最果ての地を知る人よ

空見 大

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一章:1000年後の世界

海王の元へ

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ぷくりと頬を膨らませてはいるが先程よりも小さくなった近海の主へと近寄ると、ヘクターはこの場所へ自分が来た理由というのを告げる。

「ここに来たのは通行権が欲しかったんだ。それよりも滅びかけた海っていうのはどういうことなんだ?」
「文字通りの意味だよ。この海はもはやほとんど死んでしまっているのだ、主としての仕事が務まるのもいまや私だけ。近い未来にこの海は主の存在しない土地へと変貌するだろう」

遠くを見つめるようにしてそう呟いた近海の主を前にして、ヘクターは驚きの表情を見せる。
海の主といえばヘクターの時代であれば無条件に信仰される土地神のような存在であり、海を荒らすものには罪を、海を大切に扱うものには豊穣を約束してくれる存在であった。
そんな近海の海の主から海が死へと向かっていることと近海の主を邪険に扱っていることを教えられれば千年前の常識で生きているヘクターとしては驚くほかない。
エスペルもそんなヘクターを見て何かまずい事になっているのだろうということは分かるが、その理由がなんなのか想像がつかず素直に近海の主へとエスペルは疑問を口にくる。

「一体何が理由で海が死ぬことに? 確かに母上の記憶にあった海とは随分と様相が違ったが……」
「勇者よ、そちらの女性は?」
「彼女の名前はエスペル、魔王の一人娘でいまは俺が身柄を預かっている」
「そうか。魔王の娘と勇者が共にいるとはな」

改めて言われてみればなんともおかしな二人組ではあるものの、近海の主は特にそれに対して深入りすることはなくエスペルの質問に答えは。

「ここにやってきたということは港に停泊している船は見たか?」
「港に停泊している船? あの燃えながら走る船のことだろうか?」
「全てはあの船のせい──そう口にすると言い過ぎではあるが、殆どの原因があの船にあるのは間違いがない」

まるでいまにも暴れ始めそうな表情を浮かべながらそう口にした近海の主は、そうして何故あの船によって海が死にかけているのかをとうとうと説明し始める。

「あの船は石炭と呼ばれる化石燃料と魔素を合成することによって作られた魔鉱炭と呼ばれる鉱物を使用して蒸気を発生させ、水上を風の力を受けずに走る事ができる蒸気船と呼ばれる船である」
「船が風の力を受けずに? それは凄い」
「発明自体には私としても舌を巻くよ。まさに智慧あるもの達が生み出した叡智の結晶と言っていい。だが問題は環境に対してこの魔鉱炭が壊滅的な被害を発生させる点だ。魔鉱炭は空気中に存在する魔素と反応すると僅かではあるが別種のエネルギーへと変換する力を持つ。熱に反応して莫大なエネルギーを生み出すのは所詮副次的な効果でしかなく、本来の魔鉱炭の効果はそこにあったのだ」

一般に周知されていた扱いとしてはよく燃え、取り扱いが楽であり、かつ大量生産が容易にできる未来のエネルギーといったもころか。
近海の主達もそうして智慧あるもの達が進化していく様を喜び、新たな海の生態系が形成されていく様をじっくりと眺めるつもりだったはずだ。
だが実際のところ魔鉱炭と呼ばれる物質は魔素を減少させるという致命的な性質を保有しており、それがこの結果を産んだのだという。

「正直我々側に驕りがあったと言われればそれまでだ。魔鉱炭の危険性に気がつけず、我々は呑気に事を考え過ぎていた。海へと不法投棄された魔鉱炭の影響で海中の魔素は驚異的な速度で減っていき、元々魔素を基盤として浄化機能が作られていた海はこの百年ほどで一気に劣化していきいまの有様だ」
「こんなことを聞いても見当違いだということはわかっているが、確か海の主には海水の浄化機能が備わっていなかったか?」
「ああ、それならば陸の生物の勘違いだよ。確かに古来は近海の主がいる海は主によって浄化されていると信じられていたらしいが、実際のところは目に見えないような小さな生き物達が率先して海を浄化してくれていたに過ぎない。我々海の主は海の治安を守ることしか出来ないよ」

ヘクターが生きていた頃はこそ近海の主達はそれはそれは大切に扱われていたが、海が汚れてしまってからというもの信仰も随分と薄れてしまったらしい。
なんとかして再び綺麗な海を生み出すことができないかと考えるヘクターは、ふと最も大切な人物がこの話の中に出てきていないことを思い出した。

