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1巻
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「ご無沙汰しております。突然のご挨拶になってしまい申し訳ないのですが、最近、仕事を介して千春さんと再会し、彼女の人柄に惹かれて五十嵐家に嫁いでいただきたいと考えておりました。内々に家長である俊明さんと見合い話を進めていた矢先、彼女が他の男性と見合いをすると聞きまして。せめて縁談が纏まる前に、彼女の意向だけでも確認したいと思い駆けつけた次第です」
「まあ、そうなの?」
二人が仕事を介して再会したこと以外は全くの作り話を、涼弥がまことしやかに語る。さらには、驚いて目を丸くする綾子にニッコリと微笑みかけてこう付け足した。
「一乃華さんとは旧知の仲ですし、可能な限りの支援も考えております」
それを聞いた瞬間、綾子の表情が一気に明るくなる。
「千春、貴女どちらの話をお受けするの? 貴女の好きにしていいのよ。お断りする方には、私も一緒にお詫びするから」
そう言いつつ、綾子は蒼白になっている行員親子に冷めた視線を向けた。
言葉としては質問の形を取っているけど、顔に「涼弥さんを選ぶわよね」と書いてある。
母も、先ほどの親子の態度にかなり気分を害していたようだ。
「せっかくのご縁でしたが、お断りさせていただきます」
一応の礼儀と思い、青ざめて表情を失っている親子に頭を下げた千春は、次に涼弥を見上げた。
涼弥が自分との結婚になにを求めているのかはわからないけれど、この男と結婚するよりよっぽどいい。
なにより千春は、涼弥以外の人との結婚なんて考えられないのだから。
「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
感謝の思いを込めて千春が頭を下げると、涼弥はニッと口角を上げる。
「こちらこそ」
そう言って笑顔で頷いた涼弥は、気配を消してこの場を去ろうとしていた親子に視線を向けた。
「私は記憶力には自信がありますから、貴方方親子が、私の妻になる人におこなった所行を一生忘れませんので」
もちろん、どのような職業に転職されても。と、かなり粘着質な嫌味を付け足して、上品に笑う。
――悪魔の微笑みだ。
今まで気付かなかっただけで、涼弥はなかなかにいけずな性格をしているのかもしれない。
涼弥の笑顔に、二人は「ヒッ」と小さな悲鳴を上げて、全力で走り去っていった。
「あら、逃げ足の速い。母親としてお詫びをする暇もないわね」
脱兎のごとき勢いで駆けていく親子の背中を見送り、綾子がすっきりした様子で皮肉を言う。
「謝罪する価値もないですよ」
それに対し、さらりと毒を吐くのは涼弥だ。
彼の言葉に、綾子は口元に手を添えてたおやかに笑う。
歴史ある酒蔵に嫁ぎ、父と共に職人たちを束ねて店を切り盛りしていた母も、敵と見なした相手には容赦がない。
途中、勢いのあまりバランスを崩して転がる銀行員親子の背中を見ていると、なかなかなことをされたのに、若干気の毒になってくる。
親子の背中が見えなくなったところで、「さて」と呟いた涼弥が千春に右手を差し出してきた。
「では改めて、これからよろしく」
なかなかにしたたかな彼の一面を見せられた後では、美しく魅惑的な悪魔を前にしているような気分になるけれど、もう契約は交わしてしまったのだ。
だから千春は、差し出された手を迷わず取った。
「よろしくお願いいたします」
千春が上目遣いにそう言うと、涼弥がそっと微笑む。
いつの間にか雲が流され、光の筋が差し込んでいる。
光のカーテンを背に自分の手を取る涼弥は、神々しい存在にも、悪だくみを楽しむ悪魔のようにも見えた。
◇ ◇ ◇
「本当に、私と結婚していいんですか?」
都内に戻るために車を走らせていた涼弥は、助手席で難しい顔をしている千春の言葉に苦笑を浮かべた。
曇天模様の昨日とは打って変わり、今日は快晴で一面の青空が広がっている。
そんな天気に気を良くしたわけではないが、ハンドルを握る涼弥の心は軽い。
千春の見合いに乱入して、契約結婚を持ちかけたのは昨日のこと。
慌ただしく婚約した彼女と今後について話し合うため、涼弥の運転する車で一緒に都内に戻ることにした。けれど車に乗り込んだ千春は、ずっと難しい顔で黙り込んだままで、やっと口を開いた第一声が、それだった。
今の彼女の心情は、突然捕獲され、ケージに放り込まれて戸惑う小動物に近いのかもしれない。
見合いに乱入してきた男とその場で婚約したのだから、無理もないのだけど。
「すでに両家の承諾も受けたし、あとは婚姻届に判を捺すだけだろ?」
千春の母は、あの場ですでに二人の結婚を認めていたし、その後駆けつけた兄の俊明も、「また変な男と見合いするくらいなら」とあっさり承諾してくれた。
涼弥の両親は、どちらかといえば放任主義で、もとより息子の結婚に口出しをするタイプではない。涼弥が結婚の意思を固めただけで大喜びしていたくらいだ。
しかも相手が昔から知っている千春と聞いて、諸手を挙げて喜んでいた。
両親がこの縁談を喜んでいるのは、千春を始めとした須永家の人柄を好ましく思っているからだろう。
だから二人の結婚を妨げるようなものはなにもない。
さすがに展開が急すぎて、両家の顔合わせは後日改めてすることになったが、二人の関係はすでに両家が認めた婚約者なのだ。
「そうなんですけど……本当に私でいいんですか?」
