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無常なる雨夜

第二話 謝霊と張慧明、工部警察を訪れること

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 まさか自発的に工部警察の敷居をまたぐ日が来るとは、クリスティン・フォスター嬢殺害事件の調査を手伝っていたときには私は思いもしなかった。あのときは工部局に来ることがあってもサー・モリソンから言いつけられて行っていた上に、謝霊と二人で訪れたときなどサー・モリソンと謝霊の両方に強制されていたようなものだったからだ。
 しかしこのときは、謝霊について行かないといけないと思う気持ちが勝っていた。そういうわけで私は李舵の案内でレスター警部に引き合わされ、にわかに上機嫌になった謝霊に有能な助手だと散々ぱら持ち上げられるのを嫌というほど打ち消すことになったのだ。

 レスター警部――本名はアーノルド・レスターという――は翡翠色の両目の下にひどいクマを作った五十絡みの英国人だった。上海租界の治安維持に携わって二十年という熟練の警察官だが、本人は早く引退して故郷に帰り、郊外にコテージを買うことの方に興味があるようだ。着ている服も李舵とそう変わらない工部警察の制服のはずなのに、彼が着ると途端にくたびれた古着のような印象になる。
 そんな彼だが、ひとたび事件の話をすれば口癖のように隠居暮らしの夢を語る疲れた男は影をひそめてしまう。
 オフィスの端にある来客用の小部屋に通された私と謝霊は、部屋の大部分を埋める三人掛けのソファに座るよう促された。レスター警部は小机を挟んだ反対側のソファではなく窓際の机の端に尻を乗せた。扉の傍には李舵が控え、「休め」の姿勢で立っている。
 レスター警部は疲れた目を鋭く光らせると、「さて」と切り出した。
「謝霊。君はあの水死体が気になると言うのだな」
「ええ。もし警部さえよろしければ、個人的に調査をさせてほしいのですが」
 謝霊は答えながら考え込むように指を組み、膝の上に肘を立てて半身を倒した。その眉間にはまたしてもしわが寄っている——どうやら謝霊は、この「勘」とやらが絡むと深く考え込まずにはいられないらしい。
 そんな謝霊の様子に工部警察の二人はちらりと視線を交わし、レスター警部が再び口を開いた。その口調は幾分柔らかく、ちょうど小さな子どもの話を根気強く聞いているような具合だ。
「今度は何を感じたんだ?」
「……何も。だから気になっているんです。ただ川に落ちただけなら絶対に何か感じるはずなので」
 謝霊は川辺のときのように何かを探りながら話している。レスター警部は厚ぼったい目を瞬かせることすらせずに謝霊の言葉に耳を傾けていた。李舵も李舵で先ほどの高揚は片鱗も見せず、至って真面目に謝霊の話を聞いている。そのおかげか、謝霊もいくらか落ち着いているように見えた。少なくとも川辺で見せていた暗さはすっかり消えている。
 正直なところ謝霊の話は眉唾物だった。もし私たちに面識がなく、あの場で初めて顔を合わせていたなら、きっと私も謝霊の正気を疑っていただろう。謝霊に軽蔑の眼差しを向けていたあの男と同じように、これ以上は関わるまいと謝霊に背を向けていたかもしれない。私がこうしてレスター警部や李舵――二人の話しぶりから察するに、どうやら謝霊の勘を少なからず信用しているらしい――と一緒に謝霊の話を聞いているのも、ひとえに彼が赤の他人ではないからだ。
 私が訝しそうにしているのを見て取ったのか、レスター警部は私たちを見比べて方眉を持ち上げた。
「しかし謝霊、君は張君にこの話をしていなかったのか? 君の助手だろうに」
 謝霊は苦笑混じりに答えた。
「いや、実は彼が手伝ってくれた事件はそう多くないのですよ。クリスティン・フォスター嬢の事件が今のところ最初で最後でして」
「あの事件なあ。依頼主が助手を付けてくれたと言っていたが、それがこの張君だったのかね」
 レスター警部は深く息をつきながらあごを撫でた。一見綺麗に剃られているようだが、よく見ると所々に剃り残しがある。警部が私に視線を寄越したので、私は居住まいを正して頷いた。
「はい。普段はモリソン商会にて使用人をしております。謝霊兄の手伝いをしたのも、もとはというと主人が謝霊との取次役に私を指名したからで」
 レスター警部はふむと呟くと、机から降りて私たちの前に深く腰かけた。
「まあ、手伝いができたというのは良いことだ。君の勘についてもはなから否定しているわけではなさそうだし、上手くやれるのではないかな」
 そう言って腕を伸ばし、謝霊の膝をぽんと叩いたレスター警部は、まるで彼自身が謝霊の面倒を見ていると言わんばかりだ。しかし実際そうなのだろうと私は思った。でなければ、どこからどう見ても水難事故で死んだ男の調査を独自にしたいという申し出を聞くためにこうして丁重に話を聞いてくれるわけがない。
「張君。謝霊はなあ、自分の周りに幽霊がいると気配が分かるというんだよ」
 レスター警部は私に向き直ると、もったいぶって告白した。
「もっとも、私も李舵も幽霊の気配なんざ分からないから、それが本当なのかどうかは分からないのだがね。だが謝霊が気配を察知して調べたら必ず何かが出てくるんだ。何年も前に行方不明になっていた人物の遺体だったり、そのホトケを手にかけた犯人だったりがね……始めは驚いたが、その後も似たようなきっかけでいくつもの未解決事件が解決したのさ。だから私は彼の勘を信じている。警察の中にはイカサマだと言って取り合わない連中も多くいるんだが、それにしたってこれだけ仕事を助けてくれたら信頼を見せるのが筋ってもんだと私は思うのだよ」
 レスター警部がそこまで言ったところで、誰かが扉を叩いた。李舵が応じると、茶の用意を乗せた盆を持ったインド人の警察官が立っている。レスター警部は彼に目配せすると、脚を組んで言葉を継いだ。
「そうでなくても、謝霊は我々の地で一人で探偵稼業をやっているからな。張君ならよく分かるだろう? 財力のない中国人が同胞と離れて身を立てるのがどれだけ大変か」
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