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31.ヘッドホンを外して

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 12月31日。今にも日付が変わろうという頃、潤はヘッドホンで音楽を聴いていた。こうして耳を塞いで、大きめの音量で聴き入っていれば、外の世界と自分を切り離すことができる。昔から何か悩み事があるとき、憂鬱な時には、決まってこうしていた。
 5FDPの「Times Like These」。アイヴァン・ムーディの力強くも切ない歌声に、ゾルタン・バソリーの感傷的なギターが重なる。ただぶつかるだけの音楽とは違う。重く、深く、心を抉ってくる。
——今の俺には効きすぎる。
 ふっと消えてしまいたい。潤の頭の中もぐちゃぐちゃだ。生きていたことすら気のせいだったかのように、瞬きのうちにいなくなってしまいたい。
 この曲のリリックスビデオの中には、日本語で「不名誉よりも死を」と書かれた看板が出てくる。そして、ミュージックビデオでは「来世」と書かれた場所で主人公が消えてしまうシーンで終わる。
——来世、か。
 このまま不名誉な生涯を送るくらいなら、さっさと死んで、来世で……もう一度高永ヒナキと出会って……今度は、何も背負っていない人間として彼を愛することができたら。
——でももし俺が生まれ変わって、なんでもない普通の人間になってしまったら? 「URANOSのJUN」ですらなかったら?
 耳元で、アイヴァンが「消えちまいたい」と歌い続ける。来世に旅立ったこの曲の主人公は、「Welcome To The Circus」という曲の世界に辿り着いたけれど、それはフィクションだからだ。
——俺は死んだら何になるんだろう。どこへ行くんだろう?
 このまま、ヒナキを殺すつもりはない。それは別に、潤が人として上等な倫理観を持ち合わせているからではない。愛する人を死なせてまで生きたい人生などないからだ。
——こんな、終わってる人間性で死神なんてできるわけない。
 誰かの生死を預かるなんて、重すぎる。
 そんな、後ろ向きな考えに浸りかけたとき、不意にスマートフォンの画面が光った。メッセージの通知が届く。時計を見ると、いつのまにか日付が変わっていた。
「ヒナキさんだ」
 既読をつけないようにしながら画面を開く。返信を考えるまでの時間稼ぎだが、もはやこうしてメッセージを確認するのが癖になっていた。

「あけましておめでとうございます
 昨年は色々とありがとう
 ドラマの撮影は終わったけど
 今年もよろしくお願いします
 ツアーがんばってね」

「わ……」
 思わずヘッドホンを床に落としてしまい、重い音が鳴る。潤はぎくりと肩を震わせてから、もう一度スマホ画面を見た。
「ヒナキさんだ……」
 もう一度同じ言葉を繰り返し、今度こそ口元を緩ませた。
 ヒナキとは、クリスマスの夜以来まともに会話をしていない。それは全て潤の責任ではあるが、自分のせいでありながら寂しく思っていたのが本心だ。彼にあんなことを言わせてしまって、合わせる顔がないことに加え、なんと言えばいいのかがわからなかったのだ。そうして悩んでいるうちに、話す機会を逃してしまったのである。
——なんて返信すればいいだろう。
 メモ帳アプリを開いて、文字を打ち始める。まずは謝罪を。それから、新年の挨拶と、応援へのお礼と……。
 言葉がすんなりと出てこない。元々口下手なタイプではないはずだが、こういった場面で適切な単語を選ぶのが非常に苦手だ。潤は唇を噛んだり髪をいじったりしながら、何度も文字を打っては削除した。再生中の音楽を止めることすら忘れたまま、時間が過ぎていく。
「こんな感じでいいかな」
 たっぷり5分以上はかけて、ようやく3行の文章が出来上がった。もう一度目を通してから、コピーする。しかし、それを早速送信しようと、ヒナキとのトーク画面を開いたところ、予想外の文章が表示されていた。

 高永ヒナキがメッセージの送信を取り消しました

「えっ」
 潤は激しく動揺した。気が動転して、メッセージアプリを再起動してみたり、スクロールしてみたりを繰り返す。
——待って、ヒナキさん、俺との新年の挨拶を無かったことになんてしないで!
 慌てて何か文章を打とうとしたところ、ヒナキからの新しいメッセージが届いた。潤は何度目かわからない悲鳴を心のうちで叫びながら、懸命に目を動かした。

「あけましておめでとうございます。
 マリンさんが1月6日にラヴァチェンのメンバーで
 新年会やろうって言ってるけど潤も来る?」

 さっきとは随分温度感が違う。
「お……怒ってる?」
 先ほどのメッセージには多少の絵文字が使われており、潤を気遣うような内容も含まれていた。けれど、今届いたものはあまりにも事務的で、冷たい。
——ていうか、0秒で既読つけちゃったじゃん。すぐに返事しなきゃ。
 そう思った途端、潤の中に焦りが込み上げる。つい数分前に必死で考えた文章は、完全に頭から抜け落ちていた。

「なんでさっきのメッセージ消しちゃったの」

 真っ先に浮かんだ言葉を送信する。それから、うっかりタメ口を聞いてしまったことに気がついた。
——流石に失礼すぎるかな。でももう送っちゃったし。

「あけましておめでとうございます。
 この間のことは本当にごめんなさい。
 返信を考えているうちにメッセージが消えてて
 動揺しました。失礼しました」

 そこまで一気に打ち込んで、ため息をつく。
「そうだ、質問に答えなきゃ……」
 心臓がいつになく激しく拍動している。画面越しで、それも声すら聞こえないのに、こんなに緊張するなんて。実際に彼を目の前にするよりも、ある意味恐ろしいかもしれない。頭がうまく回らない。