その不安そうな表情に庇護欲をかき立てられる。
だがそれ以上に、たとえ彼女自身にも、その存在を卑下するような言葉を口にしてほしくない。
なにより千春がそんな表情を浮かべるということは、強引な手段で縁談を進めるほど彼女を求めていた自分の気持ちが、伝わっていないということに他ならない。
「なんでそう思う?」
小さくため息を漏らしてそう問いかけると、千春は真剣な面持ちで答えた。
「それは……一乃華銘醸の経営は厳しい状態だし、私は、どこにでもいる普通の会社員で、五十嵐家に嫁ぐのに相応しいとは思えないからです」
「じゃあ、あのいけすかない銀行員なら、君の夫に相応しいと?」
返した言葉に千春が唇を噛む。
少し意地の悪い物言いになってしまうのは、自分は近くで彼女が頼ってくれるのを待っていたのに、彼女は自分を頼ることなくろくでもない男との結婚を選んだからだ。
千春の選択に、どうして自分じゃ駄目なんだと胸が苦しくなる。
込み上げる感情の持って行き場所がわからず、涼弥は深いため息を漏らした。
昨日はさも初対面のフリをしたが、見合い相手の父親のことは知っていたし、親子揃っての悪評も耳にしていた。
そんな男との縁談を進めるなんてありえないと、見合い現場に押しかけたら、とんでもない場面に出くわした。
あと少し自分の到着が遅かったらと思うと、今でもゾッとする。
同時に千春にとって自分は、あんな男にも劣る存在なのかと思うと、言いようのないやるせなさが込み上げてきた。
湧き上がる苦い感情をどうにか堪えて、助手席で難しい顔をしている千春を盗み見た。
長い髪をアップに結い上げ、ほっそりとした首筋を強調している彼女は、女性としての魅力に溢れている。メイクや服装は年相応に大人びているが、形のいい二重の目には子供の頃の面影が見て取れた。
――懐かしいな。
同じ地域の同業者ということで、子供の頃は、千春ともそれなりに交流があった。
とはいえ、職人気質の千春の父・将志の目には、多角経営の喜葉竹グループのやり方は節操がないものに映ったらしく、五十嵐家の人間はかなり嫌われていたように思う。
いつだったか、自分と一緒にいたことで、千春が将志にひどく叱られているのを見てしまった。それ以来、自分といることで千春が怒られるのは悪いと思い、顔を合わせても会釈をする程度で距離を置くようにしていた。
だが、そんな彼女との関わりも自分が高校に入るまでのもので、勉強や部活が忙しくなると親に付き合うこともなくなり、彼女を遠目に見ることさえなくなっていた。
しかし、どれだけ時間が過ぎても、不思議と彼女の存在を忘れることはなかった。
就職してからは、千春の兄と話す機会が増え、彼を通じてある程度は千春の近況を把握していた。
どこの大学に進学したとか、どこの会社に就職したとか、彼女の近況を耳にする度に、不思議なほど心が満たされていた。
千春の存在に触れた時にだけ感じるその感覚が恋であると理解したのは、海外出張中だった父に代わり将志の葬儀に参列した時だった。
葬儀の時、千春は目を真っ赤にして肩を震わせていた。
それでも参列者の一人一人に丁寧に頭を下げる彼女の姿を見た時、涼弥の中にあった仄かな恋心が、強い愛情に変わったのがわかった。
『愛おしい』という感情がどういうものであるか、彼女を通してはっきりと理解することができた。
少し前までは、千春がどこかで元気でいるならそれでいいと思っていたのに、いつしか彼女を支えるのは自分でありたいと思うようになり、偶然を装って再会してからは、ずっと彼女との距離の詰め方を探っていた。
そして昨日、自分はようやくチャンスを手に入れたのだ。
――君を愛している。君以外の女性との結婚なんてありえない。
胸に宿る思いをそのまま口にできたら楽なのだが、これまでずっと他人行儀な態度で距離を取ってきただけに、彼女にとっては迷惑な話なのかもしれない。
失敗の許されないゲームに挑むような気持ちで、千春の心を手に入れるための戦術を組み立てていく。
指の腹でハンドルを叩きながら、涼弥は考えを纏めた。
「まだ内々の話だが、近く本社に戻ることが内定している。それもあって、周囲が結婚しろとうるさくなっていたんだ。だから、君に見合い話を持ちかけるつもりだったというのは本当なんだよ」
近く本社に戻るのは事実だが、別に結婚を急かされてはいない。
ただ、本社に戻るまでに彼女との関係に進展がなければ、本気で須永家に見合いを申し込もうと考えていた。
その際に用意していた口実を、涼弥はそのまま口にした。
だけど納得がいかなかったのか、バックミラー越しに確認した千春の表情は硬い。
「どうして私なんですか? 五十嵐さんなら、私じゃなくても、もっといい条件の縁談がたくさんあったんじゃないですか?」
家柄とか、見た目とか、学歴とか……と、小さな声で言葉を続ける千春には、迷いの色が滲み出ている。
私じゃなくても……その言い方が、体良く見合いを断る常套句に聞こえてしまうのは、長年の片思いを拗らせた末の被害妄想だろうか。
昨日はその場の勢いで結婚を承諾したが、一夜明けて冷静さを取り戻した途端、自分との結婚を後悔しているのではないかと不安になる。
「まあ、確かにそういった話はいくつかあったよ……」
隠すほどの話でもないので、事実は事実と認めて千春を納得させるための言葉を探す。
「ただ仕事絡みの縁談の場合、下手な相手を選ぶと、パワーバランスが崩れて思わぬ軋轢を生むことになりかねない。それに姻戚関係を口実に仕事に口出しされるのも面倒だ。……その点、古くから付き合いがあり、信用の置ける家の娘さんが相手ならば、誰の面目を潰すこともないし、今後縁談を断る面倒からも解放される」
