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1巻

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   プロローグ


 夏のプールや朝の洗面所でよく聞かれるその水音は、おしゃれなカフェのテラス席には完全に不似合いだった。

(え……?)

 顔に水をかけられたのだと気づいたのは、目の前の男が声を荒らげた時だ。

「言い訳するなよ、浮気女! 今まで俺の部屋に何人の男を連れ込んだんだよ! それに部屋からいつも金をくすねてるのも分かってるからな! 警察に届けないだけありがたく思えよ! マグロだし味音痴おんちだし……おまえみたいな女と付き合ったのが、そもそもの間違いだったわ」

 口を差し挟む隙すら与えずに、男はがなり立ててくる。たたみかけるように投げられる侮蔑ぶべつの言葉に気圧けおされてしまい、さかにいは言い訳すらままならない。

(っていうか、誰のことを言ってるの……?)

 新菜は混乱のあまり、前髪とあごからしたたり落ちてくる水をぬぐうことも忘れ、ぼぅっとさくらろうを見つめていた。
 それは確かに、今まで順調にお付き合いし、結婚の約束までしていたの『恋人』であり『婚約者』の姿だ。
 けれど今の彼は、どうしたらそこまで恋人を邪険にできるのかと問いたくなるほどの残酷さを、その目にこれでもかとはらんでいる。
 爪の先ほども予想していなかったためか、新菜の頭はこの出来事にまだついていけないでいる。だから目の前で声を荒らげる桜田を、どこか他人事のように思っていた。

「……史郎、くん」
「――今後もし俺につきまとったりしたら、訴えるからな! 最低女!」

 ようやく口を開いて彼の名前をぽつりと呼んだ時には、桜田は新菜との縁をすっぱりと断つように立ち上がり、冷え切った視線を投げて去っていった。

「……」

 怒濤どとうの展開に茫然ぼうぜんとし、しばらくみじろぎもできず……どれくらい時間が経っただろう。固まった身体をようやくゆるゆると動かし、辺りを見回す。
 桜田に水をかけられてから、周囲の客がひそひそと話しながら二人を見ていたのだが、頭が真っ白だった新菜はそれに気づいてもいなかった。
 我に返って周囲に目を向けた頃には、何事もなかったように景色は動いていた。



   1


 かいどうエレクトロニクスは、海堂ホールディングスを持株会社とするIT企業だ。東京に本社を置き、全国に事業所や子会社を展開している。
 その中の一つ、さくらはま事業所は、桜浜駅から徒歩十分圏内の海堂ホールディングス自社ビル内にある。新菜が勤務する桜浜事業所の総務部経理課は、十八階建て社屋の五階にえられていた。
 桜田に突然の別れ話をされた翌日。新菜はいつものように出勤した。
 隣の部署である総務課に在籍している彼と顔を合わせるのは気まずい気持ちがあったけれど、休むわけにはいかない。
 というより、思いのほかショックを引きずっていない自分がいるのに驚いた。夜もしっかり眠れたし、朝ご飯もちゃんと食べている。
 昨日呼び出された時は結婚を意識していたものの、そう遠くない未来にこんなことになるのでは……という思いも、心の奥底には少なからずあったのかもしれない。
 あれから、家に帰って湿った服を脱ぎ――

『振られちゃったものは仕方がないよね。……気持ち、切り替えよう』

 お風呂から出た時には、そう思えるほど気分は回復していたのだ。
 我ながら立ち直りが早いし、きっとすぐにふっきれるのではないかと、前向きな思いで会社に着いた……のだが。

「おはようございます」

 そう言って経理課に入ろうとしたところで、周囲がどこか冷ややかな目で自分を見ているのに気づいた。

(え、何……?)

