左視床出血後遺症

hinomoto

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発症

過ごして分かる事

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朝はトイレです。
ナースコールを押します。
まだ慌てますが、釦を探して押します。
尿瓶をもらいオムツを下げてもらう。
出すのに時間は掛かります。
次に検温で起きます。
だけど名前や場所は聞かれなくなります。
次に起きたのはお昼です。
食事で起こされました。
久々の食事に嬉しく思い、その事を言いました。
しかし、固形物はまだ食べれないと言われて、出たのはドロドロのもの。離乳食。オートミール。
味はありません。
ちょっとは味はついてるとも言われましたが、明らかに看護師の顔が気の毒にの顔だったと思いだします。
とりあえず全部食べました。いや、飲み干しました。まずいと思いました。
ただ、まずいでも飲まなければと思ったのです。
ご飯の後は寝ました。
起きたのは晩御飯でした。
ご飯を食べて寝たですね。

正直、状態も分からず今後どうなるのかの不安に駆られるのですが、分からないが先行します。
記憶で一番頼りになる?と言いますか、困ったのが母親でした。
この場合は、記憶が戻らなくて家族が困るとなりますが、貧乏人です。戻らないと困るのは自分ですよ。
恥ずかしいお話しですが、借金あります。
死んだ親父のも含めてあります。
で、どうなるか?
もっと云えば、人間って追い込まれたら追い込まれる程思い出します。いや、本当の話です。
支払いやなんやで暗証番号が思い出しました。
お母さんのお陰です。
本当にありがとう。
ございます。までは付きませんよ。
付けるものですか!
でも、この時の記憶力は低く思い出しても忘れる。忘れるから困らないでした。
ん?な事ですよね。
例えば数字。
云えますが覚えていない。
日付を聞いて聞き返すのです。聞こえてないではなくて、覚えていないです。聞いていないじゃありませんよ。日常でもこの事が起こります。
特に電話。何月何日と云われて会話が続くと忘れます。焦ると余計に覚えていない。
次に名前。人の名前は特に出にくいです。
顔も出ない事もあります。
家族の名前の間違いも多いです。
そして文字。
この後に字を書くことがあるのですが、『直』の∟が 」と書いていたり、「なまえ」も「まなえ」と打って悩んだりします。文字も覚え直してます。
本当に長い間に覚えた事も、簡単に忘れます。
その忘れた状態が私で、その状態が当たり前なのです。
周りや家族は悩んだり、叱咤したりされますが、されると怖くなります。
それはお医者さんも言うそうですが、悩む事に拒否してしまいますが、後で困るのが私なら必死で思い出しました。
後は電話で聞いてくれと丸投げになりましたが。

書いてませんが、家族は今日も来てくれてました。
寝ていた為に帰ったとの事でした。

次の日は嬉しい日だった。
良く覚えている。

朝は小便で起きる。
ナースコールを覚えたので安心だな。
余裕(?)を持って呼べる。
余裕なのはオムツだから。でも、尿意があっても出ないのだ。
同じ事を書くが、トイレは難しい。
まず、出すまでが困る。どう出していたのかが分からない。出るから出すのではなく、出るまでが長い。尿瓶にするのが長い。
でも、この日は尿瓶をあてたら直ぐに出た。
楽にだせた。
ナースコールを押して、尿瓶を渡しオムツを戻す。
オムツは自分でやった。
自分でオムツを戻したのだ。
再度、検温で起きる。
起きてから寝ないように言われる。
ああ、朝ごはんを食べるのかと思いました。
出てきた食事を飲んだ。
ゆっくりと飲んだ。
白い米のスープに海苔が乗ってる。
不思議な感覚?味なしだったよ。
ご飯のお供の味海苔なのに、味覚になるのに時間がかかる。
今なら分かる。笑ってしまうぐらい不味い。
この時はそんな事も思わず、ゆっくり飲んだ。
味覚よりも、食べて治す。
旨いとか不味いもない。
治すだけだった。
ノーとかもない。治す事。漠然と思っていた。
この思いは今も変わらない。
食べたあと、寝た。
そして、お昼に起こされる。
ご飯だ。食べる。
昼から寝る。
でも気になって起きる。
妹が居た。看護師さんも居たので何かを話していた。起きた私を見て、車椅子を持ってきた。
以後お世話になるのだ。
車椅子に乗り連れて行かれる。
特殊な場所に居る事にびっくりした。
角の部屋なのは分かっていた。部屋から出た。出入り口までまた、L字に曲がる。
そこにある扉から出入りするのだが、釦を押さなくては出れない。そして、また扉がある。
ここも出るのに釦を押す。
そして廊下に出れる。そこから左に曲がり、突き当たりを右に曲がると部屋がある。
中は待合室だ。
そこにはお母さんと下妹の子が居た。
久しぶりに甥っ子を見た。元気で明るい。
それは私の心に勇気をもらえた。
お母さんはびっくりして、車椅子で出歩けると思わなかったと喜んでいた。
そして、毎日来ていた事を聞く。
お母さんと下妹と甥っ子。因みに、この時の甥っ子は一歳3ヶ月だった。既に走ってるのだよ。走り回るのだ。私を見て嬉しかったのか、爆発した喜びだとお母さんらは言っている。
この時から、『申し訳ない』が大きくなる。
動かないで申し訳ない。
その気持ちは今も変わらない。
駄目な時も調子が良い時も変わらない。
また、入院して分かる事もある。
この時は自分だけなのだが、周りの事に目を向け、自分は恵まれていると思うのです。
右側が、手足が満足に動かないで、杖なしなら十歩も歩けない私。不幸?いや、本当の不幸ではない。不運と云われてもそうだね。と云われるなら、私は違うと言いたい。ただ、周りに助けられ、周りに支えられる。こんな幸福ありますか?感じますか?知りましたか?
夫婦ならその気持ちを思い出して下さい。
一人なら家族や仲間を思い出して下さい。
初めて会ったこと。仲良くなったこと。
もしくは動物との触れ合いを。
優しい気持ちを。
記憶が曖昧だからこそ、この気持ちなったかもしれません。
記憶がしっかりしてたら悲観しかなかったと思います。
悲観しない事が幸福でした。
この甥っ子との触れ合いが活力になりました。
家族の支え。
それも、良く考えたら嫁とか子供とかでないので笑ってしまいます。
でも、こう思いました。
結婚してなくて良かったと。
後にYouTubeで知るのですが、大病や事故が理由の離婚のお話を読んだ事があります。
支えられない。それだけとは言いませんが、悲しい理由だと思います。
でも、私の母親と兄妹の団結には頭が下がります。その支えが私の活力になり、今なお与えられてる事なのですが、もちろん私には分かりません。
ただ嬉しいだけですか。
後はいつも通りしかありません。