その説明に、千春がそっと息を吐く。
「確かにウチの家族が、喜葉竹さんの仕事に口を出すなんてありえないですもんね」
どこか自虐的な彼女の言葉に、涼弥はそういう意味ではないと首を横に振る。
「そんなふうに、自分や実家を卑下するような話し方をするな。俺は、君と結婚することで、一乃華銘醸を守る手伝いをさせてもらえることを嬉しく思っているんだ。一乃華銘醸にはそれだけの価値がある」
「え?」
「俺は一乃華銘醸の造る酒が好きだ。先代は気難しい人ではあったけど、腕のいい杜氏で尊敬していた。その意思を継ぐ俊明さんも、経験が足りないだけでいい職人だ。同業者として、一乃華銘醸を存続させる手助けをさせてほしいと思っている」
それは嘘偽りのない、涼弥の本音だ。
世界的シェアを持つ喜葉竹と比べれば、一乃華銘醸の事業規模は小さい。いわゆる地方の地酒といった扱いである。
千春の父である将志は、腕はいいが職人気質の商売下手で、時流に上手く乗れずに売り上げが年々下降傾向にあった。それでも根強いファンを持つおかげで、一定数の売り上げを維持することができていた。
だが将志が肺炎で急逝し、まだ若い俊明が杜氏になったことでファンが離れ、売り上げが一気に降下して危機的状況に陥っている。
しかし、俊明の努力家で勤勉な人柄を知る涼弥としては、それは一時的なものと判断している。
今の客離れは、世代交代の通過儀礼のようなものだ。
おそらく数年もすれば、俊明の腕が認められ、間違いなく売り上げは回復するだろう。
そう確信しているからこそ、一時期の苦難を乗り越える蓄えがないというだけで、一乃華銘醸が潰れるなんて事態を見過ごすことはできない。千春のことを抜きにしても、できる限りの協力をするつもりでいた。
「ありがとうございます」
「こうなったのもなにかの縁だ。結婚相手は俺で妥協しておけ」
涼弥は冗談めかした口調で千春の同意を誘う。
その言葉に、千春は「妥協なんて……」と困ったように笑った。
自分の隣で千春が笑っている。
ただそれだけのことで、どうしようもない多幸感に包まれる。
これほど愛おしく思える人を側で支える権利を、自分は手に入れることができたのだ。
その幸運を大事にしつつ、時間をかけて二人の関係を深めていけばいい。
「一乃華を高く評価してもらえて嬉しいです。偶然とはいえ、仕事で五十嵐さんと再会できた私はラッキーでしたね」
「ラッキーだったのは、俺の方だよ」
心からの自分の言葉に、千春はぎこちなく笑う。
ただの冗談として流された気がしないでもないが、今はまだそれでいい。
彼女とは、これから長い人生を共に歩んでいくのだから。
涼弥は涼しい顔でウインカーを出し、休憩のために車をサービスエリアに進める。
助手席に座る千春は、二人の再会を偶然と思っているようだが、実際は涼弥が仕組んだものだった。
これまで委託していたホームページの製作会社は大手で顧客も多く、データ解析がしっかりしていて悪くはなかった。
ただ担当者に思うところがあったのと、画一的なホームページのレイアウトに物足りなさを感じていたこともあり、商品をリニューアルするタイミングで委託業者を変更することにした。
その際、涼弥はさりげなく千春の勤める会社を指名した。
そして先方には、親会社の喜葉竹グループが酒造メーカーであり、TUYUKAの商品もそのノウハウが活かされていることを理由に、「もし日本酒の知識に明るい人がいるのであれば、その方にお願いしたい」と伝えておいた。
TUYUKAが化粧品メーカーであることを考えれば、女性が担当する確率は高かったし、そこに『日本酒の知識に明るい人』という条件を加えれば、おのずと任せる人材はしぼられる。
そんな涼弥の思惑どおり、最初の打ち合わせの場に、上司と共に千春が姿を現した。
あの日、偶然の再会に驚く千春に合わせて、驚いたフリをした自分のしたたかさに苦笑するしかない。
そうやって、強引に運命の糸を手繰り寄せて半年。その間、千春はどこまでもビジネスライクで他人行儀だった。
同郷なのだから、実家が同業者なのだから、と理由をつけては、自分を頼るように水を向けてみたが、その度に社交辞令として流されて、一向に距離を詰めることができずにいた。
もしかしたら、こちらの思惑に気付いて警戒されているのではないか、と内心気が気じゃなかった。
「さて、俺は不要な軋轢を生まずに結婚をしたい、君は家を守りたい。お互いの利害関係の摺り合わせはできたようだし、そろそろ前向きなことに話題を移そうか」
車を空いていた駐車スペースに停めて言う。
「前向きなこと?」
シートベルトを外した涼弥は、小さく首をかしげる千春に視線を向ける。
「住む場所をどうするか、仕事をどうしていくか、これから始める生活のために話し合うべきことは、いくらでもある」
せっかく手に入れた花嫁を逃してなるものかと、涼弥は一気にたたみかける。
その言葉に、千春が戸惑いつつも頷く。
「確かにそうですね」
少しは状況を受け入れられたのか、「五十嵐さんの譲れない条件を教えてください」と切り出した。
そんな彼女に、涼弥は最も譲れない条件を口にする。
「結婚生活は、なるべく早く始めたい」
千春の方へ身を乗り出し、彼女のシートベルトの留め具を外した。
「え?」
しかし千春がベルトを掴んでいたため、完全に外れることはない。
「その方が、一乃華への援助がしやすくなる」
