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花胤の陰陽 〜花鳥風月奇譚・1〜
ー出逢いー
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それから何事もなく、十七年の月日が流れた。あの時、第五皇女とされた子は鴻夏、第三皇子とされた子は凛鵜と名付けられ、出産を機に体調を崩した翡雀皇后と共に、離宮でひっそりと暮らしていた。
それでもごく稀に参加する宮中行事だけで、母譲りの美し過ぎる双子の容姿は周辺諸国にも知れ渡り、いつの間にか国内外問わず『花胤の陰陽』とまで称されるようになっていた。
まるで空に輝く太陽のように、その存在だけで周りを明るく照らし出す鴻夏皇女、一方 月のようにもの静かで知的な美しさを醸し出す凛鵜皇子。
絶世の美女と呼ばれた翡雀皇后そっくりの目鼻立ちに美しい黒髪と金の瞳、父譲りの真珠色の肌を持つこの双子は、花胤皇家最大の禁忌でありながら、その美貌ゆえに他国にまでその名を轟かせていた。
そしてその噂は広く世界に知れ渡り、それ故に花胤国には双子に一目会いたいと訪れる客人が絶えない状態が続いている。
だが当の本人達にとっては、噂は迷惑でしかなく、弟の凛鵜皇子の病弱を理由に離宮に引きこもる事で、なんとか周囲の好奇の視線を躱し続けている。
しかし双子もすでに十七歳、いわゆる結婚適齢期に入ってきていて、皇子として育てられている凛鵜はともかく、皇女として育てられてきた鴻夏には、すでにお見合い話がひっきりなしに舞い込むようになっていた。
このままではいつ父皇帝の命令で、嫁ぎ先が決まってしまうかわからない。
だがいくら母譲りの女と見紛う顔立ちとはいえ、身体は正真正銘の男。
小さい時ならいざ知らず、大人になるにつれ次第に誤魔化すのが難しくなってきていた。
唯一の救いは花胤の貴族の女性の衣装が、幾重にも着物を重ねるタイプのため、体型をわかりにくくしてくれていることである。
むしろそのお陰で、今までバレていないと言ってもよかった。
だが実際の性別が男である限り、普通の皇女として嫁に行くわけにはいかず、かと言って今更真実を明らかにして皇子に戻るわけにもいかず、鴻夏はどうする事も出来ず、日々を不安に過ごしていた。
母皇后と弟皇子と過ごすこの平穏な日常をいつまで続けられるのか…心のどこかで不安を抱えながらも、鴻夏は表面上は気丈で明るい皇女として振る舞っていた。
そしてそんな鴻夏の唯一の楽しみは、月に数度本来の男の姿に戻り、身分を隠して街に出る事であった。この時ばかりは皇女としてのしがらみから離れ、一人の人間として伸び伸びと過ごせる。
また身体の弱い弟、凛鵜皇子の代わりに街の様子を見て、それを帰った後に話して聞かせるのも双子達の密かな楽しみであった。
薄いガラス片を使い目立つ金の瞳を黒くし、髪もカツラで短くして、平民の男の子の服を着る。肌も多少日焼けしたかのように茶色くし、頰にはたくさんのそばかすを散らして、鴻夏はどこにでも居そうな下街の男の子に変装していた。
「それじゃ、行ってくるね」
にこやかにそう告げると、見送りに来ていた凛鵜が、仕方ないと言わんばかりの顔でこう告げる。
「気をつけて、鴻夏。最近街には、ガラの悪い連中がウロついているらしいから、くれぐれも危ないところへは行かないでね」
「わかってるって。正体がバレるわけにはいかないからね。適当に数時間過ごしたら、戻ってくるから」
ヒラヒラと元気良く手を振ると、鴻夏は勢いよく地を蹴けり、身軽に塀を乗り越えた。
そして一度だけ弟の方を振り返ると、目配せ一つ残して壁の向こうに消える。
それを表面上は穏やかに見送ると、凛鵜はスッとその表情を一変させた。
「…秀鵬」
「これに」
凛鵜の呼びかけに、どこからともなく黒づくめの筋骨逞たくましい男が現れ、その足下に跪く。母皇后の実家である月鷲皇家から秘密裏に使わされた密偵に、凛鵜は迷わず命令を下した。
「姉上を警護せよ。近頃は国外から多数の良からぬ輩が入り込んでいると聞く。世間知らずの鴻夏がうっかり捕まろうものなら、大事になる」
「…そう思われるのでしたら、出掛けるのをお止めするべきではございませんか?」
鬱蒼とした表情で文句を告げる密偵に、凛鵜が冷たい視線を投げかける。人を従える側に居る者独特の高慢な視線を向けると、凛鵜は先程までの姉に向けていた優しいものとはまるで違う酷く冷めた口調でこう告げた。
「僕は姉上を警護しろと言ったんだ。意見を述べろとは言ってない」
「…失礼しました。仰せのままに」
深々と頭を下げると、スッと現れた時と同じく唐突にその姿が消える。
密偵が鴻夏を追って消えたのを確認し、凛鵜は自らの心臓を押さえて壁際に崩れ落ちた。
いつもの発作だ。生まれつき弱いこの身体は、少し激昂しただけですぐこうなる。
搾り取られるような胸の締め付けと共に、息が上がって全身から冷や汗が吹き出す。
それを歯痒く思いながら、凛鵜は鴻夏の消えた壁の向こうに視線を向けた。
「…止めるのは簡単…。でも籠の鳥にしてしまったら、それはもう鴻夏ではない…」
ポツリと誰に聞かせるでもなくそう呟くと、凛鵜はヨロヨロと壁伝いに歩きながら、ゆっくりと姿を消した。
そんな弟の心配を余所に、鴻夏はいつものように下街で評判の食事処に顔を出していた。
ここは初めて街に遊びに出た時からの馴染みの店で、鴻夏は街に出たらまずここに寄る事に決めている。
さほど広くない店内を所狭しと客が押し寄せ、古今東西の色々な情報が飛び交うこの店は、多少訳ありの人間が出入りしてもあまり目立たない。しかも離宮には入ってこない、様々な情報が手に入るとあって、鴻夏はいつも食事がてらこの店での情報収集に勤しんでいた。
今日も慣れた様子で中に入ると、見知った顔の常連が次々と声をかけてくる。
「よぉ、璜じゃねぇか!久しぶりだなぁ」
「あんまり来ないから、どっかでのたれ死んだかと思ってたぞぉ?」
酔っ払って真っ赤な顔で絡んでくる客達を適当に躱しながら、何とか店の奥まで辿り着く。
すると目敏くこの店のオヤジが気づいて、声をかけてきた。
