【完結】獣王

さか様

文字の大きさ
42 / 50

39

翌朝。

雪はまだ降っていたが、前日ほど重くはなかった。
空気が、ほんのわずかに緩んでいる。

夜のあいだに、世界が一度、深く息をしたような感覚が残っていた。

巣穴の奥で、エリアスは目を覚ましていた。
眠りは浅かったが、疲れはない。

腹に手を当てる。

昨日と同じ場所。同じ姿勢。

(今日は、動かない?)

それでも、不安はなかった。
あの感覚は、夢でも錯覚でもなかったと、身体が知っている。

すぐ隣で、ガレンが身じろぎする。

身体は伏せたままだが、落ち着きがない。
呼吸が一定にならず、前脚に力が入ったり抜けたりする。

鼻先が何度も、エリアスの腹の前で止まる。

嗅ぐでもなく、触れるでもない。
確かめきれない何かを、探している動きだった。

「……どうしたの、ガレン」

小さく声をかけると、ガレンは低く喉を鳴らした。
何かが揺れている音。

(……昨日のこと、かな)

エリアスは思う。

命が動いたこと。
確かに感じた、小さな兆し。

それが、ガレンの中でも何かを揺らしているのだろうか。

熊としての感覚と、守るべき存在が増えたという事実が、まだ噛み合っていないのだろうか。

そのとき、巣穴の外から足音がした。

一定の間隔、人の歩幅。

「……入るぞ、」

ギルバートの声だった。

ガレンの喉が、低く鳴る。
許可の音だが、いつもより短い。

ギルバートは中へ入り、まず熊の様子に一瞬だけ目を留めた。
それから、エリアスを見る。

「……何かあったな」

エリアスは、少しだけ迷ってから、素直に言った。

「昨日……動いたんだ、お腹の中が」

言葉は短い。
だが、巣穴の空気がはっきり変わる。

ギルバートの動きが止まり、医師としての思考が走る。

「……いつだ」

「お昼すぎだったよ」

腹に手を当てながら、続ける。
話しながら微笑みが出る。

「最初は、気のせいかと思った。
でも……二回目は、違った」

ガレンの身体が、ぴくりと反応する。

耳が動き、鼻先がまた腹へ向く。
見えないものを、必死に確かめようとしている。

ギルバートは頷き、何も言わずに聴診器を取り出した。

「じゃあ、今日はもう一度、心臓の音も聞こう」

聴診器の金属が、腹に触れる。
ひやりとした感触。

エリアスは、以前より緊張していなかった。
確かめたい気持ちが勝っている。

――トク
――トク、トク

初めて聞いたときと同じ命の音。

ギルバートは位置を慎重に変え、何度も確かめる。

ガレンは、その間じっとしていられず、わずかに身体を前後させる。

(……揺り戻し、か)

ギルバートは内心でそう判断する。
ガレンの中で境界が、また少し動いている。

やがて、聴診器を外す。

「……問題ない」

静かに、だがはっきりと言った。

「胎動が出始める時期としては、順調だ」

少し微笑んだギルバートの表情。
エリアスの肩から、力が抜ける。

「……よかった」

その言葉は、自分だけでなく、ここにいるすべてに向けられていた。

ギルバートは続ける。

「これからは、恐らく活発に動く日と静かな日がある。
全く感じないのは心配だが、ある程度感じなくても、心配はいらない。
逆に、感じたからといって、無理に意識しすぎる必要もない」

医師としての言葉だが、声は柔らかい。

「命は……たくましく育つ」

その言葉に、ガレンの喉が低く鳴る。

だが、まだ落ち着かない。
鼻先が、もう一度腹の前で止まる。

「……ガレンも、心配してる?」

エリアスが言うと、ギルバートは一瞬だけ目を伏せた。

「獣は、人より先に気づくことがある。
ただ……理解が追いつくとは限らん」

ガレンの動きは、それを裏付けていた。

守りたい。
だが、何をどう守ればいいのか、まだ輪郭が定まっていない。

父性は、確かに芽生えている。
だが、それは本能よりも、ずっと不器用だった。

ギルバートは荷物を片付け、袋を置く。
往診のたびに何かと土産を持ってくる。

今日は厚手のゆったりとした服だった。

「…食べられるものが増えたら、遠慮なく言え。
あと、体調が変わったら、すぐガレンを寄越してくれ。
…次は、五日後に来る」

「うん、いつもありがとう」

エリアスは頷く。
ギルバートは立ち上がった。

外へ出る前、一度だけ立ち止まる。

「してやれることを、している」

それだけ言って、振り返らずに雪の中へ消えた。

巣穴に、静けさが戻る。
ガレンは、しばらく動かなかった。

それから、ゆっくりと身体を低くし、エリアスの横にぴたりと寄る。

鼻先を腹の前に置き、深く息を吐く。
落ち着こうとしている呼吸。

エリアスは、その大きな身体に手を伸ばした。

「……大丈夫」

誰に言った言葉かは、分からない。

自分か、ガレンか、それとも――この中で静かに育っている命か。

外では、雪が降り続いている。
巣穴の中では、確かな未来の気配が、静かに積もっていた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】一生に一度だけでいいから、好きなひとに抱かれてみたい。