 キョロキョロと見回すと、やっぱり遠巻きに冷たい視線を感じる。中には新菜を見ながらひそひそと立ち話をしたり、クスクスと嫌な笑い方をしている女性社員たちもいた。
 訳が分からないまま経理課の自席へ着いた後、隣の席の後輩、いいづかに尋ねる。

「ねぇ飯塚くん……何かあったの?」

 すると飯塚は、気まずそうな表情で目を泳がせた。

「あー……なんか、総務課の桜田さんが……」
「桜田くんがどうしたの……?」
「小坂さんが二股かけて自分を裏切ったとかで、えらい落ち込んでるって……」
「はい?」

 新菜は眉根を寄せて聞き返す。

「あくまでも聞いた話で、僕が言ったわけじゃないですが、小坂さんは誰とでも寝るだの、浮気の常習犯だの、桜田さんの金を盗んでただの、そういったことを言ってるみたいです」
「はぁ?」

 その話に、普段は決して出さないようなテンションの声を上げた。

「それで、こういう動画が回ってきてて……」

 そう言って飯塚がスマートフォンのメッセージアプリを立ち上げ、送受信画面から動画を再生する。
 それは、昨日桜田から別れを言い渡されたシーンが撮影されたものだった。


   ***


 大事な話があるから――昨日は、一年半付き合った婚約者からそう呼び出されたのだ。新菜はきっと具体的な結婚の話を進めるのだろうと思っていた。
 けれど実際に告げられたのは、予想もしていなかったひとことだ。

「別れてほしいんだけど」
「……え?」

 なんと言われたのかよく分からなくて、新菜は首をかしげて聞き返す。

「だから、俺と別れてくれ、って言ってんの」

 オープンカフェの日当たりのいいテーブルで、さわやかな陽気とは真逆な冷たい言葉を浴び、飲み物を持つ手と声が震えてしまう。

「ど、どうして……?」

 新菜の動揺を、目の前の男――桜田はろうともしない。イライラとジャケットの内ポケットから数枚の写真を取り出して、テーブルの上に無造作に投げた。

「これ……」
「俺の友達がたまたま目撃して、写真を撮っておいてくれたんだ。……浮気するような女とは、これ以上付き合ってらんねぇよ」

 さげすむような目で見られ、新菜はいたたまれない気持ちで写真に目を落とす。
 そこに写っていたのは、確かに彼女だった。しくも今二人がいるこのカフェで、コーヒーフラッペを飲んでいる姿だ――男性と二人で、とても楽しそうに。
 二枚目の写真は同じくカフェで撮影されたもので、男性の顔が新菜のそれに被さっている写真だ。解釈によってはキスをしているように見えなくもない。
 そして三枚目は――同じ男性と手を繋ぎ、桜浜駅近くのラグジュアリーホテルに入っていく写真だった。
 確かにその三枚の写真を合わせて見れば、浮気をしていると勘違いしてしまうのも無理はないかもしれない。
 けれど――

「史郎くん、私、浮気なんてしてない」
「じゃあこの写真は? 完全に浮気だろ?」

 桜田が三枚の写真をトトトン、と指で強く突く。

「これは偶然で……」
「へぇ……偶然でキスまでするんだ? おまえ」
「きっ……キスなんて、してない。これは――」
「目のゴミを取ってもらってた、とか、陳腐ちんぷな言い訳するつもりかよ? 鼻で笑うわ」

 心底馬鹿にしたような視線を突きつけられながら、そう問われる。
 桜田は声のボリュームを絞る気がなさそうで、その苛立いらだった声音は徐々に周囲の耳目を引いていった。
 新菜は大きく目を見開いた後、すぐにその力を緩める。つとめて冷静をよそおい、極力抑えた声で告げた。

「この日、風が強かったから目にゴミが入っちゃって、その人が見てくれたの。それに私、この人の落としものを拾って――」

 真相を告げようとした時、桜田が手にしたカップの中の水を新菜にかけた。そして身に覚えのない事柄をずらずらと並べ立て、彼女を責めるだけ責めて去っていったのだ。
 別れを切り出されてから彼が去るまでの展開があまりにもあっという間だったので、新菜の頭はその速さにほとんどついていけなかった。

「よかったらこれどうぞ。返さなくていいですから」

 ほうけていた新菜に、通りすがりの女性がハンドタオルを差し出してくれる。

「あ、ありがとう、ございます……」

 頭を下げてそれを受け取った新菜は濡れた顔と頭と服を拭き、そしてつぶやいた。

「……最初からこうするつもりで、お水、頼んだんだ」

 カウンターでオーダーした時に、桜田はコーヒーと一緒に水を頼んでいた。いつもはそんなことをしないので、不思議に思っていたのだが――

(コーヒーかけられなかっただけ、ありがたいと思わなきゃなのかな)
「最後のコーヒーくらい、自分で払ってくれたっていいじゃない。……ま、いつものことか」

 付き合っている間、こうした食事代は割り勘か新菜が支払うことが多かった。一年半付き合っていて、桜田がごちそうしてくれた回数は片手に満たない。
 今日のコーヒー代も、桜田はオーダーするだけしてカウンターを離れてしまったので、結局、新菜が支払ったのだ。

