王冠の受難

まりの

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そして日々は続く

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 ヒグマ。ネコ目クマ科クマ属、学名はUrsusウルススarctosアルクトス
 体高は二百五十センチほどだろうか。三百キロ位あるかな。この種にしてみれば中位の大きさだが、こうやって二本足で立って目の前にすると物凄く大きいな。冬眠に向けて体力を最も蓄えてる時期だ。ちょっと金がかった茶色の体毛は歳を重ねた強い雄の個体だ……などと、何故こんなに冷静に観察しているのだ、私は。
 下手に動くとその大きな手で一薙ぎにされるとわかる。目を逸らしてはいけない。
 ぐごぉお……低い唸り声。人に対する明らかな敵意に満ちている。脇腹から血。撃ち損なって仕留められなかったのだろう。それは怒って仕方が無いな。
 ……これは面白くない状況だ。
 とにかく睨む。僅かに熊が怯んだ。私の中の捕食者の血を感じたのだろうか。クラウンイーグル。豹さえ捕らえる最速最強の猛禽の血。
 そっと手にしていた果実を落とす。私の武器、この鉤爪をいつでも使える様にしておかねば。靴も脱ぎたいが靴下を履いてきてしまった。
「ル……じゃなかった、ワタシが引き付けるからレイ逃げて」
 ロンが言ったが今は動けない。
 ぐるるる……熊からでなく、ロンの方から唸り声が聞える。狼が目を覚ましたか。ふと父親の狂った獣の戦いっぷりを思い出した。この子もあの化け物の様になるのだろうか? 血に塗れて、相手の息の根を止めるまで喰らいつくのか?
 だが中身はルーだ。お淑やかに育てた女の子だ。体は強いだろうが実戦経験が全く無い。ここはやはり私が何とかしないといけないな。
「ロン、熊が動いたら走って離れなさい」
 声の無い言葉が聞えただろうか。
「レイ?」
「聞えましたね?」
「うん……」
 私はまだ熊ごときに負けるほど耄碌してない。
 私は王冠の名を持つ猛禽。お姫様の心の痩せ狼などに守ってもらわなくてもいい。
 ステッキを振ると熊が動いた。太い分厚い手が黒い塊になって迫ってくる。私の目にはスローモーションに見える。片目とはいえ、目は人の何十倍もいい。
 かわして熊の後ろに回った。ちらっと見たがロンは言いつけ通り少し離れた場所まで逃げたようだ。よしよし、聞き分けの良い子だ。
 撃たれて気の毒にも思ったが、一度人を襲った熊は何度でも人を襲う。他人など知った事では無いが、このまま生かしておいては村人が危ない。買い物に行ったロンにおまけをくれる優しい方々。お世話になっているしな。
 足の爪が使えないので得意の回し蹴りが出せないのは痛いが、替わりにステッキがある。私もA・Hとして道具を使うのは好きでは無いが、この際拘りは捨てた。
 突進してくる巨体の鼻先を思いきりステッキで突いた。イヌよりも鼻の良い熊にとっては急所。尻もちをついた熊が「痛~い!」という感じで両手を鼻に持って行く仕草が、こんな時でも可愛らしく思えた。
 そう、熊は可愛い。あのむくむくした手が、丸い耳が可愛い。テディベアは私のお気に入りの一つだ。だがすまない。クマさん、君を生かして置く訳にはいかないのだ。可愛い物大好きのおじさんは心を鬼にするよ。
 少しは衰えたとはいえ、スピードには自信がある。
 私の動きを熊は追えなかった。首の頚動脈を狙って爪で薙いだが、脂肪が厚く、致命傷は負わせられなかった。更に怒らせただけになってしまい、熊は腕を振り回し、長い牙のある口を大きく開けて襲ってくる。かわして、今度は眉間を狙って爪をたてる。熊の頭蓋は分厚い。骨と骨の隙間を正確に狙わないと刺さらないどころかこちらの爪が折れる。よし、上手くいった。私の爪は十センチ以上はあるからな。
 熊が動きを止めた。脳を傷つけられ彫像の様に固まって動かない。しばらくして、どすん、と大きな音をたてて巨体が地面に倒れた。
 ああ嫌だ。手が汚れてしまった。とりあえずハンカチで拭いておこう。
「レイ、すごい!」
