僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

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 ――じゃあ、また。
 ――うん、また明日ね。お休み、椎名くん。

 翌日の昼休み、哲朗は食事を取る気にもなれず、ひとりで中庭のベンチに腰かけていた。

「お休み……かあ」

 昨晩の調とのやり取りを思い出すと、自然にうなだれてしまう。
 せっかく彼女と手を重ねてスプリングソナタを聴いたというのに、結局その後はいつもと何も変わらなかった。

 調ともっと一緒にいたかったし、公演後に飲みに誘おうとも思ったが……実際はできなかった。厳格な真山教授が娘の夜遊びを許すはずもないからだ。

 とはいえ、それが正解だったのかもしれない。あのまま調と一緒にいたら、自分は何をしでかしたかわからない。

 彼女の柔らかな手を離したくないと思ってしまったのだ。もしかしたら前にホテルでしたみたいにキスをして、抱きしめて――。

「いや! いやいやいや!」

 哲朗は目が回りそうなほど強く頭を振った。

 それはない。
 調に抱いているのはあくまで尊敬やあこがれであって、恋愛感情ではないはずだ。だいたい女の子と遊ぶのはもうやめたのだ。

 だが、だったらどうしてこんなにがっかりしているのだろう? 自分の気持ちがまったくわからない。

 自分が情けなくて、大きくため息をついた時だった。

「あっ!」

 目の前の人波を縫うようにして、蒼白な顔をした滝沢が現れたのだ。唇を引き結んだ厳しい表情で、一直線にこちらに近づいてくる。

 ただごとではない雰囲気を感じて、哲朗は思わず立ち上がった。

「滝沢さん、あの」

 懸案の調のパートナーで、しかもなぜだかひどく怒っているらしい相手を前にして、哲朗は言葉を失ってしまう。

 だが次の瞬間、頬に熱感が走り、パアンという派手な音が響いた。
 哲朗は滝沢から頬をはられてしまったのだ。

「な、何するんですか?」

 突然のことで、何がなんだかさっぱりわからない。
 しかし滝沢が再び手を振り上げたので、哲朗はとっさにその腕を押さえた。

「ちょっと……何なんですか、いきなり?」
「離せ、椎名!」

 気がつけば、学生たちがざわめきながら足を止めて自分たちを遠巻きにしている。

 哲朗はひどくバツが悪かった。こんな扱いを受ける覚えはまったくない。

「ほんとに最低だな、椎名。お前にはモラルってものがないのか?」
「はあ?」
「とぼけるな。真山調のことだよ。彼女に手を出すなんて、いったいどういうつもりだ?」

 滝沢は苦々しげに吐き捨てた。

「僕たちはうまくやっていたんだ。椎名が急に割り込んでくるまでな」
「滝沢さん、何か勘違いしているんじゃないですか」

 モラルがない――いきなりの戦闘モードの原因は、調らしい。けれども滝沢が言うようなことは起きていないのだ、少なくとも今はまだ。

「ふざけるな! お前のせいで調は急に――」

 はられた頬がジンジンと疼く。

 哲朗は滝沢の腕を離して、鋭くにらみつけた。『調』と聞いて、いても立ってもいられなくなったのだ。

 不安は当たっていた。滝沢は哲朗と調が親しくなったことを知り、こんな暴挙に出たらしい。
 もし自分みたいに調も殴られていたらどうしよう。

「かわいければ誰でもいいのか? なにしろハンターだもんな。男慣れしていない調も食ってみたくなったのか?」
「滝沢さん、いいかげんにしてください!」

 すでに周囲にはかなり人が集まっている。もう騒ぎを大きくしたくなかった。それ以上に哲朗は調のことが心配だった。

「もう行きます。用があるので」
「待てよ。逃げる気か」

 今度は滝沢が腕をつかもうと手を伸ばしてくる。それを素早く振り払い、哲朗はきっぱり言った。

「ハンターとか、マジで意味わかりませんよ。それに俺、真山さんのことは本気ですから」

 滝沢が気圧された様子で黙り込む。一方で、辺りにはどよめきが広がった。

「覚えていてください。俺、真山さんが好きです。本気です。誰よりも大切にしたいと思っていますから」

 滝沢に背を向けて哲朗が歩き出すと、人の輪がくずれたが、みな一様に呆気に取られているようだった。

 ――俺、真山さんが好きです。本気です。

 けれど誰よりも驚いていたのは、そう口にした当の哲朗本人だったのだ。
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