「新年会の件だけど、
 ヒナキさんが行くなら行きます。
 できれば直接お話ししたいですが
 おまかせします…」

「はぁ」
 盛大なため息をつく。慌てて送信した後で、急激に頭が冷えた。もっとしっかり謝罪しておいた方が良かったのではないか。しばらくまともに会話しようとしなかったことも、そもそもあの日悲しませてしまったことも。
——どうしよう。これ以上ヒナキさんとの仲が拗れたら、俺は……。
 潤が肩を落とした瞬間、スマホが大きな着信音を立てて震え出した。メッセージアプリからの通話だった。
——ヒナキさん!
 大慌てで咳払いをして、声の調子を整える。しばらく誰とも会話らしい会話をしていなかったので、喉がすっかり鈍っていた。
「はい! び、ビックリした……ヒナキさん?」
 転がるような調子でそう言うと、電話口からヒナキの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。何がおかしかったのか分からないが、思ったほど怒っていないのかもしれない。ほっと胸を撫で下ろし、もう一度咳払いをする。
「すみません、何もかも。心の準備できてなくて」
「いや、っはは……いいんだよ」
「はい。……はい?」
「怒ってたんだよ? ほんとは説教してやりたかったのに、ふふふっ、全部忘れちゃった」
 ヒナキはしばらく笑い続け、それから苦しそうに呼吸を整えた。それを聞いているだけで、潤はなんだか恥ずかしくなった。じわじわと頬に熱が集まっていく。
「……ごめんなさい」
「うん、もう謝るのはいいんだって。その代わりにさ……お願い聞いてくれない?」
「はい。なんですか?」
 潤は落としたヘッドホンを拾い上げ、ようやくオーディオの再生を止めた。何か手を動かしていないと、緊張のあまり心臓がおかしくなってしまいそうだった。ヒナキが次の言葉を発するまでの数秒間、ゆっくりと唇を舐める。
「今度さ、新年会の後2人でデートしよ」
 沈黙ののち、ヒナキは穏やかな声でそう言った。少なくとも、あの件について今話すつもりはないのだと分かり、潤は肩の力を抜いた。そんな頼みなら、お安い御用だ。
「デート? ですか?」
「うん。クリスマス……せっかく誘ってくれたのに、あんな感じになっちゃったからさ」
「それは……俺のせいですね。ごめんなさい」
「ううん、僕も悪かったんだ。色々と話したいことがあってさ。今後のこととか……。それに、やっぱり潤に会えないと寂しいから」
 そう言われて、じわりと胸が熱くなる。潤だって、寂しかったのだ。自分のせいだから言えなかっただけで、本当はヒナキに会いたかったし、触れたかった。残り少ない時間を、できる限りヒナキと一緒にいたかった。
 当然、それを叶わなくしてしまっていたのが、潤自身の愚かな振る舞いだというのは痛いほど分かっているけれど。
「勿論です。ちゃんと話せそうなところ考えておきます」
「うん。あ、僕も考えておこうかな。毎回任せっきりにするわけにはいかないし」
「はい」
 気を抜けば涙が出てしまいそうだった。ヒナキはきっと、潤のことを随分甘やかしている。そんなに優しくされる資格など自分にはないのに。まるで、彼の弱みにつけ込んでいるような気がしてしまう。それでも、こうして彼に受け入れてもらえることは、間違いなく嬉しい。
「あの……ヒナキさん」
「ん?」
「俺のこと、嫌いにならなかったんですか」
 聞かずにはいられなかった。酷いことをして、辛い事を言わせてしまった自覚があるのだ。もし自分がヒナキだったら。そう思うと、彼に訊ねずにはいられない。これ以上、彼の負担にだけはなりたくない。
 しかし、潤の予想に反して、ヒナキはまた笑っているようだった。くすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。
「潤ってさ……意外と子供っぽいよね」
「え!? す……スミマセン」
「いや、いいんだよ。僕もはそうだったし。君が年相応にちゃんと子供だって分かったのは、今考えればよかったかもしれない。なんとなく、『URANOSのJUN』に夢見ちゃってたから」
「はい……」
——昔、か。そういえば、ヒナキさんって本当は何歳なんだろう?
 彼のことは少しずつ知ってきているように思っていたが、実のところ何も知らない。本名も、誕生日も、年齢さえも。キスに慣れていないことや、すぐに泣いてしまうことは知っているのに。
 しかし、それを今聞くことは憚られた。今度会った時に、それとなく聞いてみればいいだろう。潤は髪をかいて、立ち上がった。なんとはなしに、窓際へと向かう。今日は天気が悪いので星一つ見えないが、それでも外の暗闇を見るだけで心が落ち着いた。
「あのさ、潤」
「ハイ」
 ヒナキの声で我にかえる。確かに、自分は彼の前では気が抜けて、子供っぽく振る舞ってしまっているのかもしれないと思った。
「僕も君に隠してることがあるんだ。全部話すから……これからのこと、一緒に考えようよ」
 思わず息を呑んだ。もう逃げられない。分かっている。逃げてはいけない。時間は、そう多く残されていない。そして何より、これ以上ヒナキを傷つけることはできない。
「勿論です……ヒナキさん。それじゃあ、……」
 潤は一度深い呼吸をして、気持ちを落ち着けた。次の言葉を発するのには、勇気が必要だった。
「全部……話し終わったら、交際してください。正式に」
 それを言った途端、電話越しでも空気が変わったのが分かった。ヒナキがどんな顔をしているか、想像するだけで胸がいっぱいになってしまう。
「うん……」
 答えたヒナキの声が少しだけ震えていたのが、とても印象的だった。潤はその夜、久しぶりに音楽を消して眠りについた。











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