、プロジェクトマネージャーとしての冷徹な光。その瞳には、同情も哀れみも一切浮かんでいなかった。彼はまるで、突発的に発生したシステムの致命的なバグを分析するかのように、ただ純粋な「課題」として、シーナのその絶望を見つめていた。その無機質さが、かえって彼女の心を強く揺さぶった。
「…ボス…?」
シーナの唇からか細く困惑に満ちた声が漏れる。「あんた、今なんて…」
その問いに、ケンジは即答しなかった。彼の隣で息をのんで事の成り行きを見守っていたルリエルとゴードンが、その答えを代弁するかのように動いた。彼らはケンジの常人には到底理解しがたい、しかし絶対的なリーダーとしての決断の意味を、この短い時間の中で既に完全に理解していた。
「…シーナ」
ルリエルが一歩前に進み出る。その顔にはもはやシーナへの同情の色はない。そこにあるのは、共に戦う仲間へと向ける力強い意志の光だった。彼女はケンジの言葉が持つ真の意図を理解していた。これは、シーナを追い詰めるためではなく、彼女を救うための「指示」なのだと。
ゴードンもまた、固く握りしめていた拳をゆっくりと解いていた。彼の心にあったどうしようもない無力感は、ケンジのその一言によって振り払われていた。目の前で仲間が苦しんでいるのに何もできないと嘆いていた自分に、今何をすべきかという明確な道筋が示されたのだ。
だが、シーナだけはまだそのあまりにも唐突な救いの手を信じられずにいた。彼女はただ呆然と、ケンジの真意の読めない静かな瞳を見つめ返すことしかできなかった。彼女の孤独な戦いは、本当に終わるのだろうか。その問いの答えは、まだ風の中にあった。
「…なぜ…?」
シーナの唇からか細く、そしてあまりにも当然の問いが漏れた。彼女は涙に濡れた瞳でケンジの顔をただ見上げる。
「なぜ、あたしの、個人的な、失敗が…。パーティの最重要インシデントになるんだ…?」
彼女は理解できなかった。自分は仲間を騙し金を使い込んだ裏切り者だ。その個人的な救いようのない問題を、なぜこの男はチーム全体の最優先課題だと断言するのか。それはあまりにも理不尽で、そしてあまりにも優しすぎる宣告だった。
ケンジはそんな彼女の切実な問いに、静かに、そしてプロジェクトマネージャーとして完璧な論理をもって答え始めた。
彼は立ち上がると、先ほどヒナたちの課題を書き出した羊皮紙を再びテーブルの上に広げた。その一番上に、流れるような筆致で一つの言葉を書き記す。
【チームの財産】
「シーナさん」
ケンジの声はどこまでも冷静だった。「まず、僕たちのチームを、一つの巨大な機械だと思ってください。そこにいる一人一人は、かけがえのない歯車です」
シーナは、ケンジの唐突な比喩に戸惑いながらも、静かに耳を傾けた。
「あなたの卓越した隠密行動能力と情報収集能力。ルリエルの圧倒的な魔術の才能。ゴードンの何者にも打ち破られない守護の力。そしてそれらすべてを管理し、最も効率よく動かす僕のマネジメント能力。これら四つの歯車が完璧に噛み合ってこそ、僕たちの『魔王討伐』という機械は、初めて動き出すことができる」
彼はそこで一度言葉を切った。シーナは、自分がただの「資源」ではなく「歯車」だという表現に、わずかな安堵を覚えた。しかし、その安堵はすぐに吹き飛ぶ。
「ですが、今、その最も重要な歯車の一つであるあなた、シーナさんが、正常に機能していない」
そのあまりにも直接的で、一切の容赦のない指摘。シーナの肩がびくりと震えた。それは彼女が最も恐れていた真実の指摘だった。ケンジは彼女の心の傷を躊躇なく暴き出す。
「これはあなたを責めているのではありません。ただの事実分析です」
ケンジの声は変わらない。
「あなたは故郷の問題を一人で抱え込み、精神的に極度の負荷がかかっている。それはあなたの能力を著しく低下させている。その証拠に、あなたはチームの規律を破り、独断で資金を流用した。これはあなたのプロとしての判断力が、もはやまともに働いていないことを示している」
それはあまりにも冷徹で、反論のしようもない正論だった。シーナはぐっと唇を噛み締める。自分の行動のすべてが、まるで業務報告書のように分析されている。
「そして、そのあなたの性能を低下させている根本原因は何か?」
ケンジは自問し、そして自答する。
「それはあなたの故郷を襲っている、『原因不明の熱病』です。あなたが先ほど説明してくれたその症状。『バグった魔法陣のような赤い痣』。それは、僕たちがこれまで遭遇してきた世界の『不具合(バグ)』と、完全に一致する」
ケンジの瞳が鋭い光を宿す。彼は一度、ヒナの籠が置かれた部屋の隅に視線を向けた。
「ワイバーンのヒナに発現した『魔王プロセス同期候補』という赤い警告。そして、あなたの故郷を蝕む『赤い痣』。これら全ては、一つの巨大な不具合が引き起こしている事象です」