「そう言えば海王は? 彼女はどうなってるんだ?」

勇者が海王と呼んだのはこの世界の海を支配する女王の事であり、勇者はかつてこの海王に魔王討伐の協力依頼をした事もあり顔見知りの中である。
ヘクターが知っている限り海王の力は海においてはほとんど敵なしというほどであり、弱体化しているいまこの世界ではそれこそ神にも近い力を持っていると称されてもおかしくない人物だ。
その性格は苛烈にして高貴であり、その心の内に持つ気高さは勇者が彼女を尊敬する部分の一つでもある。
そんな彼女がいま目の前に広がっている惨状を無視しているとは考えられず、もしかして何かあったのではないかとヘクターは焦っていた。
彼女を殺せるような存在がこの世界にいるとは到底思えないが、何事も確実ということはない。
もしこの海が汚染されたことによってその力を失っているのだとしたら、ヘクターは彼女に借りた大きな借りを返すべきだろう。
しっかりと考えた上で発したヘクターの言葉に対し、主は少々気まずそうな声音で事実だけを淡々と述べた。

「海王様はお隠れになっている。実に900年も前のことだ。いまや海王様のところへ行ける者はいない」
「行けるものがいない? それはどういうことなんだ?」
「海王様が住まう城、海王宮はこの世界の最も深き場所にある。移動手段として用意されているのは直接その世界一深き場所へ潜っていくか、特別な転移魔法を使用して海王様のところへ行くしかないのだが……」
「魔素がなくなったことで弱体化したいまの近海の主達では潜っていく事も転移魔法を起動させる事も難しいのか」
「恥ずかしながらそういうことだ」

一度海王宮に足を踏み入れたことがあるヘクターは己を恥じている主に対して同情の視線を向ける。
ヘクターが初めてあの城へ向かった時には海竜と呼ばれる龍の亜種の背中に乗せてもらい、死ぬ思いをしながら無理やりなんとか潜り込んだだけにすぎない。
目の前の巨大なハリセンボンからはあの時の龍と同じだけの力があるとはとてもではないが感じられないし、かと言って転移魔法を使っての転移が出来るほどの魔法の力も感じることはできなかった。
転移魔法は構築自体は知識さえあればできる簡単な魔法の一つなのだが、対象が無機物、有機物、知性あるものの順番で転移にかかってくる魔力量が冗談ではないかと思えるほどに増加していく。
一流の魔法使いであっても単身で生物を転移させることには相当な負担を強いる結果になるうえ、転移先との距離が開けばそれに比例して消費魔力も爆増していくのだ。

「恥じることはないよ。それなら俺が転移魔法に魔力を入れるから、転移魔法陣かける?」
「もちろんだ。我々は代々それを継承してきたのだから。だがいいのか? ここは海王宮の直上からかなりの距離がある。さすがに勇者とは言えこの距離をどうにかできるとは思えないが」
「大丈夫だよ。問題ないからサクッと書いちゃって」
「了解した。ではその場を動かずに待っていてくれ」

ヘクターの言葉に疑問を投げかけた主だったが、ヘクターができるというのだからこれ以上何かを言う必要もないと判断したのか転移魔法を書く準備に入るり
手を持たない主がどうやって魔法陣を描くのだろうかと疑問に思っていたヘクターの前で主は最初ヘクター達がこの洞窟にやってきた時のように大きく頬を膨らませると、部屋の中をゴロゴロと転がり始めた。
なんと器用なことに体から飛び出させた棘で地面へと転移魔法陣を書き記しているのだ。
驚くべき離業を見せる主を前になかなか良いものが見れたと満足しているヘクターとエスペルだったが、そうして5分ほどすると元の位置に主がぴたりと止まった。

「これで転移魔法が使えるはずだ」
「完璧だよ。一応説明のために君にもついてきてもらいたいんだけど大丈夫かな?」
「構わんが……私は結構大きいぞ?」
「大丈夫だよ。なんとかなるから」
「ろ、ロープはしなくて大丈夫か?」
「この転移魔法陣の座標指定が間違ってなければ大丈夫」

