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終電ひとつ手前。
改札を抜けた時点で、今日はもう勝ったと思っていた。
スマホの画面には、まだ社内チャットが光っている。
「明日朝一で確認お願いします」
お願いします、じゃない。命令だ。俺は反射で既読をつけて、歩きながら「承知しました」と打った。
雨が降っていた。
小雨。いちばん視界を奪うタイプのやつ。
工事中の道だったと思う。たぶん。
カラーコーンはあった気がするし、なかった気もする。正直覚えてない。
残業明けの脳は、世界を“背景”として処理する。
一歩、踏み出した。
地面が、なかった。本当に。
足が空を切る。
あ、と思った瞬間に、体が前に持っていかれる。
落ちながら、なぜか考えた。
これ、労災になるんだろうか。
いや、もう退勤打刻してるからダメか。いやでも、通勤も労働時間か?
いや、世の中そんなに甘くない。
背中から、落ちた。
衝撃はなかった。
あるはずの衝撃が、来ない。
代わりに、空気が変わった。
湿っているのに下水の匂いじゃない。
完全な闇、ではなかった。
たしかにマンホールに落ちた、と思った。
立ち上がろうとして、手をついた。
石の感触とちゃんと削られた、床。
「……は?」
声が、変なふうに消えた。
上に抜けない。横に流れる。
視線を上げる。
俺は、息を吸ってから、ゆっくり吐いた。
こういう時は、落ち着くのが大事だ。
パニックは業務効率を下げると研修で教わった。
頭の中で、勝手にチェックリストが回り始める。
・骨折してない
・出血なし
・スマホ、ある(圏外)
・場所、不明
最悪だ。
そのとき、足音がした。
複数。
躊躇がない。歩き方も焦っていなくなんだか慣れている、呆れている。
「……また新卒っぽいの、落ちてきたな」
知らない言語のはずなのに、意味だけが頭に入ってくる。
俺は反射で言った。
「すみません、通行の邪魔でしたら——」
言い切る前に、光が差した。
ランタン。
人影が、三つ。
全員、俺を見ていた。
落ちてきた“物”を見る目だった。
「大丈夫そうだね」
「疲労が溜まってる顔」
「でも、これは……使える」
最後の一言だけ、評価表みたいだった。
こういうときは、まず名乗る。
どこでもそう教えられてきた。
「……あの、すみません」
声が、少しだけ震えた。
自覚はある。疲れてると、こうなる。
「明星、昴といいます」
言いながら、鞄を探した。
肩にかけていたはずのそれは、ちゃんとあった。
中身も、無事だった。
名刺入れを取り出す。
反射に近い動きだったと思う。
一瞬だけ迷った。
ここで出す意味があるのか。
相手は取引先でも、顧客でもない。
でも、手は止まらなかった。
名刺を一枚、名刺入れから抜き、指先で揃えて差し出す。お辞儀も忘れない。
ランタンの光に照らされて、
白い紙に印字された文字が浮かび上がる。
明星 昴
株式会社ミライソリューション
広報部
名前の字面はいいと思う。
親が本気を出した結果だ。
ただし、中身は新卒にして社畜のサラリーマン。
三人の視線が、名刺に落ちた。
顔じゃない。肩書きでもない。
紙そのものを、測るみたいに。
「みょうじょう……?」
「違う、ローマ字書いてる。これ、アケボシ」
「昴は、そのまま?スバル?」
俺は反射でうなずいた。
「はい。あけぼし・すばるです」
名刺は受け取られなかった。
代わりに、評価が進んだ。
「身元は把握した」
「意識、明瞭」
「受け答え、良好」
「……あの、ここはどこでしょうか」
質問のつもりだったけど、
声の調子は、道を聞くというより
受付で順番を待ってる感じだったと思う。
「帰り道ではないどこかだね」
それは、まあ、そうだ。
「次は状態確認」
「服、汚れてる。脱がせよう」
言い方が、完全に作業だった。
俺は一瞬だけ迷って、でもすぐに判断した。
ここで拒否する理由が、見当たらない。
「……指示、いただければ」
自分で言って、少し安心した。
ランタンの光の下で、体を洗われ、触診され、痛みや反応を確認される。
途中お尻の穴まで見られてちょっと屈辱的だったが、これはセクハラではないのか。
でもなんだか性的な目ではなかったのでそういうものなのか。
淡々と。
業務前点検みたいに。
「顔、まぁ問題なし」
「耐久、良好そう」
「回復、早そう」
数字みたいな言葉が飛ぶ。
恥ずかしいとか、怖いとか、
そういう感情は後回しになった。
今は、評価を落とさないことが最優先だ。
「無理は利く?」と聞かれて、
俺は正直に答えた。
「……肉体的には、慣れてます」
三人の視線が、また少し変わった。
同情でも警戒でもない。
用途が定まった目。
「なるほど」
「新卒だからフレッシュだし」
「勇者向きかな」
勇者。
その単語だけが、妙に浮いて聞こえた。
「配置、決めよう」
「この感じなら娼館でいい」
「今夜から教え込めばすぐ稼働できそう」
稼働、という言葉に、頭が追いついた。
でも、うなずいた。
ここで首を振る選択肢は、なかった。
「……どうぞよろしくお願いいたします」
そう言った自分に、少しだけほっとした。
名刺入れをしまう。
この世界では、たぶんもう使わない。
それでも、出したこと自体は間違ってなかったと思う。
どこに行っても、俺はきっと働く側なんだろう。
改札を抜けた時点で、今日はもう勝ったと思っていた。
スマホの画面には、まだ社内チャットが光っている。
「明日朝一で確認お願いします」
お願いします、じゃない。命令だ。俺は反射で既読をつけて、歩きながら「承知しました」と打った。
雨が降っていた。
小雨。いちばん視界を奪うタイプのやつ。
工事中の道だったと思う。たぶん。
カラーコーンはあった気がするし、なかった気もする。正直覚えてない。
残業明けの脳は、世界を“背景”として処理する。
一歩、踏み出した。
地面が、なかった。本当に。
足が空を切る。
あ、と思った瞬間に、体が前に持っていかれる。
落ちながら、なぜか考えた。
これ、労災になるんだろうか。
いや、もう退勤打刻してるからダメか。いやでも、通勤も労働時間か?
