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第十一話:過去からの手紙、仕組まれた悪意の罠
しおりを挟む父、クライネル公爵がヴァルエンデを去ってから数日。私の心は、ようやく穏やかさを取り戻しつつあった。カイザー陛下の変わらぬ庇護と、ライナルト宰相をはじめとするヴァルエンデの人々の温かい支援のおかげで、私は自分の研究に没頭し、充実した日々を送っていた。クラウヴェルトでの屈辱的な記憶は、まるで遠い悪夢のように薄れ始めていた。
しかし、そんな平穏は、ある日、ライナルト宰相が私の研究室を訪れたことによって、突如として破られることになる。
「エリアーナ様、少々お時間をいただけますでしょうか。……先日、クライネル公爵がお帰りの際に、私にこれを……」
宰相は、どこか複雑な表情を浮かべながら、一通の古びた羊皮紙の書簡を私に差し出した。その書簡には、クライネル公爵家の紋章ではなく、見慣れない、しかしどこか懐かしさを感じる奇妙な印章が施されている。
「これは……?」
「クライネル公爵曰く、『エリアーナがヴァルエンデに残ると決めた時に、これを渡してほしい』と……。そして、『これは、エリアーナ自身の過去に関わる、重要な手紙だ』とも仰っておりました」
父からの、私自身の過去に関わる手紙……? 一体、何のことだろうか。私の過去など、クラウヴェルトで「無能」と蔑まれ続けた、思い出したくもない記憶しかないはずだ。
訝しみながらも、私はその書簡を受け取り、震える手で封を開いた。羊皮紙には、インクの滲んだ、しかし力強い筆跡で、ある人物の名前が記されていた。
――ソフィア・フォン・クライネル。
その名を見た瞬間、私の心臓が氷水で冷やされたかのように、ドクンと大きく脈打った。ソフィア……それは、私の実の母親の名前だった。私が物心つく前に亡くなったと聞かされていた、ほとんど記憶のない母。父は、母について多くを語ることはなく、私にとって母の存在は、まるで霞のかかった幻のようなものだった。
(お母様が……私に、手紙……?)
信じられない思いで、私は書簡を読み進めた。そこには、私が今まで知らされていなかった、衝撃的な事実が綴られていたのだ。
『愛しいエリアーナへ。あなたがこの手紙を読む頃、私はもうこの世にいないでしょう。……いいえ、正確には、「この世から消された」後かもしれません。どうか、驚かないで聞いてください。あなたは、クライネル公爵家の血を引いてはいません。あなたは――ヴァルエンデ皇家の、正当な血を引く者なのです』
「なっ……!?」
私は、思わず声を漏らした。ヴァルエンデ皇家の血を引く……? 私が? そんな馬鹿なことがあるはずがない。私は、クライネル公爵家の令嬢として育ってきたのだ。
しかし、手紙はさらに衝撃的な内容を続けていた。
『あなたの本当の父親は、第三ヴァルエンデ皇子、アレクサンダー陛下。そして私は、かつてヴァルエンデ皇妃候補として、クラウヴェルトから人質同然に送られた存在でした。しかし、アレクサンダー陛下と私は真実の愛で結ばれ、あなたは、二つの大国が平和に手を取り合う未来を願って、秘密裏に生を受けたのです。……しかし、その愛は、両国の権力者たちによって引き裂かれました。アレクサンダー陛下は暗殺され、私はクラウヴェルトへ送り返され、そしてあなたは……クライネル公爵の実子として、偽りの人生を歩むことになったのです』
頭が真っ白になった。私が……ヴァルエンデの皇女……? カイザー陛下の……いとこ……?
思考が、完全に停止する。あまりにも衝撃的な事実に、呼吸すらままならない。
『エリアーナ。あなたがこの事実を知る時、おそらく大きな混乱と苦しみに苛まれることでしょう。しかし、どうか覚えていてください。あなたは、決して孤独ではありません。あなたの血の中には、ヴァルエンデの誇り高き魂が流れています。そして、いつか必ず、あなたを理解し、愛してくれる人が現れるはずです。その時まで、どうか強く生きてください。……この手紙は、私の最後の願いであり、そして、あなたへの唯一の愛の証です』
手紙は、そこで終わっていた。私は、ただ呆然と、その羊皮紙を握りしめることしかできなかった。これが……これが、私の本当の過去……?
