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赫眼の客 ≪第一章・アリアンの千二夜の物語≫

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序.

 リフェールの長い髪。
 普段は年代物のリボンできつく束ねられているそれが、魔法のように縛(いまし)めを解かれて薔薇色の頬を撫で、ほっそりとした肩に滑り落ちる瞬間。その眺めは世界でもっとも美しいものの一つだと、クレイは信じて疑わなかった。
 クレイが知る限り、この世界の誰よりも優しく、清らかな存在。リフェールが存在しなければ、クレイは疾うにこの家を逃げ出していたことだろう。
 兄のリフェールがクレイの誕生日だと決めたのは、クワドラジェジマ(四旬節)に入る灰の水曜日だった。
 もともと、村には子供の誕生日を祝う習慣がない。大抵の子供は、自分が何年のいつの季節の生まれかということまでは知っていても、何月何日に生まれた、などとは知らず、また、知る必要もない。
 どうしていきなりお祝いなどと言い出したのか、リフェールの真意は知る由も無いが、なんの愉しみもない貧しい暮らしのなかでも、クレイを喜ばせてやろうという兄の優しさであったことは間違いなかった。
 父さんと母さんが寝ちゃったら、パンケーキを焼いて、二人きりでお祝いをしよう。
 耳もとで囁いてにやりと微笑うリフェールにクレイは慌てて言った。バレたら酷く叱られるよ、と。
 リフェールは平然としていた。
 斎戒(さいかい)に入っているため、食料棚からライ麦や卵が少々無くなっていてもすぐには気づかれない、というのが理由だったが、そこには、儚げな容姿からは想像もつかぬほど旺盛な反骨精神を持つリフェール一流の楽観主義のようなものが見受けられた。
 リフェールとクレイは、普通作の方が珍しい寒村の、農家の息子として、この世に生を受けた。
 敬虔な信者の務めとして定期的に教会に納めねばならぬ献上の品を捻出することはおろか、その日の食事にも事欠く貧しい暮らしのなかで必死に子供を育てている両親が兄のリフェールばかりを可愛がり、自分に素っ気ないのも当然のこととクレイは思っていた。
 亜麻色の髪、透き通るような白い肌、そして穢れなく澄んだ琥珀の瞳。
 誰の目から見ても、貧農の倅だなどとはとても思えない、繊細な美貌。
 どのような奇跡の力が働いて、日々の生活に磨り減った襤褸雑巾のような二親から、リフェールの如き宝石が生まれたのだろう。
 親の愛情を巡っての子供らしい嫉妬すら、リフェールに対して感じたことはこれまでにただの一度もない。否、これからだってそんな気持ちを持つことがあろう筈はない。天上から遣わされた天使が放つ光に悋気を燃やす蛍など、この世の何処にいようか。
 しかし、美しく、誰からも愛されていた筈のリフェールは、完璧な幸せを得ていたのではなさそうだった。
 いつか、クレイを膝にのせ、優しく髪を梳(くしけず)りながら、呟いたことがある。
 父さんと母さんは、俺を可愛がっているのではないよ。
 俺を決して殴らないのも、お前よりも幾らかマシな服を着せ、自分たちやお前のパンがなくても俺だけに食わせようとするのは、来年、俺が十二になったら、司祭様の従者として教会に売り渡す約束になってるからだ。俺の見栄えが悪くなれば、それだけ値が下がるからな。
 そのときばかりは、いつもの飄々とした口調ではなかったことだけを、クレイはいまでも憶えている。
 司祭様つきの従者になれるなんて、凄いや。
 兄と離れ離れになるということも、司祭のもとに売られるということの本当の意味も知らず、ただ無邪気に羨んで兄を苦笑させたクレイは、そのとき六歳にもなっていなかった。
 十二の歳を迎える少し前、リフェールはクレイを連れて村から逃げた。
 追手から逃れて転々と居を移しながら、野山に実ったもの、他人が捨てたもの、盗んだもので命を繋いだ。
 幼い子供二人だけの暮らしは四年間続き、辛いことや苦しいこともあった筈なのに、クレイは幸せだったことしか憶えていない。大好きなリフェールがいつも傍(かたわ)らで微笑んでいてくれたから。
 両親が、周りの大人たちが、誰一人クレイを愛さなかったとしても、その代償とするなら足りて遥かに余るほどの愛情を、リフェールはクレイに注いでくれた。
 その兄を失う日がくるなど、クレイは想像もしていなかった。
 リフェールが姿を消し、それ以来、誕生日を祝ってくれる人は誰もいなくなったが、四旬節の頃になるとクレイは意識する。また一つ歳をとり大人に近づくのだと。そして、思い出す。
 リフェールが作ってくれたクレイの誕生日、それは、今では決して忘れられぬ血塗(ちまみ)れの記憶を呼び起こす、悪夢の記念日だった。

1.