その言葉に、ベルトを掴む千春の手に力が入る。
数秒、なにかを考えていた様子の千春は、コクリと頷いた。
「わかりました」
そう言ってベルトから手を離した彼女の目に、もう迷いの色はなかった。
涼弥は眩しいものを見るような気持ちで、そっと目を細める。
親の背中を見て育った千春は、たおやかに見えて芯が強い。
『私なんかが……』と自分を卑下するようなことを口にした千春だが、涼弥に言わせれば、彼女の芯の強さは経営者の妻に向いていると思う。もちろん、涼弥は彼女に苦労をさせるつもりはないが。
ただただ、自分のかたわらで幸せそうに笑って暮らしてほしい。
覚悟が決まったのか、千春が居住まいを正して頭を下げる。
「至らないところもあると思いますけど、五十嵐さんのいい奥さんになれるように頑張ります」
どんな形であれ、彼女が結婚を前向きに受け止めてくれたのなら喜ぶべきだろう。
そう思いつつも、この結婚を義務的なものとして扱われるのは面白くない。
涼弥は膝の上に行儀良く揃えられた千春の片手を取り、自分の方に引き寄せた。
そして驚く彼女に構うことなく、その手の甲に口付ける。
「いい妻になる第一歩として、まずは苗字で呼ぶのをやめようか。近いうちに、君も五十嵐になるのだから」
昨日、咄嗟に千春を昔の呼び方で呼んだ涼弥につられて、彼女も自分のことを「涼弥さん」と呼んでくれた。それなのに、いつの間にか苗字呼びに戻っていたことが、密かに面白くなかったのだ。
手の甲に唇を触れさせたまま上目遣いで彼女を見れば、その頬がみるみる朱色に染まっていく。
「え、あの……りょ……涼弥さん」
頬どころか耳まで赤くして自分の名前を口にする千春の姿に、涼弥はニッと口角を上げる。
名前を口にするだけで、ここまで恥じらう彼女の初々しい反応が愛おしい。
このまま抱きしめて唇を奪いたい衝動に駆られるが、それで引かれては元も子もないので我慢する。
涼弥がもし自分の性格を一言で表せと言われたら、よく言えば『一途』、悪く言えば『執念深い』という言葉を選ぶだろう。
自分はどんなことをしても千春を手に入れる気でいたし、もし手に入れることができたら手放すなどありえないのだ。だが、それを知らない彼女に、情熱的なこの思いを正直に伝えて引かれるのはさすがに避けたい。
千春が近くにいる自分ではなく、他の男との見合いを選んだのなら、こちらもとりあえずは契約結婚のスタンスを保っておくことにする。
あとは時間をかけて、本物の夫婦になればいい。
なにせ死が二人を分かつその瞬間まで、自分は千春を手放す気はないのだから。
「よろしく。俺の奥さん」
甘い声で囁いて、涼弥は彼女の手の甲に再度口付けを落とす。
一瞬、千春の手がビクリと跳ねたけれど、涼弥は気付かないフリをした。
――絶対に逃がさない。
そう心で誓いながら、千春に上目遣いで視線を向けた。
2 甘い新婚生活
七月七日。
七夕のその日、千春は仕事を休んで引っ越し作業にいそしんでいた。
見合い現場に乱入してきた涼弥の提案を受け、彼と契約結婚することを決めたのは約半月前のこと。
もとから両家に付き合いがあったこともあり、家族の反対もなく、二人の結婚はあっさり認められた。
急に纏まった縁談のため、式は涼弥が喜葉竹グループの本社に戻ってから執りおこなうことになっているが、涼弥の希望で、先に籍だけ入れて一緒に暮らすことになった。
そのため千春は入籍と共に、彼が所有するマンションに引っ越してきたのである。
使っていない一部屋を自室にすればいいと言われたので、とりあえず持ち込んだ荷物を全てその部屋に運び込んだ千春は、マンションとは思えない高い天井を見上げて唸る。
「なんか、生活レベルが違いすぎる……」
酒造会社社長の娘といっても、一乃華銘醸は地方の小さな酒造メーカーだ。一般的なサラリーマン家庭よりは豊かだったかもしれないけど、両親共に堅実な性格をしていることもあり、将志が健在だった頃から至って庶民的な生活をしていた。
就職して自立している千春の暮らしぶりも、同世代で一人暮らしをしている人たちとなにも変わらない。
それに比べて、これまで涼弥が一人で暮らしていたここは、駅から徒歩五分という好立地にあるのに敢えて高さを抑えた低層マンションで、都会的でシャープな外観をしている。
ホテルのフロントさながらのロビーにはコンシェルジュが常駐していて、外出時のタクシーの手配から、クリーニングの受け渡しといった雑事まで頼めるのだそうだ。
その全てが庶民的な千春の生活からかけ離れていて、自分がこの暮らしに馴染めるのか早々に不安になる。
「千春、なにか手伝うことはある?」
片付けの手を止めてぼんやりしていた千春は、扉口から顔を覗かせた涼弥に大きく首を横に振る。
「だっ、大丈夫です」
涼弥が当然のように、名前を呼び捨てにする。
ただそれだけのことにも、長年彼に片思いをしてきた身には、破壊力が半端じゃないのだ。
子供の頃には「千春ちゃん」と呼ばれていたこともあったけど、「ちゃん」付けがなくなっただけで、耳に届く声の響きまで全く違って聞こえてしまう。
婚約という名の契約成立から今日まで、引っ越しの準備や会社への結婚報告など慌ただしい日々を過ごしていた。その間、涼弥とろくに話す暇がなかったせいもあり、呼び捨てで名前を呼ばれただけでドキドキしてしまう。
もちろん二人の関係はまだ清いままで、キスはおろか手を数回握ったことがあるだけだ。
――落ち着け私っ! これから夫婦として一緒に暮らしていくのに、名前を呼ばれただけで動揺してどうする!?
