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王国滅亡編
第5話 討伐軍三万、崩れる戦場
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斥候が駆け込んだ。
「報! 王都討伐軍、三万。日没までに外郭に迫ります!」
中庭が一拍、息を飲んだように静まる。民兵も捕虜も顔を見合わせ、鍋の火まで小さくなった気がした。
俺は砂盤の小石を指で弾き、静かに言う。
「三万を養うには、一日六十トンの糧秣と十二万リットルの水が要る。王都は出さない。――すでに勝っている」
ざわめき。エリアス少尉が喉を鳴らした。
「……剣を交える前に、腹が尽きる」
「そうだ。だが“尽きかけた腹”は危険だ。恐怖に噛みつく。ここから先は、恐怖の向きを決める仕事になる」
⸻
夕靄の向こう、竜旗の波が丘を黒く染めていく。
金で飾り立てた将軍の馬車、破れた靴の歩兵、空腹で頬がこけた徴募兵。行軍列にはもう死人が混じり、担架の布から灰色の足が覗いていた。
「ロトワール将軍、ご到着!」と誰かが叫んだ。黄金鎧の男が馬車から下り、鼻で笑う。
「豚どもの砦など、踏み潰して塵にせよ。現地の糧食はすべて没収だ。寝返りは見せしめに吊るせ」
兵たちの顔が曇る。その時、風が砦の方角から香りを運んだ。麦粥と肉の匂い。列のあちこちで喉が鳴り、よだれを拭う音がした。
後列で、先日返した捕虜が囁く。「砦は粥をくれた。子どもにまで」
囁きは草火のように広がった。
「俺の村の倉は閉ざされたが、あそこは開いている」「武器を捨てれば……」
ロトワールが眉を吊り上げた。「黙れ! 豚の餌に釣られるな。突撃準備!」
列の端で、若い歩兵が腹を押さえて呟く。「なぁ、本当に砦は粥をくれるのか」
「昨日戻ったトールが言ってた。子どもにも分けたってよ」
「王都は俺たちの家からまで取り上げたのにか?」
「声を潜めろ、監督兵が――」
背後で槍が小突く音がした。若い歩兵は歯を食いしばり、しかし心だけは前にではなく、砦の方角へと傾いていった。
⸻
日が落ちた。俺は門楼の影に立ち、符を五枚、風に乗せる。
「少尉、時刻を刻め。太鼓は三拍、間に角笛。――煙幕、幻、雷、洪水、炎。順に行く」
「了解!」エリアスが砂時計を逆さにする。 太鼓手の少年が手の皮を裂きながら拍を刻む。角笛手は肺が焼けても合図を外さない。合図は兵の足を揃え、恐怖の波を切り分けるための刃だ。音が途切れぬかぎり、軍はまだ軍でいられる。
「まずは目と肺を奪う。――燃えよ、煙幕の壁。炎煙遮断〈インカンディア・スクリーン〉!」
黒赤い火舌が地を這い、すぐに燻る煙へと変わった。湿った布のような煙幕が王都軍の幕舎を丸ごと包む。
「視界が……!」「咳が止まらねぇ!」悲鳴が夜気に裂けた。
「次に数を増やす。虚ろを満たせ、影を数えよ――幻兵陣列〈ファンタズマ・レギオン〉!」
城壁上の兵が十倍に見え、太鼓は山鳴りのように増幅される。角笛は複数の方向から響き、闇の中で“万の軍”が行軍する錯覚が生まれた。
「千どころじゃねえ!」「退け、退け!」隊列に動揺が走る。
「首を封じる。雷よ、鎖となれ――雷鎖拘束〈カデナ・トニトルス〉!」
青白い稲光が絡み合い、鎖となって将校の馬車を縛り上げた。鉄の車輪が悲鳴を上げ、黄金鎧が地に叩きつけられる。
「将軍が捕まった!」「馬が動かねえ!」
「足場を奪う。水霊よ、流転せよ――洪祈流転〈オラソン・ダス・アーグアス〉!」
外堀の水門が重く啼き、溜められた水が泥を巻き込んで奔流となる。浅い谷が瞬く間に湿地へ変わり、梯子と丸太が飲み込まれた。
「足が抜けねぇ!」「靴が――ぐっ」泥は忠実だ。上から下へ、命令どおり押し流す。 煙は喉を焼くだけではない。脂と樹脂を混ぜた重い匂いが肺に貼りつき、吐いても吐いても抜けない。兵は自分の咳に驚き、味方の影を敵と見誤る。視界の端で幻兵が増え続け、太鼓の鼓動が心臓の速さを上書きする。