 一昨年、去年と続いた日照りは、ハノンの村の穀物に大打撃を与えたが、神は漸(ようや)く賽の目を変える気分になったらしい。今日の空は鉛色に沈み、大気はじっとりと水分を溜め込んで重い。
 店は、珍しく客が入っていた。
 東へ向かう教会の警護兵の一団がそこそこのカネを落として行ってくれたのは先月の随分と初め頃だったから、これほどの賑わいは、ほぼふた月振りということになる。
 街道沿いだというのに陰気に寂びれた居酒屋兼宿屋「金の蛇亭」は、両親とアリアンの三人の手で細々と息を繋いでいた。
「奥の卓だ。卵酒をふたつ」
 暗い声と共に、真鍮のコップを載せた盆をアリアンの手に押しつけてくる父親の、痩せて筋張った手。
 アリアンは、仕方なく盆を受け取り、被った頭巾を目深に下げた。
 案の定、コップに延ばされかけた酔客の手は途中で思いなおしたように向きを変え、アリアンの手首を折れんばかりの強さで掴んだ。
 顔の下半分が黒々とした髭に埋まった、赤ら顔の大男だ。
「お前、ここの娘か。なら酌をしろ。一杯奢ってやる」
 どれほど同じような経験をしても、この瞬間には慣れない。
 助けを求めても無駄だと分かっていながら首を巡らせば、奥の調理場の父親はなにも気づかない振りであらぬ方向を向き、客の給仕をしている母親はちらとこちらを見たものの、怯えたように目を逸らすだけ。
 いつものことなのに、諦念に冷えた胸に、昏(くら)い怒りに似た感情が悲しいほど沸々と湧きおこる。
「よう、なんでそんな布っきれを被ってるんだ。顔を見せてみな。色白で別嬪だったら、今夜、高く買ってやってもいいぜ」
 髭もじゃ男の連れ、こちらは対照的なほどに痩せている男が、アリアンの頭巾の裾に手を掛ける。その手を払う意志など、アリアンにはない。
「うわ、なんだ、お前」
「化け物か」
 そう。男たちは誰も皆、一様に同じ反応を示す。顔面の右半分が真っ黒に焼け爛れ、一度丸めて伸ばした紙を貼りつけたようになった皮膚を見て。
「げえ。あっちへ行け。お前に用はねえよ。とっとと失せろ、酒が不味くなる」
 突き飛ばされて、アリアンはよろめいた。そして、頭巾の影で、にやりと唇を歪ませる。
 これでいい。こういう反応を見たいがために、幼い頃から美しいと言われ続けた顔を焼いた。
 あれは、三年前、確か十四の歳だったか。
 器量よしだと評判のアリアンは自他共に認める宿の看板娘で、店はそこそこに繁盛していた。
 時折訪れる黒い長衣(ローブ)を身に纏った神学生は、礼儀正しくアリアンに花や高価な菓子を贈ったうえで、誘い出そうとした。裕福な商人の子息は、頬を上気させながら、異国で買いつけたという絹のショールを震える手でアリアンの肩にかけた。
 ほかにもアリアン目当ての客は引きも切らずに店を訪れ、傅(かしず)く崇拝者たちの賛美の眼差しを一身に集めたアリアンは、女王のように堂々と振舞った。
 ちやほやされるのは無論楽しく、嬉しくもあったが、かれらの求愛を受け容れるつもりは、そのときのアリアンには毛ほども無かった。
 アリアンは夢見ていた。自分のこの美貌があれば、貴族の若様の目にとまることも夢ではない、と。
 それは決して的外れな妄想などではなかった。実際、数年前に隣の村で、身分の低い花売り娘が遊山中の騎士に見染められ城に上がった、という噂も耳にしている。
 だからこそ、アリアンは思っていたのだ、可能性を自ら捨て、身分の低い男のものになるなど、なんて馬鹿馬鹿しい、とまで。
 だが。
 一目で傭兵と分かる男たちが店にやってきたあの土砂降りの夜、すべてが狂った。
 酔ったかれらは、アリアンを襲った。
 早い時刻から入口近い卓に陣取っていた神学生は、いつの間にか姿を消していた。アリアンに甘い言葉を幾度も囁いた商人の三男坊は、災難を避けるように従者と連れ立ち逃げ帰った。
 傭兵たちは、アリアンを汚れた床に押さえつけると、粗末な綿のドレスを引き裂き、まだ育ちきらぬ硬い乳房を乱暴に揉みしだき、数人の客たちの目の前で、アリアンの足を広げさせ、代わる代わる穢れた肉欲を捻じ込んだ。
 何人も、何人も。何度も、何度も。
 アリアンは悲鳴をあげた。泣き叫び、身悶えた。
 その場にいた馴染みの客たちも、父も、母も、助けてはくれなかった。
 襤褸切れのように動かなくなったアリアンのうえに銀貨数枚を投げ捨てて、かれらは出て行った。
 自分の身に、なにが起こったのか。
 分からない、のではない。分かりたくなかった。
 どこの誰とも知らぬ蛮兵どもに凌辱され、命を絶ちたい、などと願うのは、おそらく恵まれた王族か貴族の娘の特権なのだろう。
 生憎、アリアンは、貧しい庶民の娘だった。自分を穢した相手を殺したいほど憎いと思いこそすれ、命を絶ちたいなどと考えはしなかった。
 だが、怒りは、憎しみは、腹のなかに激しく渦巻いた。
 獣のような男どもへの、自分を見捨てた求愛者たちへの、救いの手を差し延べてくれなかった両親への、そして、後先を考えず、艶然と獣どもに笑いかけてしまった愚かな自分に対しての、全身を業火で灼かれるような怒り。
 虚ろな視線の先に、暖炉に赤く燃える炎があった。暖かく、優しく、アリアンを手招きするようだった。
 ふらつく足取りでそちらに近づき、アリアンはくべられた薪の一本を手に取った。
 手は、震えてはいなかった。
 あれから三年。
 街道を少し進んだ先に、新しい宿屋「赤の鈴亭」が店を開き、そこのおかみの料理が旨いと評判になった。
 客はあっという間にそちらへ流れ、いま「金の蛇亭」に寄りつくのは、この辺りに一人の知り合いもない遠方からの旅人か、或いは「赤の鈴亭」で宿泊を断られた風体のよくない連中だけだ。
 軋んだ音がして、扉が開いた。
 新しい客だ。
 奥の調理場から父親が顔を出す。母親は薪を取りに外へ出て行ったところだった。
「部屋は、あるか」
 客の言葉に、いつも険しい父親の目が一層尖ったものになるのが分かった。
 取り留めない会話を楽しみながら酒を飲んでいた客たちも、新参の客を上から下まで興味深げに眺める。
 新参の客が、少年だったからだ。
 ここ数年というもの、昼間でも女や子供は一人で外出などしない。徒歩ではなく、馬に乗ってさえ。
 その少年は背中に大きな雨避けのマントをかけ、一人前の旅人のような格好をしている。
 持ち物といえば、肩からさげた雑嚢と、腰に佩(は)いた剣。それから、薄汚れた毛布のようなものに包まれた中身の見えぬ手荷物ひとつ。
 この近隣の住人が遠出するときの身拵(みごしら)えではない。着ている胴着もブーツの形も、翡翠の髪飾りも、この地方の若者が着用する類の代物とは違う。
 なによりも、銀色の髪、そして輝石のように耀く真っ赤な瞳の色が、かれが異民族であることを物語っている。
 どこか遠くから旅をして来たのだろうか。こんな子供が、しかも一人で。
 無遠慮に少年を見つめていた父親が、ようやく掠れた声を出した。
「部屋は二階だ。店を出て、薪小屋の横に階段がある」
 少年は決して裕福そうな身なりではないものの、品のよい顔立ちに加え、黙って立っているだけで、どこか貴種でもあるかのような雰囲気を醸し出している。
 路銀に困窮しているようには見えなかった。恐らく、父親もそう判断して宿泊させることにしたのだろう。
 少年はアリアンよりも、少なくとも一つ二つは年下のように思われた。
 頷(うなず)き、少年は言った。
「飯は、三人前を用意してくれ。勿論、金は払う」
 父親が胡散臭げな目を向ける。
「お客さん、三人前なんてのは無理だ。幾ら金を貰おうと、今夜はもう材料が足らねえ」
 少年は、ふん、と鼻を鳴らす。
「材料なんざ、その辺のネコでもネズミでも構わない。普段の商売でやっていることだろう」
 言いざま、腰に結わえつけた財布から金貨を一枚取り出し、手近な卓のうえに無造作に放り投げた。
「贋金じゃあないぜ。確かめりゃ分かるだろうがな」
 その皮肉な口調も、支払った額の大きさも、本人の年の頃を考えれば不釣り合いだった。
 普通、宿の相場は、一泊と二食がついて、人気の宿なら銀貨二枚、「金の蛇亭」ならば銀貨と銅貨一枚ずつ、といったところである。
 少年の財布はそれほど大きくはないがずしりと重そうで、腰に戻されるときに、貨幣同士が擦れる特有の音を立てた。
 父親は調理場から走り出てくると、ほかの客の目から隠すように金貨を鷲掴み、慌てて懐へ捻じ込んだ。少年が投げて寄越した侮辱など気にするふうもない。当然のことだった。自尊心などとうの昔に貨幣に換えている。
「飯は三人前、ベッドはひとつでいい。明日は早く出立するから、朝飯は要らない。晩飯は部屋まで運んでくるには及ばない。支度が出来たら降りてくるから、知らせにきてくれ」
 マントを翻(ひるがえ)し、謎めいた少年が食堂を出て行くと、不思議なほど静まり返っていた店のなかが再び喧騒に包まれ始めた。
「こりゃすげえ。一泊で金貨一枚とは、剛毅なおかたがいたもんだ。どこぞの若様のお忍びかね」
 壁際の席で腸詰に喰らいついていた客の老人が、鼻の横の大きな疣を撫で擦りながら吐き捨てる。独り言というには大きすぎる声だ。
 馬鹿な子供だ、とアリアンは思った。
 これだけ大勢の前で、あんな大金をこれ見よがしに取り出すなど。襲ってくれと言わんばかりではないか。旅慣れているように見えて、世間を知らないのだろうか。
 父親の目が、少年の手にした包みにずっと吸い寄せられていたことを思い出し、アリアンは、ついと眉根を寄せた。

