線香花火

流月るる

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 週末に美容室に行って丁寧にトリートメントをしてもらった。カールの残った毛先も少し切ったこともあってさらさらと指触りがいい。
 駅ビル内をめぐるうちに見つけた化粧スペースのある綺麗なトイレは、縦長の鏡が並んで荷物置きの棚もある。私はそこで髪をハーフアップにしてバレッタでとめた。会社のロッカーで暗い色のストッキングにはきかえて、襟の丸いシンプルなブラウスの上から袖先と襟ぐりに軽くファーのついたボレロを羽織っていた。上から薄手のコートを着れば目立たずに出ることができた。髪とメイクを社内でなおすのはやっぱり抵抗があって、私はこの場所で武装し直している。
 全身がうつるのでバランスを確認する。オフホワイトのボレロと同色のショートブーツで、すこしは華やかに見えるだろうか。

 会えなくてもいいけれど、会えたらいい、そんな曖昧な感情をこれから先も続けていけば悩むことはないと思っていた。セックスをしたぐらいでそう変わることもない。変える必要もない。
 深く考える必要はない。私は彼とセックスがしたくてバーに行くわけではないのだから。

 唇に艶やかなピンクのグロスをのせると、地味にしている会社とは異なる私がそこにはいた。
 開き直る自分と、後悔している自分とが交互に押し寄せてくる一週間だった。彼が自分と同じように悩んでいるか、それともなんとも思っていないのかどんなに想像してもわかるわけがない。

 会わないほうがいい、やめたほうがいい、そうは感じてもその理由までは考えられない。
 悩まなくていい、適当に考えればいい、そう思うこともあるのに踏ん切りがつかない。

 ぐるぐるぐるぐる同じところをまわるだけで、私は後戻りすることも先に進むこともできずただ日常をこなしていた。

 わかるのはただひとつ。

 私は不意な瞬間にさえ、彼のことを考えるようになってしまったということ。

 メイク用品をポーチにしまうと、はあっと深く息を吐き出した。
 もっとうまく男と遊べればいいのに、私は恋人以外の関係を男の人と築いたことがないせいでどうしていいのかわからなかった。
 華やかに武装してもどこか滑稽に見えるのは、悪女になりきれない脇役のようで、久しぶりに塗ったマスカラも浮いている気がした。
 どんな選択肢も私にはある。
 このまま家に帰ることも、お店をぶらつくことも、他のバーに駆け込むことも。でもきっと足はあの場所に向いてしまうのだ。私の意志になどお構いなく。



 ***



 「いらっしゃいませ」という声を覚えたのははじめてな気がする。私と目が合うとバーテンダーの彼はにこりと笑みを浮かべて、いつもの席あたりに案内してくれた。
 カウンターに置かれているのは細いガラスの花瓶ではなく、小さなかぼちゃとアレンジされた白やオレンジの花。このお店にもささやかなハロウィーンの波が訪れていておかしくなった。子どものためのイベントのイメージがあるのに、大人の世界にもすっかり浸透している。
 椅子の背に脱いだコートを置くと「今夜はなんだか雰囲気が違いますね」とメニューと一緒に声をかけられて「そう、ですか?」ととぼけてみた。髪型もメイクも服装もいつもと違うように装ったのは自分なのに見透かされたことが恥ずかしい。

「これ、かわいいですね」
「ありがとうございます」

 誤魔化したくてそのフラワーアレンジメントを指すと、彼は苦笑して今夜のおすすめを教えてくれる。
 前回はこのバーの前を通ったくせに入らないままだった。1か月弱空いたけれどほっと安心するような雰囲気は変わらない。季節はうつろいそのたびに小さな変化はあるのに、温かみのあるライトも艶やかなカウンターも並んだボトルさえ出迎えてくれている気がする。
 ああ、私はこのバーが好きなんだな、と不意に思った。
 たとえあの日彼に出会うことがなくても、頻度は多少減っても私はこのバーに通っていただろう。

 目の前に出されたのは梨をすりおろしたカクテル。甘い花にも似た香りが広がって私はじっくりと口に含んだ。酸味と甘みが混じり合ったすりおろされたやわらかな食感。舌にするりと運ばれて、病気の時によく食べたすりおろしのりんごを思い出した。りんごの味より、手間をかけてくれた母の愛情を感じて甘えたくなる、そんな懐かしい感情を呼び覚まされた。きゅっと痺れるようなアルコールの刺激が私を叱咤して、彼が来るとか来ないとか、そんなことで悩んでいた自分が情けない気がした。