「よぉ、璜!久しぶりじゃねぇか」
服の上からでもはっきりとわかるほど盛り上がった筋肉に、顔の半分を覆う黒い髭、目は大きくぐりっとしていて、いかにもこんな店に居そうな無骨で荒々しい雰囲気の店主である。
だがそんな無骨な見た目と裏腹に、非常に面倒見が良い事でも有名なこの店主には、鴻夏もこの店に通い始めた当初から何かと世話を焼いてもらっていた。だから声を掛けられ、自然と鴻夏の顔も自然とほころぶ。
「…久しぶり。相変わらず繁盛してるみたいだね」
「まぁな。安い、うまい、楽しい!この三拍子が揃そろってて、客が来ないわけがねぇわな」
ガハハと豪快に笑うと、すぐに俺からの奢りだと溢れんばかりの酒の入った木の酒杯が目の前に差し出される。
それを苦笑いしながら受け取ると、鴻夏はグイッとその酒に口をつけた。すると店のオヤジがスッと近寄りこう告げる。
「…それはそうとな、璜。来たばっかりで悪いんだが、お前に一仕事頼みてぇんだが…」
「最初からそれが目的かい?俺が断りづらいよう、わざとこの酒も出したんだろう?」
「へへ、まぁな。ちっとばかしあそこに稼ぎすぎてる客が居てな。いつものように帳尻合わせをお願いしてぇんだが…」
ニヤニヤと笑いながら、オヤジが指差す先にはちょっとした賭場がある。旅人同士で自由に掛け合う形式だが、暗黙の了解でお互いほどほどにしか稼がないのが規則になっている。だが稀にそれを知らず、やたらと稼ぎすぎる馬鹿が出るのだ。
璜こと鴻夏のここでの仕事は、そういった客から稼ぎすぎた分を取り返す事。
馴染みのオヤジに頼まれては断れないなと思いつつも、久しぶりの賭け事に鴻夏は気分が高揚するのを感じていた。
「わかったよ、オヤジさんの頼みだしな。この酒の分くらいは働くぜ?」
「そう来なくっちゃ!…頼みたいのはあの左端の卓にいる外套を着たあの男だ。さっきからやたらとツキまくってて、このままだと店の方が大損しちまう」
そう言って店のオヤジが指差したのは、どこにでも居そうな平凡な男だった。
暗くて顔はよく見えないが、亜麻色の髪の中肉中背の男である。髪色から外国人なのはすぐわかったが、卓上に並ぶ硬貨の多さにさすがの鴻夏も目を見張った。
「…イカサマって事はないのかい?」
「俺もそう思ったんだが、いくら見ててもタネがまったくわからねぇんだ。証拠もないのに勝負を止やめさせることもできやしねぇし…」
「わかった…。いつも通り俺の取り分も忘れるなよ」
悪戯っぽくそう言うと、鴻夏はスッと件の男の卓に近寄った。そしてドンッとその卓に自分の杯を置くと、男に向かって挑戦的にこう告げる。
「よぉ、お兄さん。随分と羽振りが良さそうじゃないか?」
わざと煽るようにそう言いながら、改めて間近で男の顔を見る。ここまで荒稼ぎするのはどんな奴かと思ったら、意外にも男はとても上品そうな容姿の優男だった。
顔は割と整っているように思うが、どちらかというと印象の薄い、人混みに紛れたらすぐ見失いそうなひ弱そうな男である。
おそらくその風貌から察するに、荒っぽい男らしい仕事とは無縁の、商人や学者、下っ端役人と言ったところだろう。
だが卓の上に並んだ硬貨の数が、男がただの優男ではない事を告げている。
それなりに警戒しながら相手の反応を伺っていた鴻夏だったが、その男は予想に反し、実にのんびりした口調でこう答えた。
「おやおや…この店では子供も賭場に入れるのかい?好奇心旺盛な年頃なのはわかるけど、あまり感心しないね」
口調そのままに、まったく悪気の無さそうな顔で男がそう言うと、賭場全体がドッと笑いに包まれる。年齢こそ若いが『振り師の璜』と言えば、この店では一、二位を争う腕前の賭博師だ。だからそれを知っているこの店の常連達は、決して鴻夏を子供扱いしない。
だが明らかに旅人と思われるこの男が、そんな事実を知るはずもなく、見た目だけでそう判断されても仕方ない事だった。
しかし子供扱いされた鴻夏の方は、わかってはいても面白くない。
誰の目から見ても明らかに不機嫌になると、鴻夏は更に挑戦的な態度でこう言った。
「…言ってくれるじゃねぇか。あんたより俺の方がここじゃ古参だぜ?」
年齢に合わないドスの効いた声でそう脅すが、男の態度はまったく崩れない。
それどころか飄々とした雰囲気のまま、のんびりとこう返してきた。
「そりゃあ私は旅人だからね?今日この都に着いたばかりの私よりは、生まれたばかりの赤ん坊でも古参だろうさ」
あくまでもふざけた男の答えに、さらに賭場に笑いが起こる。自尊心を大きく傷つけられた鴻夏は思わず叫んでいた。
「人を子供扱いすんな!俺と勝負しろ!俺がホントにそこらの子供と同じかどうか、その目で確かめてみな!」
威勢のいい鴻夏の啖呵に、ワッと周囲が盛り上がる。
久し振りに『振り師の璜』の腕前が見られるとあって、賭場は一気に活気づいた。
しかし受け手の男はというと、あくまでものんびりとした態度を崩さない。それどころかいかにも気が進まなそうにこう答えた。
「…君が私と勝負するのかい?」
「そう言ってるだろ?」
「幾らで?」
「そこにある、あんたの勝ち金全部で。あんたが勝ったら、ちゃんと俺がその倍額を払うよ」
「…君に払えるような額だとは思えないけど?」
そう男が切り返した時、すかさず店のオヤジがこう言った。
「安心しな、兄さん。璜はうちの店のモンだ。璜が負けたら俺が払うさ」
「…オヤジさん…」
鴻夏が嬉しそうに店のオヤジを振り返る。
その視線を受け、オヤジはニッと笑うと重ねて男にこう言った。
「どうだい?これでもまだ勝負は受けれないか?」
「…いいだろう。どうもこれは断れない勝負らしいしね」
男が諦めたようにそう呟くと、さらに周囲がドッと活気づいた。中には自分の勝負はそっちのけで、慌てて特等席を確保しようと席を立つ者が出てくる。
それと同時に先程まで旅人の男と勝負していた男達が席を譲り、鴻夏は意気揚々と男の正面の席についた。
それに対し、男はあくまでも冷静にこう尋ねてくる。
「…何で勝負するんだい?賭け札?賽子?」
「賽子で。俺は賭け札より賽子の方が、好きなんだ」
