鏡の中の他人

北大路京介

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第1話「予約」

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夕暮れ時の表参道。ケヤキ並木の影が長く伸びる頃、小さな美容室「Olive」の扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

篠塚亜由美は、シャンプー台で客の髪をすすぎながら振り返った。

入口に立っていたのは、黒いスーツを着た男だった。三十代後半だろうか。整った顔立ちだが、表情に乏しい。疲れているのか、目の下に薄い隈がある。

「予約は…」

亜由美が尋ねかけると、男は首を横に振った。

「今、切れますか」

声は低く、抑揚がない。

亜由美は壁の時計を見た。午後六時半。最後の予約客のカラーリングが終われば、今日の営業は終わりだ。

「少しお待ちいただければ」

男は無言で頷き、待合のソファに座った。雑誌には手を伸ばさず、ただ窓の外を眺めている。

三十分後、最後の客を見送った亜由美は、男に声をかけた。

「お待たせしました。こちらへどうぞ」

男は立ち上がり、セット面の椅子に座る。鏡越しに二人の視線が交わった。

「今日はどうされますか」

「短く」

「全体的に、ですか」

「はい」

それ以上、男は何も言わなかった。

亜由美はクロスをかけ、男の髪に指を通す。髪質は柔らかい。少し癖がある。前回のカットから二ヶ月は経っているだろう。

「シャンプーしますね」

男は頷いた。

シャンプー台で、亜由美は丁寧に男の髪を濡らす。お湯の温度を確認しながら、指の腹で頭皮をマッサージする。これは亜由美の得意なことだった。お客の緊張を、指先で解きほぐしていく。

