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幽霊妓女

第一話 張慧明、謝霊に呼び出されること

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 サー・モリソンの店に私宛の手紙が届いたのは重陽節が終わってすぐの昼下がりだった。使用人に手紙が来ることは滅多になく――そもそも読み書きができる者が稀な以上、手紙のやり取りそのものが滅多にないことなのだが――私はすぐさま手すきの使用人仲間に囲まれることになった。
 私が読み書きができるのはひとえに幼少期の賜物と言える。上海で西洋人に仕えて暮らすこと二十年になるが、元来私の張家は北京で皇帝一族に仕えていた。父も母も共に後宮で——
 とにかく、私は早くに未亡人となった母の連れ子で父との血の繋がりはない。それでも二人が注いでくれた情熱は、多くの子を持つ官僚や女官よりも素晴らしいものだった。特に父は我が子を科挙に合格させ、大手を振って出世できるようにしてやろうとあらゆる手を尽くしてくれた。しかし、我が家が仕えた清王朝は私が書院に行きだした頃に滅亡し、私たちの夢もあっけなく霧散した。そこから私は紆余曲折を経て北京を離れ、巡り巡って上海に流れ着くこととなったのである。
 そんな理由で、私はサー・モリソンに仕える漢人の使用人の中で唯一読み書きができた。英語も誰よりも使うことができるし、幼いころに学んだ詩も断片的にならそらんじることができる。そんな使用人の張慧明に、一体誰が手紙を寄越したのだろう――好奇心に満ちた視線と言葉を追い払いながら封を開けた私はしかし、そこに書かれたたった二言を見るなり、今すぐにでも手紙を破って楊紫香のかまどに投げ入れたい衝動に駆られた。
 手紙は謝霊からだった。「招魂探偵」を自称する方術使いのあの男が、手伝って欲しいことがあると言って私を呼びつけたのだ。
 正直なところ、范救と逼安の一件があってから私は謝霊に会うのが億劫になっていた。逼安が私やレスター警部の目の前で死んだあのとき、謝霊は遠回しにでも彼を死なせておけと言い放ったのだ。しかし私に言わせれば、罪人は生きているうちに法によって裁かれ、その上でいつか泰山に参上したときに更なる償いを言い渡されるべきだ。それにあの場で何の手も貸さないというのが私には理解できなかった。結局あのとき謝霊は、応援の警察官たちとすれ違うように出てきて布で覆われた逼安の死体を一瞥しただけだったのだ。
 あれ以来、私は謝霊に会っていない。会ったところで、せっかく彼を信頼しかけていた心に生じた疑念をぶつけない自信がなかったからだ。
 夕刻、仕事が終わる間際にまた私宛の手紙が来た。開くと謝霊の文字が並んでいたが、私は昼間の手紙と合わせて今度こそ楊紫香のかまどに投げ入れた。
「あんた、せっかく私ら以外の付き合いができたっていうのに捨てちまうのかい?」
 ちょうど夕食の準備をしていた楊紫香にお小言を食らったが、私はきっぱりかまどに背を向けた。
「いいんだ、楊阿姨ヤンおばさん。今はあいつには会いたくない」
「あんたねえ。いっつもそうやって会いたくない、気が向かないって言うけどさあ、故郷の人間にも会わないわ地元の友だちも作らないわ、ようやくできた友だちも無視するわじゃ将来ろくなことにならないよ。それに結婚だって考えなきゃいけない年なんだし、男の友だちさえいないのにどうやって女の子を探すんだい?」
 私はぐるりと目を回して
「だから結婚はまだいいって言ってるじゃないか」
 と言い返した。
「それに友人だって欲しくないし北京の人間にも会いたくない。とにかく嫌なんだよ、楊阿姨……あれこれ詮索されるのはまっぴらだ。連中が家族のことを聞いてきたら、私は何て答えたらいいんだ?」
「……そんなこと、馬鹿にしない奴と付き合えば良いだけじゃないか」
 楊紫香がため息をつく。
「その謝霊って子とも、まさかそれで喧嘩したのかい?」
 楊紫香の問いに私は首を横に振った。
「いいや。うちのことはまだ聞かれてない。喧嘩したのは別の理由だけど、とにかく今は会いたくないんだ」
 私はこう言い切ると、さっさと厨房を後にした。

