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おにぎりの日
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「お帰りなさいませ、旦那様」
勤務が終わって帰宅をすれば、雪緒がそう言って茶の間で迎えてくれた。
何時も玄関まで出て来てくれるのに、今日は出て来ないから何処か具合が悪いのか、はたまた何か怒らせる様な事を仕出かしたのかと、危惧しながら明かりの灯る茶の間の障子戸を開ければ、卓袱台を前に、笑顔の雪緒が両腕を広げて待っていた。
「あ、ああ、ただいま」
…具合が悪い様には見えないし、怒っている様にも見えないな?
まあ、取り敢えず、安心はした。
「お疲れ様です。何に致しますか?」
ほっと内心で胸を撫で下ろした俺に、雪緒は笑顔のままで訊ねて来る。
「あ~…いや…これは、何の祭りだ?」
祭りと言って良いのかは解らんが、卓袱台の上には、板海苔やら大葉やら焼いた鮭やら沢庵やら昆布の佃煮やら、その他諸々が小皿に乗せられて並べてあり、雪緒が座る座布団の横には、お櫃が置いてあった。
「今日は、おにぎりの日なのです」
相も変わらず、雪緒の返答は俺の斜め上処ではない、遥か上を行く。
「…は?」
そんな事は解り切っていた筈なのに、思わず呆けた声を出してしまった俺に、雪緒は右手で拳を作って、己の胸を叩いて見せた。
「ですから、僕はおにぎり屋さんになります。お召し上がりになりたい具材を選んで下さい」
「…成程…?」
そんな日があったのかと、新たな発見に目を瞬かせつつ、誰の入れ知恵かと思わなくもないが、雪緒が楽しそうな様子だから口には出さないでおいた。
「…そうだな…鮭と沢庵を頼む。手を洗って来るから、握っておいてくれ」
「はい、承りました」
◇
手を洗って戻って来たら、豚汁と味噌焼き握りが置いてあった。
「ん? 豚汁は良いが、これは頼んだ物とは違うぞ?」
「そちらは、お通しになります。お寿司屋さんと同じく、目の前で握ってお出ししますね」
座布団に腰を下ろし、軽く顎先を撫でながら言えば、雪緒は当然の様に答えた。
「…そうか」
誰に入れ知恵されたのか解ったぞ。
お通しなんぞ、未だ酒が呑めない雪緒が知る物か。
「…あの狸め」
頭に浮かぶのは、人をからかって遊ぶのが生き甲斐の男だ。
「ふぇ?」
ぼそりと呟いた俺に、雪緒が軽く首を傾げた。
「ああ、いや、何でもない。有り難く戴こう」
「はい」
大葉に包まれた味噌焼き握りを手に取れば、それは未だほんのりと温かかった。
軽く口に含めば、雪緒は満足した様に頷き、お櫃の蓋を開け、しゃもじで飯を掬い、掌へと乗せる。そして菜箸を使い、具材をその中心へと置いた。
…そう云えば…と、ふと気付く。
雪緒がこうして飯を握る姿を見るのは、いつ以来だ? と。
「…旦那様?」
ふ…と、口元を綻ばせた俺に、握り飯を差し出しながら、雪緒が不思議そうな声を出した。
「…ああ、いや、ありがとう」
雪緒が握った飯を幾度となく食って来たが、こうして握る姿を見るのは、あの日以来だ。あの、月の無い夜の、あの日ぶり…。
癪に障るが、相楽に感謝せねばなるまいな。
だが、本人に礼を伝えれば、調子に乗る事が目に見えているので、言わないでおく。
懐かしい思いと、あの頃とは違う思いを胸に、俺は握り飯を頬張った。
勤務が終わって帰宅をすれば、雪緒がそう言って茶の間で迎えてくれた。
何時も玄関まで出て来てくれるのに、今日は出て来ないから何処か具合が悪いのか、はたまた何か怒らせる様な事を仕出かしたのかと、危惧しながら明かりの灯る茶の間の障子戸を開ければ、卓袱台を前に、笑顔の雪緒が両腕を広げて待っていた。
「あ、ああ、ただいま」
…具合が悪い様には見えないし、怒っている様にも見えないな?
まあ、取り敢えず、安心はした。
「お疲れ様です。何に致しますか?」
ほっと内心で胸を撫で下ろした俺に、雪緒は笑顔のままで訊ねて来る。
「あ~…いや…これは、何の祭りだ?」
祭りと言って良いのかは解らんが、卓袱台の上には、板海苔やら大葉やら焼いた鮭やら沢庵やら昆布の佃煮やら、その他諸々が小皿に乗せられて並べてあり、雪緒が座る座布団の横には、お櫃が置いてあった。
「今日は、おにぎりの日なのです」
相も変わらず、雪緒の返答は俺の斜め上処ではない、遥か上を行く。
「…は?」
そんな事は解り切っていた筈なのに、思わず呆けた声を出してしまった俺に、雪緒は右手で拳を作って、己の胸を叩いて見せた。
「ですから、僕はおにぎり屋さんになります。お召し上がりになりたい具材を選んで下さい」
「…成程…?」
そんな日があったのかと、新たな発見に目を瞬かせつつ、誰の入れ知恵かと思わなくもないが、雪緒が楽しそうな様子だから口には出さないでおいた。
「…そうだな…鮭と沢庵を頼む。手を洗って来るから、握っておいてくれ」
「はい、承りました」
◇
手を洗って戻って来たら、豚汁と味噌焼き握りが置いてあった。
「ん? 豚汁は良いが、これは頼んだ物とは違うぞ?」
「そちらは、お通しになります。お寿司屋さんと同じく、目の前で握ってお出ししますね」
座布団に腰を下ろし、軽く顎先を撫でながら言えば、雪緒は当然の様に答えた。
「…そうか」
誰に入れ知恵されたのか解ったぞ。
お通しなんぞ、未だ酒が呑めない雪緒が知る物か。
「…あの狸め」
頭に浮かぶのは、人をからかって遊ぶのが生き甲斐の男だ。
「ふぇ?」
ぼそりと呟いた俺に、雪緒が軽く首を傾げた。
「ああ、いや、何でもない。有り難く戴こう」
「はい」
大葉に包まれた味噌焼き握りを手に取れば、それは未だほんのりと温かかった。
軽く口に含めば、雪緒は満足した様に頷き、お櫃の蓋を開け、しゃもじで飯を掬い、掌へと乗せる。そして菜箸を使い、具材をその中心へと置いた。
…そう云えば…と、ふと気付く。
雪緒がこうして飯を握る姿を見るのは、いつ以来だ? と。
「…旦那様?」
ふ…と、口元を綻ばせた俺に、握り飯を差し出しながら、雪緒が不思議そうな声を出した。
「…ああ、いや、ありがとう」
雪緒が握った飯を幾度となく食って来たが、こうして握る姿を見るのは、あの日以来だ。あの、月の無い夜の、あの日ぶり…。
癪に障るが、相楽に感謝せねばなるまいな。
だが、本人に礼を伝えれば、調子に乗る事が目に見えているので、言わないでおく。
懐かしい思いと、あの頃とは違う思いを胸に、俺は握り飯を頬張った。
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