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殺された歌姫

第十話 全てが明らかになること

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 パドストンは存分に怒りを込めて鼻を鳴らした。しかし謝霊は構わずに問う。
「ミス・フォスターが殺された晩、あなたもミス・フォスターもパーティを一度中座していますよね。その間一体何をしていたのですか?」
「なんてことはない。世間話をして、先に帰ってくれと言われた」
 パドストンが乱暴に答える。
「そうですか。では、本当にこの旗袍に見覚えはないのですね? これは彼女の楽屋の肘掛け椅子の中から見つかったものです。この旗袍、かなり大きく作られていましてね、漢人が着ようとすると……(謝霊シエリンはそう言いながら本当に旗袍を羽織ってみせた)このように、どうしても丈が余ってしまう。それに衣装係によれば、消えたズボンと靴もかなり大きく作られていたそうです。つまりこれを着た犯人はひどく体格に優れているのです、それこそ身の丈六尺半のチェン兄のようにね。それにこの染み……片脚に沿って縦についていますが、楽屋の床に残されていた染みはちょうど漢字の「凹」の形のように一部が大きくへこんだ円形でした。つまり犯人は彼女の脚の間に自分の脚を入れて身動きを取れなくさせて彼女の首を絞め、その際彼女の尿を片脚に被ってしまった。残された染みが漢字のとおりにへこんでいるのは、その部分に犯人の足が置かれていたからなのです。どうです、ミスター・パドストン? あなたはこれを着てミス・フォスターを絞殺し、その際汚れた衣服の替えを劇場で拝借したのではないですか? 旗袍は肘掛け椅子の中に隠し、元々穿いていたズボンと靴はゴミにでも紛れさせて」
 謝霊は滔々と語る。しかしパドストンが折れることはなく、かえって声を荒げて反論した。
「そんなもの、あのチェンとかいう衣装係の細工だろう。西洋人の仕業だと思わせるためにわざわざ仕組んだのだ!」
 謝霊はパドストンががなり立ててもどこ吹く風といった様子で、涼しげな表情を一切崩さない。謝霊は「そうですか」と言って旗袍を脱ぐと、
「では、あなたが事件の夜に着ていた服を教えてください」
 と言った。
 唐突な一言にパドストンは訝しげに眉を吊り上げた。謝霊はまた繰り返して言った。
「あなたが事件の夜に着ていた服を教えてください、ミスター・パドストン。もしも劇場から持ち出したものをまだ保管しているのなら上下のちぐはぐな組み合わせになるはずですし、もし劇場のは処分してズボンのみ新調したとしても、上下で作られた時期が異なるという、これまたちぐはぐな組み合わせになっているはずです。聞いた話では、西洋の方が正装をあつらえるときは必ず上下ひと揃えで注文するそうですね――であればなおのこと、あなたが事件の夜に着ていた上衣と対になるズボンは上衣よりも新しいという、一見普通でもちぐはぐなひと揃えがあってもおかしくない。それに靴の方も、衣装係が用意するものと一般の紳士が流行りに合わせて買い求めるものとでは細部が異なるのではないですか」
 私はパドストンの目が揺らぐのを見た。謝霊は構わず続けて言う。
「それにあなたは先程、旗袍も消えた衣装も沈が西洋人に罪を着せるために仕組んだのだと言いましたね。百歩譲って彼がわざと衣装を盗み、他人に罪を着せようとしたのだとしましょう――でも、なぜ彼は旗袍まで隠す必要があったのでしょう? 彼が下着で帰ったとか、来たときと違う服で帰ったという話は一切ありませんよ」
 この一言でパドストンは決定的に動揺した。彼は顔色を変え、反論の言葉を探して口を開いたり閉じたりしている。
「それからもうひとつ。あなたは事件の昼間、ミスター・モリソンとミス・フォスターを交えて三人で昼食をとったそうですね。そのときあなたたちはフィッシュアンドチップスを頼み、ミスター・モリソンは普段の習慣どおりマスタードソースを別添えで注文した。そしてあなたは二人が席を外している間に料理を持ってくるよう、給仕の男に言ったとか……そしてその日の夕刻に、ミスター・モリソンは食あたりを起こして寝込んでしまった」
「……あのジジイ、要らんことまで喋りよって」
 パドストンが小声で悪態をつく。謝霊はしたりとばかりに笑うと、とどめの推理を突き刺した。
「三人で同じものを食べたのに一人だけが臥せったというのは、あり得なくはないですが偶然に引き起こすのは難しい現状です。あなたはミスター・モリソンとミス・フォスターを確実に引き離すためにわざとマスタードソースに細工をしたのではないですか? これは私の推測ですが、軽度の体調不良を起こすような微弱な毒物でも混ぜたのではないですかな。そしてかねてより計画していたとおり、あなたはパーティーの人混みからミス・フォスターをうまい具合に引き離して楽屋に行かせ、旗袍を着てミス・フォスターを殺害した。緊急に着替える羽目にさえなっていなければ、隠しおおせることもできたでしょうな……もしくはミスター・モリソンが諦めるか、あるいは私ではない別の探偵に話を持っていっていれば。なぜなら私は、死者の魂から直接真実を知ることができるのですから」