稲妻の鎖はひと息ごとに太さを変え、鳴動に合わせて締め上げる。馬の黒眼が白く剥け、黄金鎧に焼け焦げた網目が浮かぶ。泥は膝の裏を吸い、靴底を奪う。兵は前にも後ろにも動けず、ただ煙を吸って恐怖を吸った。
「最後に腹を撃つ。炎よ、獣と舞え――紅蓮刃舞〈ジャマ・ダンサ〉!」
細長い炎の獣が低く、長く、補給列の喉を噛み切っていく。乾いた飼葉と干し肉が爆ぜ、黒煙が星空を汚した。
俺は風の符を切り、「風刃符陣〈ヴェントゥス・シギルム〉」で炎の舌先を導く。火は高くは上がらず、地を這って糧秣だけを選んで焼いた。
「言葉を刺せ。虚ろを声とし、人の耳へ――虚響言霊〈ヴェルブム・ヴァクオ〉!」
夜の幕舎に、誰のものとも知れぬ声が満ちる。
『援軍なし』『王都は倉を閉ざした』『武器を捨てれば粥』『砦は殺さぬ』
声は各所で同時に囁き、兵の喉の奥に“確信”として貼り付いた。
⸻
太鼓が三拍、角笛が裂けた。
「門を半分だけ開けろ。――炊き出しは倍量。『武器を捨てた者は通せ』の旗を上げろ」
ヘルマン軍曹が吠える。「聞いたな! 鍋を焚け、塩を惜しむな! 矢は下ろせ!」
門前に白い垂れ幕が翻る。『武器を捨てれば粥』。
最初はひとり、膝まで泥の兵が剣を投げた。続いて十、百。垂れ幕の前に捧げるように槍と盾が積まれ、門の影で膝が折れる。
城外で将校が怒鳴った。「裏切り者を射殺せ!」
俺は軽く指を弾く。「雷鎖拘束〈カデナ・トニトルス〉」
稲光が駆け、命じた将校の腕と槍をまとめて縛りつけた。悲鳴があがり、逃げた背中が泥に沈む。
「少尉、受け入れ口を三つに分けろ。『炊き場』『洗い場』『寝場所』。武器は明日でいい。今は腹だ」
「了解! 右、炊き場! 列を乱すな、全員に回る!」
粥を口にして嗚咽を漏らす者、両手で椀を抱いて泣く者。
「……俺は戦うために生きてねえ」「家に、帰りたかった」
「帰れ。明日の夜明け、影の橋を渡れ。だが帝国と王都の二つの倉を思い出せ。どちらが腹を満たしたかもな」
噂は矢より速い。割れた心に、そこだけは真っ直ぐ刺さる。 列の先頭に、白髪交じりの古参が進み出た。彼は静かに短剣を逆手に持ち、地面へ突き立てた。
「俺の孫は今年、歯が生えた。粥を食わせたい。それだけだ」
次の男は手のひらを上に向け、槍をそっと置いた。「父ちゃん、許せ」
三人目は肩章を外して差し出した。「俺は伍長だった。鍋番をやらせてくれ。列を乱さねぇ」
俺は頷く。「鍋はお前に預ける。塩は薄く、しかし温く。列は三本、器は返させろ。――お前は今から伍長ではなく、炊務長だ」
古参が目頭を押さえ、肩で泣いた。涙は粥に一滴落ちたが、誰も責めなかった。
⸻
王都軍の陣はもう戦場ではなかった。煙と泥と恐怖の市だった。
ロトワールはようやく雷鎖から解かれ、泥にまみれた黄金鎧で叫ぶ。
「戻れ! 殺せ! 粥に屈するな!」
その背後で、別の声が起きる。「倉は閉じられた!」「俺たちは捨てられた!」
喧噪に紛れ、俺は符を一枚、空へ撥ね上げる。
「――震弾爆紋〈トニトルス・シジルム〉!」
低く、重い雷鳴。指揮幕舎の旗竿が途中で折れ、天幕がひっくり返る。統率の声が消え、兵は噛み合わない歯車となって軋みだした。
「閣下、門前の寝返り、千を超えました!」
「記録はいらん。鍋を増やせ。器が足りなければ木皿を割って使え。――『逃げる背は撃つな』も掲げろ」
夜半、寝返りは波から潮流へと姿を変えた。泥の中で投げ捨てられた赤い旗が、ひとつ、ふたつと消えていく。
背後でエリアスが小さく息を呑む。「三万が……崩れていく」
「剣は心の後を走る。心が折れた軍は、数えるより早く減る」
⸻
明け方、風が寒さを取り戻した頃、外は静かになっていた。残った王都軍の半ばは散り、半ばは粥の列に並んだ。
縛られたロトワールが連行される。黄金鎧は泥と炭で斑に汚れ、威厳の代わりに薄っぺらな怒りだけが残っていた。
「貴様は反逆者だ!」将軍は唾を吐く。
「違うな。お前たちが王国を飢えさせ、兵を見捨てた。俺はただ、腹と道を整えただけだ」