男の肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。

「気持ちいいですか」

「…はい」

短い返事だったが、先ほどよりも声に温度があった。

シャンプーを終え、再びセット面に戻る。

亜由美はコームで髪をとかし、ハサミを手に取った。

チャキ、チャキ、チャキ。

静かな店内に、ハサミの音だけが響く。

男は鏡の中の自分を見つめている。亜由美も、時々鏡越しに男の表情を確認する。

五分ほど経った頃、男が口を開いた。

「ここは、長いんですか」

「お店がですか」

「ええ」

「三年になります」

「一人で?」

「はい」

また沈黙。

亜由美は男の後頭部のラインを整えながら、尋ねた。

「お仕事は、お忙しいんですか」

「まあ」

「スーツ、素敵ですね」

「…そうですか」

男は少し驚いたような顔をした。褒められ慣れていないのかもしれない。

「オーダーメイドですよね」

「よく分かりますね」

「肩のラインで分かります」

男は初めて、微かに笑った。

その笑顔は一瞬で消えたが、亜由美の記憶には残った。

十五分後、カットが終わる。

「いかがですか」

鏡を見た男は、しばらく自分の姿を確認してから、頷いた。

「ありがとうございます」

「スタイリング剤は」

「いりません」

亜由美はドライヤーで髪を乾かす。最後に軽く整えて、クロスを外した。

「お疲れ様でした」

男は立ち上がり、レジへ向かう。

「四千五百円です」

男は財布から五千円札を出し、「お釣りは結構です」と言った。

「ありがとうございます」

男は扉へ向かいかけて、振り返った。

「次は、いつ来ればいいですか」

「一ヶ月後くらいが」

「予約できますか」

「もちろんです」

亜由美は予約表を開いた。

「お名前を」

「吉村」

「吉村様。お電話番号は」

男は番号を告げた。亜由美はそれを書き留める。

「ご希望の日時は」

「来月の今日。同じ時間で」

「六時半ですね。承りました」

吉村は軽く頭を下げ、店を出た。

扉が閉まり、ベルの音が消える。

亜由美は予約表の「吉村」という名前を見つめた。

珍しいお客だった、と思った。

ほとんど話さず、笑わず、でも不快ではなかった。むしろ、あの静けさは心地よかった。

亜由美は店の掃除を始めた。床に落ちた髪を掃き、鏡を拭く。

鏡の中に映る自分の顔。

三十二歳。シングルマザー。七歳の娘が一人。

離婚して五年。元夫とは、もう二年会っていない。

亜由美は鏡に映る自分に、小さく笑いかけた。

「お疲れ様」

そして電気を消し、店を出た。

「ただいま」

「おかえりー!」

狭いアパートに帰ると、娘の晴夏が駆け寄ってきた。

「ママ遅かった!」

「ごめんね。最後にお客さんが来て」

「お腹すいた」

「すぐ作るから。宿題は?」

「やった!」

「偉いね」

亜由美は晴夏の頭を撫でて、キッチンに立った。

冷蔵庫の中身を確認する。卵、ほうれん草、ベーコン。今日はオムレツでいいだろう。

「ママ」

「なあに」

「明日、図工で使う画用紙、買ってくれた?」

「あ」

忘れていた。

「明日の朝、コンビニで買おう」

「やったー!」

晴夏は無邪気に喜ぶ。

亜由美は卵を割りながら、ため息をついた。

いつもこうだ。仕事のことで頭がいっぱいで、娘のことをつい後回しにしてしまう。

「ママ、今日は何人切ったの?」

「四人」

「少ないね」

「平日はこんなものよ」

「週末は?」

「八人くらいかな」

「じゃあ、いっぱいお金もらえる?」

「うーん、まあね」

亜由美は曖昧に答えた。

実際のところ、経営は楽ではない。家賃、材料費、光熱費。そして晴夏の学費。元夫からの養育費は月に八万円の約束だが、ここ三ヶ月は振り込まれていない。

でも、晴夏の前では不安な顔は見せられない。

「はい、できたよ」

オムレツを皿に盛り、テーブルに並べる。

「いただきまーす!」

晴夏は嬉しそうに食べ始めた。

亜由美も向かいに座り、フォークを手に取る。

「ママ」

「ん?」

「あのね、今日ね」

晴夏は学校であったことを話し始めた。友達と喧嘩したこと、給食のカレーが美味しかったこと、体育で鉄棒ができたこと。

亜由美は相槌を打ちながら、娘の顔を見つめた。

元夫に似ているのか、自分に似ているのか。よく分からない。

でも、この笑顔だけは守りたい。

そう思いながら、亜由美も笑顔を作った。

晴夏を寝かしつけた後、亜由美は一人、小さなダイニングテーブルに座った。

ノートパソコンを開き、今月の売り上げを確認する。

予想よりも少ない。

ため息をつき、目を閉じる。

疲れた。

体も、心も。

でも、まだ諦めるわけにはいかない。

亜由美はコーヒーを淹れ、スマートフォンを手に取った。

SNSを開くと、美容師仲間の投稿が並んでいる。みんな、充実した日々を送っているように見える。

亜由美は自分の投稿を確認した。最後に更新したのは一週間前。店の写真と、「お疲れ様でした」という短い文章。

本当は、もっと頻繁に更新しなければいけない。集客のためには。

でも、疲れていて、そんな余裕がない。

亜由美はスマートフォンを置き、予約表を開いた。

明日の予約は三件。明後日は二件。

そして来月の今日。「吉村」という名前。

亜由美はその名前を指でなぞった。

不思議な人だった。

何を考えているのか分からない。でも、嫌いじゃない。

あの静けさは、亜由美にとって心地よかった。

美容師として七年。これまで何百人というお客を担当してきた。

おしゃべりな人、無口な人、注文の多い人、全てお任せの人。

でも、吉村のような人は初めてだった。

必要最低限しか話さないのに、そこに棘がない。

まるで、言葉を使うことに疲れているような。

亜由美は、少しだけ共感した。

自分も、余計な言葉を使うことに疲れている。

離婚の時、元夫と何度も話し合った。でも、どれだけ言葉を重ねても、分かり合えなかった。

言葉は、時に無力だ。

亜由美はコーヒーを飲み干し、パソコンを閉じた。

明日も早い。

ベッドに入り、目を閉じる。

暗闇の中で、ふと吉村の顔が浮かんだ。

鏡越しに見た、あの無表情な顔。

でも、シャンプーの時、ほんの少しだけ緩んだ表情。

亜由美は、なぜかその顔を思い出していた。
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