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セレナーデを君に

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 エントランスの前に立ち、千晶は手に持ったチケットを見直した。
 いくら確認しても、日にちも、時間も、もちろん会場も間違っていない。確かに今日ここで、アンジェロのリサイタルが行われることになっているのだが――。

「どういうこと?」

 ふつうなら開演三十分前ともなれば、すでに会場には大勢の人が集まり、プログラムを買ったり、自分の席を探したりしているものだ。

 ところが周囲には誰もおらず、そもそもリサイタルの看板さえ出ていなかった。それでいてホールの扉は大きく開かれ、内部も明るくて、今にも演奏会が始まりそうな雰囲気が漂っている。

(私、どうすればいいの?)

 千晶は大きな花束を抱えて、途方に暮れていた。
 今日着ているオレンジ色のワンピースは、以前チャオチャオのオープニングパーティー用にとアンジェロが買ってくれたものだ。彼に敬意を表したくて、せいいっぱいおしゃれをしてきたつもりだった。
 それなのに笑顔で出迎えてくれるスタッフもいなければ、花束を預けるクロークも無人だ。いくらチケットを持っているからといって、そんなところへ入ってもいいのだろうか?
 やはり手違いがあったのかもしれないと思い始めた時、背後で足音が聞こえた。

「誰?」

 反射的に振り返ると、黒のタキシード姿のアンジェロが歩いてくるのが見えた。

「ボナセーラ、千晶。ようこそ、僕のリサイタルへ」
「……アンジェロ?」

 アンジェロは少し顔を赤らめ、「この前は申しわけなかった」と深く頭を下げた。

「そ、それはもういいの。あの、ご招待ありがとう。あの、あなたにお花を持ってきたの」
「グラッツェ、千晶。とてもいい香りだね」

 千晶の困惑には気づいているはずなのに、アンジェロはごく自然に振る舞っていた。無人の会場をいぶかしむ様子もなく、花束に顔を寄せて、うれしそうに笑っている。

「それじゃ演奏会は本当にあるのね?」
「もちろん」
「でも、ここには私たちの他には誰もいないけど」

 千晶の問いかけに、アンジェロは「そうだね」と大きく頷いた。

「僕たちだけだよ。今夜の観客は君ひとりだから」

      *  *  *  *

 はじまりの曲はエチュードの『エオリアン・ハープ』だった。
 アンジェロはピアノの屋根に花束を置いて、時おり千晶を見つめながら鍵盤に長い指を走らせている。
 プログラムはマズルカ、ワルツ、スケルツォと次々とショパンの名曲が続いた。しかし四百人収容の広いホールで、その演奏を聴いているのは千晶だけだ。
 時に優しく、時に情熱的に、アンジェロが紡ぐ旋律はきらめきながら弾けて、空気に溶け込んでいくような気がした。
 ――千晶、僕の千晶。

 改めて言葉にされるまでもなく、その一音一音が彼のひたむきな想いを訴えていた。

 ――何も考えなくていい。どうか怖がらないで、ただ僕のそばにいてほしい。

 さらに音楽に導かれるまま身を委ねて、どれくらい時間がたっただろう。
 アンジェロは今、千晶を見つめながら、一度も耳にしたことがない曲を弾いていた。
 切なく透明な調べが、子守歌のように優しく全身を包んでいく。気がつけば、千晶の頬は涙で濡れていた。

「これは『ベリッシマ』。僕が初めて作った曲で、誰よりも美しい女性という意味だ。君のことだよ、千晶」

 アンジェロはピアノの蓋を閉じると、ステージから下りて近づいてきた。

「あきらめが悪くて申しわけない」

 かすかに震えながらも、その視線は千晶から離れようとしない。

「だけど愛しているんだ。ティ・アモ、千晶」
「言ったはずよ、アンジェロ。私は亡くなった義兄を――」
「それは嘘だ」

 千晶を遮って、アンジェロが穏やかに、しかし決然と言い放つ。

「順が教えてくれた、ちあちゃんが時々泣いてるって。僕に電話してきたんだ」
「順が?」
「それからもし喧嘩しているなら、早く仲直りしてほしいと頼まれた」

 アンジェロは千晶の前まで来ると、ゆっくりと跪いた。

「何するの、アンジェロ?」
「君がいつも笑顔でいられるよう、僕のすべてを捧げる。どうか妻になってほしい」

 足に力が入らず、千晶は椅子の手すりにすがるようにして立ち上がった。

「私は――」
「ラ・ミア・プリンチペッサ、どうかお願いだ」

 本当はよくわかっていたのだ。五つも年が上で、小さな甥を育てていて、外国や貴族はもちろん、セレブとさえ縁がない――そんな自分でもアンジェロから離れたくない、どうしても離れられないことを。

「ティ・アモ、アンジェロ!」

 千晶は何度も頷いて、アンジェロの胸に飛び込んだ。
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