 ロンが駆け寄ってくる。とても嬉しそうだ。
「私もまだまだ捨てたものでは無いでしょう?」
「うん、強いんだぁ。カッコよかったよ! いい歳なのに」
 ……もう少し言葉の使い方を教えなければいけないな。
 ニコニコと嬉しそうに笑っていたロンが表情を変えた。どうした、そう訊く前に脹脛にドンという衝撃と鈍い痛みが走った。
「何?」
 熊が動いてる。とどめを刺したと思っていたのに。ずるずると這いずってすぐ足元まで迫っていたとは。立ち上がりは出来ない様だが、私の足を一薙ぎしたらしい。
「レイ!」
 体勢を崩して倒れそうになったところをロンに受け止められた。
 とりあえず二人で少し離れる。
 重い痛み。足に心臓があるみたいにドクンドクンする。見るとかなり深く抉られていた。血が盛大に出ている。
「痛い?」
「大丈夫です」
 さて、どうしたものか。野生動物の生命力をなめていた。脳を傷つけても脳幹までは達していなかったのだろう。心臓が動いている限り、最後の本能だけで動くのだ。先程のハンターはまだ来ないのか? ライフルなら完全にとどめをさせるだろうに。
 私も痛いが熊もきっとこのままでは辛いだろう。
 ふいにロンが動いた。
「危ないですよ」
「……」
 何か違う生き物が隣にいる様に感じた。無表情だが物凄い殺気を感じる。これはあの優しいルーの心のロンではない、なぜかそう思った。
 無言で早足で熊に近づき、軽々とひっくり返して仰向けにする。熊は抵抗して無茶苦茶に暴れているが、もう視力も嗅覚も無いだろう。ロンは軽々とかわして、手刀の形で思いきり熊の胸を突いた。あばら骨の下辺り。そのままずぶずぶと肘まで差込み、戻した手には何かを握っていた。血と油に塗れたあれは心臓……。
 熊は完全に動かなくなった。心臓を取り出されて生きているはずも無い。
 ぞっとした。体中の毛穴がきゅっと締まったのがわかった。ロンが行った行為にではない。その表情に。白い端正な顔に微かに浮かんだ冷たい笑みに。命を狩る事に喜びを感じる生き物……あれはルーじゃない……。
「ロン?」
 私の呼びかけは聞えただろうか。
「え? えええぇ~~!」
 突然ロンが素っ頓狂な声を上げた。
「何? なにっ! いやん、これ何っ!? 温かくて動いてるっ。気持ち悪いいぃ!」
 自分の手の中のモノを見て内股で地団太を踏んでいる。あ、投げた。
 クネクネしてるお前の方が余程気持ち悪いぞ……ルーに戻ったようだな。
「……物凄いとどめの刺し方ですね」
「し、知らないよぉ!」
 確かにいつものルー=ロンでは無かった。何だろう、さっきのは……。
 ワンワン。犬の声が近づいてくる。
「大丈夫ですか!」
 ハンターの声。来るのが遅い。
 よっこらしょ、とロンが熊を抱きあげてハンターの方に持っていく。お前、力持ちなのは知ってたがそんな何百キロもありそうな物を……!
「クマさん、死んじゃったよ」
「え?」
 きょとんと、猟銃を持った男が固まっている。そりゃそうだろう。化け物だな。よく猟銃でロンを撃たなかったものだ。どすん、と目の前に熊を下ろされ、犬がキャインと甲高い声を出して逃げた。
「死んだって……銃も無く?」
「うん、何か気持ち悪い物取っちゃった。ゴメン、投げちゃったけど」
 多分、話は全く通じてないだろうな。ロンを喋らせたく無いのだが、私が話せないので仕方が無い。とりあえずうんうん、と頷いておいた。
「作物を荒らしたり、何人も怪我人まで出してる熊だったんです。駆除の命令が出て出動したのですが、取り逃がしてしまって……本当に申し訳ない」
 気を取り直したのか、ハンターが何度も頭を下げた。
 そんな凶暴な熊だったのか。
「酷いお怪我ですね。すぐ病院に運びます」
 首を振る。私は普通の人間ではないので、町医者に見てもらう訳にもいかない。
「大した事は無いから家に帰ると言ってくれ」
 ロンに告げてもらい、丁度持っていた杖をついて歩き出した。
「待って……うわっ! 心臓が落ちてるっ!」
 ハンターの悲鳴に近い声を背中に、私達は振り返らずに家に向かって歩き出した。
 ローズヒップのお茶は結局無しになった。