「っていうか、浮気してたとかお金くすねてたとか、誰のこと言ってたんだろう……?」

 桜田がわめいていた内容にまったく身に覚えがなかったことも、まともに反応を返せなかった一因だった。
 まるで新菜の罪だと言わんばかりにあげつらっていたけれど、彼が言うような所業は一切していなかったのに。

「もう……訳が分からないよ」

 新菜はため息をつき、トレーに載せたままだったレシートを取り上げる。その時、テーブルに置かれたままの写真が目に入った。水に濡れてふやけたそれらを指ではじき、彼女は再び大きく息を吐く。
 冷静になって考えると、『婚約者』といっても口約束だけだった。半年ほど前に食事をしながら「そろそろ結婚でもしてみる?」と言われたくらいで、それ以降、何一つ具体的な話は出ていなかったのだ。
 その時点で自分は婚約したと思い込んでいたけれど、桜田にとってはなんの気なしに口走っただけで、本気ではなかったのだろう。両親に会ってほしいと言っても都合が悪いだのなんだのと理由をつけて断られていたし、逆に彼の両親に会わせてもらったこともない。
 でもまさか、こんな形で別れを告げられるなんて思ってもみなかった。

「浮気なんか……してないんだけどなぁ……」

 ゴールデンウィーク明け――一年の内、もっともさわやかで空気が美味おいしい季節だ。
 けれど、五月の冴え冴えとした空は、今の新菜にとっては嫌味でしかなかった。


   ***


『――今まで俺の部屋に何人の男を連れ込んだんだよ! それに部屋からいつも金をくすねてるのも分かってるからな! 警察に届けないだけありがたく思えよ! マグロだし味音痴おんちだし……おまえみたいな女と付き合ったのが、そもそもの間違いだったわ』
『――今後もし俺につきまとったりしたら、訴えるからな! 最低女!』

 忌々いまいましげに放たれた言葉が改めて新菜の胸に刺さり、昨日の痛みを思い出させた。
 飯塚が教えてくれた話は、本当に自分のことなのだろうか。

(昨日も史郎くんが言ってたけど、何その嘘しかないうわさ……!)
「僕とか西にしさんとか……経理課で小坂さんにお世話になってる面々は、そんな話信じてないですけど。でも総務課では桜田さんに同情してる人が多くて、真に受けてる人もいるみたいです。さっき小坂さんに文句言いに来た人間もいました」
「ねぇ小坂さん」

 早速と言うべきかうわさをすればと言うべきか――刺々とげとげしい口調で話しかけられて恐る恐る振り返ると、総務課の女王様ことまえかわリカが目元にブリザードを吹かせて立っていた。
 きつめの美人なので、余計に怖さが際立っている。

「な、なんでしょう……?」
「あなた、うちの桜田くんのこともてあそんでたんだって?」
「もて……あそんだ覚えは……ない……んですけど、ね」

 あくまでも穏便に、新菜は口元をひきつらせつつも、笑顔で応対する。

「だって桜田くん、今朝出社するなり青ざめた顔でため息ついてるし。どうしたのか聞いたら、あなたに裏切られて眠れなかった、って」
(あー……史郎くん、また嘘ついてるんだ……)

 実は付き合っている頃から、桜田はちょっとした嘘をつくことがあった。待ち合わせに遅れた時に「テレビのインタビューに捕まった」だの、デートの時に財布を忘れてきただの、そういったたぐいのものだ。
 けれど新菜に無実の罪を着せるような、えげつない嘘を堂々とつくなんて初めてだった。

(史郎くん……そうまでして、私と完全に手を切りたいんだ……)

 昨日は、桜田はとんでもない誤解をしていると困惑したが、新菜と別れたくて嘘をついたというのなら、悲しいけれど納得できてしまう。
 どうしてここまで嫌われてしまったのか、まったく心当たりがなかったけれど。

