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第4話:【対決】偽りの聖域
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黒狼砦での日々は、驚くほど穏やかに過ぎていった。私がここにきて、季節は夏から秋へと移ろいでいた。ゼノス様の呪いは、私の浄化の力によって、まるで猛獣が少しずつ飼いならされていくかのように、その牙を収めていった。彼の顔から苦悶の表情が消え、兵士たちに的確な指示を飛ばす声には、かつての覇気が戻りつつあった。
私もまた、変わり始めていた。
「役立たず」「地味」。そう蔑まれ、自分自身でもそう信じ込んでいた日々が、遠い昔のことのように思える。ここでは、誰もが私を「リーナ様」と呼び、その存在に心からの感謝を示してくれた。特に、ゼノス様は、私を一人の女性として、かけがえのない存在として、大切に扱ってくれた。
ある晴れた日の午後、私は砦の城壁の上で、ゼノス様と並んで眼下に広がる領地を眺めていた。
「見てみろ、リーナ。君が来てから、この土地の作物の実りが良くなった。人々は、君を『北の恵みの聖女』と呼んでいる」
「私など……。私は、ただ祈っているだけです」
「その祈りが、この土地のすべてを癒しているのだ。俺の呪いも、この荒れ果てた大地も……そして、俺自身の心もだ」
そう言って、彼は私の手を取った。軍人らしい、硬く、節くれだった大きな手。けれど、その手は、どんな宝物よりも優しく、温かく、私の小さな手を包み込んでくれる。
彼の黄金の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。その瞳に宿る熱い想いに、私の心臓は甘く高鳴った。彼が何かを言いかけた、その時だった。
「――将軍!ご報告いたします!」
血相を変えたグレゴール副官が、城壁を駆け上がってきた。その手には、大神殿の紋章が押された、一通の書状が握られている。
「大神官様が、直々にこちらへ向かわれているとのこと!すでに、麓の村まで到着している模様です!」
大神殿。大神官。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は、先ほどとは全く違う意味で、激しく鼓動を始めた。楽しかった日々の記憶が、一瞬にして色褪せ、あの冷たい石の床の感触と、嘲りの声が、鮮明に蘇る。
「……何の用だ。今更、この土地に」
ゼノス様が、吐き捨てるように言う。彼の表情は、再び「帝国の黒犬」の冷徹なものに戻っていた。
一時間後、玉座の間には、旅の疲れも見せず、傲然と胸を張る大神官の姿があった。その後ろには、まるで勝利を確信したかのように、得意げな笑みを浮かべるエララ様の姿もある。
「ゼノス将軍、息災そうで何より。これも、我らが遣わした聖女リーナの働きのおかげですかな?」
大神官は、まるで自分の手柄であるかのように、尊大に言い放った。
「用件を言え」
玉座に座るゼノス様が、地を這うような低い声で応じる。その隣に立つ私の体は、恐怖で小刻みに震えていた。
大神官は、芝居がかった仕草で、深くため息をついてみせた。
「嘆かわしいことに、この大神殿が、未曾有の危機に瀕しておるのだ。リーナが神殿を去って以来、聖域を満たしていた清浄な魔力が、日に日に淀み始め……今や、神殿の至る所から、黒い瘴気が発生する始末。エララの光の力をもってしても、この瘴気を祓うことはできぬ」
その言葉に、私は息をのんだ。
(まさか……。私が日々行っていた、あの地味な浄化が、大神殿そのものを支えていたというの……?)