「いかがですか?」
「甘くてすごく優しい味、とってもおいしいです」
「よかったです。お気に召していただけて」

 店員と客。それだけの関係でしかないのに私はわずかな時間で自分をこの場所でさらけ出している気がする。苦しくて泣きたくて惨めだった夜も、花火の音に逃げ出した日も、彼に会えなくて帰ってしまった時も、この席で出されたカクテルを飲むただその行為だけで。

 一気にあおることもなく、ゆっくりゆっくり口にした。時計で時間がすすまないことに焦らず、出されたドライフルーツをピックでさしながら舌を休める。
 耳馴染みのあるクラッシックの曲が体に染みわたっていった。
 先に来ていた客が帰っていき、また新たに人が入ってくる。背後の人の流れを感じてはドアが開く気配がすると心臓がことりと音をたてた。

 偶然でしかない金曜の夜。

 急な残業が入ることも、体調を崩してしまうことも、出張でいないことだってある。
 もう二度と関わりたくないと訪れるのをやめた可能性もある。



 私は勝手な賭けをした。



 もし今夜、彼に会える偶然がおこらなければ、私がここを訪れるのも最後にしようと。



 ふわりと落ちた髪を耳にかけて、私は視線だけで店内を見廻した。落ち着いた雰囲気でグラスを傾けるカップルが二組ほどカウンターに並んでいる。私の対角線上には女性同士の客。輪の形になって落ちてくるペンダントライトの光はグラスの中にすっと浮かんでいた。

「モスコミュールを」

 おかわりを聞かれていつもの二杯目を答える。このロンググラスの中身を飲み干したら席を立とう。それまでが私に残されたわずかな時間。
 ゆっくりゆっくり味わった。



 ***



 一緒にいられるだけで嬉しかった。あの人も私と一緒にいる努力をしてくれた。
 待ち合わせ場所で顔を合わせると、どんな人ごみの中でも構わずにこめかみにキスをふわりと落とした。指をからめて手をつないで、掌をくすぐるいたずらをする彼にすねながらもほどけなかった。
 せめて隣で歩いて恥ずかしくないように。「かわいいよ」その言葉を聞きたくて、服装にも肌にも指先にも気遣った。そんな自分さえ愛しいと思えた。
 愛情が私にあると、ことあるごとに教えてくれる。私も返すべく素直に思いを伝えた。どんな想いも受け止めてくれるのだと信じさせてくれたから。

 将来もずっと一緒にいよう。その言葉は最初から与えられていて、私たちは疑うこともなく未来の道を二人で見ていたはずだった。

 心から大切な人だと思っていた。
 失ったら二度と生きていけないと思った。
 あの人以上に愛せる人などいないと思った。

 時折厳しい眼差しをたたえることもあった。私はそんな横顔に距離を感じながらも、責任感を持って先を見据えるそこに男らしささえ抱いた。私がそばによると固かった表情がふんわりやわらぐ、不意に見せる幼さも私に甘えてくる仕草も、声をあげたりせずにくすりと笑う口元も。

 好き嫌いはあまりないのに火をいれたトマトは苦手だった。胃があれやすいのを心配して二人でハーブティーにはまったりもした。味付けは微妙でも包丁さばきはなかなかで、キッチンにたつのをおもしろがっていた。

 目を閉じると涙があふれそうになる。瞬きをくりかえすことで逃しこらえる。

 自分を解放してしまうと、私はこんなにもあの人のことを鮮やかに思い出すことができる。ひとつひとつが大切な時間で、胸はひどく痛むけれどそばにいられたことには感謝したい。
 多分、私はきっと今でもあの人を愛している。目の前に突然現れて手を差し伸べられたら迷わずについていってしまう。そんなことが確信できる。



 1センチだけグラスに残っていたアルコールを飲み干した。あれから新しくドアがあけられることはなく、ぼやけそうだった視界をクリアにして、最後に彼が過去に座っていた席を見た。
 別れても愛していると思える男がいるのに、今夜会えなければもう二度と会わないと自分勝手な賭けをしておいて、つきんと細い針がつきささった。
 空になったグラスを名残惜しげに指でなぞる。目があったバーテンダーにお会計をお願いすると、いつもと変わらない受け答えに日常を取り戻す。

 変わることを望んでいたのに、変わらないことを選ぼうとしている。

 あの人を忘れられないと確信しているくせに、彼に会いたいと思った自分がいる。

 「お気をつけて」の言葉を背中に私は外へ飛び出した。雨の気配も匂いもない、ただ風だけがひんやりと冷たさを増している。道しるべのようなスポットライトをたどって、細い路地に出ると腕にしたままだったコートを羽織るかどうか迷って、そのままにした。