「桜田くん、あなたの所業に耐えられなくて、別れ話をしたんだって。私の同期がたまたまその場に居合わせて、動画に撮ってたけど……みっともなさすぎ」

 前川が新菜を見る目は、軽蔑けいべつの色で染まっている。完全に新菜を見下して馬鹿にした笑みを浮かべているのが、分かりやすくてかえって清々すがすがしい。
 彼女はくどくどくどくど、まだ何か言い続けているが、新菜は半分ほうけながら、前川のことを見ていた。
 ブラウスのえりぐりから肌色のサージカルテープが見えているけれど、ケガでもしたのかなぁ……とか、耳にピアスの穴が何個もいているなぁ……とか、関係ないことをぼぅっと考えてしまう。我に返ったのは、彼女が声を荒らげた時だ。

「あなた聞いてるの⁉」

 こうなってはもう腹をくくるしかない。新菜は胸にじくじくと湧く痛みを押し込め、精一杯の作り笑いで前川に言った。

「まったく身に覚えのないことで、どうしてそこまで言われているのか私には分かりませんが、桜田くんに『お大事に』って伝えてもらえますか?」

 そして自分の机に向かい、仕事の準備を始めたのだった。
 新菜は部署の同僚たちに事情を説明し、騒がせたおびをした。
 彼女が元々真面目な性格なのを知っている経理課の面々は「水かけられて災難だったね」「風邪ひくなよ」などと声をかけてくれる。
 彼らがうわさを気にも留めずにいてくれるおかげで、普段と変わりなく業務をこなしていられた。ところが――

「小坂さんって三股かけてるんですって? 人は見かけによらないって言いますけど、ほんとですね~。……どうやってたぶらかしてるんですかぁ?」

 昼休み前に、今度は他部署の庶務が出張精算書を持ってきて言った。前川ほどアクが強くないものの、人のうわさが大好きな歩くスピーカーのような女性だ。

(三股って……一人増えてるし!)

 クスクスと悪意のある笑いを放たれ、カチンときた新菜は出張精算書を突き返す。

「これ、宿泊先の領収書と精算書の金額の数字が合ってないので、お返しします。申請し直すよう、言ってください」

 淡々とそう告げると、庶務の女は「え、うそ」などと口走りながら、精算書と領収書の数字を見比べた。そして悔しそうな顔をして自分の部署に戻っていく。

(いや、数字間違ったのは申請者なんだから、あなたが悔しそうにしなくても……)

 心でツッコミを入れてみるが、他人から悪意を向けられるというのは地味に精神を削られるものだ。
 たったこれだけのやりとりで、HPヒットポイントMPマジックポイントがごっそりと減っている。
 他にも廊下を歩いている時に「ビッチ」とののしられるわ、「桜田さん可哀想~」などとわざと聞こえるように言われるわで、新菜の悪口がそこここから聞こえてきた。桜田はどれだけ話を盛ったのだと苦笑せざるを得ない。
 極めつきは、名前も知らない男性社員に呼び止められて、「小坂さん、誰とでも寝るんだって? だったら俺もお願いしていい? 今夜どう?」、「どんなテクニック持ってるの? 教えてよ~」などと、セクハラ発言を投げかけられたことだ。
 さすがにこれには呆れ果てる。

「今の発言、セクハラですよね? 録音したんで人事部に持ち込んでいいですか?」

 そう言ってやると、慌てふためいて逃げていった。
 そんな下品な男を二、三人いなしたところで、新菜は息抜きのためにレストスペースにおもむく。自販機でカプチーノを買うと、近くのベンチに座り込む。
 朝からビッチだの三股だのと、何も知らない連中が言いたい放題言ってくれているが、そもそも新菜の男性経験は桜田だけなのだ。彼が初めての男で、彼しか知らない。
 経験のとぼしいこんな自分が、男性をもてあそ手練手管てれんてくだなんて持っているはずないのに。

(はぁ……もう疲れたぁ)

 精神的には早くもギブアップしたいところだ。
 その時――

「新菜、大丈夫?」

 声をかけられると同時に、隣に腰を下ろしてくる影が見えた。

けい

 同期で友人のそう慶子だ。

「桜田ったら、やることが甘いのよね。だってこれ、新菜が弁護士入れて訴えたら負けるわよ」

 さすがに慶子は、桜田の嘘をはなから信じていないらしい。暴挙とも言える彼の吹聴を、鼻で笑っている。

「でもひどいよ! 動画まで拡散するなんてさ! 新菜、訴えてやりなよほんと! SNSに悪行上げてやれ!」

 さりげなく(?)話に参加してきたのは、これまた同期のよしおかだ。えらく荒々しい鼻息で、新菜の斜め前にあるスツールに座る。
 この二人には昨夜の内に事情を話しておいたので、新菜と桜田がどういういきさつで別れたのかを知っていた。

