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① 声が落ちてくる場所
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雨の夜、一ノ瀬すずりは、しとしとと濡れる町を、ひとり歩いていた。
「……また、デートか」
玄関に母の傘がないことを確認して、ぽつりとつぶやく。冷蔵庫にはラップのかかった夕飯がひとつ。箸をつける気にはなれず、ソファにリュックを投げ出すと、小さなポータブルラジオを取り出した。
そして棚の奥から、"もうひとつの鍵"を手に取る。古びた金色の鍵。ペンキはかすれ、ところどころ錆びている。けれどすずりは知っている。この鍵が開く場所を。
月島悠がかつて通っていた高校。すでに閉校された、その校舎の、放送室の扉を。
*
廃校の門をくぐる。錆びた鉄の扉が、静かな校舎に軋んだ音を響かせる。
放送室の前に立ち、すずりは鍵を差し込んだ。
かちゃり。微かな金属音と同時に、室内の空気がふっと揺れた気がした。
それからすぐ、スピーカーの奥で、低くうなるような電源音。
——そして、あの声が流れ出した。
まるで、彼がずっと待っていたかのように。
「……こんにちは、放送部の月島悠です」
彼の声に初めて出会ったのは、あの日の雨だった。
帰り道、急な雨に降られて、すずりは偶然、廃校の裏手で足を止めた。
錆びたフェンスの隙間を抜け、雨宿りのつもりで入った場所。けれど、その静けさの中に、かすかな電子音と、人の声のようなものが紛れていた。
怖さよりも、好奇心が勝った。濡れたスニーカーのまま、扉をそっと押して、音のする方へと歩いていく。
開け放たれた放送室の奥で、古びたラジカセがかすかに回っていた。
そして、そこから流れてきたのは、澄んだ、柔らかい声だった。
——放送部の、月島悠です。
その声は、雨音に溶けるようにして、すずりの心に落ちてきた。
それから、すずりは何度もこの場所を訪れるようになった。
廃校の門をくぐるたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。
誰もいないはずの校舎。けれど、そこには確かに"声"があった。
月島悠の声は、過去から届く手紙のようだった。静かに、丁寧に、誰かの心を包むように語りかけてくる。
——忘れてしまった感情。置き去りにしてきた気持ち。でも、この声に触れると、不思議と思い出せる。
「……雨の日の水たまり。そこに映るのは、空だけじゃない。誰かが残した時間の層……水たまりの奥にあるのは、忘れられた想いかもしれない」
胸が、きゅうっと痛む。
「——雨の日の水たまり。それは、"声が落ちてくる場所"。」
「気づけば、放送室で過ごす日々も、もうすぐ終わるんだな。
この校舎も、廃校になっちゃうってさ。
でも、残したくて……この場所の音とか、空気とか。」
やがて、彼の声が最後のあいさつをする。
「雨の音が混じったときにでも、……誰かに、届いてたらいいな。じゃあ、また。」
——ジリ……。
カセットテープの回転音が止まり、放送室は静寂に包まれた。
すずりはカセットの再生が終わったのを確認すると、そっとラジオを取り出した。
ポータブルラジオのスイッチを入れると、チューニングの音のあと、ふいに声が流れ出す。
「こんばんは、"夜のよりみちラジオ"の時間です」
すずりはそっとラジオの音量を上げた。
過去の声と、今の放送と、そして自分の心が、雨音の中で静かに重なっていく。
その夜、すずりは決心した。
月島悠の声に導かれるように、自分もまた、誰かに声を届ける人になりたいと。
*
その翌日。
すずりが通う高校の放送室には、淡い夕暮れの光が差し込んでいた。
カーテン越しにゆれるオレンジの陽射しが、機材やコードにやわらかく影を落とす。編集ソフトのタイムラインを見つめるさちの後ろから、顧問の葉月みどりが声をかけた。
「はい、BGMフェードアウト……そこから次のナレーションに切り替えて!」
「りょーかいです!」
つばさが椅子をくるっと回し、マイクに向かって息を整える。その隣で、すずりは赤ペンを持ったまま、黙々と原稿に目を通していた。
