Wild in Blood

まりの

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山猫の章

湖畔の小屋 3

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 あの写真にあった幼い面影はどこにも無く、フェイと同じくらいか、それより少し大きいように見える。敵意、いや殺意すら剥き出しにして、その目はこちらを睨み付けていた。鋭い長い爪は、引っ掻かれたらあの女優の顔ぐらいで済みそうに無い。
 幸い、襲ってきたのは一人だった。
「おにいちゃん、だれ!?」
 山猫が喋った。
「俺はディーン。勝手に入ってごめんね。君はライ? ロイ? どっち?」
 名前を言われて、少しその殺気が和らいだ。だが、まだそのいつでも飛びかかれる臨戦態勢は崩さない。
「ライ……のほう」
「じゃあ、ライ。怖がらなくていい、捕まえに来たんじゃないし、君達に悪いことはしないよ。だからひっかかないでくれるかな?」
「う……」
 刺激しないようゆっくりと近づくと、山猫はじりじりと後ずさった。
「あ、そうだ。ほらこれ。君のだろ?」
 ぬいぐるみを差し出すと、ライはやっと緊張した姿勢を崩してこちらに手を伸ばした。
 奪い取るように俺の手からぬいぐるみを受け取ると、ライはそれをぎゅっと抱きしめてほお擦りする。その仕草は、やっぱりまだ小さい子供だった。
「おにいちゃん、これ、持って来てくれたの?」
「うん」
 俺が笑いかけると、ライはほっとしたように笑顔を見せた。敵意がないとわかってくれたようだ。 
 人懐っこい子だとあの執事が言っていたように、少しでも気が許せると素直らしい。見た目には十五~六歳くらいに成長しているが、喋り方や仕草は三~四歳というところか。
「ロイは?」
「えっとね……寝てる。痛いの」
 ライは奥の部屋を指差した。崖から落ちた際に大きな怪我をしたのはロイだけらしい。出て来ないところをみると、動けないほど酷いのかもしれない。
 今すぐにでも様子を見に行ってやりたいが、もう少しライとだけでも信頼関係を築いてからでないと。外の仲間を呼ぶのも待った方がいい。
 途中で小さな子供服が落ちていたように、着衣はないものの、全身を毛が覆っているため怪我をしていても分かり辛い。同じく落ちたライにも尋ねる。
「君は痛いところはない?」
「うん」
「よかった」
 少し慣れて来たのか、ライが俺の方に寄って来た。少しは話ができるだろうか。
「お屋敷からこんなに遠くまで来たんだ? すごいね」
 そう声を掛けると、ライはぷぅっと頬を膨らませて言う。
「あそこのおじいちゃんは大好きだけど、おばちゃんキライ」
 おばちゃんか。大女優様に聞かせてやりたい。良かった、俺、おじさんって呼ばれなくて……。
「俺もあのおばさんは嫌いだよ。でもおじいさんはとっても心配してたよ」
「だって……ここに帰りたかったんだもん……」
 俯いて言うライの声に、あの厳しい道程を思い返して胸が苦しくなる。
「おばあちゃんには会えた?」
「う……ん……」
 頷きはしたものの、悲しげに目をふせる様子でそれが叶わなかった事がわかったので、それ以上は訊かなかった。
「もう大丈夫みたいだ」
 フェイにだけ聞こえる声で言うと、扉の向こうで待っていたフェイがそっと出てきた。 
「ディーンお兄さんのお友達だからひっかかないでね」
 俺よりはるかに子供の扱いの上手いフェイが、ライに静かに声を掛ける。だが……。
「あっ!」
 襲いかかりはしなかった。しかし、顔を見るなりものすごい勢いでライは飛びすさり、部屋の奥まで走って逃げた。威嚇するでも無く、目を見開いてじっとフェイを見ているその表情には、強い驚きと怯えがうかがえる。
「ごめんね。びっくりさせちゃった?」
 おそらくフェイの方が驚いていただろうものの、顔には出さずに優しく謝った。
 しばらく黙ってフェイの顔を見ていたライが呟く。
「……お姉ちゃん?」
「えっ?」
 良くない胸騒ぎがした。
 確かにフェイは女の子に見えなくもない顔をしているし華奢だ。でも動きや体の線をみれば違うとわかる。最近髪を少し短くしたので間違われる事もなくなって来たのだが……まだそこまでわからないだけなのだろうか。それとも……。
「僕はお姉ちゃんじゃないよ。お兄ちゃん……かなぁ?」
 苦笑いのフェイの訂正の言葉も、ライの耳に入らないようだ。