「それにしても、一体どういうつもりなのかしら、桜田」
「いっそあいつの本性明かしてやればいいのよ、新菜!」
「まぁ……それで周りが信じてくれれば苦労はないよね」

 どうやらうわさは結構な範囲まで広まっているらしい。それをどう収束させたらいいものか。
 桜田は社内ではイケメンで通っており、表向き人懐っこい性格も手伝って、女性社員からは人気がある。
 そんな彼が付き合っていた女から裏切られた末、フリーになった。きっと、傷心の彼をなぐさめつつ後釜に座ってやろうと狙う女性が多数いるはずだ。
 そういう女性たちがうわさの着火剤となっている可能性が高く、桜田はそれを見越して火種を投げ込んだのだろう。

「誰かに何か言われたら、私に言いな! ボッコボコにしちゃう!」

 紗良は可愛らしい容姿とは相反して、性格は結構過激である。しかも趣味でキックボクシングをやっているのだ。座りながらファイティングポーズを取る姿も、なかなかさまになっている。

「紗良、格闘技やってる人は素人しろうとさんには手を出しちゃダメだって。……まぁ、私もそうしてやりたいけど」

 慶子が笑いながら言った。聡明な美人である彼女には慶子という名前がよく合っている。

「二人が味方でほんとよかった。それだけでも安心できる」
「ま、最悪の場合はマジで弁護士入れちゃいなさいよ」
「弁護士がめんどくさかったら、私がいつでも鉄拳制裁!」
「ん……」

 二人のなぐさめに、新菜はホッとして笑みを見せた。


 しかし今日一番の試練は容赦なく訪れる。
 経理課のコピー機が故障し、メーカーに点検・修理を依頼した。その間、隣の総務課のマシンを借りることに。
 新菜も例外なく、コピーをしに総務課へおもむかねばならなくなる。
 よりにもよって今、この時に、だ。
 総務課と経理課は隣同士ではあるが一応壁で仕切られているので、あちらからの雑音はシャットアウトされている。そのおかげでここまで幾分かは助けられていたけれど。

(あー……胃が痛い)

 総務課のドアの前で、新菜はおなかさすった。
 いくら腹をくくったとはいえ、敵の本丸にたった一人、丸腰で突入するようなもの。針のむしろだ。
 新菜はドアを小さくノックし、ドアノブを回してそっと中へ入る。

「コピー機、お借りしまーす」

 そう声かけをした瞬間、その場にいたほぼ全員が顔をこちらに向けた。

「……」

 侮蔑ぶべつ下卑げびの意を含んだ視線が、新菜に突き刺さる。しかし当の桜田は、気まずそうに目をらした状態だ。
 あることないことを吹聴したのを自覚しているのだろうが、その姿を『裏切られたのがつらくて、元カノを正視できない』として受け取る者もいるだろう。
 気にしても仕方がないので、コピー機へ向かい、原稿をセットする。結構な枚数をコピーしなければならず、それを待っている間がまた苦痛だった。

「よくここに来られたよね……」
つらの皮が厚いから、二股とかできるのよ」
「桜田くん、可哀想……」

 などという声が後ろから聞こえてくる。

(あーあー、聞こえない聞こえない)

 気持ちの上では耳をふさいでいるつもりだ。実際にはコピー機の稼働音を耳栓にして、雑音を右から左へ受け流している。

「ぐぅ……っ」

 突然、後ろのほうでうめくような声とガタンという音がして、それから誰かが駆け出す足音が聞こえてきた。
 視界の端っこで、桜田が口元を押さえて総務課から出ていくのが見える。

「ちょ……桜田くん、気持ち悪そうだったんだけど!」
「あの女の顔見てたら思い出したんじゃない? なんか、桜田くんの部屋に浮気相手連れ込んでるところに出くわしたらしいから」
(ちょっ、いつの間にそんな話に……!)


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