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餓狼の章
アリアドネの糸 1
しおりを挟む俺はミカと共にレイの待つコンピュータールームに辿り着いた。
ミカには俺一人で行くから途中で待っているよう告げのだ。それでもミカは決して離れようとしなかった。反逆者は粛清される。ならば一緒にいようと結果は同じだということらしい。
最終目的地のドアは、前に立つと勝手に開いた。
静かな声が俺を出迎える。
「お待ちしていました」
そこには、薄く笑みを浮かべたレイが椅子に掛けていた。
「なっ……」
一歩踏み入れ、俺は思わず息をのんだ。
アークの中ほどの驚きは無いが、この部屋も大概のものだ。
結構広い部屋、入って来たドアのある壁面以外の三方、天井から床まで全てが夥しい数の小さなモニターで埋め尽くされている。一つ一つ違う景色を映して。
さっきいたストックヤードも、アークの中も映っているのは承知の上だった。
だがここの中だけでは無い。世界中のありとあらゆる場所……今まで任務で行ったクーロンやユシェンはおろか、G・A・N・Pの本部まで……何もかも。
そのうちの一つの画面をレイが指差した。
「お連れさんがあなたを探しておられますよ。まだ発信機が残っていたのですね」
差し示されたそれは、青い水の中の画像だった。海? 小さなモニターでも、誰かが泳いでるのはわかる。あの泳ぎ方は……。
「フェイ!」
「かなり近くまで来ていますね。辿り着けはしないでしょうがね」
「ここって……海の中なのか?」
「ええ。海底のまだその地下です」
……そりゃ見つけられないわな。
さすがに三日も経っているということで、もう諦めていたのだが……探してくれてたんだ。
フェイが近くにいる。そう思うと急にやる気になってきた。
だが困ったぞ。もしこいつを何とかできても、外が海だなんて、そう簡単にここから出られないじゃないか。泳げないんだぞ、俺。
それ以前の問題な気もするがな。
レイが奇妙なほど優しい口調で言う。
「まあ、無駄だとは思いますが、もう一度だけ尋ねましょう。ウォレス博士、ご自分の意思で私の元で働く気は?」
「無いね」
語尾に掛かるくらい即答で返してやった。レイもそう来るとわかっていたのか、表情すら変えない。
「そうですか。お嬢さん方のご要望で首を落としはしませんでしたが、いっそ、ここに運んですぐにバラしておけば良かった。その方があなたも苦しまずに済んだのに」
「……そうかもな」
レイが優雅ともいえる動きで椅子から立ち上がった。
表情一つ変えない紳士然としたその姿からは、ぞっとする程の殺気が襲ってくる。
「では決着をつけましょうか。すでにフラついておられますが、私は容赦しませんよ。欲しいものは必ず自分の力で手に入れる主義です。たとえ命を奪ってでも」
一部の乱れも無いスーツ姿の男は、軽く右手を振った。すると、ぽろりとその手首から先が床に落ちた。
「……義手?」
「手はありますよ。本当の手が」
レイがそう言った直後、するりと代わりの手が現れた。茶色っぽい、鋭い鉤爪をもつ節くれだった鳥の足に似た手が。
レイは革靴も脱ぐ。やっぱり同じく鳥のような足だ。こちらの爪も鋭い。
「やっぱりあんたもA・Hか」
「ミカさんと同じ猛禽ですよ。*クラウンイーグルです。作られた時に、なぜか片手と耳は強化されませんでしたが、普通の視力でこれだけの数のモニターを監視できるわけが無いでしょう?」
「そりゃそうだ」
これまた猛禽の中でも、最も獰猛で有名な種類だな。スーツ姿の男には似合わないぞ。
レイが静かに構える。
「私はあなた方のような即席のA・Hではありませんよ。五十年以上も生きてきたのですからね。最も初期の失敗作……危険すぎて廃棄されたこの私の爪を見て、無事だった者はいません」
俺はまた自分の喉が唸り始めたのを感じた。
がるるる……と。まだがんばってくれるのか? 俺の中の狼。
予想もしなかったスピードでレイが動いた。早い!