「兵を奪った! 王都の権威を踏みにじった!」
「権威は腹の上に立つ。腹を空かせた権威は、砂上の城だ」
ロトワールが言葉に詰まり、やがて顔を背けた。
「……粥で国を取るつもりか」
「国は粥で回る。剣はその次だ」
⸻
戦後処理は惰性ではない。勝利を“次”へ繋ぐ、最も繊細な仕事だ。
寝返った兵は三つに分けた。故郷に帰す者、砦で働かせる者、再編して予備隊にする者。
その場で俺は宣言する。
「名目は問わん。飢えた者に粥を、病に清水を、働きに賃を。――それが我が軍律だ」
焚き火の前で、ひとりの若い兵が椀を握りしめて震えていた。
「……俺は、王都の旗の下にいたはずなのに。何でここで泣いてるんだろう」
「お前が兵だからだ。兵は人で、人は腹で動く。泣くのは心が生きている証だ。泣いた後に歩け」
彼はこくりと頷き、椀を空にした。
影鳩の脚に短い文をくくりつける。
『千で三万を退ける。寝返り多数。粥と清水、秩序は保たれている。――正義派に告ぐ、民と兵は我と共にあり』
指を離すと、黒い影が空へ消えた。 捕えた将校たちには一様に同じ問いを投げた。「兵に最後に与えたのは何だ」
「命令だ」「脅しだ」「誇りだ」――答えは三つに分かれた。
「違う。腹だ」俺は軍律板に新しい条を刻ませた。
〈第一条 飢えた者を先に食わせる〉
〈第二条 清水は病者と子に先んず〉
〈第三条 武器より鍋を尊べ〉
板は門の横に掛けられ、焚き火の煙で黒く艶を帯びた。
⸻
王都・白大理石の会議堂。黄金の燭台が揺れ、影鳩の文が読み上げられる。
『討伐軍三万、崩壊。兵の寝返り多数。砦は秩序を保ち、粥を与えている』
宰相ローデリヒが顔を真っ赤にして叫んだ。
「虚報だ! 参謀は帝国と通じている!」
軍務卿オルガンも声を張り上げる。
「三万が千に崩れるなどありえぬ! 粥ごときで軍律は揺るがん!」
正義派は沈痛だった。ジークフリート老将が立ち上がり、杖を突く。
「虚報ならよい。だが旗は折れ、兵は砦へ寝返った。……王国はもう内部から崩れている」
若きディートリヒ中佐が低く言った。
「兵は数字の命令ではなく、腹と心に従うのです」
怒号と沈黙が交錯する会議堂。やがて宰相の一言が結論となった。
「さらに討伐軍を編成せよ! 今度は五万だ!」
「兵站は?」と誰かが問う。「倉は――」
「黙れ!」ローデリヒは印璽を掴んで机を打ち鳴らす。「王命である!」
会議の末席で、大蔵卿の青白い声が震えた。「五万を動かす予算は、今月の税収ではとても……。塩と穀の在庫は底だ。馬の飼葉は三日も持たぬ」
腐敗派のハルトマン大将が机を拳で叩く。「黙れ! 数字はあとから合わせればよい!」
老将は静かに首を振る。「戦は数字から始まる。数字に背を向けた軍は、歩かぬ」
さらに宗務院の書記が恐る恐る口を開いた。「辺境の砦で『子に粥』の慈善が広がれば、神殿の面目も……」
「神殿に任せて何が残った!」ローデリヒが怒鳴り、書記は肩をすくめた。
誰も答えない沈黙の間に、蝋燭の蝋が垂れ、机に白い涙を作った。 蝋の印が押される音が、棺の釘のように響いた。
⸻
砦の門楼。朝靄の中、白嶺の道が谷を越えて伸びている。 夜が明けきる直前、砦の屋根で一羽の小鳥が鳴いた。鍛冶場の炉はまだ赤く、打ち直される刃の音が遠くで律動を刻む。中庭では母親が子に粥をふうふうと冷ましている。彼女は俺に気づくと、深く頭を下げた。礼は要らない。だがこの礼は、旗より重い。
風が頬を撫でる。俺は指を上げ、王都の方角を無言で刺す。そこには白い塔と閉ざされた倉、空腹の兵と満腹の貴族がいる。旗は高いが、腹は浅い。だから倒れる。
俺は無言で、その先――王都の方角を指差した。
勝ち戦は拾うものじゃない。
作り、重ね、食わせ、歩かせ、そして――未来を指す。
指先の先に、まだ名のない戦の地図が広がっていた。地図は腹で彩られ、道で結ばれる。旗はやがて、従う。そして落ちる旗もある。遠い旗はやがて、従う。そして落ちる旗もある。