「お姉ちゃんは好きだけど、こわい人、いる? 痛いこと、する?」
 ライはすっかり混乱した様子で、元々たどたどしかった言葉がさらに怪しくなって、じりじりと後ずさりしながら激しく首を振る。尋常でない怯え方だ。
「痛いことなんかしないよ。ほら、落ち着いて」
 困った顔でフェイが俺に目で助けを求めている。
 こんな事があったじゃないか。前にも――――。
 まさか!
「お姉ちゃんって、ルーお姉ちゃんの事?」
 俺が訊くと、こくん、とライは頷いた。
「……ディーン、これは一体……」
 フェイが何か言いかけたが、俺はその口を指で塞いだ。
 勿論、俺だって気にならないわけは無い。だが、今はそれを問い詰めるときでは無い。やっとライは少し落ち着いて気を許しかけていた。ロイと一緒に二人とも無事に保護してから、ゆっくり聞き出せばいい。
 ……そうでないと、やっと終わりかけたこの追跡劇が、また違った形で続いて行ってしまうような気がする。何より、今聞くのが怖いというのが本心だった。
 落ち着かせるため、俺はライにそっと声を掛ける。
「よく見て。俺と同じ服を着ているだろ? すごくよく似ていて驚いただろうけど、このお兄ちゃんはフェイ。ルーじゃないよ」
「おにいちゃん? お姉ちゃん、ちがうの? ほんと?」
「うん。だから落ち着いて。痛いことをする怖い人はいないよ。こっちにおいで」
 俺がしゃがんで手を広げると、ライはゆっくりとだが再び近づいて来た。フェイを躱すように横目で見ながら、最後は飛びつく様に俺に抱きついてきた。
「ぎゅっ、て、して」
「こう?」
 言われるまま抱きしめる。微かに震える体は温かかくて柔らかかった。
 まだ小さな子供なのだ。こんなに体は大きくなっていても、心はまだ幼いまま。
 きっと優しかったであろうおばあちゃんと引き離されて、闇市場に商品として扱われ、奴等ですら悪魔の薬と呼ぶ成長促進剤まで投与されて、こんなに異常な成長をとげた自分に戸惑いもあったろう。その上あの距離を、あの険しい道のりをたった二人で歩いてきたのだ。
 どんなに寂しくて心細くて辛かっただろうか。それでも、どんな慰めの言葉も心の傷は癒せないし、掛ける言葉すら浮かばない。寧ろ何も言わない方がいいかもしれない。
 かつて自分がそうであったように、子供は何があっても、こうしてぎゅっと抱きしめられているだけで落ち着くのだ。だから今は黙ってこうしていよう。昔、親父がしてくれたみたいに。狼達がしてくれたみたいに。
 しばらく抱きしめているとライの震えがおさまった。どうやら落ち着いたらしい。
「おにいちゃん、好き」
「ありがとう。フェイはもっと優しいよ」
「ほんと?」
 横を見るとフェイが微笑んでいた。その顔をみて、ライはもう逃げなかった。
「さ、ロイのところに行こう。痛いんだろ? 治してあげなきゃ」
 こくん、とライは頷いて立ち上がった。
 一緒に歩き始めた時。
「ディーン、さっきから気になってたんだけど……」
 フェイがたぶん俺にしか聞こえないだろう小さな声で言った。
「奥の部屋から……」
「ああ、このニオイ……」
 それは屍臭だった。
 実はこの家に入ってすぐから、俺も微かには感じてはいたのだ。俺の鼻でもそう強くは感じないほどだったので、どこかでネズミでも死んでいるのかくらいにしか思っていなかった。だが、改めて意識すると得体の知れない空寒いものを感じた。
 この家の中も……奥の部屋のドアの横に見えるキッチンの鍋や食器類も、とっくに萎れてドライフラワーみたいになった花の生けられた花瓶も、埃を被ったテーブルの上の本も、壁にかかった手作りらしきリースも、この家の主が引っ越して行ったわけではなく、数年前のある時まで普通に生活していた事を物語っている。
「どうしたの?」
 ライが俺の服を引っ張って首を傾げた。
「ん? なんでもないよ」
「ねえ、僕とお手てを繋いで行こうよ」
 フェイが手を差し出して声を掛けると、ライは恐々といった感じでその手を握り、感触を確かめてやっとフェイににっこりと笑いかけた。
「ちっちゃいおにいちゃんも好き」
「ありがと。いい子だね」
 ご機嫌な様子でフェイと手を繋いだまま、ライはドアの前で指を一本立てた。
「ロイ、おばあちゃんと、ねんねしてる。しーだよ」
「おばあちゃんと?」
 ぞくっ、と背中を氷で撫でられたみたいな気がした。
 そうだ、先程、おばあちゃんに会えたかと訊いた時、曖昧だがライは頷いた……。

