線香花火

流月るる

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 客が来ることをどこで見ているのか、ドアの前に来ると自然に内側から開かれた。私を先に行かせるために彼は立ち止まって少しよける。おそるおそる「いらっしゃいませ」の声につつまれて足をすすめた。 薄暗い廊下のすぐ横にバーカウンターがあった。奥にはテーブル席らしき場所に座る客の背中が見える。すりガラスのしきりをくぐると長方形のタイルがしきつめられた壁面。隠れたライトがすっと下に伸びて、ガラス戸の中にはいくつものワイングラスが輝いている。横には絵がかかげられ、カウンターの端の花瓶には色鮮やかな花たちが花弁を競い合っていた。
 全体的にシックであのバーとはまったく違う雰囲気に、ここに一人で入るのは厳しいなと座ることにさえ戸惑う。
 お荷物をお預かりしますと言われて渡すと、ひかれた椅子に腰をおろした。

「フレンチレストランだけどワインバーも併設しているんだよ。夜遅くまで営業しているから飲みたいときはくるんだ」

 年配の上品な服装の夫婦が入れ替わりに店を出ていく。一瞬自分の服装を確かめて、ノーカラーのジャケットを羽織っていてほっとした。

「ワインは大丈夫かな?せっかくだからボトルで頼もうか?」
「私、あまり詳しくないのでお任せします」
「今夜は少し飲みたい気分だから、よかったら付き合って」

 何かあったのかなと思っても聞くことはできない。疲れの滲む横顔やここへ私を誘ったことからもいつもの彼とは違う。そう考えて「いつもの」と言えるほど知らないくせに思った自分が滑稽だった。フレンチレストランならちょうど食事が終わる時間になっているのだろう。ワインバーにいるのは私たちだけになった。

 彼はワインリストを見ることなくソムリエらしき人とワインについて相談している。あのバーの常連なのかどうかはいまでもよくわからないけれど、ここにはよくきているのだと思わせるような口調だった。そういえばバーでも彼はワインを飲んでいたことを思い出す。

「何かあった?」
「え?」
「あなたが歩いているのに気が付いて、店に行くのかなと思ったのに立ち止まったし。この間は元気そうだったのに、今日はまた泣きそうにしているから」

 あからさまにそんなふうに言われて、言われたことにも内容にも驚いてどうしていいかわからなかった。最初に会った日だってそこまで踏み込んだことは言ってこなかったのに。
 黙ったままの私にすぐに気づいて彼は苦笑した。

「ごめん……余計なこと言ったみたいだ。泣きたいのはあなたじゃなくて僕のほうなのにね」

 ソムリエがワインを差し出してラベルを見せながらヴィンテージをしめす。彼が頷くとナイフを器用に動かして流れるような動作でコルクをはずしていった。大きめのワイングラスにゆっくり注がれていく。会話が中断されたのがいいのか悪いのかわからなかった。ただ彼の真似をしてグラスに口をつけると華やかな花の香りが鼻腔をついた。舌触りはなめらかで軽やかな酸味が口いっぱいに広がる。彼は目を細めて私の様子を見守っていて、私は「おいしいです」と伝えた。

「泣きたい」なんて男性に言われたのは初めてで、疲れているんじゃなく悲しいのだと、そんなとき彼はこんなふうになるのだと知る。「泣きたい」理由がもし私と同じであれば、彼も未来のない恋を経験した一人なのだろうか。
 けれどワインがきたことでその話題はそのまま途切れた。あまり踏み込まないほうがいい。彼のためにも自分のためにも。ワインを口にすることで言葉を紡ぐことを禁じる。

「おいしいよ、このワイン」
「よかったです」

 そうソムリエとワインの話をして、そこから今のシェフの料理の話や、フランスにワインを仕入れに行ったことなど彼らの話に頷くことで私もそこに参加する。バーのときと雰囲気が違うのは私たちの関係がここではまっさらなものだからなのだろう。あの場所より口数の多い彼の言葉からいろんな情報を与えられている気がして、聞いていいのか悪いのか相槌をうっていいのか迷いながらその横顔を時折見ていた。

 時間とともにワインの味は変化していく。私たちの関係もきっと変化していく。ワインのように味わい深く変化していくのか赤い色を光に透かして、似ている何かを思い出した。
 暗い紫色に見えていたそれは光によって明るいオレンジ色が混じり合っているように見えて、それは和紙の先にぽつんと灯る線香花火の色と重なった。
 もしかしたら似ても似つかないものなのかもしれない。でも「泣きたい」その一言が私を揺さぶる。

 セミは必死に鳴くではないか。短い時間に運命の相手を探すために、一生懸命声を張り上げて見てほしい、来てほしいと叫ぶではないか。黙り込んでいては誰にも気づかれない。誰にも相手にされない。時間が経って秋になればその声はもう聴くことができない。
「聞かせて、声を」彼は言った。外でうるさく鳴きつづけるセミの声にかき消されないように、オレが聞きたいのは君の声だから。セミのようにオレを求めて、と。


 ***


 夜が深まるごとに気温は心地いいものに変わっているはずだった。でも私の肌は内側から発する熱で熱さをまとっている。ワインバーを出た後すぐに、半分支払わせてほしいと言ったのに彼は「僕が誘ったから」と受け取ってはくれなかった。歩くたびに体がふわりとして気持ちがいい。酔っているかもしれない、と彼の背中を見て確信する。店に入るまでは私の視線はずっと下にあったのだから。広い肩幅を大きな手を私は知らないわけじゃない。でも前を歩く背中を見ていると知らない人なのだとあたりまえのことを思う。