遠い空の彼方まで、俺はその先を見据えている。
「報! 王都討伐軍、三万。日没までに外郭に迫ります!」
中庭が一拍、息を飲んだように静まる。民兵も捕虜も顔を見合わせ、鍋の火まで小さくなった気がした。
俺は砂盤の小石を指で弾き、静かに言う。
「三万を養うには、一日六十トンの糧秣と十二万リットルの水が要る。王都は出さない。――すでに勝っている」
ざわめき。エリアス少尉が喉を鳴らした。
「……剣を交える前に、腹が尽きる」
「そうだ。だが“尽きかけた腹”は危険だ。恐怖に噛みつく。ここから先は、恐怖の向きを決める仕事になる」
⸻
夕靄の向こう、竜旗の波が丘を黒く染めていく。
金で飾り立てた将軍の馬車、破れた靴の歩兵、空腹で頬がこけた徴募兵。行軍列にはもう死人が混じり、担架の布から灰色の足が覗いていた。
「ロトワール将軍、ご到着!」と誰かが叫んだ。黄金鎧の男が馬車から下り、鼻で笑う。
「豚どもの砦など、踏み潰して塵にせよ。現地の糧食はすべて没収だ。寝返りは見せしめに吊るせ」
兵たちの顔が曇る。その時、風が砦の方角から香りを運んだ。麦粥と肉の匂い。列のあちこちで喉が鳴り、よだれを拭う音がした。
後列で、先日返した捕虜が囁く。「砦は粥をくれた。子どもにまで」
囁きは草火のように広がった。
「俺の村の倉は閉ざされたが、あそこは開いている」「武器を捨てれば……」
ロトワールが眉を吊り上げた。「黙れ! 豚の餌に釣られるな。突撃準備!」
列の端で、若い歩兵が腹を押さえて呟く。「なぁ、本当に砦は粥をくれるのか」
「昨日戻ったトールが言ってた。子どもにも分けたってよ」
「王都は俺たちの家からまで取り上げたのにか?」
「声を潜めろ、監督兵が――」
背後で槍が小突く音がした。若い歩兵は歯を食いしばり、しかし心だけは前にではなく、砦の方角へと傾いていった。
⸻
日が落ちた。俺は門楼の影に立ち、符を五枚、風に乗せる。
「少尉、時刻を刻め。太鼓は三拍、間に角笛。――煙幕、幻、雷、洪水、炎。順に行く」
「了解!」エリアスが砂時計を逆さにする。 太鼓手の少年が手の皮を裂きながら拍を刻む。角笛手は肺が焼けても合図を外さない。合図は兵の足を揃え、恐怖の波を切り分けるための刃だ。音が途切れぬかぎり、軍はまだ軍でいられる。
「まずは目と肺を奪う。――燃えよ、煙幕の壁。炎煙遮断〈インカンディア・スクリーン〉!」
黒赤い火舌が地を這い、すぐに燻る煙へと変わった。湿った布のような煙幕が王都軍の幕舎を丸ごと包む。
「視界が……!」「咳が止まらねぇ!」悲鳴が夜気に裂けた。
「次に数を増やす。虚ろを満たせ、影を数えよ――幻兵陣列〈ファンタズマ・レギオン〉!」
城壁上の兵が十倍に見え、太鼓は山鳴りのように増幅される。角笛は複数の方向から響き、闇の中で“万の軍”が行軍する錯覚が生まれた。
「千どころじゃねえ!」「退け、退け!」隊列に動揺が走る。
「首を封じる。雷よ、鎖となれ――雷鎖拘束〈カデナ・トニトルス〉!」
青白い稲光が絡み合い、鎖となって将校の馬車を縛り上げた。鉄の車輪が悲鳴を上げ、黄金鎧が地に叩きつけられる。
「将軍が捕まった!」「馬が動かねえ!」
「足場を奪う。水霊よ、流転せよ――洪祈流転〈オラソン・ダス・アーグアス〉!」
外堀の水門が重く啼き、溜められた水が泥を巻き込んで奔流となる。浅い谷が瞬く間に湿地へ変わり、梯子と丸太が飲み込まれた。
「足が抜けねぇ!」「靴が――ぐっ」泥は忠実だ。上から下へ、命令どおり押し流す。 煙は喉を焼くだけではない。脂と樹脂を混ぜた重い匂いが肺に貼りつき、吐いても吐いても抜けない。兵は自分の咳に驚き、味方の影を敵と見誤る。視界の端で幻兵が増え続け、太鼓の鼓動が心臓の速さを上書きする。
稲妻の鎖はひと息ごとに太さを変え、鳴動に合わせて締め上げる。馬の黒眼が白く剥け、黄金鎧に焼け焦げた網目が浮かぶ。泥は膝の裏を吸い、靴底を奪う。兵は前にも後ろにも動けず、ただ煙を吸って恐怖を吸った。