***


 かくして、歌姫クリスティーン・フォスター殺害事件は幕を下ろした。少なからず名の知られた名士であったエリック・パドストン氏の凶行を新聞は大々的に書き立て、それを読んだ西洋人たちの興味もまたいたく掻き立てられたようだったが、真相を突き止めたのが市井の漢人探偵だということは伏せられ、ただ「警察のより踏み込んだ調査の末」真犯人として氏が逮捕されたと伝えるのみだった。謝霊《シエリン》に言わせれば、これは仕方のないことだという——この上海の街角で、霊媒師もどきのようなことをしている前時代的な漢人が西洋人を警察に突き出したというのは、彼らの面子に関わることだ。我々も面子を重んじてきた以上、そこは譲ってやりましょうと謝霊は笑った。

 そういうわけで、大仕事を成し遂げたわりには私の毎日は何ら変わらなかった。私はサー・モリソンのもとで使用人として働いて、時折楊紫香に怒鳴られて、半地下の倉庫の隅で寝泊まりしていた——のだが。
 ある朝、朝食を取りに厨房に入った私の足をふわりと柔らかいものが撫でた。思わず飛び上がった私の耳に、忘れもしない彼の声が聞こえてくる。
「こら、七白《チーバイ》。慧明《フェイミン》兄を驚かせない」
 声のした方を睨みつけると案の定、厨房の勝手口に謝霊がもたれかかっている。ぐっと胴を伸ばして——それにしてもこれほど伸びる猫は他に見たことがない——頭を腿にすり付ける七白を撫でながら、謝霊は反対の手で煙管を口から外して「どうも」と私に声をかけた。
「ちょっとあんた、厨房で煙草はやめてくれるかい? 飯が臭くなるだろう」
 奥のかまどから楊紫香がぬっと首を突き出した。その方からは、まだ朝も早いというのにサー・モリソンに出す夕食のような匂いが漂ってくる。
「今日って来客があるんだっけ?」
 私が訝しんで尋ねると、楊紫香は謝霊の方を木べらで指した。
「ないよ。私が焼いてる肉はあんたの好朋友お友だちと猫の分さ」
「以前失敬した鶏肉の香草焼きを七白がいたく気に入りましてね」
 謝霊が口を挟めば、七白が同調するように鳴く。そのときのことを思い出してため息をついた私に、謝霊は何やら放ってよこした。
 反射的に受け取った私の手のひらには、銅銭を数枚繋げた首飾りが乗っていた。
「この間手伝ってもらった分のお礼です。慧明兄は陰間の気に影響されやすいようなので、護身用にと思いまして」
 謝霊はさらりと言うと、油紙に包まれた鶏肉を楊阿姨から受け取った。私はしきりに踝に頭を擦りつけてくる七白に半ば押されながら、ぽかんと謝霊を見つめ返した。
 護身用という言葉がこうも不穏に聞こえたのは、後にも先にもこの時だけだろう。
「実は、工部警察以外の人間と組むのも悪くないと思いましてね。また何かあったら呼びに来ますよ。では」
 謝霊は平然と言い放ち、勝手口の戸を開けた。呆然と立ち尽くす私を残したまま、謝霊は足元に七白を従えて、長い三つ編みをふわりと揺らして出ていった。
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