心の中で、焦る自分を叱咤する。
午前中に二人で区役所に婚姻届を提出して、自分は彼の妻になったのだ。
名前を呼ばれたくらいで、いちいち舞い上がっていたら身がもたない。
「まあ、そうなの?」
二人が仕事を介して再会したこと以外は全くの作り話を、涼弥がまことしやかに語る。さらには、驚いて目を丸くする綾子にニッコリと微笑みかけてこう付け足した。
「一乃華さんとは旧知の仲ですし、可能な限りの支援も考えております」
それを聞いた瞬間、綾子の表情が一気に明るくなる。
「千春、貴女どちらの話をお受けするの? 貴女の好きにしていいのよ。お断りする方には、私も一緒にお詫びするから」
そう言いつつ、綾子は蒼白になっている行員親子に冷めた視線を向けた。
言葉としては質問の形を取っているけど、顔に「涼弥さんを選ぶわよね」と書いてある。
母も、先ほどの親子の態度にかなり気分を害していたようだ。
「せっかくのご縁でしたが、お断りさせていただきます」
一応の礼儀と思い、青ざめて表情を失っている親子に頭を下げた千春は、次に涼弥を見上げた。
涼弥が自分との結婚になにを求めているのかはわからないけれど、この男と結婚するよりよっぽどいい。
なにより千春は、涼弥以外の人との結婚なんて考えられないのだから。
「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
感謝の思いを込めて千春が頭を下げると、涼弥はニッと口角を上げる。
「こちらこそ」
そう言って笑顔で頷いた涼弥は、気配を消してこの場を去ろうとしていた親子に視線を向けた。
「私は記憶力には自信がありますから、貴方方親子が、私の妻になる人におこなった所行を一生忘れませんので」
もちろん、どのような職業に転職されても。と、かなり粘着質な嫌味を付け足して、上品に笑う。
――悪魔の微笑みだ。
今まで気付かなかっただけで、涼弥はなかなかにいけずな性格をしているのかもしれない。
涼弥の笑顔に、二人は「ヒッ」と小さな悲鳴を上げて、全力で走り去っていった。
「あら、逃げ足の速い。母親としてお詫びをする暇もないわね」
脱兎のごとき勢いで駆けていく親子の背中を見送り、綾子がすっきりした様子で皮肉を言う。
「謝罪する価値もないですよ」
それに対し、さらりと毒を吐くのは涼弥だ。
彼の言葉に、綾子は口元に手を添えてたおやかに笑う。
歴史ある酒蔵に嫁ぎ、父と共に職人たちを束ねて店を切り盛りしていた母も、敵と見なした相手には容赦がない。
途中、勢いのあまりバランスを崩して転がる銀行員親子の背中を見ていると、なかなかなことをされたのに、若干気の毒になってくる。
親子の背中が見えなくなったところで、「さて」と呟いた涼弥が千春に右手を差し出してきた。
「では改めて、これからよろしく」
なかなかにしたたかな彼の一面を見せられた後では、美しく魅惑的な悪魔を前にしているような気分になるけれど、もう契約は交わしてしまったのだ。
だから千春は、差し出された手を迷わず取った。
「よろしくお願いいたします」
千春が上目遣いにそう言うと、涼弥がそっと微笑む。
いつの間にか雲が流され、光の筋が差し込んでいる。
光のカーテンを背に自分の手を取る涼弥は、神々しい存在にも、悪だくみを楽しむ悪魔のようにも見えた。
◇ ◇ ◇
「本当に、私と結婚していいんですか?」
都内に戻るために車を走らせていた涼弥は、助手席で難しい顔をしている千春の言葉に苦笑を浮かべた。
曇天模様の昨日とは打って変わり、今日は快晴で一面の青空が広がっている。
そんな天気に気を良くしたわけではないが、ハンドルを握る涼弥の心は軽い。
千春の見合いに乱入して、契約結婚を持ちかけたのは昨日のこと。
慌ただしく婚約した彼女と今後について話し合うため、涼弥の運転する車で一緒に都内に戻ることにした。けれど車に乗り込んだ千春は、ずっと難しい顔で黙り込んだままで、やっと口を開いた第一声が、それだった。
今の彼女の心情は、突然捕獲され、ケージに放り込まれて戸惑う小動物に近いのかもしれない。
見合いに乱入してきた男とその場で婚約したのだから、無理もないのだけど。
「すでに両家の承諾も受けたし、あとは婚姻届に判を捺すだけだろ?」
千春の母は、あの場ですでに二人の結婚を認めていたし、その後駆けつけた兄の俊明も、「また変な男と見合いするくらいなら」とあっさり承諾してくれた。
涼弥の両親は、どちらかといえば放任主義で、もとより息子の結婚に口出しをするタイプではない。涼弥が結婚の意思を固めただけで大喜びしていたくらいだ。
しかも相手が昔から知っている千春と聞いて、諸手を挙げて喜んでいた。
両親がこの縁談を喜んでいるのは、千春を始めとした須永家の人柄を好ましく思っているからだろう。
だから二人の結婚を妨げるようなものはなにもない。
さすがに展開が急すぎて、両家の顔合わせは後日改めてすることになったが、二人の関係はすでに両家が認めた婚約者なのだ。
「そうなんですけど……本当に私でいいんですか?」
その不安そうな表情に庇護欲をかき立てられる。
だがそれ以上に、たとえ彼女自身にも、その存在を卑下するような言葉を口にしてほしくない。
なにより千春がそんな表情を浮かべるということは、強引な手段で縁談を進めるほど彼女を求めていた自分の気持ちが、伝わっていないということに他ならない。
「なんでそう思う?」
小さくため息を漏らしてそう問いかけると、千春は真剣な面持ちで答えた。