 沸かした湯を入れた水差しと盥(たらい)を載せた盆を持って、階段を昇る。両手が塞がっているからノックも出来ず、アリアンは扉に向かって声を掛けた。
「もう飯が出来たのか、早いな」
 内側から扉が開けられる。
「お湯」
 いいえ、お食事の前に、体を洗うお湯を持ってきました。
 本当はそう言う筈だった。しかし、言葉がスムーズに出てこない。単語一つ喋るだけで、喉に絡んだような妙に掠れた声になった。
 乱暴されたあの日を境に、アリアンは客どころか両親とすら、会話をすることを止めていた。
 自らの意思で喋らぬのだと思っていたが、ある日、本当に片言でしか喋ることが出来なくなっている己れに気がついた。だからますます、アリアンは寡黙に、孤独になった。
 美しかった頃のアリアンを知らぬ客のなかには、アリアンが生まれついての聾唖(ろうあ)だと信じ込んでいる者も少なくない。
 少年はほんの一瞬、不思議そうな表情で水差しとアリアンとを交互に見つめ、すぐに、有り難い、と言って盆を受け取ろうとした。
「わたし」
 重いですから、わたしがこのまま中に運びます。
 言外の意を正確に汲んでくれたようで、少年は一歩脇へ退き、アリアンを部屋に通した。
 窓から張り出した作り付けの台に盆を置き、さり気なく部屋を一瞥する。
 背負っていた雑嚢と剣は、無造作に壁際に置かれている。財布は、いまは腰に結わえつけられていない。
 父親が目をつけていた包みは、ベッドのうえに置かれている。
 沸かしたての熱い湯は余程の誘惑だったと見え、少年は早速、水差しの湯を盥に張ると、手拭いをそのなかに浸し始めた。
 少年が上着を脱ぎ始めたので、アリアンは慌てて目を逸らした。少年とはいえ男性の裸など、見慣れていない。
 さすがに少年のほうも遠慮はあるようで、上半身をすっかり脱いでしまうと、アリアンに背を向けて手拭いを使い始めた。
 視界の端に映る褐色の肌、少年らしい引き締まった身体。服の上からは華奢に見えたが、肩や腕に薄い筋肉がしっかりとついているのが分かる。
「聞きたいのだが、この宿は、随分と昔から続けているのか」
 首だけを振り向き、不意に少年が尋ねる。
 随分と、という意味あいにもよるが、取り敢えずアリアンは頷いた。
「二十年ほど昔、西から来た巡礼の一団がこの村にしばらく逗留したという話を、親父さんかほかの誰かから聞いたことはないか?」
 今度は、首を横に振る。
 無口でいつも疲れた顔をしている父親が昔話などしてくれたことはついぞない。
 そもそも、二十年前であろうが二年前であろうが、こんな山間の寒村には巡礼だって寄りつかない。この村どころか、山を越えた隣の村にも、その先の村にだって、殉教者記念堂もなければ、柱の朽ちかけた教会には、紛い物の聖遺物すらありはしないのだから。
 そうか、と小さく呟くと、少年はそれきり口を噤(つぐ)んだ。
「あの」
 まだなにか用か、とでも言いたげに、少年が振り返る。
 アリアンは迷っていた。
 財布や持ち物に気をつけるように少年に促したい。だが、そんなことをしたのが父親にバレたら、どんな折檻をされるか分かったものではない。
 逡巡し、結局諦めて部屋を出て行こうとしたアリアンの、一度だけ振り向いた視線が、これまた偶然にもこちらを向いた少年の身体の一部に釘付けになった。
 左肩から上腕にかけ、丁度、服を着ていれば隠れる部分が、広範囲に渡って黒と紫に変色している。
 蟻が這い蠢いているかに見えた黒いものは、錐で穿たれたような無数の小さな傷の集合だった。
 少年は、アリアンの凝視に気づいたのか、視線をあげた。
 そのとき、誰かが階段を踏み締めて昇ってくる足音がした。
 泊まり客は少年のほかにはいないから、父親か母親が、食事の支度が整ったことを知らせにきたのに違いない。
 アリアンは、近づいてくる足音に追い立てられるように踵を返し、部屋を出た。扉を開けたと同時に母親と鉢合わせしそうになったが、顔を上げずに脇をすり抜けた。
 小走りで階段を降りると、食堂には戻らず、もとは納屋だった暗い薪小屋のなかに身を潜めた。
 胸の鼓動が速いのは、階段を駆け降りたせいではない。
 少年の肌のうえで蠢いていたもの。
 なにをどうすれば、あんな酷い傷がつくのだろう。
 色素だけを残したかなり古いものから、最近つけられたばかりと見られるまだ赤黒く鬱血した生々しい傷までが密集したその部分は、ただ醜怪というだけではなく、別の人間、それも死んだ人間の腐乱した肉と皮膚を切り取り貼りつけたような悍ましさがあった。
 しなやかで無垢な若い身体。それとまったく不似合いな、傷。
 あの少年が財布も持ち物もすべてを奪われたところで、そんなの自業自得だ。貧乏人の前でカネを見せびらかすからいけないのだ。
 持てる者から奪うことを罪と考える習慣のない、持たぬ者たち。そうでなければ己れが生きていけぬと知っているから。
 そして、わたしもその一人。
 苦しい。悲しい。辛い。
 使徒信教(クレド)を幾度唱えようと、神は、心も胃袋も満たしてはくれない。だから、奪う。
 アリアンは、両手で自分の身体を激しく掻き抱いた。
 美しい身体の一部分に、異様な傷痕を持つ少年に、自分の姿を重ね合わせたわけではない。こんなもの、ただの感傷だ。
 なにがどうというわけではない。ただ、なにもかもが無性に悲しく、遣る瀬ない。泣くことが出来るなら、少しは楽になったかもしれない。だが、涙は、あの日を境に乾いてしまった。
 アリアンは、薪小屋の戸口の向こうに、銀色の月の姿を探そうとした。しかし、厚い雲に覆われた空は、なんの光も通わせてはいなかった。

2.

 誂えられた食事を、落とし込むように胃のなかに収めた。
 味など一向に分からないが、少なくとも猫でも鼠でもなく、兎肉の料理らしいことだけは分かった。
 夜も更け始めている。
 食堂に屯していた客たちは、雨に振られる前に、と帰路を急いだようで、宿泊客であるかれの他は、奥の柱向こうの卓に根が生えたように居座り杯を重ねている二人連れがいるのみだった。
 最後の堅パンのカケラとチーズを冷めたスープで流し込むと、ようやく人心地がついた気がした。
「お若いの、どっから来たんだね」
 視線を上げると、二人の男が卓を囲むようにして見降ろしている。
 一人は髭ヅラの熊のような大男、もう一人はひょろりと痩せた貧相な身体つきをしていた。鍛冶屋か石工、或いは、なんでもいい。いままでにも似たような人種の男たちを、嫌と言うほど見てきた。
「そろそろ食堂は閉店だ。遅くまでやってる店を知ってる。そっちで一杯飲まねえか。俺たちの奢りだ」
 有り難い申し出に、一瞬だけ躊躇ってみせ、それから無言で頷く。
 早速、撒き餌が効いたようだ。
 先程、あの金貨は、態と見せた。三日前に襲撃してきた野盗から逆に奪ってやったカネだった。
 財布に残っているのは銀貨数枚とあとは銅貨、残りは河原で拾った石ころとガラクタだ。
 無造作に財布から金貨を取り出す姿を見せ、膨らんだ財布を示せば、大金を所持していると誰もが思う。
 右の頬を打たれる前に、左の頬を殴り返す。カネ目当てに襲撃してきた輩からは、命もカネも奪う。どうせ相手も殺すつもりでかかってくるのだから、罪悪感など持つ必要も無い。
 そうやって、これまで路銀を作り旅を続けてきた。
 初心な子供を装い笑みを返すと、男たちが相好を崩す。胸に秘めた刃を覆い隠すのに、少年という隠れ蓑はうってつけだった。もっとも、大人になりかけの自分の年齢を思えば、あと何年この手が通用するかは分からないが。
 カネだけを取ろうというのではないだろう、この二人が、自分の姿を見るなり、好色そうな目配せを交わしたことも、先刻承知の上だ。
 肩に回された大男の手。首筋にかかる、生温かく酒臭い息。不快極まりないが、この男がこの先辿る運命を思えば、この程度のことは赦してやろうという気にもなれる。
 外へ出るなり、男たちはかれを薪小屋の裏の暗がりへ引っ張り込んだ。
「なにをするんだ」
「うるせえ、おとなしくしていろ。それとも、無理やり犯られるほうがいいってのか」
 お定まりの台詞に、笑みが漏れそうになる。月が出ていないから、誘うような怯えた表情を作らなくて済む。
「いいか、坊主。先ずは俺を愉しませろ。次があいつだ。騒ぎ立てでもしたら、その細い首根っこをへし折ってやるからな」
 そういう大男の声は、既に欲情と期待に上ずって掠れている。痩せた連れは、気を利かせたつもりか、母屋の方向に歩いて行った。
 大男が圧し掛かってきた瞬間に、狙い澄ました膝蹴りを相手の鳩尾に一発叩き込む。
 呻いて膝を折るところを身体を入れ換え、盆の窪の急所に、手刀の一撃。声のひとつもあげることなく、草深い地面にうつ伏せに沈む前に、男は白目を剥いていた。
 呆気ないものだ。
 大男の背中に跨り、縺れ絡まり合う髪のなかに手を突っ込んで、首を持ち上げる。懐から取り出した小刀で反らせた喉を挽き切ろうとしたそのとき、目の前に刃が突きつけられた。
「ほう。なかなかたいした手並みじゃねえか」
 ようやく顔を見せた月の光を受けて鈍く光る長剣の鋩(きっさき)。
 その向こうに、今しがたどこかに歩み去った筈の男の蛇のような冷たい目が、此方を睨み据えている。
「三日前、ユタの森で手下が五人やられた。たった一人のガキに手玉に取られたなんざ、俄かには信じられなかったが、いまので合点がいった」
 おめえ、六人目に止めを刺し忘れたようだな。そいつから全部聞いて、おかしな色の目をしたガキとやらを探してたとこなんだよ。
 成程、そういうことか。
 剣を持った手首がしなったと思うと同時に、胸に灼けつくような痛みが走った。見ると、右の肩から胸にかけて斜めに斬り裂かれている。
 噴き出した血が生温く胸を伝う。
 無論、傷口は浅い。男の表情を見るまでもない。弄るつもりなのだ。
 貧弱に見える痩躯も、実は鞭のように強靭なのだろう。剣の速さと太刀筋の鋭さは、さすがに盗賊の頭を張るだけのことはある。
「そいつ、どうした?」
 促されるまま、手にした小刀を相手の足元へ放り投げる。
「その六人目の仲間ってやつ。いま、どうしてる?」
 野盗の首領は、なんでそんなことを尋ねるのかとでも言いたげな不思議そうな表情を見せはしたものの、直ぐにその口角を歪(いびつ)に吊り上げ、残忍な笑みを浮かべた。
「決まってるだろうが。ガキにも及ばねえ手下なんぞ生かしておく意味もねえ。引導渡して、野良犬に喰わせてやったさ」
 それを聞いて、安心した。
 野盗とはいえ、苦楽を共にしたであろう仲間を殺された復讐の一念で襲ってきた、とでもいうのなら少しは心も動こうものだが、手負いの配下の命を平気で摘み取るような男に、情けをかける気遣いは持ち合わせていない。
 剣を構え傲然と見降ろす男の目に、ふと不安そうな影が映ろった。なにかを感じたのかも知れない。
 と、暗闇のなかでなにかが動いた。
 闇を裂いていきなり現れた棍棒のようなものが、野盗の首領の背後を強襲した。
 突然のことに反応が出来なかったのだろう、まともに一撃を背中に喰らった男は前のめりに倒れ、その瞬間、かれは小刀に跳びつくと、手首を一閃させ、男の喉を切り裂いた。
 血飛沫の向こうに見えたのは。
 全身で息をつき、興奮に身体を震わせているのは、湯を運んできてくれた宿の娘だった。