 内側にこもっていた熱を放出したかった。首筋にはいりこんだ風が髪をやさしくあおる。おしゃれなレストランからカップルが腕を組んで出てきて、すこしだけうらやましいそう思った。
 私もいつかはまた誰かを愛せるのだろうか。
 目の前の彼らのように甘い声をだして信頼した目で相手を見上げて、誰の視線にもかまわずにくっついて同じ歩調で歩いていく。こつんこつんと一人きりのブーツの音をしっかりならして、もう二度と来ないと決めた道を歩きながら、そんな儚い願いを抱いた。



 ***




 駅につくと人がたくさん溢れていた。いつもと同じ金曜日の夜の少しだけはしゃいだ感じの空気。明るいライトも、賑やかな音も、季節を感じさせる派手なポスターも寂しさなど与えないはずなのに、急激に一人の感覚が迫ってきた。

 人の流れよりさらに早足になって構内をつっきっていく。結局、別れても結婚が決まったことを知っても私が愛しているのはあの人だけだ。忘れたくても忘れられなくて、忘れなきゃいけないと思っていてもできないでいる。

 あの人以上に誰かを好きになる自分なんて想像もつかない。それなのに指先が熱を欲している。

 縛るものをなくした私は宙ぶらりんで、疼きを抱えたまま寒さに凍えているくせに、温められることを拒む。決して捨てることのできない線香花火は、いつか火をつけたいと望んでいるのに燃え尽きることが怖くてできない。

 パスケースを取り出そうとバッグに手をつっこんだとき「待って」という声がざわめきの中ではっきりと聞こえた。肘をつかむ大きな手にびくりとして振り返ると予想もしなかった人がそこにいた。
 周囲の人たちが立ち止まっている私たちを器用に避けていく。彼はすぐさま私から手をはなしてくれて、肩ではあっと息を繰り返した。少し乱れた前髪がメガネにかかっている。ベージュのコートに、首元が緩んだネクタイ、片手には大きめのボストンバッグ。

「……名前、聞かなかったことがこんなに仇になるとは思わなかった」

 初めて会った夜も不意に触れながらもすぐに離れてくれた。その距離感と同じものがある。ここは明るくて雨さえも降っていなくて彼は傘も持っていないけれど、私を追いかけてくれたときと同じ。
 あせったような声も、見下ろす困った形の眉も。
 そして人の流れをじゃまする場所にいる私をやっぱり柱のほうへ優しく誘う。

「雰囲気が違うからあなたかどうか迷ったし、声をかけようにも名前は知らないし……」

 だって勝手な賭けをしたの。
 もしあなたに今夜会えるのであれば、少しでも綺麗な自分を見せたかった。
 もし会えないのであれば、もうあのバーには二度といかないと決めていた。

 私はまだあの人を愛しているのに、あなたに会いたいと思うその気持ちがなんなのかわからないから。そこにはまだ名前をつけることができないから。

「いつも、いつもあなたはそんな表情だね」

 あなただっていつもそんな表情よ、と心の中で呟いた。泣きたい気持ちがどこからくるのかわからなくて涙をこぼすことだけは堪える。
 会えなくて悲しかったことを思い出しているのか、会えて嬉しいと思っているのか、会えなければよかったのにと心のどこかで思っていたこととか。
 堪えることでせいいっぱいで、言葉を発することができない。

 彼は困った表情で首をかしげて私を見下ろしていた。その目は優しくて、暖かくて、季節は秋なのに春のような森林の香りがする。

「……もう、バーに来なければ一夜だけの関係で終わって構わないと思った。
でも、あなたはあそこに行ったんでしょう?」

 迷ったのは一瞬で私は素直に頷いた。ただそれだけでいろんなものを見透かされそうな気がしたけれど、むしろそれに委ねたかった。彼はそれを許してくれる。

 そっと指先が触れた。抗うことなく彼の大きな掌がふんわりと覆うのを待つ。暖かな熱から伝わるものがゆっくりと私の心にも染みた。最初の夜から私はずっとこの手に救われてきたのだから。

「時間が大丈夫なら……お茶でもいかがですか?」

 私はもう一度頷いて、彼にひかれるままにその後ろをついていった。油断するとほどけそうになる程度の力が歯痒くて少しずつ力をいれる。彼と私の手は同じ速度で力をこめて、離れないですむ強さにまで手をつないだ。
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