自動販売機

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その夏、俺が住むアパートの前に、一台の自動販売機が設置された。

何の変哲もない、飲料メーカーの自販機だ。

真新しいボディが、ぎらつくアスファルトの熱を反射している。

俺は、部屋から出てすぐ飲み物が買えるようになり、単純に便利だと思った。

最初の違和感は、些細なことだった。

ある猛暑日の午後、喉が渇ききって自販機へ向かった。

百円玉を数枚入れ、冷たいお茶のボタンを押す。

ガコン!

取り出し口に落ちてきたのは、お茶ではなかった。

一本の、水だった。ごく普通の、ミネラルウォーター。

「あれ?押し間違えたか」

まあ、水でもいいか。暑いし。俺はその水を飲み干し、特に気にも留めなかった。

しかし、その「間違い」は続いた。

次の日、仕事帰りに炭酸飲料を買おうとすると、また水が出てきた。

その次の日、スポーツドリンクのボタンを押しても、やはり水。

何度やっても、何を選んでも、この自販機から出てくるのは水だけだった。

「故障してるな、これ」

俺は自販機の管理会社に電話しようかと思ったが、面倒くさくてやめてしまった。

それに、夏場は水をよく飲む。まあ、いいか、と。

異変が、次の段階に進んだのは、それから一週間ほど経った頃だ。

ある夜、部屋で寝苦しさにうなされていると、ふと、窓の外から音が聞こえた。

ウィーン…ガコン!

自販機の、商品が補充される音。

「こんな真夜中に補充かよ」

珍しいな、と思いながら窓の外を見る。だが、業者のトラックも、人の姿も見えない。

ただ、自販機だけが、煌々と明かりを灯して佇んでいる。

そして、その自販機の液晶ディスプレイに、赤い文字が流れているのが見えた。

『 スイブン ホキュウヲ スイショウ シマス 』

気味が悪い。俺はカーテンを閉めた。

その日からだった。

俺の生活は、静かに、しかし確実に、あの自販機に支配され始めた。

朝、アパートを出ると、自販機が**「ガコン!」**と音を立て、取り出し口に水を一本、吐き出した。

俺が金を入れる前に。

まるで、「これを持っていけ」とでも言うように。

夜、疲れて帰ってくると、また**「ガコン!」**と音がして、水が一本。

「これを飲んで疲れを取れ」と。

無視することもできたはずだ。

危ないとわかっているのに

俺は、その差し出された水を、まるでプログラムされたかのように、毎日受け取り、飲み続けた。

その水は、無味無臭。何の変哲もない、ただの水のはずだった。

やがて、俺の体に変化が起き始めた。

まず、喉が、異常なほど渇くようになった。

常に水を飲んでいないと、体が干からびてしまうような、猛烈な渇望感。

次に、食べ物を、受け付けなくなった。

固形物を口にすると、吐き気を催す。

俺の体は、水分以外の栄養を、まるで異物のように拒絶し始めたのだ。

食事は、あの自販機が提供する、一日数本の水だけになった。

俺は痩せ衰えているのに、肌は潤いを、水分に満ちている体になっていった。

それでも、喉の渇きだけは、日に日に増していく。

ある晩、ついに、部屋の中の水も尽きた。

俺は、渇きに悶え苦しみながら、最後の力を振り絞って、アパートの外へ這い出た。

目の前の、自販機の明かりだけが、まるで灯台のように見えた。

「み…ず…」

俺が、かすれた声で呟くと、自販機は、**ガコン!**と音を立てて、水を一本、吐き出した。

俺はそれに飛びつき、夢中で飲んだ。

そして、気づいた。

自販機の、商品のラインナップが、全て変わっていることに。

お茶も、ジュースも、コーヒーも、全て消えていた。

そこに並んでいたのは、おびただしい数の、同じラベルの、水、水、水…。

そして、その全ての商品サンプルに、赤いLEDで、同じ値段が表示されていた。

『 ¥ 0 』

もはや、これは商売ではない。

これは、飼育だ。

俺は、理解した。

あの自販機は、俺という人間を、**「水だけで生きる、別の何か」**に作り変えようとしていたのだ。

そして、その飼育は、もう最終段階に入っている。

俺の体が、もはや自販機の水なしでは生きていけなくなった今、その目的は達成されたのだ。

俺は、もう一度、水を求めて自販機に手を伸ばした。

すると、自販機の液晶ディスプレイの文字が、再び変わった。

『 ヨウコソ 』

『 アタラシイ ジュウニン 』

その文字を見た瞬間、自販機の前面パネルが、**ぎいぃ…**と、まるで扉のように、内側へ向かってゆっくりと開き始めた。

中から漏れてきたのは、冷たい光と、深く、湿った、水の匂い。

俺の体は、渇きという抗いがたい本能に導かれ、吸い込まれるように、その中へと足を踏み入れた。

扉が、背後で、**ガコン!**と音を立てて閉まる

そして、その奥には、暗い空間が続いていた。

中は、暗く、狭く、そして湿っていた。

もう喉の渇きは、もう感じない。

だが壁からは、無数のチューブが伸びており、その先端が、俺の体に絡みつき

ゆっくりと、しかし確実に、そのチューブに吸い上げられていくのがわかった。

意識が朦朧とする中、俺は、目の前の光景を理解した。

俺の隣には、同じようにチューブに繋がれた、干からびた人間のようなものが、いくつも並んでいた。

それは、俺の前に、この自販機に飲み込まれた、『前の住人たち』の成れの果てだろう。

俺らから吸い上げられた液体は、一つのタンクに集められ、濾過され、冷却され、そして、見慣れたペットボトルに詰められていく。

ガコン!

俺の目の前で、新しい一本の「水」が完成し、取り出し口へと運ばれていった。

ああ、そうか。

俺が飲んでいた、あの水は…。

そして、今度は、俺が…。

もう、考える力も残っていない。

俺は、次の喉の渇いた誰かのために、ただ、最後の“一滴”まで、絞り出され続けるのだ。

外から、コインの落ちる音が、聞こえた気がした。

ガコン!

取り出し口に落ちる音がした。

出たのは、一本の、冷たい水。

それが、新しい「飼育」の始まりとも知らずに。

今日も誰かが買っていくのだ。
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