僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

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「おーい、椎名」
 
 その時、背後からいやに悲しげな弱々しい声が聞こえてきた。

「高山」

 振り向くと、同じクラスの高山が青ざめた顔で立っていた。
 いつも陽気な男なのに、珍しく眉間に深いシワを寄せ、ヴァイオリンケースを持つ手も震えている。

「どうしたんだ、お前? すごい顔だぞ」
「昨夜寝てないから……全然」
「寝てないって……何でまた?」

 哲朗が慌ててベンチから立ち上がると、高山はこらえきれなくなったように泣き出した。

「彼女に……ふられちゃったんだ!」

 高山には高校時代からつき合っている恋人がいるのだが、最近とある合コンで「お持ち帰り」したことがばれてしまったという。

「悪気はなかったんだ。ノリっていうか、たまたまそうなっちゃっただけで――」
「そりゃまずいだろ」
「うるさい。ハンターのお前に言われたくないよ。それよりさ」

 腫れぼったい目元をゴシゴシこすってから、高山は「ほら」と言って、哲朗の目の前に白い封筒をつき出した。

「何だ、これ?」
「ジーン・マックスウェルの演奏会のチケット。今夜なんだけど、彼女と行けなくなったから、お前にやる」
「……いいのか」

 ジーン・マックスウェルはイギリスの若手ヴァイオリニストで、日本での人気も高く、公演チケットは常に即日完売してしまう。

「やるって……いや、悪いよ。せっかくだから一緒に行こうぜ」
「やだよ。彼女がマックスウェルのスプリングソナタを聴きたいっていうから、がんばってチケットを取ったんだ。今そんなの聴いたら、泣いちまうだろ」
「えっ?」

 哲朗は急いで封筒を開いてみた。

 中には今夜七時開演のS席チケットが二枚と、チラシが入っていた。
 プログラムにはシューマンとドビュッシーのソナタに加えて、確かにベートーヴェンの第五番も載っている。

 共演のピアニストはヴィクタ―・ネルソン。こちらもかつて数々の国際コンクールを総なめにした実力者だった。

「椎名にやるから、ほら、誰かと行けよ」
「そ、そうか」

 高山に言われるまでもなく、一番に脳裏に浮かんだのは調の顔だった。

 彼女と一緒にコンサートに行けたら、どんなに楽しいだろう。

 それにマックスウェルとネルソンのアンサンブルなど、そうそう聴けるものではない。演目には『春』も入っているから、きっと調も興味を持つはずだ。

「悪いな、高山」
「いいって。俺の分まで楽しんできてくれ」
「後で必ず礼はするから」

 哲朗は高山にチケット代を払い、調を探すためにそそくさとその場を後にした。
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