「そこで、だ。リーナよ」
大神官の目が、初めて私を捉えた。その目には、かつての侮蔑ではなく、焦りと、命令の色が浮かんでいる。
「そなたの役目は終わった。ただちに我々と共に神殿へ戻り、再び聖域の浄化にその身を捧げるのだ。これは、神の御名において下される、絶対の命令であるぞ!」
それは、あまりにも身勝手な、理不尽な要求だった。
私を「役立たず」と切り捨て、死地へと追いやったのは、彼ら自身だ。それなのに、今になって、自分たちの都合で、私を連れ戻そうというのか。
怒りと、そして、蘇ってきた恐怖で、声が出ない。足が竦み、あの頃のように、ただ言いなりになるしかないのかと、絶望が心を支配しかけた、その時。
私の震える手を、力強い温かさが、ぐっと握りしめた。
ゼノス様だった。
「断る」
彼の静かな、しかし、決して揺らぐことのない声が、玉座の間に響き渡った。
「彼女は、もはや神殿の所有物ではない。この黒狼砦の、そして、この俺にとって、かけがえのない希望の光だ。貴様らのような、己の都合で他者の価値を弄ぶ者たちに、彼女を渡すものか」
ゼノス様は、ゆっくりと玉座から立ち上がると、私の前に立ち、その巨大な体で、私を庇護するように立ちはだかった。その広い背中が、これほどまでに頼もしく、温かく感じられたことはない。
「なっ、何を言うか、将軍!聖女は神の僕、神殿に仕えるのが務め!それを阻むというのなら、貴様は帝国と神、その両方に弓を引くことになるのだぞ!」
大神官が、狼狽しながら叫ぶ。
その言葉に、私の心の中で、最後の何かが、ぷつりと切れた。
恐怖が、怒りへと変わる。そして、その怒りが、私に、生まれて初めての勇気を与えてくれた。
私は、ゼノス様の背後から一歩前に出た。そして、もう震えることのない声で、まっすぐに大神官を見据えた。
「大神官様。私の力は、神のものでも、神殿のものでもありません」
私の言葉に、大神官も、エララ様も、驚愕に目を見開いている。
「私のこの力は、本当にそれを必要としてくれる方のためのものです。貴方々が『地味』で『役立たず』と切り捨てたこの力は、今、この場所で、一人の気高い騎士の魂を癒し、この土地に生きる人々の希望となっています。私は、私の居場所を、見つけたのです」
私は、ゼノス様の手を、今度は自分から、強く、強く握り返した。
「ですから、私は、神殿へは戻りません」
私の口から放たれた、明確な拒絶。
その瞬間、大神官の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼は、ようやく理解したのだ。自分たちが犯した、取り返しのつかない過ちの深さを。派手な奇跡ばかりに目を奪われ、聖域の根幹を支える、最も重要な「浄化」の力を、自らの手で追放してしまったという、愚かな真実を。
彼の権威も、神殿の未来も、今、この瞬間に、音を立てて崩れ落ちていった。
私もまた、変わり始めていた。
「役立たず」「地味」。そう蔑まれ、自分自身でもそう信じ込んでいた日々が、遠い昔のことのように思える。ここでは、誰もが私を「リーナ様」と呼び、その存在に心からの感謝を示してくれた。特に、ゼノス様は、私を一人の女性として、かけがえのない存在として、大切に扱ってくれた。
ある晴れた日の午後、私は砦の城壁の上で、ゼノス様と並んで眼下に広がる領地を眺めていた。
「見てみろ、リーナ。君が来てから、この土地の作物の実りが良くなった。人々は、君を『北の恵みの聖女』と呼んでいる」
「私など……。私は、ただ祈っているだけです」
「その祈りが、この土地のすべてを癒しているのだ。俺の呪いも、この荒れ果てた大地も……そして、俺自身の心もだ」
そう言って、彼は私の手を取った。軍人らしい、硬く、節くれだった大きな手。けれど、その手は、どんな宝物よりも優しく、温かく、私の小さな手を包み込んでくれる。
彼の黄金の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。その瞳に宿る熱い想いに、私の心臓は甘く高鳴った。彼が何かを言いかけた、その時だった。
「――将軍!ご報告いたします!」
血相を変えたグレゴール副官が、城壁を駆け上がってきた。その手には、大神殿の紋章が押された、一通の書状が握られている。
「大神官様が、直々にこちらへ向かわれているとのこと!すでに、麓の村まで到着している模様です!」
大神殿。大神官。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は、先ほどとは全く違う意味で、激しく鼓動を始めた。楽しかった日々の記憶が、一瞬にして色褪せ、あの冷たい石の床の感触と、嘲りの声が、鮮明に蘇る。
「……何の用だ。今更、この土地に」
ゼノス様が、吐き捨てるように言う。彼の表情は、再び「帝国の黒犬」の冷徹なものに戻っていた。
一時間後、玉座の間には、旅の疲れも見せず、傲然と胸を張る大神官の姿があった。その後ろには、まるで勝利を確信したかのように、得意げな笑みを浮かべるエララ様の姿もある。
「ゼノス将軍、息災そうで何より。これも、我らが遣わした聖女リーナの働きのおかげですかな?」
大神官は、まるで自分の手柄であるかのように、尊大に言い放った。
「用件を言え」
玉座に座るゼノス様が、地を這うような低い声で応じる。その隣に立つ私の体は、恐怖で小刻みに震えていた。
大神官は、芝居がかった仕草で、深くため息をついてみせた。
「嘆かわしいことに、この大神殿が、未曾有の危機に瀕しておるのだ。リーナが神殿を去って以来、聖域を満たしていた清浄な魔力が、日に日に淀み始め……今や、神殿の至る所から、黒い瘴気が発生する始末。エララの光の力をもってしても、この瘴気を祓うことはできぬ」
その言葉に、私は息をのんだ。
(まさか……。私が日々行っていた、あの地味な浄化が、大神殿そのものを支えていたというの……?)