「それは……一乃華銘醸の経営は厳しい状態だし、私は、どこにでもいる普通の会社員で、五十嵐家に嫁ぐのに相応しいとは思えないからです」
「じゃあ、あのいけすかない銀行員なら、君の夫に相応しいと?」
返した言葉に千春が唇を噛む。
少し意地の悪い物言いになってしまうのは、自分は近くで彼女が頼ってくれるのを待っていたのに、彼女は自分を頼ることなくろくでもない男との結婚を選んだからだ。
千春の選択に、どうして自分じゃ駄目なんだと胸が苦しくなる。
込み上げる感情の持って行き場所がわからず、涼弥は深いため息を漏らした。
昨日はさも初対面のフリをしたが、見合い相手の父親のことは知っていたし、親子揃っての悪評も耳にしていた。
そんな男との縁談を進めるなんてありえないと、見合い現場に押しかけたら、とんでもない場面に出くわした。
あと少し自分の到着が遅かったらと思うと、今でもゾッとする。
同時に千春にとって自分は、あんな男にも劣る存在なのかと思うと、言いようのないやるせなさが込み上げてきた。
湧き上がる苦い感情をどうにか堪えて、助手席で難しい顔をしている千春を盗み見た。
長い髪をアップに結い上げ、ほっそりとした首筋を強調している彼女は、女性としての魅力に溢れている。メイクや服装は年相応に大人びているが、形のいい二重の目には子供の頃の面影が見て取れた。
――懐かしいな。
同じ地域の同業者ということで、子供の頃は、千春ともそれなりに交流があった。
とはいえ、職人気質の千春の父・将志の目には、多角経営の喜葉竹グループのやり方は節操がないものに映ったらしく、五十嵐家の人間はかなり嫌われていたように思う。
いつだったか、自分と一緒にいたことで、千春が将志にひどく叱られているのを見てしまった。それ以来、自分といることで千春が怒られるのは悪いと思い、顔を合わせても会釈をする程度で距離を置くようにしていた。
だが、そんな彼女との関わりも自分が高校に入るまでのもので、勉強や部活が忙しくなると親に付き合うこともなくなり、彼女を遠目に見ることさえなくなっていた。
しかし、どれだけ時間が過ぎても、不思議と彼女の存在を忘れることはなかった。
就職してからは、千春の兄と話す機会が増え、彼を通じてある程度は千春の近況を把握していた。
どこの大学に進学したとか、どこの会社に就職したとか、彼女の近況を耳にする度に、不思議なほど心が満たされていた。
千春の存在に触れた時にだけ感じるその感覚が恋であると理解したのは、海外出張中だった父に代わり将志の葬儀に参列した時だった。
葬儀の時、千春は目を真っ赤にして肩を震わせていた。
それでも参列者の一人一人に丁寧に頭を下げる彼女の姿を見た時、涼弥の中にあった仄かな恋心が、強い愛情に変わったのがわかった。
『愛おしい』という感情がどういうものであるか、彼女を通してはっきりと理解することができた。
少し前までは、千春がどこかで元気でいるならそれでいいと思っていたのに、いつしか彼女を支えるのは自分でありたいと思うようになり、偶然を装って再会してからは、ずっと彼女との距離の詰め方を探っていた。
そして昨日、自分はようやくチャンスを手に入れたのだ。
――君を愛している。君以外の女性との結婚なんてありえない。
胸に宿る思いをそのまま口にできたら楽なのだが、これまでずっと他人行儀な態度で距離を取ってきただけに、彼女にとっては迷惑な話なのかもしれない。
失敗の許されないゲームに挑むような気持ちで、千春の心を手に入れるための戦術を組み立てていく。
指の腹でハンドルを叩きながら、涼弥は考えを纏めた。
「まだ内々の話だが、近く本社に戻ることが内定している。それもあって、周囲が結婚しろとうるさくなっていたんだ。だから、君に見合い話を持ちかけるつもりだったというのは本当なんだよ」
近く本社に戻るのは事実だが、別に結婚を急かされてはいない。
ただ、本社に戻るまでに彼女との関係に進展がなければ、本気で須永家に見合いを申し込もうと考えていた。
その際に用意していた口実を、涼弥はそのまま口にした。
だけど納得がいかなかったのか、バックミラー越しに確認した千春の表情は硬い。
「どうして私なんですか? 五十嵐さんなら、私じゃなくても、もっといい条件の縁談がたくさんあったんじゃないですか?」
家柄とか、見た目とか、学歴とか……と、小さな声で言葉を続ける千春には、迷いの色が滲み出ている。
私じゃなくても……その言い方が、体良く見合いを断る常套句に聞こえてしまうのは、長年の片思いを拗らせた末の被害妄想だろうか。
昨日はその場の勢いで結婚を承諾したが、一夜明けて冷静さを取り戻した途端、自分との結婚を後悔しているのではないかと不安になる。
「まあ、確かにそういった話はいくつかあったよ……」
隠すほどの話でもないので、事実は事実と認めて千春を納得させるための言葉を探す。
「ただ仕事絡みの縁談の場合、下手な相手を選ぶと、パワーバランスが崩れて思わぬ軋轢を生むことになりかねない。それに姻戚関係を口実に仕事に口出しされるのも面倒だ。……その点、古くから付き合いがあり、信用の置ける家の娘さんが相手ならば、誰の面目を潰すこともないし、今後縁談を断る面倒からも解放される」
その説明に、千春がそっと息を吐く。
「確かにウチの家族が、喜葉竹さんの仕事に口を出すなんてありえないですもんね」
どこか自虐的な彼女の言葉に、涼弥はそういう意味ではないと首を横に振る。
