怖いもの知らずだった彼女

琴事。

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 彼女は──そう、言ってしまえば怖いもの知らずだった。

 

 小学校の時。

 体の大きな、所謂ガキ大将のような子が、気の弱い子をおもちゃにしていたのを、彼女は止めた。彼女だって、とても大柄とは言えない体格だったのに、周りのみんなが遠巻きに見ていたそれに割って入った。

 その時は、ガキ大将がそれに怒って彼女に手をあげようとしたところで、偶然通りかかった先生が仲裁に入ってくれて事なきを得た。

 

 中学生の時。

 スクールカーストというものが存在し始めるようになったその場所でも、彼女は変わらなかった。カースト上位の女の子たちがクスクスと笑いながら陰口を叩いているところに、正面から割って入って「直接言えば?」なんて言い放ったこともあった。

 その後、彼女はそのカースト上位の女の子たちのいじめの対象になっていたけれど、本人は知らん顔だった。

 

 高校生の時。

 理不尽と贔屓で有名な先生が、気に入らない生徒に対して過剰に雑用を押し付けているのに対して、「それはおかしいんじゃないですか」と正面切って言った。人が多かった廊下で、多くの生徒はその先生の陰口を叩くばかりで正面から何かを言うことはしなかったから、皆ぎょっとした顔をしていたのを覚えている。

 その後、先生は彼女一人をターゲットに絞るようになり、彼女にばかり負担になりそうな雑用を押し付けるようになった。彼女は相変わらずそれに対してそれはおかしいと言い続け、場合によってはそれを拒否していたけれど、そんなことをしている間にいつの間にか彼女はタバコを吸っているという噂が先生の仲で流れるようになった。例の先生が流した噂だった。彼女は、いきなり周りの先生からの反応が分かりやすく冷たくなって困惑していた。

 

 彼女は、大学には進まず就職した。このご時世、大学を卒業していないというのは大きなデメリットになると伝えても、「それでも早く自立して、親を支えたいんだ」と言って意見を変えなかった。

 

 僕は、大学に進学した。昔から興味のあった、プログラミングがやりたくて。無事受かったのは、とある大学の情報学部だった。

 入学当初は不安しかなかったのに、実際過ごしてみたら大学生生活は忙しいけど楽しかった。

 そりゃもちろん、大変なことだって多い。最初は、レポートというものに慣れなくて随分と苦労したし、大学の授業は高校の授業とはやっぱり違ってその差に少し戸惑ったりもした。親からの仕送りだけでは生活できないから、人生始めてのバイトも始めたし、初めてのバイト先に選んだコンビニには色んな人が来るから日によってはすごく疲れてしまうことも多かった。

 でも、やっぱり類は友を呼ぶ、ということなんだろうか。僕が入った大学のその学部には、僕と雰囲気が似ている人が多くて、思い切って話しかけてみたら話が合う人だった、なんてことが何度もあった。今では高校生時代中学時代合わせての友達よりも、大学生になってから出来た友達のほうが多いくらいだ。

 バイトも、友達の一人に「コンビニじゃないバイトやってみたら?」と提案されて始めた家庭教師のバイトはコンビニバイトよりもずっと給料が高くて、しかも人に教えるということが案外向いていたらしく楽しく続けられている。

 

 ……そんな、言ってしまえば充実した大学生生活を過ごしていた僕の中から、彼女の存在は少しずつ薄くなっていった。

 

 入学当初は、まだ繋がりがあった。定期的に、彼女から連絡が来ていたから。

『大丈夫?友達出来た?』

『授業、ついていけてる?』

『バイト、しんどくない?』

 そんな、僕を心配する言葉ばかりだった。その全てに僕は正直に答えていた。返信をするたびに、彼女からは安堵やさらなる心配が返ってきていた。

 でも、それは段々と減っていった。なぜなら、僕の大学生活に彼女が心配する項目が減ったから。最終的には、彼女も僕に対して聞くことがなくなったらしく、『風邪引いいてない?』というメッセージが数ヶ月一度送られてくるばかりとなった。

 

 そうして、気づけばその数ヶ月に一度のメッセージも無くなっていた。僕は、それに気付かなかった。

 

 彼女と次に再開したのは、成人式の時だった。

 ガキ大将だった彼は、がっしりとした体つきのかっこいい男性になっていたし、スクールカースト上位の女の子たちは相変わらずきれいで、めかしこんでいることもあって一瞬見惚れてしまったりもした。