「その年齢で言う台詞じゃないね…。使う数は?」
「二個…いや三個かな。その方が公平性があるだろう?」
ニヤリと笑って見せると、男は『いいだろう』と答えて、卓の上の賭け札を片付け始める。
すぐさま賽子と振り壺つぼが用意され、二人の周囲はあっという間に野次馬で埋め尽くされた。
この勝負、鴻夏が賽子を選んだのは、それなりに訳があった。一つ目はこの男が賭け札で大勝していたこと。何の仕掛けを使っているかわからない上、卓に並ぶ硬貨の数が尋常でないところを見ると、相手の得意な物と考えて間違いない。
よくわからない相手の土俵に乗って、大敗を喫するわけにはいかない鴻夏は、まず賭け札を使う事を拒否する必要があった。
二つ目は賽子を使う事で、相手にこれは公平な勝負であると思わせること。
実は賽の目を自在に操れる鴻夏にとって、#賽子の数がいくつであろうとも、好きな目を出すのは造作もないことであった。
ちょっと相手に悪い気もするが、鴻夏もここで負ける訳にはいかないので、万全を期して臨む必要がある。
しかしここまではこしかこの思惑通りに事が進んだが、その後に男が出してきた条件が、鴻夏の予定を狂わせた。当たり前の事だが、男もイカサマを警戒してこう提案してきたのだ。
「さて君の望み通り、勝負方法と賽子の数を決めたわけだけど、私の方も勝負方法に関してお願いがあるんだけど、いいかな?」
「…どうぞ」
「ありがとう。じゃあまず一つ目は、賽子を振るのはお互いではなく、他の人にしてもらう事にしたい」
ザワッと周囲がどよめく。賽子が振るのであれば、いくらでも出目の操作を出来るが、他人が振るのであれば話は別だ。
こうなってくると、鴻夏自身も純粋に出目を予想しなければならない。
一つ目の条件で一気に優位性を潰された鴻夏は、内心腹ただしく思いつつも、それを見事に隠してこう答えた。
「…いいぜ。他には?」
「賭ける瞬間は、賽子が投げられた後でお願いしたいね。振る前だと、君に都合の良い目に操作される可能性があるからね」
ニコッと悪びれずにそう言うと、男は鴻夏の答えを待った。ここまで条件をつけられると、もはやお互いの運次第である。
確実に勝ちに行きたかった鴻夏としては、予定外もいいところであった。
しかし自分から仕掛けておいて、ここで引き下がるわけにはいかない。
チラッと返答前に店のオヤジに視線を投げると、オヤジは鴻夏の言わんとする事を読み取り無言で頷く。それを了承と受け取ると、鴻夏は男に向き直りこう言った。
「いいぜ。じゃあ始めよう」
「…お手柔らかに頼むよ」
のんびりと男がそう言った。
賽子を振る相手を適当に決め、細かい勝負の方法を決めていく。協議の結果、丁半(偶数・奇数)の三回勝負で男から先に選べるのが二回、鴻夏から選べるのが一回となった。
二分の一の確率とはいえ、出来れば二回選べる方を取りたかったが、賭け札を使ったクジであっさりと男に取られてしまった。
どうも何かと謎の多すぎる相手だが、やれるだけやるしかない。
「それじゃ、始めようか」
自然と気分が高揚するのを感じながら、鴻夏はそのまま男との勝負に挑んだ。
カラカラと賽子の音が鳴る。
その音を聞きながら、男が冷静に自分の賭ける側を選んだ。
「丁[偶数]で」
「じゃあ俺は半[奇数]だな」
タンッと卓に振り壺が伏せられる。
皆の視線が集まる中、そっと開かれた中身の目は四・三・五の丁だった。途端にドッと周りが騒ぎ出す。
「丁だ!男の勝ちだ!」
「なんの、璜!これからだぜ!」
そう言った野次を聞き流しながら、鴻夏は冷静に男に告げる。
「…まずはあんたの一勝だな」
「運が良かったようだね」
相変わらず読めない笑顔で男がそう返す。
すぐに次の賽子が振られ、今度は鴻夏が先に賭ける番だった。
「半だ!」
「じゃあ私は丁で」
カランカランと高い音が響き、再びタンッと壺が卓に伏せられる。自然と皆の注目が集まる中、壺がゆっくりと開かれ、目の前に賽子が現れた。
「六・二・三の半だ!璜の勝ちだ!」
ワッと周りが結果に盛り上がる。
それをどこか遠くで聞きながら、鴻夏は知らず冷や汗を拭った。
『何とか勝負は一対一、次で決まる!』
決意も新たにチラリと男に視線を向けると、負けて追いつかれたというのに、相手は変わらず涼しい顔をしていた。
そのふてぶてしいまでの落ち着きぶりに、鴻夏はなぜか違和感を感じる。
『…こいつ、本当にただの旅人か?』
最初はどこにでも居る優男だと思ったが、今こうして対峙していると、何故か末恐ろしい威圧感さえ感じる。
そして自分の方が良いように、相手の掌の上で転がされてる感が拭えない。
そんな鴻夏の不安を余所に、無常にも最後の勝負が始まる。勝っても負けてもこれが最後!そう思うと自然と周囲にも緊張が走る。
カランカランと甲高く響く音に耳を澄ませていると、ふと卓越しに男と目が合った。
まるで自分を品定めしているかのような、蛇のような目。一瞬ゾッとしたが、すぐに男はニコリと微笑んだ。
その途端、見事なまでに邪悪な気配が搔き消える。そのあまりの豹変ぶりに驚いていると、相手が静かに目を閉じこう呟いた。
「…半で」
その途端、カランッと一際甲高い音が辺りに響いた。それを他人事のように聞きながら、鴻夏は何も答えられない。
『何だ?今の違和感…。一瞬で消えたあの気配…あれは…?』
そう思った時、ドッと周りがどよめいた。
「一・五・四の丁!璜の勝ちだ!」
ワッと周囲が一気に盛り上がる。気がつけば、壺が開けられ賽子の目が衆人の目に晒されていた。
それを信じられない思いで見つめながら、鴻夏は呆然とする。
『…勝った…?まさか…』
ハッとして相手の男を見上げると、そこには何事もなかったように微笑む男が居た。
その顔を見た途端、鴻夏は理解する。
『…違う!勝ったんじゃない、あいつに勝たされたんだ!』
それは確証のない確信だった。おそらく相手には次に出る目がどちらかわかっていた。
勝とうと思えばいくらでも勝てたのに、男はわざと外して鴻夏を勝たせたのだ。
カーッと頭に血が上る。馬鹿にするなと言いたかった。こんな詐欺まがいの勝ち方で、この勝負を終わりにするなんて納得できない!
