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天空のノクターン

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 当時のことを、千晶はあまりよく覚えていない。事後処理やさまざまな手続きに追われていたし、とにかく残された順を守ることで必死だったのだ。
 あいにく父にはもともと持病があり、母も事故のショックでひどい鬱状態になってしまった。幼い順の面倒を見られるのは千晶しかおらず、取りあえず一緒に暮らし始めたが、それが今も続いている。
 幸い事故の前からなついていたとはいえ、状況が落ち着くまでは本当にたいへんだった。保育園の手配など事務的な作業が多かった上、両親を失った順はずっと不安定で、目が離せない日が続いたのだ。
 千晶自身もストレスがたまって、恋人との関係もギクシャクし始め、結局別れてしまったくらいだ。
 けれど失ったものは二度と戻らない。だからどんなにつらくても前に進むしかないし、今までもそうしてきたつもりだった。

(もうすぐ一年か)

 千晶は順の手を取り、悲しい過去を振り払うように小さくかぶりを振った。
 その時、アンジェロが新しい曲を弾き始め、千晶は反射的に顔を上げた。

「これって――」

 ショパンの『ノクターン第二十番嬰ハ短調』――以前ヒットした映画でも使われていて、数ある夜想曲の中でも有名な作品だ。
 遺作とも言われ、ゆったりしたもの悲しい単調で始まるが、途中から光が差すように転調して、最後は希望を感じさせる旋律で終わる。千晶も大好きな曲で、昭からもらったCDにも収録されていた。
 事故後のつらく苦しい日々、何度このノクターンに慰められたことだろう? 悲しくて、やりきれなくて、心が折れかけた時には聴かずにいられなかった。もう無理だと思っていても、美しいメロディーに浸って、ひとしきり泣くと、なんとかまた立ち上がることができたのだ。
 ふとピアノの方を見やると、アンジェロと視線が合った。それだけでなく揺れる心を察したかのように、大きく頷いてくれた。
 もちろん彼は今、この曲をパーティーに集まった客たちのために弾いている。それでも千晶は、なぜかアンジェロから語りかけられているような気がしてならなかった。

 ――お疲れさま、千晶。君は本当にえらいね。よくがんばっているね。

 透き通った旋律に身を委ねていると、彼に優しく肩を抱かれているような、ふしぎな安心感を覚えてしまう。

(ばかね。そんなはずないのに)

 やがて曲が終わり、アンジェロが笑顔で立ち上がった。
 たちまち歓声がわき起こり、千晶も席を立って、順と共に大きく拍手した。
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