3.

 自分のしたことが、まだ信じられなかった。
 薪小屋で膝を抱え、うとうとしかけたところに、足音が聞こえた。母親が用事を言いつけるため探しに来たのだと思い、アリアンは息を詰めた。
 しかし、足音は一人ではなく、そのうち話し声が聞こえてきた。
 あの謎の少年の声。そして、遅くまで奥の卓を占領し、アリアンを化け物と罵った、二人連れの男の声。
 少年になにかしようというのか。なにか、ではない。良からぬことに決まっている。
 かれらが声をおとし密やかに会話を交わしているためか、アリアンの心臓が早鐘のように脈打っているためか、話の内容までは分からなかった。唯一はっきりしているのは、少年の身が危険だということだけ。
 そのとき、雲が切れた。アリアンは見た。男が、少年の喉元に剣を突きつけているのを。
 頭のなかが真っ白になった。気づいたときには太い薪を一本掴んで小屋を跳び出し、無我夢中で男の背中に降りおろしていた。
 まだ、頭も心も、目の前の現実を受け止めきれない。
 少年は、当然のように足元に転がったままの大男にも止めを刺すと、二人の懐から財布を奪った。
 一瞬の躊躇いも無駄もない動作は、この血腥(ちなまぐさ)い仕事に熟練しているとでもいうようだ。
「大丈夫か?」
 その細い身体からは想像もつかぬほどの力で苦もなく死体を運び、薪小屋の奥の暗がりに隠した少年は、取り敢えず一仕事終えた、とでもいうのか、漸(ようや)くアリアンを振り向いた。
 頷けばよいのか、首を横に振ればいいのか、分からない。
 少年は、凍りついたまま身動きも出来ないアリアンを見て、照れたような、困ったような笑みを浮かべた。
 たった今、大の男二人を屠ったとはとても思えない、初めて見せた、年齢相応だと思える表情だった。
「俺のことを役人に訴え出るか?」
 この問いには即座に答えた。
 答えは、否、だ。
「朝になったら、役人のところへ行け。あの二人は野盗で、痩せたほうの男は恐らく賞金首だ。報奨金が手に入る」
 俺のことは伏せておけ。
 無論、言われるまでもなかった。
 部屋に戻ろうと階段を昇る少年の後を、アリアンはついて行った。
 振り向いて訝(いぶか)しげな顔を見せながら、それでも少年は、戻れ、とは言わなかった。
 並んでベッドに腰掛ける。
 なにか話をしたかったが、かける言葉が見つからない。
 永いように思われた沈黙を先に破ったのは、少年のほうだった。
「まだ、助けて貰った礼を言っていなかったな。ありがとう」
 アリアンは不思議な気持ちで少年を見つめた。
「おまえが来てくれなければ、危ないところだった。とても怖かっただろうに、俺のために戦ってくれた」
 おまえは勇敢で、それに良い人間なのだな。
 こんなふうに、真っ直ぐな言葉で礼を言われたことなど、生まれて初めてだった。いい人間だ、などと言われたことも。思わず頬が火照るのを意識する。
 そして、それと同時に。
 直感とでも言うのだろうか、少年が嘘をついているのが分かった。
 あのときは我を忘れて飛び出してしまったが、アリアンが余計な手出しをせずとも、かれは一人であの状況を易々と覆(くつがえ)すことが出来たのだ。この少年は、見た目や年齢とは裏腹に、これまで相当の荒事の経験を積んでいるに違いない。
 アリアンを怯えさすまいとして、危ないところだった、などと言っているのだ。嘘は嘘でも、思いやりから出た嘘だ。
 この人は、とても優しい。
「名前は?」
 少年の声は、柔らかかった。
「アリアン」
 いい名前だ、と呟く。
「俺は、リフ。リフェールだ」
 リフェール。その名を、喉の奥で幾度も繰り返す。なんと美しい響き。
 少年の赤い瞳に光が宿り、それが、一瞬の微笑に和らいだ。
 この少年は、なんという優しい、美しい表情を持っているのだろう。
 それに引き換え、わたしは。
 アリアンは身体を固くした。近づいてきたリフの指が、アリアンの肩にそっと触れたからだ。
「顔を見せてくれないか」
 アリアンは、両手で頭巾をきつく押さえ、首を左右に激しく降った。この美しい少年の前で、醜い自分の顔など晒したくない。
 リフは勇気づけるようにアリアンの拳を撫でた。
 不思議な力に指を一本一本解かれるような気がした。アリアンはゆっくりと頭巾を取った。
 リフは、声をあげも、眉を顰(ひそ)めもしなかった。
 アリアンを真っ直ぐに見つめる視線は小揺るぎもしない。まるで、見る前からアリアンの顔を知っていたかのように。
 リフはそっとアリアンの右頬に指で触れた。美しかった頃の名残など何ひとつ見つけだすことの出来ない、壊れ朽ち果てた残骸に。
 可哀想に。
 お前の心がこんなにも傷ついて悲鳴をあげているのに、誰一人その声を聞いてくれる者はいなかったのか。
 呟くようなリフの言葉に、全身が震えるほどの戦慄が走った。いままでこんなことを言ってくれた人間は、誰もいなかった。
 厚意。友情。感謝。
 このひとに出会うために、自分は生まれ、苦痛のなかを今まで生きてきたのかもしれない。そう思った。
 いま、想いのたけを言葉にし巧く伝えられたら、どれほど幸せなことだろう。動くことを忘れてしまった己れの舌が呪わしい。
 優しくしたい。労りたい。
 周りの人間も、自分自身すらも否定し続けてきたアリアンに生まれて初めて芽生えた、思慕の情だった。
「傷」
 それだけを、絞り出した。
 思い出したように、リフは裂かれた服の胸の辺りを押さえた。
「ああ、たいした怪我じゃあない。放っておいても塞がるだろう」
 アリアンは首を横に振った。
 胸の刀傷のことではない。手を延ばして、リフの左腕に触れた。
 少年の瞳が、ふ、と翳(かげ)った。
「これは俺の、業だ」
 そう言った少年の目は悲しそうで、苦痛に満ちていた。
 次の瞬間、リフは弾かれたように身を起こした。なにかを求める視線が、部屋のなかを狂おしく走り回る。
 リフが、蒼白な顔でアリアンを見つめる。
 狼狽し、途方に暮れたような表情はひどく幼く頼りなく見え、これまでの大人びたかれとはまったくの別人のようだ。
 アリアンもまた、全身の血が冷えて行くような気がしていた。
 毛布に包まれたあの荷。
 誰が盗って行ったのか、知っているからだった。

4.