「最後に腹を撃つ。炎よ、獣と舞え――紅蓮刃舞〈ジャマ・ダンサ〉!」
細長い炎の獣が低く、長く、補給列の喉を噛み切っていく。乾いた飼葉と干し肉が爆ぜ、黒煙が星空を汚した。
俺は風の符を切り、「風刃符陣〈ヴェントゥス・シギルム〉」で炎の舌先を導く。火は高くは上がらず、地を這って糧秣だけを選んで焼いた。
「言葉を刺せ。虚ろを声とし、人の耳へ――虚響言霊〈ヴェルブム・ヴァクオ〉!」
夜の幕舎に、誰のものとも知れぬ声が満ちる。
『援軍なし』『王都は倉を閉ざした』『武器を捨てれば粥』『砦は殺さぬ』
声は各所で同時に囁き、兵の喉の奥に“確信”として貼り付いた。
⸻
太鼓が三拍、角笛が裂けた。
「門を半分だけ開けろ。――炊き出しは倍量。『武器を捨てた者は通せ』の旗を上げろ」
ヘルマン軍曹が吠える。「聞いたな! 鍋を焚け、塩を惜しむな! 矢は下ろせ!」
門前に白い垂れ幕が翻る。『武器を捨てれば粥』。
最初はひとり、膝まで泥の兵が剣を投げた。続いて十、百。垂れ幕の前に捧げるように槍と盾が積まれ、門の影で膝が折れる。
城外で将校が怒鳴った。「裏切り者を射殺せ!」
俺は軽く指を弾く。「雷鎖拘束〈カデナ・トニトルス〉」
稲光が駆け、命じた将校の腕と槍をまとめて縛りつけた。悲鳴があがり、逃げた背中が泥に沈む。
「少尉、受け入れ口を三つに分けろ。『炊き場』『洗い場』『寝場所』。武器は明日でいい。今は腹だ」
「了解! 右、炊き場! 列を乱すな、全員に回る!」
粥を口にして嗚咽を漏らす者、両手で椀を抱いて泣く者。
「……俺は戦うために生きてねえ」「家に、帰りたかった」
「帰れ。明日の夜明け、影の橋を渡れ。だが帝国と王都の二つの倉を思い出せ。どちらが腹を満たしたかもな」
噂は矢より速い。割れた心に、そこだけは真っ直ぐ刺さる。 列の先頭に、白髪交じりの古参が進み出た。彼は静かに短剣を逆手に持ち、地面へ突き立てた。
「俺の孫は今年、歯が生えた。粥を食わせたい。それだけだ」
次の男は手のひらを上に向け、槍をそっと置いた。「父ちゃん、許せ」
三人目は肩章を外して差し出した。「俺は伍長だった。鍋番をやらせてくれ。列を乱さねぇ」
俺は頷く。「鍋はお前に預ける。塩は薄く、しかし温く。列は三本、器は返させろ。――お前は今から伍長ではなく、炊務長だ」
古参が目頭を押さえ、肩で泣いた。涙は粥に一滴落ちたが、誰も責めなかった。
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王都軍の陣はもう戦場ではなかった。煙と泥と恐怖の市だった。
ロトワールはようやく雷鎖から解かれ、泥にまみれた黄金鎧で叫ぶ。
「戻れ! 殺せ! 粥に屈するな!」
その背後で、別の声が起きる。「倉は閉じられた!」「俺たちは捨てられた!」
喧噪に紛れ、俺は符を一枚、空へ撥ね上げる。
「――震弾爆紋〈トニトルス・シジルム〉!」
低く、重い雷鳴。指揮幕舎の旗竿が途中で折れ、天幕がひっくり返る。統率の声が消え、兵は噛み合わない歯車となって軋みだした。
「閣下、門前の寝返り、千を超えました!」
「記録はいらん。鍋を増やせ。器が足りなければ木皿を割って使え。――『逃げる背は撃つな』も掲げろ」
夜半、寝返りは波から潮流へと姿を変えた。泥の中で投げ捨てられた赤い旗が、ひとつ、ふたつと消えていく。
背後でエリアスが小さく息を呑む。「三万が……崩れていく」
「剣は心の後を走る。心が折れた軍は、数えるより早く減る」
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明け方、風が寒さを取り戻した頃、外は静かになっていた。残った王都軍の半ばは散り、半ばは粥の列に並んだ。
縛られたロトワールが連行される。黄金鎧は泥と炭で斑に汚れ、威厳の代わりに薄っぺらな怒りだけが残っていた。
「貴様は反逆者だ!」将軍は唾を吐く。
「違うな。お前たちが王国を飢えさせ、兵を見捨てた。俺はただ、腹と道を整えただけだ」
