そんな和菓子にキャラメリゼ

まりの

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番外

初心の品:フィナンシェと鶏卵素麺、或いは天使の髪の毛(有紀Side)

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「んっ……」
 懸命に押し殺して、それでも我慢できずに漏れてしまったという声が、僕の中枢を刺激する。
 広い背中、肩甲骨の作り出す陰影、二つに別れた背筋が形成する滑らかな窪み、その先の、神秘の渓谷を守る二つの丘に繋がるこの曲線は神が創り給うた芸術。
 たまらない。そしてこの美しいものを汚すのも。
 僕が手を滑らせる度に身震いするのが楽しくて、ついつい丹念に何度も撫でる。
「動いちゃダメ」
「も……やめ……」
 枕に顔を埋めて堪えてる耳が真っ赤だよ。
「少し乾くまであと二十分くらいそのままにしてて。次、顔にも塗る?」
「勘弁してくれ。匂いに酔いそう」
「ふふ、美味しそうだよ。このまま食べちゃいたいくらい」
 やや白濁したショコラ色にアンロベ(コーティング)した愛しい人。体温に熱せられて広がるのは、甘く香ばしく、ほんの少し酸味のある香り。
 少し湿気って風味が落ちてしまったので廃棄するココアパウダーが結構あった。勿体無いからヨーグルトとオリーブ油、ほんの少しの小麦粉を混ぜてパックを作ったのだ。
 丁度、清さんが若い頃に軽い火傷をしたという傷跡の話をしていた。
 弟の真が小さい時に、危うくストーブにかけていたやかんの熱湯をかぶる所で、咄嗟に覆いかぶさって自分が背中に被ったんだって。そう酷くはなかったみたいで、別段凹凸は無いし、僕も言われるまで気が付かなかったけど、本当によく見ないとわからない程度の薄い染みみたいになっていて、冬場になるとその部分が今でもかさかさするのだそうだ。だから試してみようって事で。
「僕のエステはお気に召した?」
「はぁ。くすぐったくておかしくなりそうだったぞ。まさかこの歳でパックされるなんて思わなかった」
 掌でパックを塗るだけで、おかしくなりそうなほどくすぐったく感じちゃう貴方は全身性感帯なのかと問いたくなるよ? 絶対にエステの店には行けないね。ってか、たとえ相手がプロでもこの人の肌は見せたくないけどね、僕以外に。
「しかし効くのか? こんなので」
「パリで師匠に教わった秘伝の美肌パックだよ。僕はこれでうっすら残ってた傷跡が目立たなくなった」
 言ってから、あ、しまったと思った。
 どうして傷が残ったのかという話になると、嫌な事を思い出すし、出来れば清さんには詳しく話したくない。
「……美肌の王子が言うのなら、効くって事だな。なんか菓子になった気分だけど」
 清さんはわかっていて聞かないふりをしてくれたのか、それとも興味が無かったのか。軽く流されたのでホッとしたと同時に、言いようのない罪悪感に捕らわれる。
 もう他の誰も愛さない。僕の命をかけてでもこの人だけを愛すると誓ったのは、嘘じゃないって自信がある。過去も含めて全て受け入れるから僕には隠し事をしないで、そう言った自分はまだまだこの人に秘密にしていることがある。もし問われたなら包み隠さず答えるだろう。でも何も訊かれないから答えない、ただそれだけなんだけど。でも気をつかわせているみたいで……。
「有紀?」
 気が付くと大好きな顔が覗きこんでいた。僕の考えすぎなのかもしれない。
「何?」
「どうでもいいが、上半身だけで座ってでもいいのに、何故全部脱がされてうつ伏せにされたのだろうか」
 ……気付かれてしまったか。
「この後シャワーするのに便利かなと思って。それに着物を汚さないように」
「あー、なるほど」
 納得しちゃった。ゴメン、本当は僕の目の保養のためだなどとは言えないね。