そう思っている間に、男がスッと席を立った。そして何事もなかったかのように、周囲に向かってこう告げる。
「…どうやら最後の最後で、ツキに見放されてしまったようですね。約束通りこのお金は君のものです。どうぞご自由に」
そう言うと男はあっさりと踵を返し、その場を後にした。鴻夏も慌ててその後姿を追おうとしたが、盛り上がった周囲に揉みくちゃにされ、思った通りに進めない。
「…退いてくれ!通してっ!」
興奮し、大袈裟に賞賛する人々を何とか振り切って外に飛び出すと、鴻夏は慌てて先程の男の姿を探した。
もう夜も遅い時間とはいえ、花胤の首都ともなると、この時間でもまだまだたくさんの人々が行き交っている。
この人混みから目当ての人を見つけられるのかと焦ったが、ほどなく路地を曲がって消えようとしている男の姿を発見した。
その姿を捉えた途端、鴻夏は慌ててその後姿に向かって叫ぶ。
「待て…っ!待ってくれ!」
バタバタと力の限り走って、男が消えた路地を曲がる。表通りと違い、急に人気のなくなった裏路地を男は一人歩いていた。
その後姿に向かって、再度 鴻夏は叫ぶ。
「待ってくれ、そこのあんた!」
その声が届いたのか、ピタリと男の歩みが止まった。そしてほどなくゆっくりと男が鴻夏の方を振り返る。しかし先程と違い、その射すくめられるような強い視線に、鴻夏は思わず立ちすくんだ。
「…何か?もう勝負はついたでしょう?」
ゆったりとした口調で男が告げる。
暗闇の中で、男の薄い翠の瞳が真っ直ぐに鴻夏の姿を捉とらえていた。
それと共にゆらりと陽炎のように、男の周囲に目に見えない何かが立ち昇る。
その何とも言えない不気味な気配を感じながらも、鴻夏は思わず叫んでいた。
「ふざけんなよ!あれが勝負か?わざと負けてもらったって、俺が素直に喜べると思うのかよっ?」
息も荒くそう捲し立てると、男の瞳がほんの少し驚きで見開かれる。途端にスッとよくわからない迫力は消え、男は最初に出会った時と同じく、のほほんとした雰囲気のまま、不思議そうに鴻夏に尋ねた。
「…何の用かと思えば…。別にいいじゃないですか?私があれ以上稼ぐとトラブルになりそうだったんで、手っ取り早く場を収める方法を取っただけです。私が負ければ私は店から恨みを買わずに済む、貴方も店側の依頼がちゃんと果たせる。ほら一石二鳥、なんの問題もないじゃないですか」
淡々とそう語る男に、ふいに鴻夏の怒りが爆発する。ツカツカと男に歩み寄ると、鴻夏は相手の胸倉を掴んでこう叫んだ。
「ふざけんなっ!そんな理由で勝手に勝負を捨てられてたまるかよ!…あれはあんたの勝ちだった。ちゃんと金を返すから、すぐ店に戻ってくれ」
そう鴻夏が告げると、一瞬キョトンとした表情を見せた男は、次の瞬間 突然笑い出した。
予想外の男の反応に今度は鴻夏の方がびっくりして固まると、男はさも可笑しいとばかりに笑いながらこう尋ねてきた。
「…もしかしてそれを言うためだけに、わざわざ私を追いかけて来たのですか?」
「あ、当たり前だろ?他人の金は受け取れねぇよ」
そう正直に答えると、また男が少し笑いつつこう呟く。
「君は意外と真面目なんですねぇ。棚ボタだと思って、黙って受け取っておけばいいのに…」
「だから!俺にも自尊心ってもんがあるんだよ!負けたとわかってて、あんな大金受け取れねぇよ」
そう鴻夏が答えると、男は笑いを堪えつつも少し呆れたようにこう言った。
「別にそこまで気にしなくても…。私の元々の賭け金は銀貨一枚ですしね?銀貨一枚って言ったら、少し贅沢な食事をした程度の額でしょう?」
だから気にする事はないと男は言ったが、言われた鴻夏の方はますます目を丸くしてこう呟く。
「…は?銀貨一枚が、どうやったらあんな大金に化けるんだよ?」
確か卓には、金貨やら銀貨やらが所狭しと並んでいた。どんな倍率で賭けたらあの額になるのか、まったく想像がつかない。
それに対して、男は人差し指を口唇に当てながら、悪戯っぽい笑顔を見せる。
「倍々の法則ですよ。元々私が相手してた連中が、他の客にイカサマ仕掛けて荒稼ぎしてたのでね。それで見兼ねてちょっとばかり相手をしたんだけど、食い物にするつもりの相手に食い物にされたのが気に入らなかったみたくてね。相手側が意地になっちゃって、まぁ私もちょっとばかり意地悪し過ぎちゃっただけなんですよ」
だからまったく気にする事はないと重ねて言うと、男はそれじゃあとまたその場を去ろうとする。それを慌てて引き止めながら、鴻夏は何とかして男に金を受け取ってもらおうと食い下がった。
「…いや、それでもあんたが稼いだ金だろう?あんな大金、あっさり捨てるなんて、あんたそんなに金持ちなのか?」
それがまた予想外の方向の質問だったのか、男の瞳が驚きで見開かれる。
その綺麗な翠の瞳に、自分が映っているのを少し不思議に感じながら、鴻夏は男の答えを静かに待った。それに対し、男がついに根負けしたかのようにこう答える。
「…なかなか頑固ですねぇ、君も。わかりました。そうしたら最初の賭け金の銀貨一枚だけは返してもらいましょう。残りのお金は、イカサマを仕掛けられた他の方々に返して差し上げてください」
「…あんたはそれでいいのかよ?」
やはり今ひとつお金に対して執着のない発言をする男に、鴻夏は重ねてそう尋ねる。
すると男はニコリと笑ってこう答えた。
「…構いませんよ。私は旅人なのでね。あまり大金を持ち歩くと、却って盗賊を呼び寄せてしまい、身に危険が及ぶだけです」
何となく納得出来たような出来なかったようなモヤモヤした気持ちは残ったが、これ以上の譲歩は望めないと感じた鴻夏は、仕方なく男の提案に乗る事にした。
「…じゃあ、これ」
チャリンと手持ちの銀貨の一枚を男に差し出すと、男は素直にそれを受け取り踵を返す。
そしてその場を立ち去りがてら、鴻夏にさらりとこう告げた。
「それじゃあ君もお金の事を店に伝えたら、気をつけて早く家に戻りなさい」
「…だから!俺を子供扱いすんなって言ってるだろ?」