「兵を奪った! 王都の権威を踏みにじった!」
「権威は腹の上に立つ。腹を空かせた権威は、砂上の城だ」
ロトワールが言葉に詰まり、やがて顔を背けた。
「……粥で国を取るつもりか」
「国は粥で回る。剣はその次だ」
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戦後処理は惰性ではない。勝利を“次”へ繋ぐ、最も繊細な仕事だ。
寝返った兵は三つに分けた。故郷に帰す者、砦で働かせる者、再編して予備隊にする者。
その場で俺は宣言する。
「名目は問わん。飢えた者に粥を、病に清水を、働きに賃を。――それが我が軍律だ」
焚き火の前で、ひとりの若い兵が椀を握りしめて震えていた。
「……俺は、王都の旗の下にいたはずなのに。何でここで泣いてるんだろう」
「お前が兵だからだ。兵は人で、人は腹で動く。泣くのは心が生きている証だ。泣いた後に歩け」
彼はこくりと頷き、椀を空にした。
影鳩の脚に短い文をくくりつける。
『千で三万を退ける。寝返り多数。粥と清水、秩序は保たれている。――正義派に告ぐ、民と兵は我と共にあり』
指を離すと、黒い影が空へ消えた。 捕えた将校たちには一様に同じ問いを投げた。「兵に最後に与えたのは何だ」
「命令だ」「脅しだ」「誇りだ」――答えは三つに分かれた。
「違う。腹だ」俺は軍律板に新しい条を刻ませた。
〈第一条 飢えた者を先に食わせる〉
〈第二条 清水は病者と子に先んず〉
〈第三条 武器より鍋を尊べ〉
板は門の横に掛けられ、焚き火の煙で黒く艶を帯びた。
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王都・白大理石の会議堂。黄金の燭台が揺れ、影鳩の文が読み上げられる。
『討伐軍三万、崩壊。兵の寝返り多数。砦は秩序を保ち、粥を与えている』
宰相ローデリヒが顔を真っ赤にして叫んだ。
「虚報だ! 参謀は帝国と通じている!」
軍務卿オルガンも声を張り上げる。
「三万が千に崩れるなどありえぬ! 粥ごときで軍律は揺るがん!」
正義派は沈痛だった。ジークフリート老将が立ち上がり、杖を突く。
「虚報ならよい。だが旗は折れ、兵は砦へ寝返った。……王国はもう内部から崩れている」
若きディートリヒ中佐が低く言った。
「兵は数字の命令ではなく、腹と心に従うのです」
怒号と沈黙が交錯する会議堂。やがて宰相の一言が結論となった。
「さらに討伐軍を編成せよ! 今度は五万だ!」
「兵站は?」と誰かが問う。「倉は――」
「黙れ!」ローデリヒは印璽を掴んで机を打ち鳴らす。「王命である!」
会議の末席で、大蔵卿の青白い声が震えた。「五万を動かす予算は、今月の税収ではとても……。塩と穀の在庫は底だ。馬の飼葉は三日も持たぬ」
腐敗派のハルトマン大将が机を拳で叩く。「黙れ! 数字はあとから合わせればよい!」
老将は静かに首を振る。「戦は数字から始まる。数字に背を向けた軍は、歩かぬ」
さらに宗務院の書記が恐る恐る口を開いた。「辺境の砦で『子に粥』の慈善が広がれば、神殿の面目も……」
「神殿に任せて何が残った!」ローデリヒが怒鳴り、書記は肩をすくめた。
誰も答えない沈黙の間に、蝋燭の蝋が垂れ、机に白い涙を作った。 蝋の印が押される音が、棺の釘のように響いた。
⸻
砦の門楼。朝靄の中、白嶺の道が谷を越えて伸びている。 夜が明けきる直前、砦の屋根で一羽の小鳥が鳴いた。鍛冶場の炉はまだ赤く、打ち直される刃の音が遠くで律動を刻む。中庭では母親が子に粥をふうふうと冷ましている。彼女は俺に気づくと、深く頭を下げた。礼は要らない。だがこの礼は、旗より重い。
風が頬を撫でる。俺は指を上げ、王都の方角を無言で刺す。そこには白い塔と閉ざされた倉、空腹の兵と満腹の貴族がいる。旗は高いが、腹は浅い。だから倒れる。
俺は無言で、その先――王都の方角を指差した。
勝ち戦は拾うものじゃない。
作り、重ね、食わせ、歩かせ、そして――未来を指す。