村松砂音(抹茶砂糖)
BL
第13回BL大賞で奨励賞をいただきました! ありがとうございました!! いつも不機嫌そうな美形の騎士×特異体質の不憫な騎士見習い <あらすじ> 魔力欠乏体質者との性行為は、死ぬほど気持ちがいい。そんな噂が流れている「魔力欠乏体質」であるリュカは、父の命令で第二王子を誘惑するために見習い騎士として騎士団に入る。 見習い騎士には、側仕えとして先輩騎士と宿舎で同室となり、身の回りの世話をするという規則があり、リュカは隊長を務めるアレックスの側仕えとなった。 いつも不機嫌そうな態度とちぐはぐなアレックスのやさしさに触れていくにつれて、アレックスに惹かれていくリュカ。 ある日、リュカの前に第二王子のウィルフリッドが現れ、衝撃の事実を告げてきて……。 親のいいなりで生きてきた不憫な青年が、恋をして、しあわせをもらう物語。 ※性描写が多めの作品になっていますのでご注意ください。 └性描写が含まれる話のサブタイトルには※をつけています。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」さまで作成しました。

遊び人殿下に嫌われている僕は、幼馴染が羨ましい。

月湖
BL
「心配だから一緒に行く!」 幼馴染の侯爵子息アディニーが遊び人と噂のある大公殿下の家に呼ばれたと知った僕はそう言ったのだが、悪い噂のある一方でとても優秀で方々に伝手を持つ彼の方の下に侍れれば将来は安泰だとも言われている大公の屋敷に初めて行くのに、招待されていない者を連れて行くのは心象が悪いとド正論で断られてしまう。 「あのね、デュオニーソスは連れて行けないの」 何度目かの呼び出しの時、アディニーは僕にそう言った。 「殿下は、今はデュオニーソスに会いたくないって」 そんな・・・昔はあんなに優しかったのに・・・。 僕、殿下に嫌われちゃったの? 実は粘着系殿下×健気系貴族子息のファンタジーBLです。

白金の花嫁は将軍の希望の花

葉咲透織
BL
義妹の身代わりでボルカノ王国に嫁ぐことになったレイナール。女好きのボルカノ王は、男である彼を受け入れず、そのまま若き将軍・ジョシュアに下げ渡す。彼の屋敷で過ごすうちに、ジョシュアに惹かれていくレイナールには、ある秘密があった。 ※個人ブログにも投稿済みです。

【完結】顔だけと言われた騎士は大成を誓う

凪瀬夜霧
BL
「顔だけだ」と笑われても、俺は本気で騎士になりたかった。 傷だらけの努力の末にたどり着いた第三騎士団。 そこで出会った団長・ルークは、初めて“顔以外の俺”を見てくれた人だった。 不器用に愛を拒む騎士と、そんな彼を優しく包む団長。 甘くてまっすぐな、異世界騎士BLファンタジー。

愛され少年と嫌われ少年

BL
美しい容姿と高い魔力を持ち、誰からも愛される公爵令息のアシェル。アシェルは王子の不興を買ったことで、「顔を焼く」という重い刑罰を受けることになってしまった。 顔を焼かれる苦痛と恐怖に絶叫した次の瞬間、アシェルはまったく別の場所で別人になっていた。それは同じクラスの少年、顔に大きな痣がある、醜い嫌われ者のノクスだった。 元に戻る方法はわからない。戻れたとしても焼かれた顔は醜い。さらにアシェルはノクスになったことで、自分が顔しか愛されていなかった現実を知ってしまう…。 【嫌われ少年の幼馴染(騎士団所属)×愛され少年】 ※本作はムーンライトノベルズでも公開しています。

【BL】こんな恋、したくなかった

のらねことすていぬ
BL
【貴族×貴族。明るい人気者×暗め引っ込み思案。】  人付き合いの苦手なルース(受け)は、貴族学校に居た頃からずっと人気者のギルバート(攻め)に恋をしていた。だけど彼はきらきらと輝く人気者で、この恋心はそっと己の中で葬り去るつもりだった。  ある日、彼が成り上がりの令嬢に恋をしていると聞く。苦しい気持ちを抑えつつ、二人の恋を応援しようとするルースだが……。 ※ご都合主義、ハッピーエンド

騎士は魔石に跪く

叶崎みお
BL
森の中の小さな家でひとりぼっちで暮らしていたセオドアは、ある日全身傷だらけの男を拾う。ヒューゴと名乗った男は、魔女一族の村の唯一の男であり落ちこぼれの自分に優しく寄り添ってくれるようになった。ヒューゴを大事な存在だと思う気持ちを強くしていくセオドアだが、様々な理由から恋をするのに躊躇いがあり──一方ヒューゴもセオドアに言えない事情を抱えていた。 魔力にまつわる特殊体質騎士と力を失った青年が互いに存在を支えに前を向いていくお話です。 他サイト様でも投稿しています。