Wild in Blood ~episode Zero~

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「これは……」
 夜に沈む外よりもまだ深い暗闇の中、京はそれを見つけた。
 灯りを点けなくても、闇に住まう者の代表のような蝙蝠の彼女には、この納屋の様子は手に取るように判る。
 微かに動く、というより震えているものの形状も理解出来た。
「子供?」
「だれ?」
 それは声を出した。
「……ジュウハチ……違う? ……こわい」
 か細い声は高く掠れていた。
「G・A・N・Pよ」
「……こわい……」
「怖がらないで。ほんの少しだけ明るくしていい? 顔をみせて」
 京はポケットからライトを取り出し、広拡散モードで点けた。スポットで明るすぎると光に弱い相手かもしれないし、自分の目にも向かないからだ。
 ぼんやりと青白く照らされた納屋の中は、京が想定していた通りの配置で物が雑然と置いてあった。そして、あちこち破れてスプリングが出た箇所もある古いベッドのマットレスの上の小さな人影。
「見ないで……」
 両の手で顔を隠しているのは、黒い髪の子供。簡素な大きすぎる服を着ているが、微かに膨らみの感じられる胸から少女であるとわかる。一見普通の人間に見えるも、顔を覆う手が体に対して異常に大きい。指が長いわけでは無く、扁平な掌に長い爪という、人間とは大きく異なる形状の手。シャベルの様なというのが一番近い喩えだろう。
 この形状は見た事があると京は思った。これに似た手を持つ哺乳類を知っている。だが、今までその遺伝子を組み込んだA・Hは報告されておらず、非合法で造られたA・Hである事は明らかだ。
 怯えている少女に、そっと京は声を掛ける。
「A・Hね? 大丈夫、私もそうよ。お顔を見せてちょうだい」
「……お姉さん、怖い事しない?」
「ええ。G・A・N・PはA・Hを保護するのが仕事だもの」
 出来るだけ優しい声で京が言うと、少女が顔からゆっくりと大きな手を離した。
「ああ……」
 青白い光の中に晒されたその顔。十代前半という所だろう。ふっくらした頬にあどけなさを残した顔の、鼻や口の造詣は整っていた。
 ただ……少女には目が無かった。

 段々と遅くなっていく逃走者。少しづつ、だが完全に追いつく事無く間を取りながら、ディーンは追跡を続けた。少しでも人家の無い所へ行きたい。この辺りはほぼ百パーセントノーマルタイプの人間しか居住していない。もし形振り構わず民家にでも逃げ込まれたら、巻き添えが出る可能性がある。それがディーンには一番避けたい事だ。
 やっと夕方に訪れた牧場近くの牧草地にまで追い詰めた。京はまだ追いついて来ない。ディーンが手首の通信機を確認すると、京の所在地のシグナルは点滅して動いている。一応近づいては来ている様だ。
「そろそろ鬼ごっこは終わりにしてもいいかな? 話を聞かせてくれたら怖い事はしない」
 ディーンは逃げ続ける相手に、出来るだけ優しく声を掛けた。すると逃げる足が止まった。
 灯りは遠くの牧場のコヨーテやオオカミ除けの照明だけ。皮肉にもそれでかろうじて見えている本人がオオカミだ。
 足を止めた黒い人影はくるりと向き直った。上半身をびっしりと黒い体毛で覆われている。この八月の蒸し暑い夜に走ってきたため、ハアハアと息が荒い。開けられた口からは四本の尖った長い牙も見える。
 体毛の様子、発達した筋肉から推測して、ディーンの頭の中にはアメリカンブラックベアかヒグマが浮かんだ。グリズリーのダグほどは体は大きくないものの、全体的に似た感じがする。体毛を除いては完全に人型で、ギリギリ合法範疇かというレベルの差異だが、能力値はわからない。
「熊のA・H?」
「そ……う」
 意外にも素直に返事があった。もう逃げる素振りは無い。
「馬や羊を襲ったのは君か?」
 微かに頷いたようにも見えた直後、熊は声も出さずにそのままディーンに向かって走ってきた。