ところが翌朝、いつもの新聞配達の少年が新聞と一緒に私宛の手紙を渡してきた。昼前には店の裏で野良猫が大量にたむろしているのを楊紫香が追い払い、夕方にはまた手紙が来て、夜にはなんと半地下の寝室の窓枠に長身の白猫が現れて居座り始めたではないか。いかにも同情を誘う声で鳴いている白猫は他でもなく七白だった——しかし私は、寝床から七白を一瞥すると寝返りを打って窓に背を向けた。そんな手に応じるほど私も甘くないということを思い知らせてやりたかったのだ。
 ところが七白は、無視されたと見るや窓の硝子を爪で引っ掻き始めた。それも無視して眠ろうとしたものの、あまりに耳障りなその音に耐えかねて、私は飛び起きて窓をバンと叩いた。
「うるさい!」
 七白は驚いて窓から去っていった。
 だが、謝霊はその次の日もしつこく私に手紙やら猫やらを寄越してきた——八黒まで動員されているのは驚きだったが、七白とは裏腹にじっと静かにしている八黒はかえって無視しにくい。無理やり眠りについた私の夢には謝霊その人が出てきて、結局よく眠れないまま夜明けが来てしまった。
 四日目にもなると他の従業員たちが根負けして、私は頼むから手紙の送り主に会ってくれと懇願されてしまった。サー・モリソンにまでいい加減にしろと言われてしまい、ついに私は会長命令で謝霊の事務所を訪ねることになった。

 そういうわけで、私は道ゆく人々を避けるように道の端を足早に通り、少し寂れた四階建てのビルの前に到着した——ここの二階こそが、謝霊の探偵事務所だ。
 億劫ではあったが、ここまで来たからには彼に会わないといけない。私はため息をついてから、玄関の扉を叩こうと手を伸ばした。
 その途端、扉が中から開けられた。私は驚き、右腕を浮かせたまま固まったが、扉の中にいる謝霊の様子に完全に腕を下げる機会を失ってしまった。
 いつもは人の良い笑みを浮かべている謝霊がしかめっ面で歯を食い縛り、目元を苛々と歪ませている。
「遅い」
 謝霊は刺々しい声で言い放つと、浮いたままの私の右手を掴んで中に引きずりこんだ。
「何回も手紙を送って、七白と八黒まで呼びに行かせたのに、どうしてもっと早く来てくれなかったんですか?」
「どうしてって……私も暇ではないんです。一体何があったんですか?」
 謝霊は早口に詰め寄りながら、長い脚で一段飛ばして階段を登っていく。手首を掴まれたままの私は転ばないように必死でついていかなければならなかった——しかし、その困惑は事務所の光景によって一新されることになる。
 あの夏の昼下がり、初めて彼を訪ねたときのことを忘れることはない。しかしこの日、事務所の様子は様変わりしていた。
 締め切られていた窓の帳が全て開けられ、部屋中に散らばっていた呪具がきれいさっぱり消えている。七白と八黒は揃って部屋の隅に身を寄せて、まるで部屋を歩き回ることを禁止されたかのように周囲をおどおどと見回していた。机の上から棚の上まで、あらゆるものが片付けられた部屋は私の想像よりもずっと広かった。
「……本当に、何があったんですか。謝霊兄」
 私が呆気に取られて尋ねると、謝霊が答えるよりも先に居丈高な声がした。
「それは彼にとって大切な客人が来るからだよ、張慧明君」
 そこで私は初めて部屋に人がいることに気が付いた。それも来客用の長椅子ではなく、謝霊が座る方の肘掛け椅子に悠々と座っている――
 立ち上がり、振り返ったその人物は西洋風の杖をくるりと回すと、自信たっぷりな笑みをこちらに向けて会釈した。
「私は謝霊の兄の謝伸シエシェンだ。今日は可愛い弟に用があって来たのだが、まさか仲間がもう一人増えるとは思ってもみなかったぞ」
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