「そんなふうに、自分や実家を卑下するような話し方をするな。俺は、君と結婚することで、一乃華銘醸を守る手伝いをさせてもらえることを嬉しく思っているんだ。一乃華銘醸にはそれだけの価値がある」
「え?」
「俺は一乃華銘醸の造る酒が好きだ。先代は気難しい人ではあったけど、腕のいい杜氏で尊敬していた。その意思を継ぐ俊明さんも、経験が足りないだけでいい職人だ。同業者として、一乃華銘醸を存続させる手助けをさせてほしいと思っている」
それは嘘偽りのない、涼弥の本音だ。
世界的シェアを持つ喜葉竹と比べれば、一乃華銘醸の事業規模は小さい。いわゆる地方の地酒といった扱いである。
千春の父である将志は、腕はいいが職人気質の商売下手で、時流に上手く乗れずに売り上げが年々下降傾向にあった。それでも根強いファンを持つおかげで、一定数の売り上げを維持することができていた。
だが将志が肺炎で急逝し、まだ若い俊明が杜氏になったことでファンが離れ、売り上げが一気に降下して危機的状況に陥っている。
しかし、俊明の努力家で勤勉な人柄を知る涼弥としては、それは一時的なものと判断している。
今の客離れは、世代交代の通過儀礼のようなものだ。
おそらく数年もすれば、俊明の腕が認められ、間違いなく売り上げは回復するだろう。
そう確信しているからこそ、一時期の苦難を乗り越える蓄えがないというだけで、一乃華銘醸が潰れるなんて事態を見過ごすことはできない。千春のことを抜きにしても、できる限りの協力をするつもりでいた。
「ありがとうございます」
「こうなったのもなにかの縁だ。結婚相手は俺で妥協しておけ」
涼弥は冗談めかした口調で千春の同意を誘う。
その言葉に、千春は「妥協なんて……」と困ったように笑った。
自分の隣で千春が笑っている。
ただそれだけのことで、どうしようもない多幸感に包まれる。
これほど愛おしく思える人を側で支える権利を、自分は手に入れることができたのだ。
その幸運を大事にしつつ、時間をかけて二人の関係を深めていけばいい。
「一乃華を高く評価してもらえて嬉しいです。偶然とはいえ、仕事で五十嵐さんと再会できた私はラッキーでしたね」
「ラッキーだったのは、俺の方だよ」
心からの自分の言葉に、千春はぎこちなく笑う。
ただの冗談として流された気がしないでもないが、今はまだそれでいい。
彼女とは、これから長い人生を共に歩んでいくのだから。
涼弥は涼しい顔でウインカーを出し、休憩のために車をサービスエリアに進める。
助手席に座る千春は、二人の再会を偶然と思っているようだが、実際は涼弥が仕組んだものだった。
これまで委託していたホームページの製作会社は大手で顧客も多く、データ解析がしっかりしていて悪くはなかった。
ただ担当者に思うところがあったのと、画一的なホームページのレイアウトに物足りなさを感じていたこともあり、商品をリニューアルするタイミングで委託業者を変更することにした。
その際、涼弥はさりげなく千春の勤める会社を指名した。
そして先方には、親会社の喜葉竹グループが酒造メーカーであり、TUYUKAの商品もそのノウハウが活かされていることを理由に、「もし日本酒の知識に明るい人がいるのであれば、その方にお願いしたい」と伝えておいた。
TUYUKAが化粧品メーカーであることを考えれば、女性が担当する確率は高かったし、そこに『日本酒の知識に明るい人』という条件を加えれば、おのずと任せる人材はしぼられる。
そんな涼弥の思惑どおり、最初の打ち合わせの場に、上司と共に千春が姿を現した。
あの日、偶然の再会に驚く千春に合わせて、驚いたフリをした自分のしたたかさに苦笑するしかない。
そうやって、強引に運命の糸を手繰り寄せて半年。その間、千春はどこまでもビジネスライクで他人行儀だった。
同郷なのだから、実家が同業者なのだから、と理由をつけては、自分を頼るように水を向けてみたが、その度に社交辞令として流されて、一向に距離を詰めることができずにいた。
もしかしたら、こちらの思惑に気付いて警戒されているのではないか、と内心気が気じゃなかった。
「さて、俺は不要な軋轢を生まずに結婚をしたい、君は家を守りたい。お互いの利害関係の摺り合わせはできたようだし、そろそろ前向きなことに話題を移そうか」
車を空いていた駐車スペースに停めて言う。
「前向きなこと?」
シートベルトを外した涼弥は、小さく首をかしげる千春に視線を向ける。
「住む場所をどうするか、仕事をどうしていくか、これから始める生活のために話し合うべきことは、いくらでもある」
せっかく手に入れた花嫁を逃してなるものかと、涼弥は一気にたたみかける。
その言葉に、千春が戸惑いつつも頷く。
「確かにそうですね」
少しは状況を受け入れられたのか、「五十嵐さんの譲れない条件を教えてください」と切り出した。
そんな彼女に、涼弥は最も譲れない条件を口にする。
「結婚生活は、なるべく早く始めたい」
千春の方へ身を乗り出し、彼女のシートベルトの留め具を外した。
「え?」
しかし千春がベルトを掴んでいたため、完全に外れることはない。
「その方が、一乃華への援助がしやすくなる」
その言葉に、ベルトを掴む千春の手に力が入る。
数秒、なにかを考えていた様子の千春は、コクリと頷いた。
「わかりました」
そう言ってベルトから手を離した彼女の目に、もう迷いの色はなかった。
涼弥は眩しいものを見るような気持ちで、そっと目を細める。
親の背中を見て育った千春は、たおやかに見えて芯が強い。
