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初恋
しおりを挟む人間よ、汝、微笑みと涙との間の振り子よ。
ー バイロン卿
初恋は淡く甘い記憶、切ない記憶、ぼんやりとした記憶となるだろうが、僕にとっては生涯忘れられないものである。ちょうど僕が十一歳になり、新学期を迎えようとしていた頃。近所に、ちょうど十八歳になる娘さんが引っ越してきた。
そのお姉さんは、優しくていつもバラの花のような香りを漂わせていた。落ち着いた声色は、聞く人の鼓膜に優しく響いては、うっとりさせ、白く細い指と、艶やかに真っ直ぐのびた髪は清潔感を感じさせた。
僕がそのお姉さんと出会った当時は、今とは少し雰囲気が違ったかもしれない。高校生だった彼女は、まだあどけなさが残っていて、今のような"お姉さん"という感じではなかったのだけど、それでも、透き通るような真っ白な雪の肌と黒く長い睫毛、背筋はすっと伸び、凛とした佇まいは今と変わらずで、僕が初恋に落ちるまで時間は掛からなかった。
僕の家は、どちらかというと裕福な方だと思う。父は大学教授をしているが、実家が裕福なのもあって、何かと援助をしてもらえることも多かった。母は二十二歳で僕を、そのあと二十九歳の時に妹を生んだ数年後に病気で亡くなった。当時はよく祖父母が心配して家に来てくれていたけど、しばらくして父さんが家政婦さんを週二日手配し、あとはAIや便利なサービスを駆使することで、ひとまず、生活における不便はなくなった。
母は生前、ピアノの先生をしていた。ピアノは主に自宅の一階にある、広間で教えていたのだけど、この部屋はなんだか無機質で生活感がなく、どこか不思議な雰囲気があって僕はあまり好きではなかった。家の中で、この部屋はあまり好きじゃないと思う部屋がどの家にもひとつはあるはずだ。なんとなく、入りにくい部屋。僕にとってそれがこの部屋だった。部屋の中央には大きなグランドピアノだけが置かれており、まるでそれだけが主役のように、それ以外の物は一切排除され、床はいつも冷たく、殺風景。その端正な感じが綺麗といえば綺麗なのだけど、母さんの趣味を考えると、この部屋はなんだか妙な気もした。母さんは音楽に関してはシビアで厳しい一面があったので、もしかしたらそういった一面の現れなのかもしれなかった。物がなさすぎるおかげか、ルンバにとっては動き周るのに苦労しないようで、相変わらずゴミひとつ落ちてない。
グランドピアノの奥の方には、螺旋階段があり、その階段を登ぼって二階へ上がるとリビングがある。リビングはうって変わって、明るく、アーティスティックな印象だ。真っ先に目に飛び込んでくる青磁色の壁には海外アーティストが描いた風変わりな絵画がいくつも飾られている。中央にはイチョウの葉を思わせる黄色の大きなL字型ソファがどっしりと構え、その前にはガラスのテーブルが置かれている。そして、テーブルの上には、季節ごとにいつも新鮮な花が生けてあった。これらは母さんの好みで決められたと父さんが言っていた。それを引き継いで、今はテーブルの花を僕が選んでいる。
僕はというと、真面目な性格ではあるけれど、運動はそこそこで、勉強は嫌いではないが、どちらかというと好きな時に音楽をやったり、工作をする方が好きなタイプであった。親しみやすいためか、人から声をかけられることが多く、学校ではすぐに友達ができた。正直、この気質はありがたかった。自分から声をかけるよりも、向こうから来てくれた方が心理的な負担は少ない。その為か、友達には明るくて陽気なでフレンドリーなタイプや、面倒見の良い兄貴分、天然でマイワールド全開なタイプなど、さまざまな友達を持っていた。僕はどちらかというと自分の世界観を持つ人が好きで、個性という個性を好きになる。そのため友達の種類がいろいろで、僕も人によって話題や付き合い方を自然と変えていた。こうした器用さは対面でよく発揮され、自分でも美点と思われたが、どうしようもなく流されやすいという危うさにも繋がっていた。