「……飲ませすぎたかな?もしかして酔っている?」
「……あまり飲みなれないものだったのにおいしかったから。ごめんなさい、適量もわからなくて」

 ワインのほうがアルコール度数は高いだろう。私が半分飲んだとは思わないけれど彼の飲むペースも早くて二人で1本空けてしまった。
 頬に手をあてると自分の冷たい指先が心地いい。
 いつものバーの前を少し後ろめたい気持ちで通り過ぎる。時間が早くて電車で帰るとき、彼は駅まで歩くのにつきあってくれた。電車には乗らない彼の自宅がこの辺なのかは知らない。終電には間に合う時間帯でも今の状態で乗って帰るのは心もとなかった。
 店先にかかげられた丸い明かりがぼんやり滲む。
 私が追い付くのを待って立ち止まった彼が、頬にあてていた私の手をそっとつかんだ。メガネの向こうの目は澄み切って穏やかに見える。

「もう少しそばにいてほしいと言ったら、あなたは困る?」

 ひけば簡単に離れる力でつかまれた手はゆっくりと下に降りていく。私の冷たい手には彼の手のぬくもりがよくわかって、私は彼から目をそらさずにただ見つめた。
 その言葉をいつも私のほうが思っていた、でもそう思う感情の理由を私は知りたくはない。
 私たちの関係に名前をつけたくはない。
 きっとそれは彼も同じ。
 だから首を横に振って「困りません」とだけ言った。


 ***


 最初に会った日と同じホテルに入った。こういったホテルは部屋によって内装が違うのか、ベッドの大きさだけは同じで、テレビやソファーの位置も違えば、床も壁の色もあのワインバーのような大人の雰囲気に満ちていた。あの時の部屋がビジネスホテルのようなありふれたものだとすれば、今夜の部屋は男と女が過ごすための空間というのが露わだ。
 そう感じてしまうのは私の心境が180度違うせいもある。

 酔っている体の感覚は同じでも、誰でもいいとやけになっていた勢いと、彼に誘われるままついてきた冷静さは相反している。それなのに奥底に隠していた疼きは不安と期待の雨を降らせようとする。
 テレビボードの横のチェストに荷物だけは置いて、私はどうしていいかわからずに立ち尽くしていた。彼はソファーに腰をおろしてネクタイをひきぬくと、馴染んだ表情で私を見た。

「最初に会った時も思ったけど、こういうこと簡単にできるタイプじゃないよね?」
「……信じてもらえないかもしれませんが、初めてです。恋人以外の人と……その……」
「うん、わかっているよ。だから放っておけなかったんだし……。だからあなたとあのバーで再会したとき、ちょっと複雑だった」

 座ったら、とバーで隣を示されたときのように彼は私を一人がけのソファーを手でさした。私はゆっくりと浅く腰をおろす。視界の端にうつる黒いシーツのベッドを見られなくて、白いスリッパをはいた自分の足にうつした。そばには彼の足もある。

「あなたに誘われるかなって思っていた。でも、そういう素振りは見せない。なのにあなたはあのバーにくる。定期的にああいう場所に一人で通うことの危険性がわかっていないみたいに」

 ふわふわしていた酔いも熱もその瞬間すっと冷めた。
 浅ましさを見抜かれた気がした。気づかれれば、私の行動を蔑むようなそういう目で見られる可能性をどうして考えなかったのか。いや、定期的になんて通っていない。一人で飲める貴重なお店だから、一週間の仕事の疲れを癒したくて、そんな言い訳も反論も思い浮かぶのに口には出せない。

「……僕に求めているのは何?」

 羞恥で泣きたくなった。言えるわけがない。自分でもはっきりしない感情を、名づけたくないものを。特別な関係を求めているわけじゃないのに、彼に会いたいと思うことを。口を手で覆って感情を押し殺す。

「ごめん。責めているわけじゃなし、非難しているわけでもない。僕もあなたと同じだから。
きちんと名前のある関係を築く自信はない。あなたへの感情もはっきりしているわけじゃない。だからこういうことをするのは卑怯だとわかっている」

 立ち上がった彼に腕をひきあげられて私は彼の胸に頬をつけていた。背中にまわされてぎゅうっと抱きしめられる。涙がそっと頬を伝って落ちた。

「あなたが僕に求めているのがこういうことでないのなら、嫌だと抵抗して」

 片手で私を支えて、もうひとつの手がそっと頬をなでて涙を拭う。近づいてきた彼の唇から熱い息が吐き出されて少しだけ見つめ合った。
 軽く唇が触れて私は目を閉じた。そっと離れて再び触れて私の返事を待つようにしばらくそこに留まった。
 抵抗するはずもない。だって私が求めていたのはきっとこういうことだ。
 メガネの向こうにある目は、真摯に私の答えを探る。私はおずおずと手を伸ばして彼のシャツを小さくつかんだ。

「……誰でも、いいわけじゃないです」
「うん、わかっているよ」

 メガネをはずす仕草を私はずっと目で追った。その先に、テーブルに模様を描く赤いネクタイがあって最後の結び目がほどかれた気がした。
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