 その後、仕返しとばかりに僕も塗りたくられ、結局二人とも泥遊びをした後みたいになって一緒にシャワーを浴びて洗い流した。
「つるつるしっとりになるでしょ」
「おお、なんかモチモチする」
 お気に召していただいたようだ。
 むわっと湯気と甘いショコラの香りに包まれたお風呂場、気がつけば抱き合ってた。
 何度でもキスする。この唇も舌も全部全部僕のもの。
 いつもこのままくっついて一生離れなくなってしまえばいいって思う。貴方は冗談はよせと言うけど、僕は至って本気だったりする。この口が吸う空気に、出てくる言葉にさえ嫉妬したくなる時がある。
 濡れた体を滑る手の感触に、体の芯に熱が生まれる。
 くるりと向きを変え、立ったまま壁に手をつかせた背中から抱きしめ、サボンのぬめりを借りてやや強引に押し入ると、声もなく仰け反るのも堪らない。
 湯の温もりとはまた違う熱い中は、柔らかく僕を絡みとって翻弄する。
 本当に身も心も一つになってしまったら、隠していることも全部話さなくてもわかるだろう。それは願望でもあり、恐怖でもある……だけど、こうして繋がり合っていても心の奥深くまでは見えないまま。
 愛しくて、どうにかなりそうなほど好きで、体はすぐに弾けそうなほど昂っていくのに、頭のどこかで酷く冷めた目で自分を見ている自分がいるような、そんなおかしな気がして。それを振り切るように腰を動かすと、清さんがやや逃げるように壁に張り付いてしまった。
「ちょ、乱暴……痛……い」 
「あ、ごめん」
 その後はゆっくり優しく夢見心地で。
 もう一度洗い直して、風呂場を出た頃には二人とものぼせたみたいになっていた。
 汗も引いて、適度にスッキリして、でも気怠い事後。話すでもなく眠るでもなく、ただぼんやり二人で身を寄せあっていると、幸せすぎて逆に不安になる。
 歳上なのを気にして、清さんは僕がいつか嫌いになるんじゃないかって言ってた。そんなこと絶対に無いのに。僕こそ心配なのに。僕の事を全部知ったら嫌われるんじゃないかって。
 まだ完全に同居してるわけじゃないとはいえ、来月には今勤めてるパティスリーを辞める真が家に帰って住みはじめたので、清さんは週の半分くらいはここで寝泊まりしてる。
 一緒に住むのは夢だったけど、傍にいられる時間が増えて嬉しい分、今まで見えなかった自分の不安が出てきたのかもしれない。
 そんな事を考えてたら、少しゴツゴツした大きな手が僕の頬を挟んで自分の方に向けた。
 この頃表情が少し柔らかくなって眉間の皺は薄くなった。その笑った時の口元と目尻の細い皺が好き。
「なんか、有紀イライラしてる?」
「そんなこと……無いよ」
 考えなくていいよね。空気みたいにずっと傍にいたい。今はそれだけ。

 ☆

 数日後。事は閉店後、業者から材料が届いた際に起きた。
「すみません、すみません!」
 箱を抱えていて店の裏口手前の段差が見えなかったのか、躓いて派手に転んでしまった青年。運悪く、その時彼が持っていたのは大量の卵が入った箱だった。
 中を確かめると酷く割れて潰れているものはそんなに無かった。でも、ヒビが入っているものが多そうだ。一見普通に見えてもわからないし、すぐに使うか充分加熱する用途でなら大丈夫だろうけど、卵白をアイシングやクレーム・アンジェ(メレンゲとチーズを合わせてふわふわにしたもの)など加熱しないものに使う事も多い。だからお客さんに出すものには衛生上使えない。
 いつもの配送の人じゃない。まだ高校を出たばかりという風情の若い男の子。そういえば前の担当さんが転勤で人が変わると挨拶に来てたな。とても真面目そうな子だけに、初めてがこれで、可哀想に今にも泣き出しそうな顔をしている。
「君は怪我してない?」
「はい、大丈夫です……あの、すぐに新しいのを持って来ます」