まるで自分の家庭教師のような事を言う男に、鴻夏がむくれる。それに笑いながら手を振ると、今度こそ男は静かにその場を立ち去った。後に残されたのは鴻夏のみ。
『変な奴だったな…。まぁ旅人らしいから、もう会う事もないだろうけど…』
そう思いつつ、鴻夏も踵を返す。
とりあえず店に戻って男のお金の始末をしなければと思いながら、鴻夏も元気よくその場を立ち去った。
それでもごく稀に参加する宮中行事だけで、母譲りの美し過ぎる双子の容姿は周辺諸国にも知れ渡り、いつの間にか国内外問わず『花胤の陰陽』とまで称されるようになっていた。
まるで空に輝く太陽のように、その存在だけで周りを明るく照らし出す鴻夏皇女、一方 月のようにもの静かで知的な美しさを醸し出す凛鵜皇子。
絶世の美女と呼ばれた翡雀皇后そっくりの目鼻立ちに美しい黒髪と金の瞳、父譲りの真珠色の肌を持つこの双子は、花胤皇家最大の禁忌でありながら、その美貌ゆえに他国にまでその名を轟かせていた。
そしてその噂は広く世界に知れ渡り、それ故に花胤国には双子に一目会いたいと訪れる客人が絶えない状態が続いている。
だが当の本人達にとっては、噂は迷惑でしかなく、弟の凛鵜皇子の病弱を理由に離宮に引きこもる事で、なんとか周囲の好奇の視線を躱し続けている。
しかし双子もすでに十七歳、いわゆる結婚適齢期に入ってきていて、皇子として育てられている凛鵜はともかく、皇女として育てられてきた鴻夏には、すでにお見合い話がひっきりなしに舞い込むようになっていた。
このままではいつ父皇帝の命令で、嫁ぎ先が決まってしまうかわからない。
だがいくら母譲りの女と見紛う顔立ちとはいえ、身体は正真正銘の男。
小さい時ならいざ知らず、大人になるにつれ次第に誤魔化すのが難しくなってきていた。
唯一の救いは花胤の貴族の女性の衣装が、幾重にも着物を重ねるタイプのため、体型をわかりにくくしてくれていることである。
むしろそのお陰で、今までバレていないと言ってもよかった。
だが実際の性別が男である限り、普通の皇女として嫁に行くわけにはいかず、かと言って今更真実を明らかにして皇子に戻るわけにもいかず、鴻夏はどうする事も出来ず、日々を不安に過ごしていた。
母皇后と弟皇子と過ごすこの平穏な日常をいつまで続けられるのか…心のどこかで不安を抱えながらも、鴻夏は表面上は気丈で明るい皇女として振る舞っていた。
そしてそんな鴻夏の唯一の楽しみは、月に数度本来の男の姿に戻り、身分を隠して街に出る事であった。この時ばかりは皇女としてのしがらみから離れ、一人の人間として伸び伸びと過ごせる。
また身体の弱い弟、凛鵜皇子の代わりに街の様子を見て、それを帰った後に話して聞かせるのも双子達の密かな楽しみであった。
薄いガラス片を使い目立つ金の瞳を黒くし、髪もカツラで短くして、平民の男の子の服を着る。肌も多少日焼けしたかのように茶色くし、頰にはたくさんのそばかすを散らして、鴻夏はどこにでも居そうな下街の男の子に変装していた。
「それじゃ、行ってくるね」
にこやかにそう告げると、見送りに来ていた凛鵜が、仕方ないと言わんばかりの顔でこう告げる。
「気をつけて、鴻夏。最近街には、ガラの悪い連中がウロついているらしいから、くれぐれも危ないところへは行かないでね」
「わかってるって。正体がバレるわけにはいかないからね。適当に数時間過ごしたら、戻ってくるから」
ヒラヒラと元気良く手を振ると、鴻夏は勢いよく地を蹴けり、身軽に塀を乗り越えた。
そして一度だけ弟の方を振り返ると、目配せ一つ残して壁の向こうに消える。
それを表面上は穏やかに見送ると、凛鵜はスッとその表情を一変させた。
「…秀鵬」
「これに」
凛鵜の呼びかけに、どこからともなく黒づくめの筋骨逞たくましい男が現れ、その足下に跪く。母皇后の実家である月鷲皇家から秘密裏に使わされた密偵に、凛鵜は迷わず命令を下した。
「姉上を警護せよ。近頃は国外から多数の良からぬ輩が入り込んでいると聞く。世間知らずの鴻夏がうっかり捕まろうものなら、大事になる」
「…そう思われるのでしたら、出掛けるのをお止めするべきではございませんか?」
鬱蒼とした表情で文句を告げる密偵に、凛鵜が冷たい視線を投げかける。人を従える側に居る者独特の高慢な視線を向けると、凛鵜は先程までの姉に向けていた優しいものとはまるで違う酷く冷めた口調でこう告げた。
「僕は姉上を警護しろと言ったんだ。意見を述べろとは言ってない」
「…失礼しました。仰せのままに」
深々と頭を下げると、スッと現れた時と同じく唐突にその姿が消える。
密偵が鴻夏を追って消えたのを確認し、凛鵜は自らの心臓を押さえて壁際に崩れ落ちた。
いつもの発作だ。生まれつき弱いこの身体は、少し激昂しただけですぐこうなる。
搾り取られるような胸の締め付けと共に、息が上がって全身から冷や汗が吹き出す。
それを歯痒く思いながら、凛鵜は鴻夏の消えた壁の向こうに視線を向けた。
「…止めるのは簡単…。でも籠の鳥にしてしまったら、それはもう鴻夏ではない…」
ポツリと誰に聞かせるでもなくそう呟くと、凛鵜はヨロヨロと壁伝いに歩きながら、ゆっくりと姿を消した。
そんな弟の心配を余所に、鴻夏はいつものように下街で評判の食事処に顔を出していた。
ここは初めて街に遊びに出た時からの馴染みの店で、鴻夏は街に出たらまずここに寄る事に決めている。
さほど広くない店内を所狭しと客が押し寄せ、古今東西の色々な情報が飛び交うこの店は、多少訳ありの人間が出入りしてもあまり目立たない。しかも離宮には入ってこない、様々な情報が手に入るとあって、鴻夏はいつも食事がてらこの店での情報収集に勤しんでいた。
今日も慣れた様子で中に入ると、見知った顔の常連が次々と声をかけてくる。
「よぉ、璜じゃねぇか!久しぶりだなぁ」
「あんまり来ないから、どっかでのたれ死んだかと思ってたぞぉ?」
酔っ払って真っ赤な顔で絡んでくる客達を適当に躱しながら、何とか店の奥まで辿り着く。
すると目敏くこの店のオヤジが気づいて、声をかけてきた。
「よぉ、璜!久しぶりじゃねぇか」