彼はそこで結論を告げた。それはこの場にいる誰もが予想だにしなかった衝撃的な分析結果だった。シーナの個人的な悲劇は、すでに世界の危機と繋がっていたのだと。
シーナの目に、驚きと、かすかな希望が宿る。彼女の故郷は、ただの悲劇ではなく、世界の病の兆候だった。
「世界の不具合という根本原因が、僕たちのチームという『機械』の歯車を、今、一つずつ侵食している。シーナさん、あなたの問題はもはやあなた個人の問題ではない。それは世界のシステムが、僕たちの最も脆弱な部分を攻撃してきているという、明確なサインなのです」
ケンジは静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで断言した。
「これは放置すれば、チーム全体の崩壊に繋がりかねない最大のリスクです。故に、このリスクを排除すること。すなわち、あなたの故郷を救うことは。今、僕たちが取り組むべき、最も優先順位の高い『任務(タスク)』なのです」
それは、同情でも哀れみでも、断じてなかった。
ただ、チームを成功させるためだけの、あまりにも合理的で、そして冷徹な経営判断。
だが、その人間味のないロジックこそが、今、シーナの凍てついた心を救う、唯一の言葉だった。
彼女の故郷は、ついに、このチームの正式な「仕事」になったのだ。
一人で抱えきれないほどの重荷だったものが、仲間と共に立ち向かうべき、共通の「任務」へと姿を変えた。
シーナの瞳から、それまで絶望の色だった涙が、静かに、しかし、温かい光を宿した輝きへと変わっていく。
彼女は、再び、このパーティの「仲間」として、立ち上がる力を取り戻し始めていた。
ケンジが放った静かだが鋼のように揺るぎない宣言。その言葉が、まるで石を投げ入れたかのように、塔の一室に満ちる重く冷たい沈黙の湖面に、いつまでも波紋を広げていた。
床に膝をつき、嗚咽を漏らしていたシーナの震えが、ぴたりと止まる。彼女は信じられないものを見るようにゆっくりと涙に濡れた顔を上げた。フードは完全に脱げ落ち、月明かりが、彼女のあまりにも無防備で、混乱しきった表情を容赦なく照らし出していた。
その翡翠のように美しい、しかし今はただ絶望の色に染まった瞳が、まっすぐにケンジを捉える。彼女の唇がわずかに震え、かすかに開閉を繰り返した。
(…なんて、言ったんだ…? こいつは…)
シーナの頭は完全な白紙だった。ほんの数秒前まで、彼女は自らのあまりにもみじめで個人的な問題を告白していたのだ。パーティの金を使い込み、仲間を騙していたという、裏切りにも等しい罪を。彼女が覚悟していたのは、ケンジからの罵倒か、軽蔑の眼差し。最悪の場合、このパーティからの追放。それらすべてを受け入れる覚悟はできていたはずだった。
だが、ケンジが与えたのはそのどれでもなかった。
最重要インシデント?
パーティが最優先で対応すべき?
彼女の個人的な失敗と絶望が、なぜこのチーム全体の最も重要な課題になるというのか。シーナにはその意味が全く理解できなかった。これは同情か? あるいは哀れみか?
いや、違う。
目の前で自分を見下ろすケンジの瞳。そのあまりにも冷静で、一切の感情を排した、プロジェクトマネージャーとしての冷徹な光。その瞳には、同情も哀れみも一切浮かんでいなかった。彼はまるで、突発的に発生したシステムの致命的なバグを分析するかのように、ただ純粋な「課題」として、シーナのその絶望を見つめていた。その無機質さが、かえって彼女の心を強く揺さぶった。
「…ボス…?」
シーナの唇からか細く困惑に満ちた声が漏れる。「あんた、今なんて…」
その問いに、ケンジは即答しなかった。彼の隣で息をのんで事の成り行きを見守っていたルリエルとゴードンが、その答えを代弁するかのように動いた。彼らはケンジの常人には到底理解しがたい、しかし絶対的なリーダーとしての決断の意味を、この短い時間の中で既に完全に理解していた。
「…シーナ」
ルリエルが一歩前に進み出る。その顔にはもはやシーナへの同情の色はない。そこにあるのは、共に戦う仲間へと向ける力強い意志の光だった。彼女はケンジの言葉が持つ真の意図を理解していた。これは、シーナを追い詰めるためではなく、彼女を救うための「指示」なのだと。
ゴードンもまた、固く握りしめていた拳をゆっくりと解いていた。彼の心にあったどうしようもない無力感は、ケンジのその一言によって振り払われていた。目の前で仲間が苦しんでいるのに何もできないと嘆いていた自分に、今何をすべきかという明確な道筋が示されたのだ。
だが、シーナだけはまだそのあまりにも唐突な救いの手を信じられずにいた。彼女はただ呆然と、ケンジの真意の読めない静かな瞳を見つめ返すことしかできなかった。彼女の孤独な戦いは、本当に終わるのだろうか。その問いの答えは、まだ風の中にあった。
「…なぜ…?」
シーナの唇からか細く、そしてあまりにも当然の問いが漏れた。彼女は涙に濡れた瞳でケンジの顔をただ見上げる。