「レイ、痛いでしょ?」
「大丈夫ですよ、このくらい」
 適度な振動が心地いい。
 情けない事に背負われている。口では思いきり拒否したが、体がいう事をきかなかった。このくらいの怪我で動けなくなるなんて、やはり歳を感じる。流石にお姫様抱っこはキビシイのでおんぶ。熊を持ち上げるような奴だ。重さは気にしないだろう。
 ひょっとして生まれて初めてでは無いだろうか。人に背負われるなんて。
「こんなに血だらけで家に帰ったらお手伝いさんがびっくりするね」
「そうだな……」
 きっと腰抜かすぞ。私はこの怪我だし、ロンも熊に突っ込んだ片腕が血だらけだ。服も散々な有様だしな。
「なあ、ロン。この村から追い出される事になっても許してくれるか?」
 私達はA・Hだ。それも二人ともまともじゃない。素手で熊を倒したなどと知れたら村から追い出されるだろう。今まで何度もそんな目に遭ってきた。
 わりと気に入っていたのにな……あの家。
「大丈夫だよ。村の人優しいもの。皆とっくに知ってるよ、ワタシ達がA・Hだって」
「え?」
 顔は見えないがロンが微笑んでいるのがわかった。
「お買い物に行った時にバレてるもん。この爪に牙だよ? それでも誰も何も言わなかった。わからない事や困ったことがあったら何時でも言いなって。逆に何かあったら助けておくれって言ってくれたよ」
「……」
「だから大丈夫。悪いクマさんやっつけたもん。皆褒めてくれるよ」
 この子は、私が思っていたよりしっかりしているのかもしれない。
 見た目と中身はチグハグだが、それでも人に愛される部分はルーのまま。私達の様なA・Hでも根を下ろして生きていけるのかもしれない、そんな気がする。
 さっきほんの少し現れた、あの冷たい獣の血が目覚めない限り。
 ウォレス博士、貴方の獣は息子の血の中に生きていますよ。息を潜めて。

 家に帰ると思った通りお手伝いさんが腰を抜かし、なぜかこっ酷く叱られた。
「旦那様! お歳なんですから無理しないで下さい!」
 お歳が余計だ。放っておいてくれ。元看護婦だという彼女はなかなか上手に手当てしてくれたので助かった。今まで気にも留めていなかったが聞くと彼女もA・Hらしい。
「そりゃそうですとも。お金持ちかもしれませんが、戦闘タイプのA・Hの男二人で暮らしてる家にノーマルの家政婦が来るわけがありません」
 そうか、端からバレバレだったのだな。先に言ってくれたら筆談などしなくても良かったのに……。
「まったく。あまり心配させないで下さい。ああ、もう血は落ちないんですからね」
 ぶつぶつ文句を言いながら二人の血に汚れた服を洗濯しに行った。
 世界の裏を牛耳っていたはずの男が、しがない家政婦のおばさんに説教されているとは……私も堕ちたものだ。
 だが、なぜか文句を言う声も心地良く耳に響いた。
 シャワーを浴びて来たロンがどかどかと嬉しそうに走ってきた。
「みーてー!」
 淹れてもらったお茶を飲もうとしていた私の前でくるりと回る。
 ぶっ。
 私とした事がお茶をふき出すなど、下品な事をしてしまったが……。
「……何ですかそれは?」
「三つ編みにしてもらったの。で、リボンもつけてもらったの。可愛い?」
 可愛くない。気持ち悪い。怖い。熊にとどめ刺した男が三つ編みにリボンなんて!
「レイもつける?」
「絶対嫌です」
 リンリン。玄関のドアベルが来客を告げている。
「はーい!」
 ロン、その格好で出るなっ!
 思うところは同じだったのか、お手伝いさんが気を利かせて先に走った。
「熊の駆除に協力したお礼だそうです。それと旦那様にお見舞い」
 両手に抱えきれないほどの花束や果物。
「ほらね、褒めてくれるって言ったでしょ?」
「……」
 追い出されずに済んだ。まだしばらくはこの生活が続けられそうだ。
 怪力を認められたロンはこの後しばしば村の用事に駆り出される事になった。私はもう少し男らしい振る舞いと言葉遣いを教えなくてはならない。
 凶暴な獣が目覚めない様に監視するのも忘れてはならないし。
 まあ、それなりに楽しいのだろうな、こんな生活も。
 きっと……。
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