びゅっ、と風を起こすほどの勢いで鉤爪のある足が襲ってきた。
俺は紙一重で躱したものの、モロに喰らったら切り刻まれそうだ。こっちはすでに足も縺れてマトモに動けないというのに。
続けざまに回し蹴りが来て、三回目には顔をガードした右手に思い切りくらった。蹴りというより、刃物でざっくりと深く斬りつけられたような攻撃。自分の血が降り注ぐのがわかる。
「ぐぁ……!」
血管だけじゃなく腱も神経もやられたみたいだ。指すら動かない。
まさか、ここまで強いなんて……! レディの比じゃない。俺がまともに動けていたって、到底勝てるとも思えない。
「おや、どうしました? もう終わりですか?」
その言葉と同時に、完全に右手を封じてしまうよう、足よりも鋭い爪を持つレイの手が、俺の二の腕を握り締めた。
ガゼルさえも空高く持ち上げる、クラウンイーグルの握力で。
「――――!!」
俺は声さえ出せなかった。耳に骨の砕ける音と、ぽたぽたと血が床に落ちる音だけが響く。
痛いとか、もうそんなレベルじゃない。
だめだ……気が遠くなってきた。目の前が暗くなる……。
今度はあの凶暴な獣も現れないだろうな。
その時、頭の中に先程モニターに映っていた、海を泳ぐ姿が浮かんだ。
フェイがすぐそこまで来てるんだ……俺を探してくれてる。俺の糸はまだ繋がっている。
それに、俺の利き腕は左じゃないか。片手を失ったくらいで……。
まだ……諦めない!
俺は、腕を握ったままのレイの顔を、思い切り爪で引き裂いた。近くにいた分効いただろう。
万力で締め上げられていたみたいな束縛から、俺はやっと解放された。
やっぱり右手はもう上がらない。ただぶら下がっているだけ。
一旦離れたレイが、顔を覆って言う。その口調は見た目とは裏腹に冷静だ。
「……痛いですね。血が出ましたよ」
「痛いのはお互いさまだろ?」
どうやら片目を封じたらしい。澄ました紳士の顔が半分血だらけになっている。
レイは今度はそう簡単には近づいて来なかった。
目のいい奴ほど、片目になると距離感が掴めなくなる。それにこちらの方が背が高い分リーチがある。
何度かまた回し蹴りが来たが、今度は難なくかわして爪で引っ掻いてやった。お洒落なスーツが少しすだれになった。
形成逆転とまではいかないものの、あっさり片付くと思っていた相手になかなか決定打を与えられないのにレイは焦ったのか。
ふいに、レイの片目がちらりと横を向いた。息を殺して部屋の隅にいたミカの方を。
「逃げろ!」
俺は叫んだが遅かった。
疾風のスピードで、レイはミカを捕まえる。
「放して……!」
「ミカ!」
駆け寄ろうとした俺に、レイは爪のある方の手を翳した。それは、近づけばその瞬間にミカを殺すという無言の脅し。
「ミカさん、あなたも知っているでしょう? 裏切り者がどうなるか。十年以上可愛がってあげたのに。信じていたのに……。せめて惚れた男の前で殺してあげましょう。見せてあげなさい、最後の姿を」
レイの手がミカの首に回る。
「やめろ! たのむ……頼むから彼女を放してくれ!」
無駄だとわかっていても、俺は懇願するしかない。
「ウォレス博士、あなたに心奪われた女は皆こうやって不幸になる。ザグウェル博士も、このミカさんも。言ったでしょう? 自分の血を呪いなさいと」
カレンも……今度はミカまで?
「あなたの……せいじゃ……ない。聞かないで。いいのよ……もう」
さっき俺の腕を握り潰した手が、女の細い首を締めあげている……。
俺のせいで―――。
言いようのない怒りと罪悪感と絶望が心の中を焼き尽くす半面、頭の片隅に広がっていく冷めた領域。そこでは何かがミシミシと軋んだ音を立てて飛び出そうとしている。
俺は悟った。心の中で檻を破ろうとしているものの正体。
次の瞬間には、無意識に眼鏡を外していた。
眼鏡を投げ捨てた俺に、レイが嘲るように言う。
「目の前の現実を見なくて済むようにですか?」
「……ちがう……」
レイ、あんたはやってはいけない事をやったよ。
俺を精神的に追い詰めるつもりだったのだろうが、それは逆効果だって学習してなかったみたいだな。
さあ、目覚めろ、オオカミ。
これが最後だ。もう理性の檻に入れはしない。
噛みつけ! 引き裂け! その本能を解き放て!
自分が今までに無く低く唸ってるのを感じた。
体中の血が沸騰するかの様に熱くなっていくのを。髪が逆立つのを。牙を剥いてるのを。怒れる狼特有の遅い鼓動を。感覚が研ぎ済まされていくのを。
血の中の獰猛な野生が、今完全に一つになるのを。
「許さない……絶対に……お前だけは!!」
*クラウンイーグル(Crowned Eagle)=カンムリクマタカ
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