そうして描かれた転移魔法陣へとヘクターが手を触れ魔力を流し込むことで、転移魔法陣は完成する。
それはこの世界で一体何百年ぶりに行われた転移魔法なのだろうか、それは定かではないが一つだけわかることがあるとすれば勇者の強さだけだろう。
一瞬景色が白く染まったかと思うと、足の裏に感触を感じてエスペルはぎゅっと瞑っていた目を開けると周囲を見回す。
頭の上にはかつてエスペルの母も見た色と同じ透明な海の色、そしてそこから視線を下へと落とすとこの世界の何よりも美しい白亜の城が建っていた。
エスペル達がいまいるのは海王宮の中庭、随分と長い間処理されていなかったのか随分と汚れが目立つ中庭だが、元の美しさを感じるには十分すぎるほどでもあった。
珊瑚礁から始まり様々な色の海中植物などで形成される中庭へ降り立ったエスペルは己の身の安全を確認してからほっと胸を撫で下ろす。

「大丈夫だったようだな」

先程まで自分の身の危険を感じるような状況に連続して陥っていたので、エスペルはビクビクしながら周囲を確認する。
そんなエスペルの横で荒れ果てた花壇に手を伸ばしながらヘクターはほんの少しだけ辛そうな表情を見せた。

「……千年も経っていればこうなるのも仕方ないか」
「何か思うところがあるのか勇者よ」
「俺はこの中庭が一番綺麗だった時を知ってるからね。海王はどこに隠れたか知ってる?」

勇者の頭の中にあるのはかつて絶景とも呼べるほどの景色が作り出されていた海王宮の中庭である。
千年もあれば変化してしまうのは仕方のないことで、城が城の形を保てていること自体が奇跡的なことであるとも言えるだろう。
過去と踏ん切りを付けることはできないが、過去を過去としてしっかりと認識しながらヘクターは近海の主に海王の位置について尋ねる。

「私も噂にしか聞いたことがないが、海王様が本当に大切な物にしか見せない場所へと隠れると言っていたそうだ。そこがどこか分からんがな」
「そこまで言ってくれれば大丈夫だよ。どこか分かったから」

大切な物にしか見せないと海王が口にした場所、そこはヘクターが当時唯一入ることを許されなかった場所である。
記憶を頼りに歩き始めたヘクターは海王宮の中を通り、離れに存在する小さな塔の方へと歩いていた。
塔の外装は既にボロボロになってしまっており、経年劣化によってできた溝が深くついている。
だがヘクターがかつて見た時と同じようにして立っているその塔は、確かにヘクターが入る事を許さなかった場所だ。
実際扉に手をかけてみれば少しだけ弾かれるような感触を味わうことができたものの、千年の月日に晒された封印はヘクターが軽く力を込めるとパリンと音を立てて崩れてしまう。

「海王宮の離れに建てられた塔、かつてここに来た時海王は私だけの場所があると言っていた」

ヘクターはかつてのこと思い出しながら話を始める。
思い出すのは嬉しそうに笑う海王の顔、そしていつかこの塔の中を見せてあげると言った海王の姿だ。
どのような理由があって外に出なくなったのかは知らないが、どのような理由であったにしろいまは彼女の力が大切である。

「俺もその場所に入ったわけじゃないから、そこがどこなのかは知らない。ただ知らなくてもその場所に行くことはできる」

階段は外から見ていたのりもよほど長い。
一歩飛ばしで歩いていても無限にあるように感じられるが、実際のところこの塔は空間が歪められているのだ。
短い距離を長く、狭い場所を広くしてこの塔の中は作られており、ヘクター達はコツコツと足音を立てながら進んでいく。

「ビンゴだ」
「この先に海王様が?」
「なんでも良いんだけれど君もう少し前に詰めてくれないか、道が君で埋まっている」

そうして歩いて数十分。
海で取れる様々な宝石によって彩られた扉を前にして、ヘクターは海王がこの部屋にいる事を確信する。
ごくりと唾を飲み込んだのはヘクターか近海の主か、そうして部屋へと入っていった一行は体育館ほどの大きな場所に出る。
そこにあったのは草原のような場所、踏みしめる床には土が敷き詰められており、そこに生えた草木は海の中では見られない綺麗な花を咲かせていた。
海の女王でありながらこんな部屋を彼女が作ったのは、海の中で生き続ける事を定めとされている海王が大地を夢見ていたからである。
行っていないからこそ行ってみたくなり、知らないからこそ知りたくなるのが知性ある生物の必然だ。
そんな夢の平野の中で、大きな水晶にその身を覆われた海王がまるで眠っているように目を瞑っていた。

「久しぶりだな海王様」

笑いかけるヘクターは近日でみた中で最も嬉しそうな笑みを見せる。
千年の時を経てもそこに居ていくれた眠れる友を前にして、ヘクターは起こす方法を考えるのだった。
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