「金の蛇亭」主人パトロは、妙に尊大な態度のいけ好かぬ少年の部屋からこっそり持ち出したものを、夫妻の寝室の床のうえに静かに置き、女房を小声で呼んだ。
 後ろ手に扉を閉めた女房の顔にサッと緊張が走り、獲物を間に挟むようにしてそそくさとパトロの前にしゃがみこんだ。
 包みに手をかけようとしたそのとき、扉を外から激しく叩く音がした。
 仕方なく、包みをベッドの下に押し込み扉を開ける。
 案の定、そこに立っていたのは娘で、パトロはそれと分かる大きさの舌打ちをした。
 ひどく興奮し、なにやら喚き立てる娘を、パトロはうんざりした思いで見遣った。
 戻せ、だの、リフの、だの、切れ切れの単語でしか、もうこの娘は話せない。昔は小鳥のようにお喋りで、歌や踊りの好きな、誰より陽気な子だったというのに。
 おまけに、傭兵どもから救いだしてやれなかったことを根に持って、未だに執念深く恨んでいる。
 一対、どうすればよかったというのだ。なにが望みだった?
 あの場でなまじ手出しなどすれば、あの程度の狼藉(ろうぜき)では済まされなかった。
 激高したかれらに、こんな宿屋など、砂糖菓子よりも簡単に破壊されてしまったに違いない。それで親子三人、路頭に迷い飢え死にする道を選べとでも? 
 下手に止めに入れば、それこそ一撃で首を撥ね飛ばされたかもしれぬ。
 傭兵は、そのほとんどがギルド(組合)に所属しており、定期的に幾何(いくばく)かのカネを納める代わりに、少々の蛮行などは目溢(めこぼ)しをされるのが常だ。おまけにギルドは役人を抱き込んでいる。
 それに比べ、こちらはなんの後ろ盾もない最下層の人間。宿屋の親父に無礼を働かれたので斬った、とでも申し立てれば、かれらは縄すら打たれはしないだろう。
 そもそも、ちょっとばかりの美貌を鼻にかけて媚態を示し、男たちを挑発したのはこの娘だ。それなのに親を親とも思わずに逆恨みし、そのうえ。
 パトロは、胸の裡で恨み言を繰り返すのをぴたりと止めた。役人、という言葉が耳に飛び込んできたからだ。
 あろうことか、どこまでも親不幸なこの娘は、あの荷を少年客に返さないのなら、いますぐ役人を呼ぶなどとほざいている。
「ふざけやがって、この役立たずが」
 パトロは怒りに任せ、娘の頬を殴り飛ばした。
 倒れたところを、腹を、足を力任せに蹴りつける。
 お前がさっさといい家に片付いてさえいれば、俺たちも少しは楽が出来たんだ。
 真っ当な心根を持つ娘なら、親を助けるために自ら女郎屋へ身を売りに行く。それなのに、お前ときたら生き恥を晒した挙句に、勝手にそんな化けヅラになりやがって。なんの値打ちもなくなった穀潰しの分際で、食わせて貰えてるだけでも有り難いと思わないのか。それを、こともあろうに役人に訴え出るだと。恥を知れ。
 罵り、喚き散らしながら、繰り返し蹴り続けた。
 振り返ると、女房がぼんやりと見つめている。娘を庇うでもなく、夫の自分を制止しようとするでもなく。
 この、日々の忍従に疲弊しきっただらしない白髪女のどこに、若き日の自分があれほど情熱を燃やした愛らしい少女の面影を見いだせるというのか。
 うんざりだ。なにもかも。
「やめろ」
 飛び込んできた声の主が、パトロの右腕を捩じり上げ、そのまま壁際まで突き飛ばした。
 強(したた)かに背中を壁に打ち付け、一瞬、息が詰まる。
 荒い息をつきながら顔を上げると、襤褸人形のようになった娘の前に、庇うように立ち塞がる少年客の姿があった。
「なんだってこんなことを。あんたの実の娘だろう。殺すつもりだったのか?」
 だったら悪いか。そう思った。
 こんな化け物ヅラの片端になって、この娘が生き続けていて幸せだとでも思うのか?
「お客さん、滅多なことをいわねえで欲しいもんだね」
 親が子供を折檻するのは、教育のためだ。悪いところを直すためにやっているんだ。
 激しい目でパトロを睨み据えていた少年の表情が、不意に苦しげに歪んだように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「親父さん。俺の部屋から失くなったものがある。心当たりはないか?」
 パトロは、もう一度女房のほうを振り返った。
 相変わらず生気のない目をした女は、身じろぎもしない。
「へえ。なにが失くなったか知らんが、我々を盗人(ぬすっと)扱いする気ですかい。まったく、とんだ客を泊めたもんだ」
 少年が、ぐ、と唇を噛み締める。
 物言いは生意気でも、所詮は世慣れておらぬ子供のこと。どこに証拠があると強気に出れば、手も足もでないだろう。
 それにつけても、あの品物、余程大切なものと見える。これは大当たりだったかも知れない。
 パトロは、精一杯の虚勢を張って、せせら笑った。
「一応、聞いといてやるが、お客さん、一体なにを失くしたんだね。そいつはよっぼど大事な、高価なもんかい?」
 少年客は一度目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。まともに視線がぶつかったとき、先に目を逸らしたのはパトロのほうだった。
「ああ。とても大切なものだ。俺の生命などよりも」
 少年客は、それきりパトロも女房もまるで無視するように、倒れたまま動かない娘を、壊れ物を扱う手つきでそっと抱き上げた。
「親父さん。俺も一応、忠告しておく。もしあの包みを見かけたとしても、決して触らないことだ」
 生命が惜しかったらな。
 平坦な口調でそれだけ言うと、少年客は出て行った。

 足音が遠ざかってからもしばらく、パトロはじっと立ったままだった。
 気づくと、握った拳のなかがじっとりと汗ばんでいる。
 あいつ、なんだってんだ。ガキのくせして、妙な迫力がありやがる。
 それにしても、だ。
「やっぱり、運が回ってきたようだ」
 興奮を抑えられぬまま、パトロは包みを隠し場所から引っ張り出した。
 部屋から持ち出すときは重さなど気にする余裕はなかったが、改めて手にしてみれば、腕にずしりと重い。麦の袋を一抱え、といったところか。
 生命よりも大切なもの。それはどんなお宝だろう。
 中身は香辛料、はたまた砂金か。
 生命が惜しけりゃなんとか、などと、ふざけたことをぬかしていたから、もしかしたら火薬の類かも知れぬ。
 いずれも、庶民には想像もつかぬほどの途轍もない金額で売買される品々だ。
 しかし。
「おまえさん、なんだろうね、これ」
 薄のろのような口調で喋るな。訊きたいのは、俺のほうだ。
 震える指で解いた包み。
 毛布のように見えていたのは、油を沁みこませた麻の薄布で、幾重にも巻きついたそれをすべて剥がし終える頃には、パトロも女房もくたくたになっていた。
 いま、剥き身で目の前に転がっている物は。
 一体、なんだ。こりゃあ。
 大きさは生まれたての赤子と同じくらい。表面の質感は、言うなれば、なめした皮。
 黒と枯れた草色をした斑のその物体は、パトロ夫妻が見たことも無いような代物だった。
「調理場から包丁を取って来い。切り開いたら、なにか入っている筈だ」
 凹凸の無い表面をどこまで探っても口のようなものは見当たらず、これが袋かなにかの入れ物であるかも判然としなかったが、パトロは諦めきれなかった。異国には、縫い目一つ残さずこういったものを作る技術があるのかも知れぬではないか。
 女房が刃の厚い肉切り包丁を手に戻ってくると、パトロはそれを受け取り、早速に振り上げた。
 
5.