 前に自分のミスで破損をきたして商品にならないものは、担当者が買い取らなければいけないと聞いた。卵の良し悪しはプディングやカスタードの味に関わるので、僕の店では契約の農家が農薬不使用の餌と良い環境で育てた鶏の卵を取り寄せてもらっている。値も少々お高い。勿論全額では無いだろうが、こんなに若い子の給料から差し引かれるのは痛いだろう。第一……。
「君がこの卵を全部引き取ったところで困るでしょ?」
「一人暮らしなので、食べられる分は使いますけど、多分ほとんど捨てると思います」
 だろうね。業務用の大箱だから百五十個は入ってる。それが二箱。個人には困る量だ。
「捨てちゃうのは勿体無い。使えるところもあるだろうからもらっておくよ。追加発注ってことにするから、明日もう一箱持って来てくれればいい。会社に事故報告もしなくていいよ」
 僕がそう言うと、青年はほんの少し明るい顔になった直後、やっぱり首を振った。
「でもご迷惑を……」
「いいんだ、誰にでも失敗はあるよ。次から気をつけたらいいんだよ」
 ……実は、僕も全く同じ事やっちゃったことがあるんだよね。

「で、この卵なのか」
「うん」
 清さんに手伝ってもらって、くまなく確かめて無事なものも二箱合わせて四分の一はあった。多少のヒビくらいならスポンジなどには支障ないので、早い目に使えば大丈夫なのが全体の約半分。全くダメになってしまって廃棄は結局二十個ちょいで済んだ。しかし中身が出てないにしても、大きく破損しているのが五十個以上……。
「試作か、自分達で食べる物に使う分には問題ない。でもしっかり加熱はした方がいいね」
「和菓子で卵を使うものって限られてるからな。ほぼ黄身しか使わねぇし……」
「洋菓子は黄身だけを使うものも勿論あるけど、どちらかと言うと全卵か白身だけの方が多いかな」
 と、そこで僕と清さんは顔を見合わせた。
 だったらいっその事分けてしまえばいいじゃないか。
「じゃあ、清さんは卵黄で、僕は卵白だけで。それぞれ何か作ってみる?」
 というわけで、夜の店の厨房で二人がせっせと卵白と卵黄を分ける作業。黄身が潰れてしまっているのは、仕方なく全卵で使う事にする。
「結構な量だな。うーん、白餡はあるからすぐ出来るが、黄身餡の饅頭も芸が無いし……」
 作務衣にたすき掛け、前掛けというお馴染みの姿の清さんは何を作ろうか考えているみたい。この仕事スタイルの時は真剣勝負に挑むサムライの顏。
 ふふ、今度は何がその手から生み出されるのだろう。いつも期待を裏切らない美味しいものを作ってくれるからとっても楽しみ。
 実は、僕はもう卵を割りながら決めたものがあった。
 いつも作って店にも出しているし、全然珍しいものじゃない。それはパリで製菓学校に通いながらお世話になった師匠の店で、僕が最初に直接教わった焼き菓子。あの時の気持ちを思い出したから。
 まだ十七になってなかったかな。今日の材料の納入業者の男の子と、僕はほぼ同じ事をしてしまった事があるのだ。忘れもしない、大事な思い出。
 拒食症の後遺症でひょろひょろに痩せた非力なチビで、アジアの血の入っている僕は、最初先輩達にかなりいじめられた。おかしなもので、日本ではフランス人って言われて、フランスでは日本人って言われる。長いこと製菓器具にすら触らせてもらえず、細々した洗い物や重い材料の買い出しくらいしかさせてもらえなかった。それでも師匠が優しかったのと、僕の命を救ってくれたガトーのように、心に響くものをいつか作りたいという思いでなんとか耐えられた。
 ある日、農家から届いた卵のいっぱい入ったパニエ(籠)を持って、厨房に入ろうとして躓き、思い切り転んだ。なんとかぶちまけずに耐えたつもりだったのに、結局卵の半分近くがダメになってしまった。
 先輩達の罵倒と叱責の声に、泣きながら謝り続けた僕。そんな中、師匠が怖い顔で立ち上がった。いつも無口で優しいとはいえ、とても体の大きな人だから迫力があった。