いや、世の中そんなに甘くない。
背中から、落ちた。
衝撃はなかった。
あるはずの衝撃が、来ない。
代わりに、空気が変わった。
湿っているのに下水の匂いじゃない。
完全な闇、ではなかった。
たしかにマンホールに落ちた、と思った。
立ち上がろうとして、手をついた。
石の感触とちゃんと削られた、床。
「……は?」
声が、変なふうに消えた。
上に抜けない。横に流れる。
視線を上げる。
俺は、息を吸ってから、ゆっくり吐いた。
こういう時は、落ち着くのが大事だ。
パニックは業務効率を下げると研修で教わった。
頭の中で、勝手にチェックリストが回り始める。
・骨折してない
・出血なし
・スマホ、ある(圏外)
・場所、不明
最悪だ。
そのとき、足音がした。
複数。
躊躇がない。歩き方も焦っていなくなんだか慣れている、呆れている。
「……また新卒っぽいの、落ちてきたな」
知らない言語のはずなのに、意味だけが頭に入ってくる。
俺は反射で言った。
「すみません、通行の邪魔でしたら——」
言い切る前に、光が差した。
ランタン。
人影が、三つ。
全員、俺を見ていた。
落ちてきた“物”を見る目だった。
「大丈夫そうだね」
「疲労が溜まってる顔」
「でも、これは……使える」
最後の一言だけ、評価表みたいだった。
こういうときは、まず名乗る。
どこでもそう教えられてきた。
「……あの、すみません」
声が、少しだけ震えた。
自覚はある。疲れてると、こうなる。
「明星、昴といいます」
言いながら、鞄を探した。
肩にかけていたはずのそれは、ちゃんとあった。
中身も、無事だった。
名刺入れを取り出す。
反射に近い動きだったと思う。
一瞬だけ迷った。
ここで出す意味があるのか。
相手は取引先でも、顧客でもない。
でも、手は止まらなかった。
名刺を一枚、名刺入れから抜き、指先で揃えて差し出す。お辞儀も忘れない。
ランタンの光に照らされて、
白い紙に印字された文字が浮かび上がる。
明星 昴
株式会社ミライソリューション
広報部
名前の字面はいいと思う。
親が本気を出した結果だ。
ただし、中身は新卒にして社畜のサラリーマン。
三人の視線が、名刺に落ちた。
顔じゃない。肩書きでもない。
紙そのものを、測るみたいに。
「みょうじょう……?」
「違う、ローマ字書いてる。これ、アケボシ」
「昴は、そのまま?スバル?」
俺は反射でうなずいた。
「はい。あけぼし・すばるです」
名刺は受け取られなかった。
代わりに、評価が進んだ。
「身元は把握した」
「意識、明瞭」
「受け答え、良好」
「……あの、ここはどこでしょうか」
質問のつもりだったけど、
声の調子は、道を聞くというより
受付で順番を待ってる感じだったと思う。
「帰り道ではないどこかだね」
それは、まあ、そうだ。
「次は状態確認」
「服、汚れてる。脱がせよう」
言い方が、完全に作業だった。
俺は一瞬だけ迷って、でもすぐに判断した。
ここで拒否する理由が、見当たらない。
「……指示、いただければ」
自分で言って、少し安心した。
ランタンの光の下で、体を洗われ、触診され、痛みや反応を確認される。
途中お尻の穴まで見られてちょっと屈辱的だったが、これはセクハラではないのか。
でもなんだか性的な目ではなかったのでそういうものなのか。
淡々と。
業務前点検みたいに。
「顔、まぁ問題なし」
「耐久、良好そう」
「回復、早そう」
数字みたいな言葉が飛ぶ。
恥ずかしいとか、怖いとか、
そういう感情は後回しになった。
今は、評価を落とさないことが最優先だ。
「無理は利く?」と聞かれて、
俺は正直に答えた。
「……肉体的には、慣れてます」
三人の視線が、また少し変わった。
同情でも警戒でもない。
用途が定まった目。
「なるほど」
「新卒だからフレッシュだし」
「勇者向きかな」
勇者。
その単語だけが、妙に浮いて聞こえた。
「配置、決めよう」
「この感じなら娼館でいい」
「今夜から教え込めばすぐ稼働できそう」
稼働、という言葉に、頭が追いついた。
でも、うなずいた。
ここで首を振る選択肢は、なかった。
「……どうぞよろしくお願いいたします」
そう言った自分に、少しだけほっとした。
名刺入れをしまう。
この世界では、たぶんもう使わない。
それでも、出したこと自体は間違ってなかったと思う。
どこに行っても、俺はきっと働く側なんだろう。
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