だから言いたい事があります。
私の人生は良い人生と思いません。
仕事、人付き合い、恋愛等、良いことを思い出そうとしても、片手しかでません。
家族で良い思いでも両手で数える程かと。
記憶障害でもです。
私の父親は酷い人でした。
他人には良く見て貰いたくて、嘘や騙す事を平気でしてました。借金なんて返す事もしてません。私が働き出せば金を要求。給料の良い仕事が決まっても、自分の仕事の手伝いを平気でさせる男です。三年間の我が儘を聞いてもらったで、恩返しだ!で手伝えば仕事を自分の都合で辞めて、自分のやりたい事に走る。私がバイトを始めたら、殆どを家に取られ、仕事に着けば、金をむしり取られる。
兄妹達も働くようになったら家を出て行きます。
下妹が働けるようになるのに八年。
上妹の子供が産まれて援助をする。
全く恋愛する時間もくれません。
出来ても相手に問題あり。
馬鹿らしい人生ですね。
でも、真面目だけが私の持ち物でした。
それが今、返って来てると実感します。
大きく出れませんが、一万も貯まらない通帳が、今では数十万もあるのです。
父親が死んでから貯まったのではなくて、病気をして貯まったもので、私のお金と思ってませんが。
私は病気前の健常者の時が不幸。
病気後の今が幸せなだけです。
だから良いのではありません。
世の中は優しくありません。
それも、後に分かるので、あとのお話ですね。
希望は作って貰うのではなくて、作るもの。
そう、思います。

良い日の次の日は最悪な日でした。
朝、ナースコールで呼びます。
朝のトイレだ!と尿瓶を貰い、看護師さんと別れます。
出し終わり、ナースコールを押してオムツを戻します。看護師さんが来る前にオムツを戻そうとしました。
やってしまいました。
尿瓶をこぼしました。
看護師さんが来て、笑いながら、
「大丈夫ですよ。あー、よし替えますね。」
と言われて、少ししたら車椅子を持って来てから、オムツを取られ、体を起こされ立たされます。
なんと立てたんです!びっくりしました。
シーツと布団をとり、服を脱がされてると、新しいシーツと布団を鮮やかに戻し、濡れタオルで拭かれベットに寝かされてオムツを履かせ、寝間着を着させるのです。
ここからが凄かった。
右側を起こすと、服を下に引くと元に戻します。袖を右腕に入れて左側を起こします。戻されて袖を入れます。
文字の通りの動きで一分以内で終わらせます。
「はい、終わりました。」
布団を掛けられ、車椅子に汚れ物を乗せて去っていきます。
本当に惚れ惚れしました。
鮮やかです!看護師さん!
その後に検温、ご飯と続きます。
流れ作業でもないと思いますが、大部屋なので会話は少ないです。
テレビはつけれません。
イヤホンがないので。
目を瞑れば落ちます。
これは現在でもそうなんですが、寝る体勢になると寝るより、落ちます。
夢が見れない程です。
昼ご飯を食べると、ソワソワしてお母さんを待ちます。
しかし違います。
課長が来てくれました。
後で聞き、移動して分かるのですが、車で片道で一時間半は余裕でかかります。
その距離も分からなくなっていました。