「ユウキが倒れるよう足を引っかけたお前はクビだ。卵の代金は給料から差し引いて残りだけを渡す。今すぐ出ていけ」
 僕も気が付かなかったけど、師匠は先輩の一人がわざと足を引っかけたのを見ていたらしい。その先輩は将来有望と言われていたが、その人を二度と見かけることは無かった。
 師匠は僕に、ヒビが入ってしまった卵を割って黄身と白身を分けるよう指示して、店が終わったらこれで一緒に焼き菓子を作ろうと言ってくれた。
 夜の厨房で、魔法のようにパートを紡ぐ手を、僕は食い入るように見た。
 見様見真似で、自分でもぎこちなく作り上げた最初のお菓子。そこから全てが動き出した。
 僕が途中で諦めて職人にならなかったら、清さんとこうして出会うことも無かったのだから。
 だからあえてこのお菓子に決めた。不安を打ち切って初心に帰るために。
 たっぷりのアマンドプードルにバター。新しい卵だから、白身は急速冷凍庫に入れて湯煎で溶かすとさらっとしていいかな。
 準備しながらちらっと横を伺うと、卵黄を箸で溶いている清さんが見えた。これから網で濾すみたいだね。何を作るのか決まったみたい。
 ここお菓子を作る時には、お互い無言で黙々と作業をする僕達。手元に興味が無いってわけじゃないけど、目の前の自分の仕事に集中するのが暗黙の了解。その方が出来上がりを見た時の感動が大きいからね。
 型の準備や材料の計量を終える頃には卵白の状態もいい感じになったので、焦がしバターを作る。焦がしすぎると風味も色も悪くなるから慎重に。白身は泡立てないように。
 仕込みが終わってオーブンに入れる頃に、清さんの方から声が上がった。
「よし出来た」
 え、もう? そう思ったら、気が付くと結構時間がたっていた。お菓子の仕込みをしてる時は時間を忘れる。
 焼き上がりのタイマーが鳴るまでまだ間があるから、僕は清さんの方を見に行く。
 焼き菓子を冷ます時に使う網の上に、鮮やかな黄色の長細い物体。よく見ると細い糸状のものが揃えて盛られているのがわかる。
 え? これが完成したお菓子?
「もうちょい冷えたら切り揃えて形を整える。とりあえず出来たってとこ」
「うわぁ、何それ?」
「フィオス・デ・オヴォス。日本だと鶏卵素麺かな」
 はい? そうめん? 確かに麺だよね。中華麺か極細のパスタを束ねたみたいに見える。でも色が黄身の見事な黄金色。ってか、思いっきり日本語じゃない名前言ったね。
「和菓子を作ってたんじゃないの?」
「ま、味見してみな」
 ほぐすように数本摘んで差し出されたので口を開けると、ぽいと口の中に放り込まれた。
 途端に味の波が襲ってきた。甘い! ものすごーく甘いっ!
「甘いだろ。これも立派な歴史のある菓子だ。昔カステラや金平糖なんかと一緒にポルトガルから伝わったんだそうだ。材料は砂糖と水、卵黄のみ。鍋に氷砂糖を溶かして糖蜜を作り、煮立たせた中に溶いた卵黄を細く流すとこんな風に麺状に固まるんだよ。箸で引き上げてまとめ、蜜を切って乾かすとこうなる」
 へえ、面白い! 清さんが作る物にしては和菓子っぽくは無い見た目に強烈な甘さ。なるほど、南蛮渡来系のお菓子なのか。
「いつも甘さ控えめの和菓子に慣れてるからびっくりしたけど、しゃりっとしてるようで噛んだ瞬間口の中でふわって溶ける感じも食感も新鮮だし、卵黄特有の旨みとコクが強く感じられる。香料も何もないから後味もスッキリしてていいね」
「直接伝わった九州あたりではまだ名物として現役で売ってるし、もっと甘くてじゃりっとしてるぜ。だが若い頃、修行に行った京都で初めて食べた時の味が忘れられなくて……初心に帰ってみたって感じかな。もう京都では作っている店は限られているし、作り方も全く同じじゃないだろうけど、わりと近い感じに再現出来たんじゃないかな」
 修行に行ってた時の味、初心に帰ってみる……図らずも僕と同じ理由で作ったんだ。そう思うと何かが吹っ切れた気がした。
「有紀は何を作った? いい匂いがしてきたけど」