目前に迫るラジオ杯全国高校放送コンテスト地区予選。その収録は、まさに佳境に差しかかっていた。
「つばさ、そのセリフ、少しだけ感情を抑えてみて。ちょっと照れくさいくらいがちょうどいい」
「はーい、やってみます!」
つばさが深呼吸して読み上げたあと、部屋に静寂が落ちた。
再生ボタンを押して音を確認したさちが、ふっと笑った。
「……今の、すごく良い。語尾の間とか、リズムがぴったりだった。原稿って、音楽みたいだよね」と、さちがぽつりとつぶやく。
「語尾のリズム、言葉の余韻、抑揚……それがハマると、言葉が音になる。声だけで伝えるって、難しいけど、すごく自由だよね」
すずりの声も、少しだけやわらかくなった。
そのやり取りを見つめていたみどりの胸に、あたたかな感情がわき起こる。
——こんなに真剣な目をして、マイクに向き合っている。
彼女たちは今、まっすぐに「声の力」を信じている。
ふいに、つばさが振り返った。
「ねぇ、先生。うちら、いい番組作れてると思いますか?」
みどりは少しだけ驚いて、それから、ゆっくりと微笑んだ。
「思うよ。とても、いい番組になってる。あなたたちの"伝えたい"って気持ちが、ちゃんと音になってるから」
彼女は手帳を開いて、今年の大会要項のページをめくる。
「でもね、これからもっと良くなるよ。大会って"誰かと比べられる"ことでもあるけど……私は、"誰に何を届けたいか"を忘れないでいてほしい」
3人は、それぞれ小さく頷いた。
放送室に、静かな熱が宿っていた。
つばさがマイクの前に座り直す。
「——心の中に咲く、名前のない気持ち。その正体を知ったとき、きっと、ほんとうの言葉が生まれる」
録音が終わると、部屋に静けさが戻った。
みどりが、ゆっくりと拍手する。
「……今の、すごくよかった。背筋がゾクッとした」
照れくさそうに笑い合う3人。窓の外には、夜の気配が忍び寄っていた。
けれどこの部屋には、まっすぐな音が満ちていた。
すずりは窓の向こうの夕暮れを見つめながら、昨夜の雨音を思い出していた。月島悠の声が、今の自分へと確実に繋がっている。その実感が、胸の奥で静かに温かく灯っていた。
「……また、デートか」
玄関に母の傘がないことを確認して、ぽつりとつぶやく。冷蔵庫にはラップのかかった夕飯がひとつ。箸をつける気にはなれず、ソファにリュックを投げ出すと、小さなポータブルラジオを取り出した。
そして棚の奥から、"もうひとつの鍵"を手に取る。古びた金色の鍵。ペンキはかすれ、ところどころ錆びている。けれどすずりは知っている。この鍵が開く場所を。
月島悠がかつて通っていた高校。すでに閉校された、その校舎の、放送室の扉を。
*
廃校の門をくぐる。錆びた鉄の扉が、静かな校舎に軋んだ音を響かせる。
放送室の前に立ち、すずりは鍵を差し込んだ。
かちゃり。微かな金属音と同時に、室内の空気がふっと揺れた気がした。
それからすぐ、スピーカーの奥で、低くうなるような電源音。
——そして、あの声が流れ出した。
まるで、彼がずっと待っていたかのように。
「……こんにちは、放送部の月島悠です」
彼の声に初めて出会ったのは、あの日の雨だった。
帰り道、急な雨に降られて、すずりは偶然、廃校の裏手で足を止めた。
錆びたフェンスの隙間を抜け、雨宿りのつもりで入った場所。けれど、その静けさの中に、かすかな電子音と、人の声のようなものが紛れていた。
怖さよりも、好奇心が勝った。濡れたスニーカーのまま、扉をそっと押して、音のする方へと歩いていく。
開け放たれた放送室の奥で、古びたラジカセがかすかに回っていた。
そして、そこから流れてきたのは、澄んだ、柔らかい声だった。
——放送部の、月島悠です。
その声は、雨音に溶けるようにして、すずりの心に落ちてきた。
それから、すずりは何度もこの場所を訪れるようになった。
廃校の門をくぐるたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。
誰もいないはずの校舎。けれど、そこには確かに"声"があった。
月島悠の声は、過去から届く手紙のようだった。静かに、丁寧に、誰かの心を包むように語りかけてくる。