 暗闇に飛散していた意識が凝集し、やがて、ゆっくりと覚醒してゆく。
 目を開けると、思いがけぬほど近くにリフの姿があった。
「済まなかった。俺のために」
 身体中のどこもかしこもが、いまにもばらばらになりそうに痛む。それでも、ここはリフが宿泊している部屋で、リフのベッドに寝かされていることが分かった。 
「夜が明けたら、医者に連れて行ってやる。それまで辛抱してくれ」
 必要無い、という意味で、首を横に振る。医者など要らない。なにも欲しくない。
 激痛に意識が混濁し、周りの見慣れた風景すべてが霞んでいくなか、父親を制止しようと飛び込んできたリフの姿だけが鮮明だった。優しく抱きあげてくれる手を確かに感じた。
 だから、もう十分だ。
 狼の遠吠えすら聞こえない、静かな夜だった。この世界にリフとアリアン二人しか存在していないような。
「話」
 なにか、話を聞かせて。
 無性に、かれの声が聞きたかった。
 リフが微笑む。
 その笑みは、不思議な鎮静の作用があるように思われた。全身の苦痛が、すっと退いてゆく。
 どのように学べば、人は、欺き利用するためではない、相手の心の痛みを癒し、慈しむための、こんな笑顔を知ることが出来るのだろう。
 あるところに、貧しい兄弟が住んでおりました。
「兄は、光の申し子。弟は、闇の呪いを受けておりました」
 リフが語ってくれたのは、幼い兄弟の物語だった。
 これは、ずっと昔のお話。神話の時代が崩壊した後の、遠い、砂漠の世界の物語。
 兄は弟を愛し、弟は兄を慕った。兄が売られそうになり、手に手を取って逃げ出した二人を、追手は、猟犬のように執拗に追い続けた。
 しかし、真の追手は、両親でもなければ、美しい兄の身に大枚を支払った教区の司教でもなかった。もっと遥かに怖ろしい、邪悪な存在に魂を売った者たち。
 そのとき、初めて弟は知る。
 自らの出生の秘密を。何故、故郷の村で自分が疎まれていたのかを。両親すらも愛してくれなかった理由を。
 そこで、リフは口を噤んだ。
 想いの切実さ故だろうか、肩が小刻みに震えている。
「アリアン、俺は嘘をついていた。俺の名は、リフェールではない。リフェールというのは、兄の名だ」
 俺の本当の名は。
 アリアンは、息を止め、少年の次の言葉を待った。少年の吐息一つでも聞き逃したくない。いまこの一瞬が、堪らなく貴重な時間に思われた。
「クレイ。俺の本当の名前は、クレイという」
 そのときだった。
 だしぬけに階下から聞こえてきた悲鳴が、静けさを引き裂いた。

6.

 それは、生きていた。
 刃を突き立てるよりも早く、飛び出してきた触手状のものが、包丁を持ったパトロの腕を貫いた。
 触手は、襲ってきたのと同じ速さで引き抜かれ、激痛が走ると同時に、床に鮮血が飛び散った。
 腰を抜かしたパトロは、尻餅をついたまま、壁際まで飛び退いた。
 パトロは恐怖に見開いた目で、かれを襲った物体を見つめた。
 なめした皮のように見えていた表面は、いつの間にか粘液のようなものに覆われ、ぬらぬらとした光沢を帯びている。堅く滑らかだった場所に、傷に似た無数の裂け目が生まれ、それがゆっくりと広がっていく。
 違う。傷なんかじゃない。これは。
 こいつは、眼だ。
 呆けたような顔で、女房がふらふらと物体に近づいて行く。
 馬鹿が。何をしている。
 叫ぼうとした言葉が、声にならずに喉の奥で凍りついた。
 無数の触手が、一瞬にして、女房の身体を刺し貫いた。腕を、肩を、腹を、胸を。
 宙に張りつけにされたような格好で縫いとめれらた女房の口と鼻から、驚くほど大量の血が噴き出した。裂けるほどに見開かれた目が、ぐるりと反転し、白眼になる。死んだのだ。
 物体は、その瞬間に、大きく脈打ったように見えた。管のような触手が、瞬く間に真紅に染まる。
 血を、吸っている。
 それを知った瞬間、パトロは、魂が凍りつくような悲鳴を上げた。
 嘘だ。こんなもの、この世に存在する筈がない。神が赦す筈がない。こんな怪物。まるで、悪魔の造形物だ。
 全身の血を吸い尽くされ木乃伊のように干からびた女房の死体、否、残骸を振り落とした怪物の無数の眼球が、パトロを捕らえた。
 扉の影に身を隠そうとしたパトロに怪物がにじり寄る。ナメクジの通ったような濡れた足跡を床に残しながら。
「来るな。こっちへ来るな、化け物」
 パトロは喚いた。恐怖の余り、立ち上がることも出来ない。
 手に触れるものを手当たり次第に掴んで投げつけるも、怪物の触手はいとも簡単にそれらを叩き落とした。
 涙と涎を垂れ流し、パトロはいざったまま逃げようとした。足の間が妙に生暖かい。失禁したのだ。
「俺は忠告した筈だぜ、親父さん。決して触るな、って」
 不意に頭の上から声がした。
 首を捻じ曲げるようにして見上げると、いつの間に現れたのか、少年客が沈痛な面持ちで見降ろしている。
 少年は、大股に部屋を横切ると怪物に近づき、事も無げにそれを胸に抱え上げた。
「分かってる。腹が減っていたんだな。でも、他人の血など幾ら啜ったところで、満たされやしないだろう」
 まるで赤子か、親しい友人に話しかけるような優しい口調。少年の指が、愛おしげに怪物の表面を撫でる。
 少年の言葉を理解しているとでもいうように、怪物の身体から触手が伸びた。だが、それはパトロやパトロの女房を襲ったときのように少年を貫くことはせず、そろりと少年の左腕に巻きつき、蠢きながら袖口から服のなかに潜り込んでいく。
 こんなもの、これ以上見ていたくない。パトロは思った。だが、恐怖に凍りついた体はまったく力が入らず、目を背けることも、閉じることも出来なかった。
 ブツ、という肉を穿つ音。一瞬、少年が苦痛に眉根を寄せる。蠕動する触手が、さらに深く潜り込む。
 堪え切れず、パトロは身を折って激しく嘔吐した。
 胃の中身が空っぽになり、苦い味の胃液に血が混じるばかりになっても、パトロは吐くのを止められなかった。

7.

 扉の影に身を潜め、唇から零れそうになる声を必死に押さえた。
 俺がようすを見てくるから、お前はここにいろ。
 そう言って部屋を出て行ったクレイの表情は、階下の悲鳴の意味を知っているように思えてならず、アリアンは、じっとしてなどいられなかった。
 父親に振るわれた暴力はアリアンの身体の至るところに掠り傷や打撲の痛みを残していたが、幸い骨折はしておらず、動けないほどではない。
 だが。自分は、いま、なにを目にしているのか。
 床に突っ伏して嘔吐している父親の情けない姿。
 部屋の奥に転がっているのは、あれは、まさか母親か。人間の原型を留めてはいるものの、枯れ枝のように萎びて干からびている。
 そんな両親の姿を見ても、アリアンはなにも感じなかった。胸に哀悼も、憐憫の情も湧いては来ない。
 アリアンの目が一心に追い続けたのは、クレイだけだった。
 クレイが腕に抱いているもの。あれが、かれの大切な包みの中身?
 この世の生き物だとは思えない。
 少年と異形の怪物は、いま、一つに繋がっていた。
 信じ難いことだが、母親が我が子に乳を与えるように、クレイは、自らの血を、怪物に与えている。
 真紅の触手がクレイの衣服の下を這い回っているのが分かる。
 ただ服の中に、皮膚の下に触手を挿し入れてているだけとは思えなかった。
 まさか、血管を伝い、心臓まで?
 あの左肩の醜い傷は、このためだったのだろうか。
 怪物は、歓喜に身を震わせているように見える。そして、クレイは。
 アリアンは足音を忍ばせ、その場を離れた。

8.