服の上からでもはっきりとわかるほど盛り上がった筋肉に、顔の半分を覆う黒い髭、目は大きくぐりっとしていて、いかにもこんな店に居そうな無骨で荒々しい雰囲気の店主である。
だがそんな無骨な見た目と裏腹に、非常に面倒見が良い事でも有名なこの店主には、鴻夏もこの店に通い始めた当初から何かと世話を焼いてもらっていた。だから声を掛けられ、自然と鴻夏の顔も自然とほころぶ。
「…久しぶり。相変わらず繁盛してるみたいだね」
「まぁな。安い、うまい、楽しい!この三拍子が揃そろってて、客が来ないわけがねぇわな」
ガハハと豪快に笑うと、すぐに俺からの奢りだと溢れんばかりの酒の入った木の酒杯が目の前に差し出される。
それを苦笑いしながら受け取ると、鴻夏はグイッとその酒に口をつけた。すると店のオヤジがスッと近寄りこう告げる。
「…それはそうとな、璜。来たばっかりで悪いんだが、お前に一仕事頼みてぇんだが…」
「最初からそれが目的かい?俺が断りづらいよう、わざとこの酒も出したんだろう?」
「へへ、まぁな。ちっとばかしあそこに稼ぎすぎてる客が居てな。いつものように帳尻合わせをお願いしてぇんだが…」
ニヤニヤと笑いながら、オヤジが指差す先にはちょっとした賭場がある。旅人同士で自由に掛け合う形式だが、暗黙の了解でお互いほどほどにしか稼がないのが規則になっている。だが稀にそれを知らず、やたらと稼ぎすぎる馬鹿が出るのだ。
璜こと鴻夏のここでの仕事は、そういった客から稼ぎすぎた分を取り返す事。
馴染みのオヤジに頼まれては断れないなと思いつつも、久しぶりの賭け事に鴻夏は気分が高揚するのを感じていた。
「わかったよ、オヤジさんの頼みだしな。この酒の分くらいは働くぜ?」
「そう来なくっちゃ!…頼みたいのはあの左端の卓にいる外套を着たあの男だ。さっきからやたらとツキまくってて、このままだと店の方が大損しちまう」
そう言って店のオヤジが指差したのは、どこにでも居そうな平凡な男だった。
暗くて顔はよく見えないが、亜麻色の髪の中肉中背の男である。髪色から外国人なのはすぐわかったが、卓上に並ぶ硬貨の多さにさすがの鴻夏も目を見張った。
「…イカサマって事はないのかい?」
「俺もそう思ったんだが、いくら見ててもタネがまったくわからねぇんだ。証拠もないのに勝負を止やめさせることもできやしねぇし…」
「わかった…。いつも通り俺の取り分も忘れるなよ」
悪戯っぽくそう言うと、鴻夏はスッと件の男の卓に近寄った。そしてドンッとその卓に自分の杯を置くと、男に向かって挑戦的にこう告げる。
「よぉ、お兄さん。随分と羽振りが良さそうじゃないか?」
わざと煽るようにそう言いながら、改めて間近で男の顔を見る。ここまで荒稼ぎするのはどんな奴かと思ったら、意外にも男はとても上品そうな容姿の優男だった。
顔は割と整っているように思うが、どちらかというと印象の薄い、人混みに紛れたらすぐ見失いそうなひ弱そうな男である。
おそらくその風貌から察するに、荒っぽい男らしい仕事とは無縁の、商人や学者、下っ端役人と言ったところだろう。
だが卓の上に並んだ硬貨の数が、男がただの優男ではない事を告げている。
それなりに警戒しながら相手の反応を伺っていた鴻夏だったが、その男は予想に反し、実にのんびりした口調でこう答えた。
「おやおや…この店では子供も賭場に入れるのかい?好奇心旺盛な年頃なのはわかるけど、あまり感心しないね」
口調そのままに、まったく悪気の無さそうな顔で男がそう言うと、賭場全体がドッと笑いに包まれる。年齢こそ若いが『振り師の璜』と言えば、この店では一、二位を争う腕前の賭博師だ。だからそれを知っているこの店の常連達は、決して鴻夏を子供扱いしない。
だが明らかに旅人と思われるこの男が、そんな事実を知るはずもなく、見た目だけでそう判断されても仕方ない事だった。
しかし子供扱いされた鴻夏の方は、わかってはいても面白くない。
誰の目から見ても明らかに不機嫌になると、鴻夏は更に挑戦的な態度でこう言った。
「…言ってくれるじゃねぇか。あんたより俺の方がここじゃ古参だぜ?」
年齢に合わないドスの効いた声でそう脅すが、男の態度はまったく崩れない。
それどころか飄々とした雰囲気のまま、のんびりとこう返してきた。
「そりゃあ私は旅人だからね?今日この都に着いたばかりの私よりは、生まれたばかりの赤ん坊でも古参だろうさ」
あくまでもふざけた男の答えに、さらに賭場に笑いが起こる。自尊心を大きく傷つけられた鴻夏は思わず叫んでいた。
「人を子供扱いすんな!俺と勝負しろ!俺がホントにそこらの子供と同じかどうか、その目で確かめてみな!」
威勢のいい鴻夏の啖呵に、ワッと周囲が盛り上がる。
久し振りに『振り師の璜』の腕前が見られるとあって、賭場は一気に活気づいた。
しかし受け手の男はというと、あくまでものんびりとした態度を崩さない。それどころかいかにも気が進まなそうにこう答えた。
「…君が私と勝負するのかい?」
「そう言ってるだろ?」
「幾らで?」
「そこにある、あんたの勝ち金全部で。あんたが勝ったら、ちゃんと俺がその倍額を払うよ」
「…君に払えるような額だとは思えないけど?」
そう男が切り返した時、すかさず店のオヤジがこう言った。
「安心しな、兄さん。璜はうちの店のモンだ。璜が負けたら俺が払うさ」
「…オヤジさん…」
鴻夏が嬉しそうに店のオヤジを振り返る。
その視線を受け、オヤジはニッと笑うと重ねて男にこう言った。
「どうだい?これでもまだ勝負は受けれないか?」
「…いいだろう。どうもこれは断れない勝負らしいしね」
男が諦めたようにそう呟くと、さらに周囲がドッと活気づいた。中には自分の勝負はそっちのけで、慌てて特等席を確保しようと席を立つ者が出てくる。
それと同時に先程まで旅人の男と勝負していた男達が席を譲り、鴻夏は意気揚々と男の正面の席についた。
それに対し、男はあくまでも冷静にこう尋ねてくる。
「…何で勝負するんだい?賭け札?賽子?」
「賽子で。俺は賭け札より賽子の方が、好きなんだ」
「その年齢で言う台詞じゃないね…。使う数は?」