談話室に移動して話をします。
初日の出来事が理解出来ないのと、誰が何をしたのかも理解出来てないのです。
それでも課長は笑顔で話してくれます。
内容は他愛ない事ですが、可笑しく楽しくお話しをしていると、お母さんと下妹&甥っ子が来ます。甥っ子のハシャグのも激しく、課長が相手をしていました。
本当に幸せを感じていました。
嬉しかったです。
帰られました。
その日は嬉しさの中で終われば良い話しですね。
部屋に連れて行かれ、イヤホンを渡されて布団に入り落ちます。
晩ご飯で起こされます。
何も考えないでご飯を飲みます。
終わって、横になります。
目を瞑り落ちます。
何も考えないで、電気を落とすように落ちます。
普通なら今日は楽しかったとかを思い出すのですが、考えられない私には何にもなかったのです。
また、来ないかな?の自然に思う事が出来ないのです。
恐いのは、記憶としてはあるのですが、それを理解出来ないのと考えられない事なんです。
その時の会話は普段と同じようにしてますが、その言葉は全て本心から出た言葉しかないのです。本当に会いに来てくれる方の純粋な言葉に助けれました。
悪意ある言葉を言われたら、私は酷い言葉しか出なくなり止める事は出来ないでしょう。
自制心や感情のコントロールも出来ない状態です。
看護師の何気ない言葉に対しても怒ってしまう。
見たままの事を言葉にしてしまう。
それを理解できずに言ってる私。
本当に看護師さん達に感謝と謝罪を言いたいです。
ありがとうございました!そして大変申し訳ありません!ごめんなさい!
そう、我が儘、癇癪、感情の起伏が激しい。
止めてないではなく、止めれない。
余り書かれてるのは見ませんが、本当の話しです。
そして、嘘が言えない。
この事で怒るなとか哀れむなとも言いません。
脳の病気の恐さなのかも分かりません。
脳障害で我が儘な人が多いのも事実です。

同じ事を書きますが、朝は早いです。
それはトイレで目が覚めるから。
起きたらナースコール。
汚さない溢さないようにする。
終わって、検温で起き、朝御飯で起きる。
そして、お風呂に入れて貰う。
シャワーだけだが、ありがたい事です。
この時も車椅子に座らしてもらったのですが、この車椅子を私用に貸し出してくれました。
でも、一人で車椅子に乗ることは禁止されました。本当に恐いのですよ、転けたら。
最近にも転けました。右側から転けて右の親指の爪の付け根が赤黒くなり、右のお尻に違和感と右足首にも違和感が。骨に問題があるように見受けないので療養中ですが。
何気なしに転けて、しばらく右側の硬直が酷く、緊張の回復に一時間程かかりました。
手が開いた状態になり、親指も曲がりません。足の反りも酷く歩くのも難儀しました。
忘れて欲しくないのは、健常者が転んでも大怪我になる確率は低いですが、障害者が転けてしまうと大変なんです。打ち身でも大慌て、骨折なんてしたら、即入院ですから。突き指でもお医者さんから怒られるのです。大変なんです。本当。
また、入院中にすると、看護師さんやお医者さんが大慌て。リハビリ中ならリハビリの先生も含んで大慌て。その後のリハビリも変えられ大変なんですよ?周りが。
転けた本人は、あぁ、転んでしまった。
なんですけどね。
その事で怒れない理由もあります。
怒って患者の血圧が上がると、恐ろしい事に。
転けても血圧が上がるので戦々恐々ですね。
本当にごめんなさい。
入院中に数度転けたことあります。
ま、内緒ですが。

昼御飯を飲み、お母さんと話す。
そして、晩御飯を食べて寝ます。
記憶がないで申し訳ありません。横になって目を瞑れば寝ているのです。
起こされるかトイレ以外では目が覚めないのが難点ですが。

ここで恐い事を。
障害者になると、本当に恐いのです。
今は書く話は毎日ですが、転移後は間を抜いたりします。転移するまでは毎日を書いていきます。
一番大事な事があればと思い書きます。
後、障害者になり気がついたのですが、駅も大変です。
エレベーターが有っても遠かったり、普通の健常者が乗ったりで誰も譲ってくれません。
ベビーカーの押す方も歩きスマホでぶつかって来ます。
私の姿も健常者と変わらないのも要因ですね。
装具を見る方もいませんし、杖を持つのも気にならないようです。首から下げた障害者手帳と杖。
これで障害者と認識されることは難しいですね。
足の装具も服の下に装着してますから。
悪い事!と言えません。
私も健常者の時にはしてましたから。
酷い事をしていた。
因果応報です。
車椅子で移動してたら楽なんですけどね。
早く、電車に立って揺られても大丈夫になりたいですね。
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