「親父さん、教えて欲しい」
 軽い貧血状態にあるのだろう、少年の頬はこころなし蒼褪め、眩暈を堪えるように幾度か首を振っている。
 少年の血によって怪物の飢えは満たされたらしい。再び、無数の目は閉じられ、それは沈黙した。文字通り、石のように。
 安心しろ、これ以上は、なんら危害は加えない。
 そう言われても、パトロはまだ呆然としていた。
 限界を超えた恐怖は胸に虚脱を呼び覚まし、醒めやらぬ夢のなかにいるような気がした。
 自らの吐瀉物に汚れ、子供のように床の上にぺたりと座りこんだままのパトロの顔を覗き込むようにして、少年はすぐ目の前に膝をついた。
「二十年ほど昔の話だ。巡礼の一団、いや、巡礼に身を窶(やつ)した武装兵の一団が、数日この村に留まった筈だ。それを憶えているか?」
 質問の意味を頭が理解するまで、しばらくかかった。
 二十年前。確か、女房と祝言をあげたのがその頃だ。
 頬を染めた若く美しい花嫁、希望に満ちた逞しい花婿。精一杯着飾った招待客たち。馬車の荷台に積まれた、山のような婚礼の贈り物の品々。
 当時は村全体がまだ豊かで、穀物は金色に実り、家畜は健康に肥え太っていた。
 旱魃や疫病や取り立てられる年貢の苦しさに下を向いて生きていかねばならぬ日が来ようとは、誰一人、考えもしなかったあの頃。
 明るい松明に照らされた、居酒屋での祝宴。陽気な音楽が流れ、誰もが皆浮かれていた。
 確かそこに、異国の旅人の一団がいたような気がする。
 普段はどちらかというと排他的な村人たちも、その日ばかりは特別だとばかり、明るく酒を酌み交わした。
 パトロはぼんやりとしたまま、少年の問いに頷いた。
「そのなかに、ゼウルという名の男はいたか?」
 愚かな質問だ、と思った。そんなことまで憶えている筈がない。第一、巡礼であろうが武装兵であろうが、旅人が自分の本名を見知らぬ土地でそう簡単に明かすものか。
 だが、パトロを見つめる少年の赤い瞳が、遠い記憶を魔法のように呼び覚ました。
 焚火の廻りで陽気に踊る人々の輪から少し離れて、一人黙々と杯を干している若い男がいた。
 遠目にも分かる精悍な顔立ちをした美男で、数人の村の娘が入れ換わり躍りに誘っても見向きもしない。
 折角の宴の興を殺がれた気がして、パトロはその若い男のもとに歩み寄った。大分酔っていたから、幾分絡んだ口調にもなっていただろう。
 男はパトロを相手にしなかった。
 といっても、無愛想に横を向くのではなく、丁寧な口調で祝いの言を述べ、そして不思議な色の瞳で、パトロをじっと見つめた。
 揺らめく炎の影を映して燃え上がる真紅の双眸。
 その色に、恐怖を感じたパトロは、それ以上、男の傍にいることが出来なかった。
 思い返せば、目の前の少年とよく似ている。
 いや、似ているどころか、こいつは、あのときの男と瓜二つだ。
「ひょっとして、おめえは、あの男の息子なのか?」
 少年はなにも答えない。
 ただ、無言のまま、じっと考え込むような顔をしていた。
 程なく、かれは立ち上がった。初めと同じように油布に幾重にも包んだ、眠れる魔物を抱いて。
「色々と手間をかけたな」
 最後に、頼みがある。
 行きしなに、少年は呟いた。
 アリアンをもっと大切に扱ってやってくれ。
 パトロはまだ焦点の定まらない視線をぼんやり宙に泳がせながら、少年が呟いた言葉を喉の奥で繰り返した。
「アリアン、だと」
 誰のことだ?

9.

 広げたスカーフに、手に届く限りの干し肉やパンを詰め込む。
 もう少ししたら、蜂蜜色の太陽の光が、村を囲む山の稜線を柔らかく溶かし始める。このうらぶれた村の風景でさえもが美しく見える、アリアンが子供の頃から一番好きな時刻だった。
 だが、今日ばかりは、光が差し始めることが恨めしい。夜明けの光が、あの人を遠くへ奪っていくからだ。
 そう思った瞬間、堪らなくなった。
 一緒に行こう。そう決めた。
 たとえ、あの人が駄目だと言ったとしても。凍てつく冬の雨も、真夏の照りつけも、どんなことにだって耐えてみせる。
 生まれ育った故郷の村にも、両親にもなんの未練もなかった。ここにあるのは、どちらを向いても、忌まわしい記憶ばかりだ。
 クレイが何者でもいい。かれが抱いていた異形の物でさえ、もう、恐ろしいとは思わなかった。
 愛して欲しいなどとは望まない、ただの道連れとしてでいい。それすらも駄目なら、勝手に後を着いて行く。
 そして、もしもいつか、互いに打ち解けられる存在になれたら。そうしたら、暖かい焚火の前で肩を寄せ合いながら、幼い二人の兄弟の物語の続きを聞かせて貰おう。
 あの話は、弟が、何者かに連れ去られた兄を取り戻すために旅立つ、というところで終わっていた。
 この先はどうなるのか。弟は兄を見つけだし、無事に二人は平穏な生活を取り戻すことが出来たのだろうか。
 幼い頃、リフェールとクレイの兄弟は、そんな冒険譚を膨らませて空想の遊びに興じていたに違いない。
 もし、クレイが望むなら、わたしもずっと昔から心のなかで紡いでいる物語を話してあげよう。
 ある村に、それはそれは美しい、貧しい花売り娘がいました。
 その娘は、何人もの優しい求愛者に囲まれても、いつも慎ましい態度で接し、決して天狗になったりはしませんでした。ある日、村に立ち寄った騎士様が、たちまち娘の美しさと純真さに心を惹かれ、求婚したのです。娘は若く美男の騎士と結ばれ、二人は末長く幸せに暮らしたのでした。
 さて、主人公の娘の名前は。
「なにをしている」
 胸に描く幸せな夢物語は、陰気な声に引き裂かれ、食糧棚の奥のチーズを取ろうとして延ばしたアリアンの指先は、そのままの形で凍りついた。
「さては、あの若造と出て行くつもりだったな。そんなことは許さねえ」
 次の瞬間、凄まじい勢いで張り倒され、目の奥に火花が散った。
 叩きつけられた衝撃で棚の食器類が次々と落ちて、床に倒れ伏したアリアンの周りに割れ砕けた皿や壺の破片が散乱した。
 見ていろ、俺がこの手で地獄に送り返してやるぞ。あの悪魔め。呪われた化け物め。女房を殺した上に娘まで誑(たぶら)かしやがって。
 なにか喉奥でぶつぶつ呟く父親の眼窩は落ち窪み、一晩のうちに十も歳を取ったようだ。灰色の舌が覗く半開きの唇からはきりなく涎が流れ落ち、それを拭おうともしない。
 饐えたような異臭がその身体から漂ってくる。
 どう見ても、正気だとは思えなかった。おまけに、その手には、鋭く研いだ鎌が握られている。
 その鎌の刃を、誰に振るおうというのか。
 訊くまでもない。
 この父親、否、この腐った人間の屑は、三年前、目の前で暴行されるアリアンを救おうともしなかった。そして今度は、大切な人までも奪おうというのか。
 許さない。そんなことはさせない。 
 酔いどれのような足取りで食糧庫を出て行こうとする父親の背中を見つめ、アリアンは半分砕けた素焼きの壺を強く握りしめた。

10.

 ベッドに腰掛け、左上腕の新しい傷を指でなぞった。
 吸血のとき、管が挿し込まれるのは決まって左上腕か、左肩だ。そこが心臓に近く、具合がいいのだろう。
 治りきらぬままに、傷口は少しずつ確実に広がっていく。
 吸血行為は毎日ではない。四日か五日に一度だ。
 しかし、僅かずつだが注入される毒によって肉は爆ぜ、皮膚は侵されていく。
 毒のために味覚は既に麻痺し、失われていく血を補うためだけに、大量の食事を流し込む。
 消耗しきった自分の身体は、いずれ立ち上がることすらも出来なくなるだろう。だが、その前に。
 クレイは膝の上に載せた包みをそうっと撫でた。
 自らの血で養う愛おしい怪物を。
「もうすぐだよ。必ず、俺が元の姿に戻してやる。そして、また、俺たちは一緒にいられるんだ」
 手掛かりを一つ掴んだ。
 二十年前、あの男はこの地の土を踏んだ。宿の主人は確かに出会っていたのだ、クレイと同じ、紅蓮の瞳を持つ男、ゼウルに。
 ゼウルと同じ足跡を辿り、かれが呪いを手に入れた方法を探す。それは即ち、呪いを解く鍵。
 リフェールを巻き込み運命を狂わせたあの日。三年前、クレイが十一歳を迎えた筈の灰の水曜日。
 あの日に、時を、戻すのだ。

