「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」と蔑んだ元婚約者へ。今、私は氷帝陛下の隣で大陸一の幸せを掴んでいます。

椎名シナ

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第二話:氷帝の執着と、甘やかな契約

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 カイザー陛下の言葉は、まるで熟練の役者が紡ぐ台詞のように、私の心の琴線に触れては、微かな震えを残していく。彼の手の温もりは、先ほどまでの屈辱的な寒さを忘れさせてくれるほどに、不思議と心地よかった。

 しかし、だ。いくら魅力的な提案とはいえ、そう簡単に「はい、そうですか」と敵国の皇帝についていくほど、私はお人好しでもなければ、短慮でもない。……いや、短慮かもしれないが、少なくとも生きるためには慎重にならざるを得ない状況だ。

「……カイザー陛下。大変魅力的なお誘いではございますが、いくつか確認させていただいてもよろしいでしょうか?」

 私は、努めて冷静な声を装い、彼の手をそっと振り解いた。ここで流されてしまっては、また同じ轍を踏むことになる。アルフォンス様の時のように、甘い言葉に踊らされ、結局は都合のいい駒として利用されるだけだ。もう、あんな思いはたくさんだった。

 カイザー陛下は、私の抵抗を意外に思ったのか、わずかに目を細めた。しかし、すぐに興味深そうな笑みを浮かべ、鷹揚に頷く。

「何なりと。お前の疑問には、全て正直に答えよう。それが、俺の誠意だ」

 その言葉に嘘はなさそうだった。彼の蒼銀の瞳は、先ほどと変わらず真っ直ぐに私を見据えている。まるで、私の全てを受け入れると言わんばかりに。……いや、それは買いかぶりすぎか。

「まず、陛下はどうして私を? クラウヴェルト王国には、私よりも有能で、美しい令嬢は星の数ほどおりますわ。聖女マリアベル様のように、特別な力を持つ方も」

 これが一番の疑問だった。私はクライネル公爵家の令嬢とはいえ、「無能」の烙印を押された存在だ。ヴァルエンデ帝国にとって、私を保護するメリットなど万に一つもないはず。むしろ、クラウヴェルト王国とのさらなる軋轢を生むだけの危険な火種にしかならない。

 私の問いかけに、カイザー陛下はふっと息を漏らした。それは嘲笑ではなく、どこか呆れたような、それでいて慈しむような、複雑な響きを持っていた。

「……エリアーナ。お前は、自分の価値を何も理解していないのだな」

「価値、ですって……? 私に、そのようなものが……」

 あるとすれば、それはアルフォンス様の「引き立て役」としての価値くらいだろう。あるいは、クライネル公爵家を貶めるための「醜聞の種」としての価値か。どちらにしても、名誉とは程遠いものばかりだ。

 しかし、カイザー陛下は私の自嘲を遮るように、はっきりとした口調で言った。

「お前の『無能』は、クラウヴェルトの愚か者どもが作り上げた虚像に過ぎん。あいつらは、磨けば光るダイヤモンドの原石を、ただの石ころと勘違いしているだけだ。……いや、あるいは、その輝きを恐れて、意図的に曇らせているのかもしれんな」

 彼の言葉は、私の胸の奥に眠っていた小さなプライドを、そっと揺り動かす。そうだ。私は、決して無能ではない。ただ、アルフォンス様や周囲が求める「聖女マリアベルの引き立て役」としての役割を、完璧に演じきれなかっただけだ。彼らの望む「都合のいい人形」には、なれなかっただけなのだ。

「陛下は……私の何を、ご存知だと……?」

「全てだ」

 カイザー陛下は、再び私の手を取り、今度は迷いなくその指を絡めてきた。彼の大きな手に包まれると、不思議と心が落ち着いていくのを感じる。

「お前が幼い頃から、どれほど聡明で、どれほど努力家であったか。お前が編み出した独自の魔術理論が、どれほど革新的で、将来性のあるものだったか。そして……お前が、アルフォンス王子と聖女マリアベルの茶番劇のために、どれほどの屈辱と苦痛を耐え忍んできたか。俺は、全て知っている」

「なっ……!?」

 私は息を呑んだ。彼が語った内容は、私自身ですら記憶の片隅に追いやっていた、あるいは誰にも理解されないと諦めていたことばかりだったからだ。どうして、敵国の皇帝である彼が、そこまで私のことを……?

 まるで私の心の声が聞こえたかのように、カイザー陛下は続けた。

「驚くことはない。ヴァルエンデの情報網を甘く見るな。それに……俺は、ずっとお前を見ていたからな」

「見ていた……ですって?」

「ああ。お前が初めて王宮の夜会に現れた、あの瞬間からだ。愚かな者たちの輪の中で、ただ一人、孤高の輝きを放っていたお前に、俺は一目で心を奪われた」

 まるで熱に浮かされたような、甘く、それでいて切実な響きを帯びた告白。彼の蒼銀の瞳が、今までに見たことがないほど熱く揺らめいている。その視線に射抜かれ、私の頬がカッと熱くなるのを感じた。

(こ、心を奪われた……ですって!? この、氷の皇帝と恐れられる方が、私に……?)