『私なんかが……』と自分を卑下するようなことを口にした千春だが、涼弥に言わせれば、彼女の芯の強さは経営者の妻に向いていると思う。もちろん、涼弥は彼女に苦労をさせるつもりはないが。
ただただ、自分のかたわらで幸せそうに笑って暮らしてほしい。
覚悟が決まったのか、千春が居住まいを正して頭を下げる。
「至らないところもあると思いますけど、五十嵐さんのいい奥さんになれるように頑張ります」
どんな形であれ、彼女が結婚を前向きに受け止めてくれたのなら喜ぶべきだろう。
そう思いつつも、この結婚を義務的なものとして扱われるのは面白くない。
涼弥は膝の上に行儀良く揃えられた千春の片手を取り、自分の方に引き寄せた。
そして驚く彼女に構うことなく、その手の甲に口付ける。
「いい妻になる第一歩として、まずは苗字で呼ぶのをやめようか。近いうちに、君も五十嵐になるのだから」
昨日、咄嗟に千春を昔の呼び方で呼んだ涼弥につられて、彼女も自分のことを「涼弥さん」と呼んでくれた。それなのに、いつの間にか苗字呼びに戻っていたことが、密かに面白くなかったのだ。
手の甲に唇を触れさせたまま上目遣いで彼女を見れば、その頬がみるみる朱色に染まっていく。
「え、あの……りょ……涼弥さん」
頬どころか耳まで赤くして自分の名前を口にする千春の姿に、涼弥はニッと口角を上げる。
名前を口にするだけで、ここまで恥じらう彼女の初々しい反応が愛おしい。
このまま抱きしめて唇を奪いたい衝動に駆られるが、それで引かれては元も子もないので我慢する。
涼弥がもし自分の性格を一言で表せと言われたら、よく言えば『一途』、悪く言えば『執念深い』という言葉を選ぶだろう。
自分はどんなことをしても千春を手に入れる気でいたし、もし手に入れることができたら手放すなどありえないのだ。だが、それを知らない彼女に、情熱的なこの思いを正直に伝えて引かれるのはさすがに避けたい。
千春が近くにいる自分ではなく、他の男との見合いを選んだのなら、こちらもとりあえずは契約結婚のスタンスを保っておくことにする。
あとは時間をかけて、本物の夫婦になればいい。
なにせ死が二人を分かつその瞬間まで、自分は千春を手放す気はないのだから。
「よろしく。俺の奥さん」
甘い声で囁いて、涼弥は彼女の手の甲に再度口付けを落とす。
一瞬、千春の手がビクリと跳ねたけれど、涼弥は気付かないフリをした。
――絶対に逃がさない。
そう心で誓いながら、千春に上目遣いで視線を向けた。
2 甘い新婚生活
七月七日。
七夕のその日、千春は仕事を休んで引っ越し作業にいそしんでいた。
見合い現場に乱入してきた涼弥の提案を受け、彼と契約結婚することを決めたのは約半月前のこと。
もとから両家に付き合いがあったこともあり、家族の反対もなく、二人の結婚はあっさり認められた。
急に纏まった縁談のため、式は涼弥が喜葉竹グループの本社に戻ってから執りおこなうことになっているが、涼弥の希望で、先に籍だけ入れて一緒に暮らすことになった。
そのため千春は入籍と共に、彼が所有するマンションに引っ越してきたのである。
使っていない一部屋を自室にすればいいと言われたので、とりあえず持ち込んだ荷物を全てその部屋に運び込んだ千春は、マンションとは思えない高い天井を見上げて唸る。
「なんか、生活レベルが違いすぎる……」
酒造会社社長の娘といっても、一乃華銘醸は地方の小さな酒造メーカーだ。一般的なサラリーマン家庭よりは豊かだったかもしれないけど、両親共に堅実な性格をしていることもあり、将志が健在だった頃から至って庶民的な生活をしていた。
就職して自立している千春の暮らしぶりも、同世代で一人暮らしをしている人たちとなにも変わらない。
それに比べて、これまで涼弥が一人で暮らしていたここは、駅から徒歩五分という好立地にあるのに敢えて高さを抑えた低層マンションで、都会的でシャープな外観をしている。
ホテルのフロントさながらのロビーにはコンシェルジュが常駐していて、外出時のタクシーの手配から、クリーニングの受け渡しといった雑事まで頼めるのだそうだ。
その全てが庶民的な千春の生活からかけ離れていて、自分がこの暮らしに馴染めるのか早々に不安になる。
「千春、なにか手伝うことはある?」
片付けの手を止めてぼんやりしていた千春は、扉口から顔を覗かせた涼弥に大きく首を横に振る。
「だっ、大丈夫です」
涼弥が当然のように、名前を呼び捨てにする。
ただそれだけのことにも、長年彼に片思いをしてきた身には、破壊力が半端じゃないのだ。
子供の頃には「千春ちゃん」と呼ばれていたこともあったけど、「ちゃん」付けがなくなっただけで、耳に届く声の響きまで全く違って聞こえてしまう。
婚約という名の契約成立から今日まで、引っ越しの準備や会社への結婚報告など慌ただしい日々を過ごしていた。その間、涼弥とろくに話す暇がなかったせいもあり、呼び捨てで名前を呼ばれただけでドキドキしてしまう。
もちろん二人の関係はまだ清いままで、キスはおろか手を数回握ったことがあるだけだ。
――落ち着け私っ! これから夫婦として一緒に暮らしていくのに、名前を呼ばれただけで動揺してどうする!?
心の中で、焦る自分を叱咤する。
午前中に二人で区役所に婚姻届を提出して、自分は彼の妻になったのだ。
名前を呼ばれたくらいで、いちいち舞い上がっていたら身がもたない。
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