「二個…いや三個かな。その方が公平性があるだろう?」
ニヤリと笑って見せると、男は『いいだろう』と答えて、卓の上の賭け札を片付け始める。
すぐさま賽子と振り壺つぼが用意され、二人の周囲はあっという間に野次馬で埋め尽くされた。
この勝負、鴻夏が賽子を選んだのは、それなりに訳があった。一つ目はこの男が賭け札で大勝していたこと。何の仕掛けを使っているかわからない上、卓に並ぶ硬貨の数が尋常でないところを見ると、相手の得意な物と考えて間違いない。
よくわからない相手の土俵に乗って、大敗を喫するわけにはいかない鴻夏は、まず賭け札を使う事を拒否する必要があった。
二つ目は賽子を使う事で、相手にこれは公平な勝負であると思わせること。
実は賽の目を自在に操れる鴻夏にとって、#賽子の数がいくつであろうとも、好きな目を出すのは造作もないことであった。
ちょっと相手に悪い気もするが、鴻夏もここで負ける訳にはいかないので、万全を期して臨む必要がある。
しかしここまではこしかこの思惑通りに事が進んだが、その後に男が出してきた条件が、鴻夏の予定を狂わせた。当たり前の事だが、男もイカサマを警戒してこう提案してきたのだ。
「さて君の望み通り、勝負方法と賽子の数を決めたわけだけど、私の方も勝負方法に関してお願いがあるんだけど、いいかな?」
「…どうぞ」
「ありがとう。じゃあまず一つ目は、賽子を振るのはお互いではなく、他の人にしてもらう事にしたい」
ザワッと周囲がどよめく。賽子が振るのであれば、いくらでも出目の操作を出来るが、他人が振るのであれば話は別だ。
こうなってくると、鴻夏自身も純粋に出目を予想しなければならない。
一つ目の条件で一気に優位性を潰された鴻夏は、内心腹ただしく思いつつも、それを見事に隠してこう答えた。
「…いいぜ。他には?」
「賭ける瞬間は、賽子が投げられた後でお願いしたいね。振る前だと、君に都合の良い目に操作される可能性があるからね」
ニコッと悪びれずにそう言うと、男は鴻夏の答えを待った。ここまで条件をつけられると、もはやお互いの運次第である。
確実に勝ちに行きたかった鴻夏としては、予定外もいいところであった。
しかし自分から仕掛けておいて、ここで引き下がるわけにはいかない。
チラッと返答前に店のオヤジに視線を投げると、オヤジは鴻夏の言わんとする事を読み取り無言で頷く。それを了承と受け取ると、鴻夏は男に向き直りこう言った。
「いいぜ。じゃあ始めよう」
「…お手柔らかに頼むよ」
のんびりと男がそう言った。
賽子を振る相手を適当に決め、細かい勝負の方法を決めていく。協議の結果、丁半(偶数・奇数)の三回勝負で男から先に選べるのが二回、鴻夏から選べるのが一回となった。
二分の一の確率とはいえ、出来れば二回選べる方を取りたかったが、賭け札を使ったクジであっさりと男に取られてしまった。
どうも何かと謎の多すぎる相手だが、やれるだけやるしかない。
「それじゃ、始めようか」
自然と気分が高揚するのを感じながら、鴻夏はそのまま男との勝負に挑んだ。
カラカラと賽子の音が鳴る。
その音を聞きながら、男が冷静に自分の賭ける側を選んだ。
「丁[偶数]で」
「じゃあ俺は半[奇数]だな」
タンッと卓に振り壺が伏せられる。
皆の視線が集まる中、そっと開かれた中身の目は四・三・五の丁だった。途端にドッと周りが騒ぎ出す。
「丁だ!男の勝ちだ!」
「なんの、璜!これからだぜ!」
そう言った野次を聞き流しながら、鴻夏は冷静に男に告げる。
「…まずはあんたの一勝だな」
「運が良かったようだね」
相変わらず読めない笑顔で男がそう返す。
すぐに次の賽子が振られ、今度は鴻夏が先に賭ける番だった。
「半だ!」
「じゃあ私は丁で」
カランカランと高い音が響き、再びタンッと壺が卓に伏せられる。自然と皆の注目が集まる中、壺がゆっくりと開かれ、目の前に賽子が現れた。
「六・二・三の半だ!璜の勝ちだ!」
ワッと周りが結果に盛り上がる。
それをどこか遠くで聞きながら、鴻夏は知らず冷や汗を拭った。
『何とか勝負は一対一、次で決まる!』
決意も新たにチラリと男に視線を向けると、負けて追いつかれたというのに、相手は変わらず涼しい顔をしていた。
そのふてぶてしいまでの落ち着きぶりに、鴻夏はなぜか違和感を感じる。
『…こいつ、本当にただの旅人か?』
最初はどこにでも居る優男だと思ったが、今こうして対峙していると、何故か末恐ろしい威圧感さえ感じる。
そして自分の方が良いように、相手の掌の上で転がされてる感が拭えない。
そんな鴻夏の不安を余所に、無常にも最後の勝負が始まる。勝っても負けてもこれが最後!そう思うと自然と周囲にも緊張が走る。
カランカランと甲高く響く音に耳を澄ませていると、ふと卓越しに男と目が合った。
まるで自分を品定めしているかのような、蛇のような目。一瞬ゾッとしたが、すぐに男はニコリと微笑んだ。
その途端、見事なまでに邪悪な気配が搔き消える。そのあまりの豹変ぶりに驚いていると、相手が静かに目を閉じこう呟いた。
「…半で」
その途端、カランッと一際甲高い音が辺りに響いた。それを他人事のように聞きながら、鴻夏は何も答えられない。
『何だ?今の違和感…。一瞬で消えたあの気配…あれは…?』
そう思った時、ドッと周りがどよめいた。
「一・五・四の丁!璜の勝ちだ!」
ワッと周囲が一気に盛り上がる。気がつけば、壺が開けられ賽子の目が衆人の目に晒されていた。
それを信じられない思いで見つめながら、鴻夏は呆然とする。
『…勝った…?まさか…』
ハッとして相手の男を見上げると、そこには何事もなかったように微笑む男が居た。
その顔を見た途端、鴻夏は理解する。
『…違う!勝ったんじゃない、あいつに勝たされたんだ!』
それは確証のない確信だった。おそらく相手には次に出る目がどちらかわかっていた。
勝とうと思えばいくらでも勝てたのに、男はわざと外して鴻夏を勝たせたのだ。
カーッと頭に血が上る。馬鹿にするなと言いたかった。こんな詐欺まがいの勝ち方で、この勝負を終わりにするなんて納得できない!