——忘れてしまった感情。置き去りにしてきた気持ち。でも、この声に触れると、不思議と思い出せる。
「……雨の日の水たまり。そこに映るのは、空だけじゃない。誰かが残した時間の層……水たまりの奥にあるのは、忘れられた想いかもしれない」
胸が、きゅうっと痛む。
「——雨の日の水たまり。それは、"声が落ちてくる場所"。」
「気づけば、放送室で過ごす日々も、もうすぐ終わるんだな。
この校舎も、廃校になっちゃうってさ。
でも、残したくて……この場所の音とか、空気とか。」
やがて、彼の声が最後のあいさつをする。
「雨の音が混じったときにでも、……誰かに、届いてたらいいな。じゃあ、また。」
——ジリ……。
カセットテープの回転音が止まり、放送室は静寂に包まれた。
すずりはカセットの再生が終わったのを確認すると、そっとラジオを取り出した。
ポータブルラジオのスイッチを入れると、チューニングの音のあと、ふいに声が流れ出す。
「こんばんは、"夜のよりみちラジオ"の時間です」
すずりはそっとラジオの音量を上げた。
過去の声と、今の放送と、そして自分の心が、雨音の中で静かに重なっていく。
その夜、すずりは決心した。
月島悠の声に導かれるように、自分もまた、誰かに声を届ける人になりたいと。
*
その翌日。
すずりが通う高校の放送室には、淡い夕暮れの光が差し込んでいた。
カーテン越しにゆれるオレンジの陽射しが、機材やコードにやわらかく影を落とす。編集ソフトのタイムラインを見つめるさちの後ろから、顧問の葉月みどりが声をかけた。
「はい、BGMフェードアウト……そこから次のナレーションに切り替えて!」
「りょーかいです!」
つばさが椅子をくるっと回し、マイクに向かって息を整える。その隣で、すずりは赤ペンを持ったまま、黙々と原稿に目を通していた。
目前に迫るラジオ杯全国高校放送コンテスト地区予選。その収録は、まさに佳境に差しかかっていた。
「つばさ、そのセリフ、少しだけ感情を抑えてみて。ちょっと照れくさいくらいがちょうどいい」
「はーい、やってみます!」
つばさが深呼吸して読み上げたあと、部屋に静寂が落ちた。
再生ボタンを押して音を確認したさちが、ふっと笑った。
「……今の、すごく良い。語尾の間とか、リズムがぴったりだった。原稿って、音楽みたいだよね」と、さちがぽつりとつぶやく。
「語尾のリズム、言葉の余韻、抑揚……それがハマると、言葉が音になる。声だけで伝えるって、難しいけど、すごく自由だよね」
すずりの声も、少しだけやわらかくなった。
そのやり取りを見つめていたみどりの胸に、あたたかな感情がわき起こる。
——こんなに真剣な目をして、マイクに向き合っている。
彼女たちは今、まっすぐに「声の力」を信じている。
ふいに、つばさが振り返った。
「ねぇ、先生。うちら、いい番組作れてると思いますか?」
みどりは少しだけ驚いて、それから、ゆっくりと微笑んだ。
「思うよ。とても、いい番組になってる。あなたたちの"伝えたい"って気持ちが、ちゃんと音になってるから」
彼女は手帳を開いて、今年の大会要項のページをめくる。
「でもね、これからもっと良くなるよ。大会って"誰かと比べられる"ことでもあるけど……私は、"誰に何を届けたいか"を忘れないでいてほしい」
3人は、それぞれ小さく頷いた。
放送室に、静かな熱が宿っていた。
つばさがマイクの前に座り直す。
「——心の中に咲く、名前のない気持ち。その正体を知ったとき、きっと、ほんとうの言葉が生まれる」
録音が終わると、部屋に静けさが戻った。
みどりが、ゆっくりと拍手する。
「……今の、すごくよかった。背筋がゾクッとした」
照れくさそうに笑い合う3人。窓の外には、夜の気配が忍び寄っていた。
けれどこの部屋には、まっすぐな音が満ちていた。
すずりは窓の向こうの夕暮れを見つめながら、昨夜の雨音を思い出していた。月島悠の声が、今の自分へと確実に繋がっている。その実感が、胸の奥で静かに温かく灯っていた。
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