「なぜ、あたしの、個人的な、失敗が…。パーティの最重要インシデントになるんだ…?」
彼女は理解できなかった。自分は仲間を騙し金を使い込んだ裏切り者だ。その個人的な救いようのない問題を、なぜこの男はチーム全体の最優先課題だと断言するのか。それはあまりにも理不尽で、そしてあまりにも優しすぎる宣告だった。
ケンジはそんな彼女の切実な問いに、静かに、そしてプロジェクトマネージャーとして完璧な論理をもって答え始めた。
彼は立ち上がると、先ほどヒナたちの課題を書き出した羊皮紙を再びテーブルの上に広げた。その一番上に、流れるような筆致で一つの言葉を書き記す。
【チームの財産】
「シーナさん」
ケンジの声はどこまでも冷静だった。「まず、僕たちのチームを、一つの巨大な機械だと思ってください。そこにいる一人一人は、かけがえのない歯車です」
シーナは、ケンジの唐突な比喩に戸惑いながらも、静かに耳を傾けた。
「あなたの卓越した隠密行動能力と情報収集能力。ルリエルの圧倒的な魔術の才能。ゴードンの何者にも打ち破られない守護の力。そしてそれらすべてを管理し、最も効率よく動かす僕のマネジメント能力。これら四つの歯車が完璧に噛み合ってこそ、僕たちの『魔王討伐』という機械は、初めて動き出すことができる」
彼はそこで一度言葉を切った。シーナは、自分がただの「資源」ではなく「歯車」だという表現に、わずかな安堵を覚えた。しかし、その安堵はすぐに吹き飛ぶ。
「ですが、今、その最も重要な歯車の一つであるあなた、シーナさんが、正常に機能していない」
そのあまりにも直接的で、一切の容赦のない指摘。シーナの肩がびくりと震えた。それは彼女が最も恐れていた真実の指摘だった。ケンジは彼女の心の傷を躊躇なく暴き出す。
「これはあなたを責めているのではありません。ただの事実分析です」
ケンジの声は変わらない。
「あなたは故郷の問題を一人で抱え込み、精神的に極度の負荷がかかっている。それはあなたの能力を著しく低下させている。その証拠に、あなたはチームの規律を破り、独断で資金を流用した。これはあなたのプロとしての判断力が、もはやまともに働いていないことを示している」
それはあまりにも冷徹で、反論のしようもない正論だった。シーナはぐっと唇を噛み締める。自分の行動のすべてが、まるで業務報告書のように分析されている。
「そして、そのあなたの性能を低下させている根本原因は何か?」
ケンジは自問し、そして自答する。
「それはあなたの故郷を襲っている、『原因不明の熱病』です。あなたが先ほど説明してくれたその症状。『バグった魔法陣のような赤い痣』。それは、僕たちがこれまで遭遇してきた世界の『不具合(バグ)』と、完全に一致する」
ケンジの瞳が鋭い光を宿す。彼は一度、ヒナの籠が置かれた部屋の隅に視線を向けた。
「ワイバーンのヒナに発現した『魔王プロセス同期候補』という赤い警告。そして、あなたの故郷を蝕む『赤い痣』。これら全ては、一つの巨大な不具合が引き起こしている事象です」
彼はそこで結論を告げた。それはこの場にいる誰もが予想だにしなかった衝撃的な分析結果だった。シーナの個人的な悲劇は、すでに世界の危機と繋がっていたのだと。
シーナの目に、驚きと、かすかな希望が宿る。彼女の故郷は、ただの悲劇ではなく、世界の病の兆候だった。
「世界の不具合という根本原因が、僕たちのチームという『機械』の歯車を、今、一つずつ侵食している。シーナさん、あなたの問題はもはやあなた個人の問題ではない。それは世界のシステムが、僕たちの最も脆弱な部分を攻撃してきているという、明確なサインなのです」
ケンジは静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで断言した。
「これは放置すれば、チーム全体の崩壊に繋がりかねない最大のリスクです。故に、このリスクを排除すること。すなわち、あなたの故郷を救うことは。今、僕たちが取り組むべき、最も優先順位の高い『任務(タスク)』なのです」
それは、同情でも哀れみでも、断じてなかった。
ただ、チームを成功させるためだけの、あまりにも合理的で、そして冷徹な経営判断。
だが、その人間味のないロジックこそが、今、シーナの凍てついた心を救う、唯一の言葉だった。
彼女の故郷は、ついに、このチームの正式な「仕事」になったのだ。
一人で抱えきれないほどの重荷だったものが、仲間と共に立ち向かうべき、共通の「任務」へと姿を変えた。
シーナの瞳から、それまで絶望の色だった涙が、静かに、しかし、温かい光を宿した輝きへと変わっていく。
彼女は、再び、このパーティの「仲間」として、立ち上がる力を取り戻し始めていた。
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