指先の先に、まだ名のない戦の地図が広がっていた。地図は腹で彩られ、道で結ばれる。旗はやがて、従う。そして落ちる旗もある。遠い旗はやがて、従う。そして落ちる旗もある。
遠い空の彼方まで、俺はその先を見据えている。
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武田健人は、消防士として、風力発電所の事故に駆けつけ、救助活動をしている途中に、上から瓦礫が降ってきて、それに踏み潰されてしまった。次に、目が覚めると真っ白な空間にいた。そして、神と名乗る男が出てきて、ほとんど説明がないまま異世界転生をしてしまう。
転生してから、ステータスを見てみると、風属性と回復属性だけ適性が10もあった。この世界では、5が最大と言われていた。俺の異世界転生は、どうなってしまうんだ。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
namisan
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バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
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その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
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公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
転生したら領主の息子だったので快適な暮らしのために知識チートを実践しました
SOU 5月17日10作同時連載開始❗❗
ファンタジー
不摂生が祟ったのか浴槽で溺死したブラック企業務めの社畜は、ステップド騎士家の長男エルに転生する。
不便な異世界で生活環境を改善するためにエルは知恵を絞る。
14万文字執筆済み。2025年8月25日~9月30日まで毎日7:10、12:10の一日二回更新。
異世界転生~チート魔法でスローライフ
玲央
ファンタジー
【あらすじ⠀】都会で産まれ育ち、学生時代を過ごし 社会人になって早20年。
43歳になった主人公。趣味はアニメや漫画、スポーツ等 多岐に渡る。
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急いでテントまで戻ってくると
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都会の生活に疲れた主人公が、
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恋愛は多分ありません。
基本スローライフを目指してます(笑)
※挿絵有りますが、自作です。
無断転載はしてません。
イラストは、あくまで私のイメージです
※当初恋愛無しで進めようと書いていましたが
少し趣向を変えて、
若干ですが恋愛有りになります。
※カクヨム、なろうでも公開しています
魔力0の貴族次男に転生しましたが、気功スキルで補った魔力で強い魔法を使い無双します
burazu
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事故で命を落とした青年はジュン・ラオールという貴族の次男として生まれ変わるが魔力0という鑑定を受け次男であるにもかかわらず継承権最下位へと降格してしまう。事実上継承権を失ったジュンは騎士団長メイルより剣の指導を受け、剣に気を込める気功スキルを学ぶ。
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