「僕も初心に帰るお菓子かな」
 オーブンのタイマーがピピピと鳴って僕を呼ぶ。
 ミトンを嵌めて、こんがりいい色に仕上がった四角い焼き菓子がお行儀よく並ぶ天板を引き出す。ふわりと香るバターとアマンドのアロム。
『やけどするなよ、小僧』
 今では片手で持てる重い天板を、一人で持てなくてひっくり返しそうだった僕。後ろから抱えてくれた師匠のあの太い腕と、掛けてくれた声が幻のように今もここにある気がする。
 熱いうちに型から抜かないと表面がべちゃっとするから手早く……と思ってたら、何も言わなくても清さんが手袋を嵌めて手伝ってくれていた。
「おお、美味そう。焼きたてはこんなにいい匂いなんだな」
「フィナンシェだよ。この四角い型は金の延べ棒の形。だから銀行家って意味の名前」
「へぇ、そうだったんだ。そう思うと縁起が良さそうだな」
「実際、縁起を担いでお祝いなんかに使うことが多いからね」
「真も最初はこういう焼き菓子を店に出すって言ってた。進物用に使えるし、和菓子と並んでても違和感無いからって」
 そう言って笑った清さんも何か吹っ切れた顔をしてる。
 いよいよ和菓子だけしか置いていない店も、洋菓子系のものを置くようになるんだな。それは寂しい事でもあるけど、どこもそうなっていったように、おじいさんの代からの店を残して行くため、ひいては和菓子そのものを残すために仕方のない事だと清さんは最近よく言っている。バターや乳製品を使ったお菓子に慣れてしまった現代の日本人の味覚に合わせていくのも必要だと。
「俺は古い人間だ。でも考えてみたんだ。昔の人も時代に合わせて新しいものをどんどん吸収して来た。今自分達が伝統の……って言ってるものだって、途中で外国から来た食材や技法を取り入れたものだ。だから拘らなくてもいいんじゃないかって。そう思うと気持ちがすっと楽になった」
 そう言ってたね。
 懐かしい味で初心に帰る、そんな意味だけじゃなく、西洋から伝わったお菓子を選んだのはそれを再認識するためだったのかもしれない。
 初め、説得は難しそうだから和菓子を完全にやめてしまうよう仕向けた僕と真。でも、みんなで辛くて悲しい思いをしなくてもよかったんだ……。
 出来上がってテーブルに並べられた、僕の作ったフィナンシェと清さんの作った黄金色に輝く鶏卵素麺。
 気が付けば深夜。お茶と共にそれぞれ試食。
 外はかりっと、中はしっとりの我ながら美味しいフィナンシェに仕上がった。
 十年で僕もなかなか上手くなったと思いますよ、師匠。
 鶏卵素麺は不思議な食感。砂糖のじゃりじゃりした感じは無くて、口の中で甘く解ける。
「すごく沢山出来たから、明日みんなで分けようか。そうだ、卵を割っちゃった彼が朝に新しいのをもう一箱持ってくるから、その時に彼にもあげよう」
「それがいいな」
 清さんはお茶を飲んでるけどお菓子はほとんど食べてない。
「作っといてなんだが、流石にこの時間に極甘の菓子は太りそうで」
「激しく動いてカロリーを消費しちゃえばいい」
「そう来ると思った……」
 というわけで、片付けが終わったら、ベッドの上で運動しようか。

 ★

 貪りあうように求め合って、溶けた夜。
 僕を包み込むように抱きしめて、清さんはうとうとしてる。お疲れだね。
 僕も疲れてるはずなのに、高ぶった神経はすぐに眠りに落ちる事を許さず、色んな思い出がぐるぐる頭の中を巡った。
 初心に帰る……そんな決意があったからかもしれない。
 今日は月が明るい。照明は消しているのに、薄いカーテンの地を通して月光クレール・ドゥ・ルンヌが室内を淡く青く染めてる。
 手を伸ばして自分の手首を見てみる。青白く浮かぶのは、もう全くわからないほど綺麗になった皮膚。ここと足首に赤い擦り傷が長く残っていたのはもう昔の話。
 完全に逆恨みだった。