 ありえない。ありえない話だ。しかし、彼の真剣な眼差しと、力強く握られた手の温もりが、それが決して戯言ではないことを物語っている。どうしよう。心臓が、破裂しそうなほど高鳴っている。これが……これが、本当の「愛の告白」というものなのだろうか。アルフォンス様から与えられた、上辺だけの甘言とは全く違う、魂を揺さぶるような熱情。

「……しかし、陛下。私は、クラウヴェルト王国の公爵令嬢です。陛下のおそばにいれば、それはヴァルエンデ帝国にとって、大きなリスクとなるのでは……?」

 私は、かろうじて理性を保ち、現実的な問題を口にした。彼の熱に浮かされて、全てを忘れてしまいそうになるのを必死でこらえる。

「リスクだと? ふん、笑わせるな。俺にとって最大のリスクは、お前という至宝を、あの愚か者たちの手にいつまでも委ねておくことだ。それに……」

 カイザー陛下は、私の耳元に顔を寄せ、囁くように言った。

「お前が俺の隣にいれば、クラウヴェルトなど、もはや敵ではない。むしろ、お前を取り戻そうと愚かな行動に出るのであれば、それを口実に完全に叩き潰すまでのこと」

 その声には、絶対的な自信と、そして底知れぬ独占欲が滲んでいた。この人は、本気で私を欲している。そして、そのためならば、国すらも動かす覚悟があるのだ。

(……すごい人。アルフォンス様とは、何もかもが違う)

 恐怖よりも先に、そんな畏敬の念が私の胸を満たした。彼の強引さ、揺るぎない自信、そして私に対する執着。その全てが、今の私には眩しく、そして抗いがたい魅力として映った。

「エリアーナ。俺は、お前にヴァルエンデの皇后の座を用意するつもりだ」

「こ、皇后……ですって!?」

 今度こそ、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。皇后とは、つまり、彼の妻になるということではないか。いくらなんでも、話が飛躍しすぎている。

「ああ。お前ほどの才女であれば、ヴァルエンデの民も諸外国も、文句のつけようがないだろう。そして何より、俺がお前を、誰よりも深く愛している。それ以上の理由が必要か?」

 悪戯っぽく微笑むカイザー陛下の顔は、普段の冷徹な仮面の下に隠された、年相応の青年の顔をしていた。そのギャップに、私の心はまたしても大きく揺さぶられる。

(……この人に、賭けてみても、いいのかもしれない)

 失うものは、もう何もない。クラウヴェルト王国に私の居場所はなく、家族からも見捨てられたも同然だ。ならば、この絶望的な状況から手を差し伸べてくれた、この皇帝陛下の言葉を信じてみるのも一つの手ではないだろうか。たとえそれが、茨の道であったとしても、今のこの屈辱的な状況よりは、よほどマシなはずだ。

「……カイザー陛下。一つ、お約束していただけますでしょうか」

 私は、意を決して彼を見据えた。彼の瞳の奥の熱が、私に勇気を与えてくれる。

「何だ? 言ってみろ」

「私は……もう、誰かの言いなりになったり、都合のいいように利用されたりするのは、うんざりなのです。陛下のおそばに行くのなら……私は、私自身の意志で、陛下と共に歩みたいのです。決して、飾られた人形としてではなく」

 私の言葉に、カイザー陛下は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに深い笑みを浮かべた。それは、心からの喜びと、そして私への敬意が込められた笑みだった。

「当然だ、エリアーナ。俺が望むのは、お前の魂そのものだ。お前の知性、お前の意思、お前の全てを、俺は尊重し、そして愛そう。これは、ヴァルエンデ帝国皇帝、カイザー・フォン・ヴァルエンデの名誉にかけて誓う」

 彼はそう言うと、私の前に片膝をつき、再び私の手の甲に口づけを落とした。まるで、騎士が姫に忠誠を誓うかのように。

 その瞬間、私の心の中で、最後の躊躇いが消え去った。

「……ありがとうございます、カイザー陛下。そのお言葉、信じさせていただきますわ」

 私は、彼の手を取り、しっかりと握り返した。彼の大きな手が、力強く私を支えてくれる。

「では、行こうか。俺の愛しいエリアーナ。お前の新しい人生は、今日、この瞬間から始まるのだから」

 カイザー陛下は、私を伴って玉座の間を後にした。彼の背中は、先ほどまでの孤独な悪役令嬢だった私にとって、何よりも頼もしく、そして温かく感じられた。

 ――後に「氷帝の寵愛」「ヴァルエンデの至宝」とまで呼ばれることになる私の、波乱に満ちた、しかし幸福な第二の人生は、こうして幕を開けたのだった。

 そして、この時、クラウヴェルト王国の玉座の間では、聖女マリアベルの「聖なる力」が何故か減衰し始めていることに、まだ誰も気づいてはいなかったのである。彼らがエリアーナという「本物の輝き」を失った代償を思い知るのは、もう少し先の話だ。

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