「エリアーナ様……? 大丈夫でございますか……?」
ライナルト宰相が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。私は、かろうじて彼に視線を向けた。
「宰相……これは……これは、本当に……?」
「……はい。クライネル公爵から、全てお聞きいたしました。ソフィア様は……亡くなられた先代第三皇子の、真の伴侶であらせられた、と。そして、あなた様こそが、皇子の唯一の忘れ形見である、と……」
宰相の言葉は、母の手紙が紛れもない真実であることを裏付けていた。私は……ヴァルエンデの皇女……。
その瞬間、研究室の扉が勢いよく開き、カイザー陛下が息を切らせて入ってきた。その表情は、いつもの冷静沈着さとは程遠く、焦りと、そして言いようのない不安に満ちていた。
「エリアーナッ! 無事か!? ライナルトから、クライネル公爵の書簡のことを聞いて……!」
彼は、私の傍らに駆け寄ると、私の両肩を掴み、心配そうに私の顔を見つめた。その蒼銀の瞳が、不安げに揺れている。
「陛下……私は……」
私は、何と言えばいいのか分からなかった。この衝撃的な事実を、彼にどう伝えればいいのだろうか。彼は、この事実を知ったら、私をどう思うのだろうか。
しかし、カイザー陛下は、私の言葉を待たずに、私を強く抱きしめた。
「……良かった。無事で、本当に良かった……」
彼の腕の中で、私はその温もりと、そして彼の心臓の力強い鼓動を感じていた。その瞬間、私は悟った。彼にとって、私がクライネル公爵家の令嬢であろうと、ヴァルエンデの皇女であろうと、そんなことは些細な問題なのだと。彼は、ただ、エリアーナという一人の女性を、心から愛してくれているのだと。
「陛下……私……私、お母様の手紙を……」
私は、彼の胸の中で、嗚咽を漏らしながら、母の手紙の内容を途切れ途切れに伝えた。私の出生の秘密、父である先代皇子の暗殺、そして母の悲痛な願い。その全てを、カイザー陛下は黙って聞いてくれた。
全てを話し終えた後、カイザー陛下は、私をそっと抱きしめたまま、静かに言った。
「……そうか。やはり、そうだったのか。……エリアーナ。俺は、お前が初めてヴァルエンデの地を踏んだ時から、どこか懐かしい、そして抗いがたい引力を感じていた。それは、血の繋がりがもたらす、魂の共鳴だったのかもしれんな」
彼の言葉は、私の心を優しく包み込む。そうだ。私と彼は、血を分けたいとこ……いや、もっと複雑な、しかし確かな絆で結ばれているのだ。
「エリアーナ。お前がヴァルエンデの皇女であろうと、なかろうと、俺のお前に対する想いは、何一つ変わらない。いや……むしろ、この事実を知った今、俺は、お前を何としても守り抜かなければならないという使命感を、より一層強くしている」
カイザー陛下の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。その光は、私の全ての不安を消し去り、未来への希望を与えてくれるかのようだった。
「だが、エリアーナ。この事実は、我々にとって、そしてヴァルエンデにとって、新たな火種となるかもしれん。クラウヴェルトは、この事実をどのように利用してくるか……」
彼の言葉に、私はハッとした。そうだ。父がこの手紙を私に渡したということは、クラウヴェルト側も、この事実を既に知っているということだ。そして、彼らがこの情報を黙って見過ごすはずがない。
「陛下……父は……クラウヴェルトは、一体何を企んでいるのでしょうか……?」
「……おそらく、二つだ」
カイザー陛下は、冷静に分析を始めた。
「一つは、お前がヴァルエンデ皇家の血を引くという事実を公表し、ヴァルエンデ帝国内に混乱を引き起こそうとすること。俺の治世に不満を持つ貴族たちが、お前を担ぎ上げ、内乱を誘発する可能性も否定できん」
「そ、そんな……!」
「そして、もう一つは……より悪質だが、あり得るやり方だ。お前を『ヴァルエンデの正当な皇位継承者』としてクラウヴェルトに迎え入れ、ヴァルエンデに対する外交カードとして利用しようとすること。あるいは……」
そこで言葉を切ったカイザー陛下の表情が、険しく歪んだ。
「……お前を、アルフォンス王子と再び婚約させ、両国の血を混ぜ合わせることで、ヴァルエンデをクラウヴェルトの支配下に置こうとする……そんな馬鹿げた野望を抱いているのかもしれん」
彼の言葉は、私に戦慄を覚えさせた。クラウヴェルトの王族たちが、そこまで浅はかで、そして卑劣な考えを持っているとは……。しかし、彼らのこれまでの行動を考えれば、十分にあり得る話だった。
「エリアーナ。どちらにしても、我々は先手を打たねばならん。クラウヴェルトの悪意の罠に、お前を巻き込ませるわけにはいかない」
カイザー陛下の声には、絶対的な守護の意志が込められていた。
「ライナルト!」
「はっ!」
いつの間にか、ライナルト宰相がカイザー陛下の背後に控えていた。その表情もまた、厳しいものだった。
「クラウヴェルトの動向を徹底的に監視しろ。そして、国内の不穏分子にも警戒を怠るな。エリアーナ様の身に何かあれば、ヴァルエンデの未来はないものと心得よ!」
「御意!」
ライナルト宰相は、力強く頷き、迅速に部屋を後にした。彼の背中には、この国を、そして未来の皇后を守り抜くという、確固たる決意が感じられた。
残された私とカイザー陛下は、しばらくの間、黙って見つめ合っていた。部屋の中には、重苦しい沈黙が漂っていたが、私たちの心は、不思議なほどに固く結びついているのを感じていた。
「陛下……私……何をすれば……」
「お前は、何もする必要はない、エリアーナ。ただ、俺のそばにいてくれればいい。そして、お前の才能を、思う存分発揮してくれればいい。他の全ては、この俺が片付ける。それが、ヴァルエンデ皇帝としての、そして……お前の兄としての、俺の役目だ」
カイザー陛下は、そう言うと、私の手を強く握りしめた。その温かい手の感触が、私に勇気と力を与えてくれる。そうだ。私は、もう一人ではないのだ。この人と一緒なら、どんな困難にも立ち向かっていける。
◆
――しかし、その時、エリアーナはまだ知らなかった。クラウヴェルト王国の卑劣な罠が、既にヴァルエンデ帝国の心臓部にまで忍び寄っていることを。そして、エリアーナの過去の秘密が、思いもよらない形で、二人の運命を大きく揺るがすことになるということを。
父、クライネル公爵が残した手紙は、単なる過去の暴露ではなかった。それは、巧妙に仕組まれた、悪意に満ちた罠の序章に過ぎなかったのだ。
物語は、エリアーナとカイザー陛下を、さらなる試練へと誘おうとしていた。そして、その試練の先には、彼らの愛の真価が問われる、過酷な運命が待ち受けているのかもしれない――。
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