 扉が開く小さな音に、出立の身支度をする手を止めて振り向くと、アリアンが立っていた。無言のまま、幽鬼のように。ようすが、おかしい。
 縋りついてきたアリアンの必死な姿に、クレイはかける言葉を失った。
 わたしも連れて行って。
 出ない声を絞り出し、そんな意味の言葉を口にするアリアンの肩を、クレイはそっと掴んで引き離す。
「俺と拘わる者は皆、碌(ろく)なことにならない。アリアン、お前をそんな目にあわせたくはない」
 クレイを見つめるアリアンの一つしかない目は、悲しみに溢れている。
「お前は心の美しい、優しい娘だ。かならず幸せになれる」
 俺などがいなくても。
 そう言いかけた言葉を遮るように、アリアンがクレイの前に両手を差し出した。掌(てのひら)を上にして。まるで贖罪を求めているようだ。
 クレイは息を呑んだ。
 誰のものか分からない血に染まったその手。
 アリアンの血ではない。大量の出血を伴うような切り傷を、アリアンは負ってはいない。
「まさか、親父さんを」
 アリアンは否定も肯定もせず、たった一言を呟いた。
「ごめん、なさい」
 なにに対する謝罪なのか、クレイには分からない。
「謝るのは、俺のほうだ」
 クレイはアリアンの冷えた手を握った。首(こうべ)を垂れ、アリアンの手を納めたままの手を、自分の額に押しあてる。祈るように。
「俺の業に、お前たち家族を巻き込んでしまった」

 こうなった以上、アリアンを連れて村を出るほかなかった。親殺しは大罪、露見したら、縛り首は免れない。
「でも、分かってくれ。俺の旅は、いつ終わるか分からない道程だ」
 だから、先の見えない旅に同行させる危険を冒せない。何処か遠くの村の修道院にお前の身を預け、匿って貰うつもりだ。
「それまでは俺がお前を護る。そして目的を遂げたら必ず迎えに行く。何年かかるか分からないが、約束する」
 それでもいいか?
 諭すように説きながらも、クレイは、アリアンがそんなのは厭だと言い張るのではと内心不安に思っていた。だが、アリアンの反応は違った。
 アリアンの頬は薔薇色に燃え、瞳は不思議な情熱を湛えてクレイを見つめる。小さく頷く少女を、クレイは抱き締めてやりたいと思ったが、心の奥に刺さった棘が、それを邪魔した。

 出立の前に、死体を始末しなければならない。全て燃やして、と言い出したのは、アリアンだった。
 本当にそれでいいのかと念を押すも、アリアンの決意は固いようだった。
 おそらく、アリアンが燃やし尽くしたかったのは、両親の遺骸でも生まれ育った家でもなく、アリアン自身の過去と、秘めた痛みなのだろうとクレイは思った。

 火を起こす作業はアリアンに任せ、クレイは母屋の前庭に面した食糧庫へと向かった。宿の主人の死体を回収するためだ。
 しかし。
 倒れた棚の周りに割れた食器類が散乱しているだけで、そこに死体など無かった。
 足元に転がっている血痕のついた割れた壺に気づく。跪いて床を調べると血の飛沫がそちこちに点在している。
 突然、空を切った殺意が、背後からクレイを襲った。
 咄嗟に横ざまに跳んで身を躱すも、襲撃者の二度目の攻撃はクレイの右腕を掠め、そこに浅い傷を作った。
「見つけたぞ、小僧」
 宿の親父だ。
 眉間がばっくりと割れ、流れ落ちる鮮血が顔を真っ赤に染めている。目に狂気の光を湛え、鎌を振りあげるその姿は、地底から出現した悪魔のようだ。
 俺の、せいだ。
 心が真っ黒に染まる気がした。
 衝撃に麻痺したように、一瞬、全身が強張った。無理に動こうとしたとき、片足が足元の瓦礫を踏み抜いて、クレイの身体は左に大きく傾いた。
 そこを狙って、鎌が突っ込んできた。
 柔らかな肉を鋭い刃が穿つ衝撃。血柱が噴き上がる。
 白い手が、鳥の風切り羽のように、一瞬、クレイの頬を撫でた。
 刃を受けたのはクレイではなく、身を投げ入れてきたアリアンだった。
 アリアンは、クレイの頬に触れた手を延ばしたままの形で、そのままよろめきながら、前庭へと数歩歩いた。
 その身体がゆっくりと崩れ落ちる。
「アリアン」
 クレイは叫んだ。叫びながら、少女の元へと走り寄った。
 返り血を浴びた宿の親父は、魂切るような哄笑をあげた。
「先刻から、アリアンだのなんだの」
 誤って、娘を自らの手にかけたことすら、理解していないのだろうか。
「勝手な名前で他人の娘を呼ぶんじゃねえ。俺の娘の名は、ヒルダだ」
 宿の親父は咳(しわぶ)きながらそれだけを言うと地面に倒れ、それきり動かなくなった。

11.

 矢も盾も堪らず飛び込んだ、というわけではない。こうなることは分かっていたような気がする。
 自分は、所詮、ここから逃げることは出来ないのだ。幾ら背後に蹴り捨てようとしても、幽鬼のようにつきまとう過去の記憶は、早晩甦って、残酷に自分を嘲笑う。 
 地面がすぐ目の前に迫ってくる。前のめりに地に叩きつけられようとした瞬間、差し延べられた二本の腕がアリアンを支えた。
 クレイの腕だ。
 なにか、言いたかった。
 クレイの名を呼ぼうとした。
 だが、口からは、大切な人の名前ではなく、血の塊が溢れ出した。
「馬鹿な。俺を庇うなんて。お前は、俺が護ると言ったのに」
 クレイの声が震えている。
 目を開けている筈なのに、紗がかかったように、クレイの表情がよく見えない。
 逆光のせいかと思ったが、直ぐに自分の目が霞んでいるのだと分かった。
 これがアリアンの物語の最終章。
 いいんだ、と思った。
 目的を遂げたら迎えに行く。何年かかるか分からないが、約束する。
 あの言葉は、嘘だ。
 アリアンには分かっていた。
 クレイは優しい。優しいから、嘘をつく。
 アリアンの肩を抱きながら、あのとき、クレイは違う誰かに想いを馳せていた。異国の空を飛ぶ鳥のように、遠い目をして。
 その瞬間に悟った。クレイは、決して自分のものにはならないと。 
 こんな、ものだ。
 子供だって、知っている。夢物語の結末など、本当はこんなものなのだ。
 貴族に見染められた身分の低い娘が正式に娶られるなどある筈はなく、件(くだん)の騎士には既に妻がいた。
 ただ弄ばれただけの花売り娘は、三日目には男の妻に鞭を入れられ、脚を潰されて、街頭に放り出された。
 物乞いになった娘は、やがて、誰にも看取られずに惨めに死んだ。
 その愚かな娘の名が、アリアン。
 三年前のあの夜から、隣村の花売り娘の名を借りるようになった。
 何故なら、ヒルダに災難が訪れるなど、そんな筋立ては物語に必要ないのだから。
 ヒルダは今もどこかで、幸せに暮らしている。嵐の夜、蛮兵どもに身体を穢されてなどおらず、顔には醜い火傷の痕どころか、擦り傷ひとつない。
 大好きな父母に大切に護られ愛され、小鳥のように歌い、花のように笑って、音楽に合わせて踊る。
 そして、ある日、運命の出会いを果たした赤い瞳の異国の少年と共に旅立つのだ。
 アリアンの物語が終わっても、ヒルダの物語は続いていく。
 だって、真のヒロインは、かの女なのだから。
 ヒルダは目を閉じた。
 これ以上、縋りつかなくてよいものを見る必要はなかった。

12.

 火事に最初に気づいたのは、山へ向かおうとしていた老いた樵だった。
 火の廻りは驚くほどに早く、物見高い村人が遠巻きに集まり出した頃には、既に母屋も黒い煙を上げていた。
 炎は一昼夜燃え続け、火元となったらしい薪小屋の焼け跡からは、黒焦げの五人の死体が発見された。
 上役の命令で仕方なく、と言った風情の役人が、これまたお座なりの検死を行い、体格の特徴から、一人は「金の蛇亭」主人パトロで、もう一人は娘のヒルダであろうと推察された。
 あとの三人、男が二人と、辛うじて女だと分かる骨と皮ばかりの死体の身元は分からず仕舞いだった。
 娘のヒルダの遺体だけが、胸の上で、祈るように指を組んでいた。
 樵の老人は、妙な羽振りの良さを見せつけた銀髪で赤目の異国の旅人のことを思い出したが、役人に告げることはしなかった。
 鼻の疣を指で弄りながら、さり気なく人の輪に背中を向ける。こんなことに拘わり合いになったところで、一銭の得にもなりはしない。
 自分たちの身に直接の利害が及ぶ場合を除き、誰が何処でどんな死に様を晒そうと、村人はさして関心を示さない。日々、自分たちの暮らしを守ることだけで精一杯の村の人間の結びつきなど、そんなものなのだ。
 赤い瞳の少年の行方は誰も知らず、その存在すらも直ぐに忘れ去られた。

                   第一章・アリアンの千二夜の物語 完
                   第二章に続く
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