 でも、彼女に関しては、最初、それが彼女だって分からなかった。

 揺れた声で名前を呼ばれて振り返った先に居たのがスーツの女性だったから、てっきり市の職員さんかなにかかと勘違いしたほどだ。

 情けないことに、僕は、彼女が自分で名乗ってくれて、それでやっと分かった。

 僕は、何気ない話をしながら、バレないように彼女を観察した。

 髪は低いところで一つに縛ってあるだけで飾り気もなく、服だって振り袖ではなくパンツスーツ。スーツから除く手首は記憶に残っているよりもずっと細く華奢に見えて、痩せたのかな、なんて思いもした。それに、きっと化粧もほとんどしていない。目の下には、とても濃いクマがあった。

 でも、顔がそこまで変わっているわけではない。よく見れば、彼女だときちんと分かる。じゃあ、なんで分からなかったんだろう。

 

 彼女が、ふと腕時計を見る。

 

「ごめん、もう行かなきゃ」

「え?」

「これから、仕事なんだよね」

 

 それに驚いて、でも何かを言う間もなく彼女は去ってしまった。

 

 その後姿を呆然と見送る中、やっと気づいた。

 姿勢だ。

 いつもまっすぐ前を見ていたはずの彼女が、すっかり猫背になっていたから。僕の知る彼女は、いつも毅然としていたのに、成人式で会った彼女はまるで周りに怯えるような、警戒するかのような、そんな様子で周りを見ていた。

 

 僕は、愚かしいことに、それでやっと彼女が変わってしまったのだと気づいたのだった。

 

 彼女と別れてからの僕は、驚きやそのほかのないまぜになった感情から呆然としていた。

 

 だって、どうして。だって。彼女はいつだってまっすぐで、間違ったことになんて屈しなくて。

 

 小学生の時、体が弱くて小さくて、ガキ大将の良いおもちゃにされていた時も。

 中学生の時、理由もなく陰口を叩かれていた時も。

 高校生の時、理不尽な教師に標的にされた時も。



 いつも僕を守ってくれたのは、彼女だったのに。

 

 高校以前の友達が多くないこともあって、成人式の後の飲み会を全て断って帰った実家で、つらつらとそんなことを考えていた。

 どこかに、彼女が変わってしまう兆候は無かっただろうか。ふとそう思って、携帯のメッセージアプリを開く。最後に彼女と言葉を交わしたのは、もう数ヵ月前だった。その事実に驚きながらも、過去のやり取りを見返していく。

 

『最近寒くなってきたけど、体調大丈夫?』

『大丈夫だよ。大学の中は割とあったかいし』

『そうなんだ。でも、外に出ることはあるだろうから気を付けてね』

 

 いつも通りだ。

 

『元気?』

『うん。最近は体調も崩してないよ』

『そっか。なら良かった』

 

 いつも通り。

 

『どう、最近。元気にやってる?』

『うん、学年が上がって少し忙しくなったけど、でも楽しくやってるよ』

『楽しいなら何より。忙しくても、きちんと食事はとるようにね』

 

 いつも通り。

 

『ねえ、あのさ。ちょっと、今度ご飯でも行かない?話したいことが、あって』

『ごめん、今忙しいんだ。また今度ね』

 

 それは、訳一年前のメッセージだった。彼女らしくないメッセージに、僕らしくない返信に違和感を覚える。当時のことを思い出そうとして、日付を見て分かった。そうだ、この頃はちょうどテスト期間だったんだ。だから、忙しくて、手一杯で、つい、いつもよりも素っ気ないメッセージを返してしまった。

 そんな、自分だけの、言ってしまえば身勝手な理由だ。

 

 改めて見返せば、彼女らしくないメッセージだと思う。これが、彼女からのSOSだったんだろうか。なのに、どうして僕は気づかなかったんだろう。

 

 憧れてた。淡い気持ちを抱いたことだってあった。なのに、なのに僕は。

 彼女からの助けを求める声にすら、気づけなかった。

 

「……くそっ」

 

 滅多に吐かない言葉を一人の部屋で吐く。その言葉が向く先は自分だ。

 過去を変えることは出来ない。分かっているのに、過去の自分を呪いたくて仕方がなかった。

 

 それでも、これからを変えることは、きっとできる。

 開いていたトーク画面に、メッセージを打ち込んでいった。迷って、何度か打ち直して、最後に読み返して、送信する。

 

『今日は久しぶりだったね』

『今日はあんまり話せなかったし、今度一緒にご飯でも行かない?もちろん、都合は、そっちに合わせるよ』

『あと、気のせいじゃなければ、体調が悪いように見えたんだけど、大丈夫』

 

 既読は、すぐにはつかなかった。もしかして、まだ仕事をしているんだろうか。それとも、もう家に帰って寝てしまったんだろうか。

 どうか、今からでも彼女の助けになることができますように。そんなことを、普段は信じてもいない神様に祈りながらトーク画面を閉じた。
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