「そこで、だ。リーナよ」
大神官の目が、初めて私を捉えた。その目には、かつての侮蔑ではなく、焦りと、命令の色が浮かんでいる。
「そなたの役目は終わった。ただちに我々と共に神殿へ戻り、再び聖域の浄化にその身を捧げるのだ。これは、神の御名において下される、絶対の命令であるぞ!」
それは、あまりにも身勝手な、理不尽な要求だった。
私を「役立たず」と切り捨て、死地へと追いやったのは、彼ら自身だ。それなのに、今になって、自分たちの都合で、私を連れ戻そうというのか。
怒りと、そして、蘇ってきた恐怖で、声が出ない。足が竦み、あの頃のように、ただ言いなりになるしかないのかと、絶望が心を支配しかけた、その時。
私の震える手を、力強い温かさが、ぐっと握りしめた。
ゼノス様だった。
「断る」
彼の静かな、しかし、決して揺らぐことのない声が、玉座の間に響き渡った。
「彼女は、もはや神殿の所有物ではない。この黒狼砦の、そして、この俺にとって、かけがえのない希望の光だ。貴様らのような、己の都合で他者の価値を弄ぶ者たちに、彼女を渡すものか」
ゼノス様は、ゆっくりと玉座から立ち上がると、私の前に立ち、その巨大な体で、私を庇護するように立ちはだかった。その広い背中が、これほどまでに頼もしく、温かく感じられたことはない。
「なっ、何を言うか、将軍!聖女は神の僕、神殿に仕えるのが務め!それを阻むというのなら、貴様は帝国と神、その両方に弓を引くことになるのだぞ!」
大神官が、狼狽しながら叫ぶ。
その言葉に、私の心の中で、最後の何かが、ぷつりと切れた。
恐怖が、怒りへと変わる。そして、その怒りが、私に、生まれて初めての勇気を与えてくれた。
私は、ゼノス様の背後から一歩前に出た。そして、もう震えることのない声で、まっすぐに大神官を見据えた。
「大神官様。私の力は、神のものでも、神殿のものでもありません」
私の言葉に、大神官も、エララ様も、驚愕に目を見開いている。
「私のこの力は、本当にそれを必要としてくれる方のためのものです。貴方々が『地味』で『役立たず』と切り捨てたこの力は、今、この場所で、一人の気高い騎士の魂を癒し、この土地に生きる人々の希望となっています。私は、私の居場所を、見つけたのです」
私は、ゼノス様の手を、今度は自分から、強く、強く握り返した。
「ですから、私は、神殿へは戻りません」
私の口から放たれた、明確な拒絶。
その瞬間、大神官の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼は、ようやく理解したのだ。自分たちが犯した、取り返しのつかない過ちの深さを。派手な奇跡ばかりに目を奪われ、聖域の根幹を支える、最も重要な「浄化」の力を、自らの手で追放してしまったという、愚かな真実を。
彼の権威も、神殿の未来も、今、この瞬間に、音を立てて崩れ落ちていった。
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