 俺は静かにドアを開けた。
 不思議と恐ろしくは無かった。目も逸らさなかった。
 オレンジの夕日の差し込む室内は静寂に包まれていた。寝室であろう小さな部屋。
 壁際に質素な木のベッド。そこに彼女は確かに眠っていた。
 永遠に目覚めることの無い眠りに。
 もう、すでに白い骨だけになって。
「ああ……」
 フェイの口から微かな声が漏れた。
 真っ白の長い髪も、茶色く変色した、おそらくオレンジ色であっただろうワンピースにも乱れはなかった。誰に看取られるでもなく、ひっそりと眠るように亡くなったのだろう。骨だけになった顔ですら安らかに見える。きっとこの家でずっと待っていたのだ。彼等を。
 その足元にすがりつく形でロイが眠っていた。
 こちらは……良かった、本当に疲れて寝ていただけのようだ。呼吸にあわせて背中がゆっくり上下している。
 気配を感じたのか、ロイが目をあけて一瞬威嚇の声をあげたものの、少し身を起こしただけで床に丸くなってしまった。
「い……たい」
 その片腕も足も、外から見ても折れているのがわかるほど傷だらけだ。
「動かないで。大丈夫」
 俺がそっと近づくと、ロイもライの時と同じように怯えて後ずさったが、フェイとライが手を繋いでいるのを見て安心したように大人しくなった。
「おにいちゃんたち、こわい人、ちがうよ。痛いの、なおしてくれる」
 ライがロイに声を掛けてくれたので、俺はとりあえず腰のベルトに入っていた救急キットでロイの傷を保護して鎮痛薬を与えた。それでも早めに本格的に治療をしないといけない。
 ナイスなタイミングで、フェイが横でアラン達に迎えを呼ぶよう連絡をとっていた。
「どう?」
 ロイに訊くと、少し表情を和らげて俺に体を寄せて来た。
「うん、すこし、痛いの、なおった」
「君もぎゅっ、てしていい?」
「して」
 血のニオイのする体を、傷にさわらない程度に抱きしめると、ロイは堪えていたものを吐き出すように泣き始めた。俺の胸に顔をうずめて、声を押し殺して。
「こんな体でよく頑張ったね。強い子だ」
「でも……でも、こんなに、手も足も大きくなって……こわかった、痛かった。おばあちゃんも、ボクのこと、わからない」
「大丈夫。どんなになっても君だってわかってくれるよ」
「ほん……と?」
「ああ。君達が大好きなおばあちゃんだから。こうして待っててくれただろ?」
 俺が言うと、ロイは今度はわぁっと声を上げて泣いた。このまま気が済むまで泣かせておいてやりたかったのに、邪魔をする音が。
 ぴぴぴ、と手首の通信機が無粋な音をたてた。相手はシンディだった。
「ちょっとだけ待って。後でこちらから連絡する」
 そう返答してすぐに切り、とにかくここから出る事にした。アラン達を呼んでも、ライもロイも“この制服を着てる人は安心“と認識したらしく素直に従った。
 俺が動けないロイを抱き上げて、全員で部屋を去る間際。
「おばあちゃん、起きないね」
 ライが無邪気に言った。
 この子達はまだ死を理解出来ないのだ。堪らずフェイが目を伏せた。
「おばあちゃんはきっと、とても眠いんだよ。さ、静かに寝かせてあげよう」
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