 中学の二年に上がってすぐ、男子高校生数人に空きビルに連れ込まれた。三年生の女が好きだったっていう相手に告白したら断られ、そこで僕の名前を出したって。その相手は優しくしてくれる先輩としか思ってなかったから、僕には何の事か理解できなかったけど、男に負けたのが口惜しいと恨んで、付き合いのあった素行のよろしくないグループに制裁を依頼したのだ。
 手首も足首も縛られて蹴られて殴られて……最後は何人にも輪姦された。何時間も。
「この目立つ金髪が……」
 何度も何度もそう言われたから、僕は自分の髪が嫌いになった。
 けしかけた女は血だらけになって犯されてる僕を見てずっと笑っていた。興奮したのか途中で加わって、自分の陰部を僕に見せ、顔に押し付けた。まだまともに恋愛経験も性的な経験も知らないままだった僕は、女が恐怖の対象でしか無くなった。
 目立つと言われた自分の髪を呪い、穢された口が気持ち悪くて、何も食べられなくなり吐き続け、ただただ死ぬことだけを願ってた日々。でも自ら命を絶つことも許されずに。乱暴されている間、ずっと縛られていて鬱血し、擦れた縄の痕は簡単には消えず、更に自殺しないようにと手足を拘束されてその痕を濃くした。
 母さんの故郷のパリに、父さんと渡って、僕はお菓子に出会って生きる事が苦痛でなくなった。僕はスーリール(笑顔)の魔法を手に入れた。
 今は本当に生きてて良かったって思える。幸せで、幸せすぎて……そして切ない。
「どうした?」
 宙に翳していた僕の手首を掴む優しい手。
 眠ってると思ってたのに起きていたんだね。
「……初心に帰ったついでに、色々思い出してた。昔の事……」
「そっか」
 掴んだ僕の手をそのまま自分の頬に持って行った清さん。ちょっと髭が浮いてちくちくするけど、暖かくて心地よい感触。
「なぁ、有紀。今日作った鶏卵素麺、『天使の髪』とも呼ばれるてるんだってさ」
「天使の髪……」
 確かに宗教画の天使の金髪に見えた気もする。
「俺はお前の髪の様だと思う。初めて有紀を見た時、天使みたいだと思った。だから作ったのかもしれない」
 片手は頬にあてたまま、もう片方の手が優しく僕の髪を撫でる。気持ちよくてうっとりする。
「僕は天使ほど清らかじゃないよ」
「時々天国に連れて行かれるけどな。さっきも花畑が見えた」
 ひとしきり一緒に笑って、急に黙った清さん。月明りに照らされた顔が真剣で、どきっとする。
「俺、お前の事愛してるぞ」
 息が止まるかと思った。
「何? あらたまって」
「なんか、最近有紀が元気がない気がして。俺のせい?」
 そんな悲しそうな目で見ないでよ。違う、そうじゃなくて。
「清さんは何も悪い事なんか無い。ホントにホントに清さんの事好きだよ。おかしくなりそうなくらい好き。愛してる。だから……辛い」
 胸に顔を埋めると、ぎゅっと抱きしめられた。この匂いも腕の感じも何もかもが、ここにしかはまらないパズルのピースになったみたいにしっくりきて。
「僕は……清さんに本当の自分を見せてないような気がして、意味もなく罪悪感に囚われて……好きだから、余計」
 この髪を撫でる手も優しくて。
「よし、じゃあ全部話してみな」
 
 いっぱいいっぱい話した。
 前にも少し話したけど、死にたくなるほど酷い目に遭った時のこと、その後のこと。パリに行ってからの事も。
 師匠の話もした。今はもうこの世にはいないが、名店の多いパリでも通が認める腕のいい職人だった。芸術的なセンスと、繊細な味は真似ようにも真似られない、そんな人。
 とっても体の大きな人で、上背も百九十くらいあって幅も広かった。でも優しい人で、照れ屋なのを隠すように口髭を生やして、威厳があるように見せてたってことも。
 実は僕の、襲われた時を除いて初めての人だったりする。
 どうしても人に触れられたり、近付かれると恐怖が甦って駄目だった。勿論セックスなんて絶対無理で。酷い時には冗談で抱きつかれただけで吐いてた。