 黒い巨体が突っ込んでくるのを、勿論ディーンも受ける気は無かった。体当たりを受けたら、ゆうに車にはねられる位の衝撃はあるだろう。だが咄嗟に、躱してそのまま逃げられるのも嫌だという思いも頭に浮かんだ。
 ギリギリまで引きつけて、片足だけ残して避ける。上手く足が引っかかって熊のA・Hは倒れたが、予想以上の重さにディーンも倒れた。
 すぐさま共に起き上がる。
 がぁっと唸り声を上げる巨体に、ディーンも僅かに恐怖を感じた。
 怒った熊は怖い。オオカミもいる森の中で暮らしていた幼少期、最も怖いと教えられて来た動物は熊だった。オオカミの様に群れを成す獣は人を襲う事はほぼない。だが熊は単体で動く分、出くわした時が恐ろしい。父の背中にも熊の爪の跡があったのを覚えている。
 このA・Hの爪も鋭い。人の手の形状ではあるが、分厚く大きな手に熊の特徴を留めている。
 薙ぐ様に振り下ろされる手をかわしながら、知らず知らずのうちに、自分がぐるる……と唸っているのに気がつき、ディーンはハッとした。
 戦う獣の血が疼いている。食物連鎖の頂点に立つ捕食獣が血を求めている。牙が、爪が疼く。
 いかに脂肪の分厚い熊でも、相手はA・Hだ。人間である。この爪を立てれば、相手よりも鋭い牙で噛み付けば、怪我を負わせる事になる。まだ相手の素性もわからない今、それは避けたいディーンである。
 初めての任務だ。京に指示があるまで戦うなと念を押されて来た。
 無茶苦茶に振り下ろされる爪を躱し続け、京が到着するのをディーンはひたすらに耐える。だが体は臨戦態勢だ。つい牙を剥いて唸り声をあげる。
「オマエ、A・Hか?」
 熊が訊いた。だが攻撃はやめない。
「ああ。オオカミだ」
「なんでやり返してこない?」
「子供に怪我をさせたくないから」
 至って真面目に答えたディーンの言葉に、ふん、と熊のA・Hが笑った。
「マトモな人の形をした奴に、そんなこと言われたくないっ!」
 至近距離から体当たりを掛けられて、躱しきれずにモロに受けてしまい、ディーンの細い体が飛んだ。
 牧草地の柔らかな地面で助かったと思いながら、起き上がりかけて、ディーンは胸に激痛が走るのを感じた。アバラにヒビがはいったかもしれないな、ぼんやりそう思いながら、ディーンが身を起すと、熊のA・Hは走り寄ってきた。何かがその瞬間吹っ切れた。
 再び熊の爪が襲って来たのを躱し、ディーンがその背中に蹴りを入れると、今度は熊の方が倒れた。すかさず爪を立てて地面に押さえつけ、がっと牙を剥いた所でディーンは我に返った。
 しまった、痛みで一瞬京の命令を忘れていた。
 思いがけない反撃と、異常なまでの殺気、首筋に近づいた鋭い牙を目の当たりにして、熊のA・Hは一瞬で死を覚悟した。
 だがオオカミは牙をたてる事は無かった。
「……噛まないの?」
「G・A・N・Pは……A・Hを保護するのが任務だから」
 押さえつけていた手を退け、立ち上がってディーンは胸を押さえた。ズキズキと痛い。相手を傷付けずに済んだものの、これはこれで京に何を言われるかわかったものでは無いな、そう思うと情けなかった。
 むくっと起き上がった熊からはもう戦意は感じられなかった。
「ご、めん……痛かった?」
「……大丈夫だよ」
 ごほっ、と咳き込んでから、なるだけ平静を装ってディーンは笑って見せた。実際は胸が悲鳴を上げている。ヒビどころか折れているかもしれない。だが、やっと大人しくなった所に無駄に罪悪感を大きくするのもどうかとディーンは思う。こういう時は表情が顔に出ないのは便利だなと自分でも少し呆れながら。
「話をさせてくれ。そうだな、じゃあ名前を教えてくれるかな? 俺はディーン。G・A・N・Pの隊員だよ。君は?」
 子供に語りかけるように、優しく声を掛ける。見た目よりも随分と中身は幼そうだと踏んだのだ。
「ボクは……十八号……」
 熊のA・Hはやっとゆっくりと語り始めた。
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