そう思っている間に、男がスッと席を立った。そして何事もなかったかのように、周囲に向かってこう告げる。
「…どうやら最後の最後で、ツキに見放されてしまったようですね。約束通りこのお金は君のものです。どうぞご自由に」
そう言うと男はあっさりと踵を返し、その場を後にした。鴻夏も慌ててその後姿を追おうとしたが、盛り上がった周囲に揉みくちゃにされ、思った通りに進めない。
「…退いてくれ!通してっ!」
興奮し、大袈裟に賞賛する人々を何とか振り切って外に飛び出すと、鴻夏は慌てて先程の男の姿を探した。
もう夜も遅い時間とはいえ、花胤の首都ともなると、この時間でもまだまだたくさんの人々が行き交っている。
この人混みから目当ての人を見つけられるのかと焦ったが、ほどなく路地を曲がって消えようとしている男の姿を発見した。
その姿を捉えた途端、鴻夏は慌ててその後姿に向かって叫ぶ。
「待て…っ!待ってくれ!」
バタバタと力の限り走って、男が消えた路地を曲がる。表通りと違い、急に人気のなくなった裏路地を男は一人歩いていた。
その後姿に向かって、再度 鴻夏は叫ぶ。
「待ってくれ、そこのあんた!」
その声が届いたのか、ピタリと男の歩みが止まった。そしてほどなくゆっくりと男が鴻夏の方を振り返る。しかし先程と違い、その射すくめられるような強い視線に、鴻夏は思わず立ちすくんだ。
「…何か?もう勝負はついたでしょう?」
ゆったりとした口調で男が告げる。
暗闇の中で、男の薄い翠の瞳が真っ直ぐに鴻夏の姿を捉とらえていた。
それと共にゆらりと陽炎のように、男の周囲に目に見えない何かが立ち昇る。
その何とも言えない不気味な気配を感じながらも、鴻夏は思わず叫んでいた。
「ふざけんなよ!あれが勝負か?わざと負けてもらったって、俺が素直に喜べると思うのかよっ?」
息も荒くそう捲し立てると、男の瞳がほんの少し驚きで見開かれる。途端にスッとよくわからない迫力は消え、男は最初に出会った時と同じく、のほほんとした雰囲気のまま、不思議そうに鴻夏に尋ねた。
「…何の用かと思えば…。別にいいじゃないですか?私があれ以上稼ぐとトラブルになりそうだったんで、手っ取り早く場を収める方法を取っただけです。私が負ければ私は店から恨みを買わずに済む、貴方も店側の依頼がちゃんと果たせる。ほら一石二鳥、なんの問題もないじゃないですか」
淡々とそう語る男に、ふいに鴻夏の怒りが爆発する。ツカツカと男に歩み寄ると、鴻夏は相手の胸倉を掴んでこう叫んだ。
「ふざけんなっ!そんな理由で勝手に勝負を捨てられてたまるかよ!…あれはあんたの勝ちだった。ちゃんと金を返すから、すぐ店に戻ってくれ」
そう鴻夏が告げると、一瞬キョトンとした表情を見せた男は、次の瞬間 突然笑い出した。
予想外の男の反応に今度は鴻夏の方がびっくりして固まると、男はさも可笑しいとばかりに笑いながらこう尋ねてきた。
「…もしかしてそれを言うためだけに、わざわざ私を追いかけて来たのですか?」
「あ、当たり前だろ?他人の金は受け取れねぇよ」
そう正直に答えると、また男が少し笑いつつこう呟く。
「君は意外と真面目なんですねぇ。棚ボタだと思って、黙って受け取っておけばいいのに…」
「だから!俺にも自尊心ってもんがあるんだよ!負けたとわかってて、あんな大金受け取れねぇよ」
そう鴻夏が答えると、男は笑いを堪えつつも少し呆れたようにこう言った。
「別にそこまで気にしなくても…。私の元々の賭け金は銀貨一枚ですしね?銀貨一枚って言ったら、少し贅沢な食事をした程度の額でしょう?」
だから気にする事はないと男は言ったが、言われた鴻夏の方はますます目を丸くしてこう呟く。
「…は?銀貨一枚が、どうやったらあんな大金に化けるんだよ?」
確か卓には、金貨やら銀貨やらが所狭しと並んでいた。どんな倍率で賭けたらあの額になるのか、まったく想像がつかない。
それに対して、男は人差し指を口唇に当てながら、悪戯っぽい笑顔を見せる。
「倍々の法則ですよ。元々私が相手してた連中が、他の客にイカサマ仕掛けて荒稼ぎしてたのでね。それで見兼ねてちょっとばかり相手をしたんだけど、食い物にするつもりの相手に食い物にされたのが気に入らなかったみたくてね。相手側が意地になっちゃって、まぁ私もちょっとばかり意地悪し過ぎちゃっただけなんですよ」
だからまったく気にする事はないと重ねて言うと、男はそれじゃあとまたその場を去ろうとする。それを慌てて引き止めながら、鴻夏は何とかして男に金を受け取ってもらおうと食い下がった。
「…いや、それでもあんたが稼いだ金だろう?あんな大金、あっさり捨てるなんて、あんたそんなに金持ちなのか?」
それがまた予想外の方向の質問だったのか、男の瞳が驚きで見開かれる。
その綺麗な翠の瞳に、自分が映っているのを少し不思議に感じながら、鴻夏は男の答えを静かに待った。それに対し、男がついに根負けしたかのようにこう答える。
「…なかなか頑固ですねぇ、君も。わかりました。そうしたら最初の賭け金の銀貨一枚だけは返してもらいましょう。残りのお金は、イカサマを仕掛けられた他の方々に返して差し上げてください」
「…あんたはそれでいいのかよ?」
やはり今ひとつお金に対して執着のない発言をする男に、鴻夏は重ねてそう尋ねる。
すると男はニコリと笑ってこう答えた。
「…構いませんよ。私は旅人なのでね。あまり大金を持ち歩くと、却って盗賊を呼び寄せてしまい、身に危険が及ぶだけです」
何となく納得出来たような出来なかったようなモヤモヤした気持ちは残ったが、これ以上の譲歩は望めないと感じた鴻夏は、仕方なく男の提案に乗る事にした。
「…じゃあ、これ」
チャリンと手持ちの銀貨の一枚を男に差し出すと、男は素直にそれを受け取り踵を返す。
そしてその場を立ち去りがてら、鴻夏にさらりとこう告げた。
「それじゃあ君もお金の事を店に伝えたら、気をつけて早く家に戻りなさい」
「…だから!俺を子供扱いすんなって言ってるだろ?」
まるで自分の家庭教師のような事を言う男に、鴻夏がむくれる。それに笑いながら手を振ると、今度こそ男は静かにその場を立ち去った。後に残されたのは鴻夏のみ。
『変な奴だったな…。まぁ旅人らしいから、もう会う事もないだろうけど…』
そう思いつつ、鴻夏も踵を返す。
とりあえず店に戻って男のお金の始末をしなければと思いながら、鴻夏も元気よくその場を立ち去った。
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