 見かねた師匠は、人を愛するのは素晴らしいこと、触れ合うのは気持ちいいことだって教えてくれた。それ以来、抱かれるのは絶対無理でもするのは平気になったんだ。
 僕が日本に帰って次の年に病気で亡くなった師匠。尊敬以上に愛してたと思う。
「へぇ、じゃあ菓子だけじゃなく、そっちも師匠って事か」
「……おかげさまで、人と抱き合うことへの恐怖心は無くなって、気持ちよくなる方法を教えてもらった」
 別にヤキモチを妬いてほしいってわけじゃないけど、わりとすんなり流されて拍子抜けした。まあ誰にでも初めてはあるし、ってね。
「不思議には思ってたんだ。襲われて怖い思いをしたのに、何で男と……って。でもそうか、いい方に昇華させてもらえたんだな」
 まあ女は強いトラウマになってて駄目というのは、多分清さんもよくわかってるだろうし。
 ひとしきり話し終えて、僕はアレ? と思った。
 なんか、別に隠さなきゃいけないようなことなんて何も無かったような気がしてきた。それは清さんも同じだったみたいで。
「別に気にする必要があるようなことも無かったし、何を聞いたところでお前を嫌いになったりなんかしないよ。色んな事をひっくるめて今のお前がいるんだから、菓子の師匠にも、お前に辛い思いをさせた奴もひっくるめて、俺は感謝したいと思うぞ?」
「清さん……」
 心に小さく残っていた瘡蓋がぽろりと落ちた気がした。
 僕も。僕もだよ。
 悲しいことも辛かったことも、何もかもが今を、これからを作っていく大事な材料だったと思えば。一つ欠けてても、愛しい人と共にある幸せな今が無かったかも。僕だけじゃなく清さんの今までもそう。全部全部が複雑に微妙なさじ加減で合わさって今がある。
「ずっと一緒にいてね」
「ああ。こっちこそな」
 蕩けるようなキスをして、僕の迷いも小さな罪悪感も何もかも消し飛んだ。
 さあ、じゃあ眠ろうというところで、清さんが付け足した。
「あー、もう一つだけ訊いていいか? 嫌なら答えなくていいけど。その……師匠はさ、結構年上だったんだろ?」
「うん。当時で父さんより上だったから、三十以上は年上だね」
 優しげな青い目と整えられた髭が素敵な人だった。体型も顔だちも全然違うけど、雰囲気がどこか清さんと似てたな、そういえば。
「で、初めての時って……お前、どっち?」
 どっちって……ああ!
「勿論僕が抱く方に決まってるじゃない」
「そ、そうか。十七の小僧に口髭の大きなおっさんが……俺はまだマシな方だったのか……」
 何かもごもご言ってるけど、おかしなところでもあったのかな。
 なんかホント全部話してスッキリした。夜明けまでもうそう間もない時間になっちゃったけど、いい夢が見られそうな気がするよ。
 おやすみ。僕のアモーレ。

 翌朝、昨日の青年が新しい卵の箱を持ってきた。
 今度は段差を慎重に通って無事配送出来た。
「これ、昨日の卵で作ったんだけど良かったら食べて」
 フィナンシェと鶏卵素麺。箱に入れて渡しても、遠慮してすぐに受け取ってくれない。
 お泊りだった清さんが青年をじっと見る。怖い怖い、清さん、睨まれたと思ってすごく怖がってるよ?
 怖い顔のまま、怖い顔で清さんが青年に言う。
「これはな、罰ゲームだ。卵の責任とって、お前も食えってこと」
「あ……」
「言っとくが、ものすごく甘いぞ」
 にっ、と清さんに笑われて、青年も笑顔になった。
「ボク甘党なんで! すごく嬉しい罰ゲームです!」
 よかったね。お菓子で元気つけていい仕事してね。 
 見送った後、清さんがぽつりと漏らした。
「そういやまだ結構卵が残ってんだが……」
「あ、そうだ。卵白もお肌にいいよね?」
「……もうパックは懲り懲りだ」
 そう言わず。またひぃひぃ言わせてあげるからね。
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