僕は論理気質な父よりも、感性の方に長けた母親ゆずりなところが多い。外見的には際立った特徴はなく、クラスで目立つようなタイプでもないが、そんな僕がひとつ特技をあげるとしたら、それは料理だった。妹も喜んでくれるし、料理に関しては舌が肥えているせいか滅多に褒めない父さんも、僕の手先の器用さには感心しているらしかったので、僕はなんとなくそれらには自信を持つようになった。
そんな僕の家の近所に、ある日、お姉さんは引っ越してきた。家庭の都合で、この町に越してきたという。この閉鎖された町では新参者としても注目を集めたが、理由はそれだけではなく彼女の美しさは誰もが認めるものがあった。
僕が好きになったお姉さん... ユリさんは、ある時からよくうちに遊びに来るようになった。というのも、ユリさんが僕の家庭教師をすることになったからだ。家庭教師といっても、ユリさんが僕の家に来るのは、毎週火曜日のみで、内容は、その日やった授業の復習に付き合ってくれるというような感じだった。
初めて家に来た時、ユリさんは「今日から、よろしくね」と僕の目線まで少し腰を折って挨拶をした。ユリさんに対してどこかクールなイメージを持っていた僕だったが、人懐っこさを感じさせる笑顔と、暖かみのある雰囲気にすぐに覆された。
ユリさんとの会話はたわいのない日常的なものだったけど、普段はどちらかというと僕の方がよくしゃべっていて、ユリさんがにこやかに聞いてくれることが多い。僕はユリさんにもっと僕のことを知ってもらいたくて、興味を持って欲しくて、話しかけずにはいられないといった感じだったけど、そんな風に話しをするようになったのは、それこそ、ユリさんが家庭教師になってしばらく経ってからだった。それまでは、とくに最初の頃なんかは、恥ずかしさと緊張から縮こまっていた僕に気を使って、どちらかというとユリさんの方から僕に話しかけてくれていた。
ある日、リビングで僕がゲームをして遊んでいると「なにやってるの?」とすぐに声を掛けてきては、遠慮がちに手元を覗きこんできた。「これはゾンビから逃げるゲームなんだ。銃で射ったり倒した敵から武器がもらえたり...」と説明すると「へえ!面白そうだね」と言うので、僕はこのゲームはこんなことが出来るとか、ここのボタンを押すとこんな機能があるだのといい気になって教えながら一緒に遊んでいると、次第に僕よりもユリさんの方が夢中になっているようだった。
ユリさんはなんでも興味が湧くらしく、ある日、僕がピアノを弾いていると切なげに「私もピアノが弾けたらなあ」とポツリとこぼしたのが聞こえてしまって「僕が教えるよ!」と返すと「ううん、いいの。弾けたら楽しそうだけど、聴いてるだけでも十分楽しいから。そうだ、このあいだ弾いてくれた曲あるでしょう?」「えっとこの曲かな」と言って僕はさわりの部分を弾きはじめる。モーツァルトの『きらきら星変奏曲』だった。「そう!よくわかったね」この間、弾いた時もユリさんはこの曲が好きだと何度も言っていた。「この曲、本当に素敵だなと思って。曲自体は知ってたけど、ピアノで聴くとまた印象がぜんぜん違う」「ピアノだとアレンジが加わってるからかな」喜んでいる姿に自然と指も弾む。「このね、今の音!飛び跳ねるような音が忘れられなくて、家に帰ってからも何度も聴いたの。色んな人が演奏していたから。でもね、あなたの演奏が一番好き」 僕はさらりと告げられたその言葉にどきっとしたが、演奏を続けた。「それで、ずっと聴いていたら、音楽って、もしかしたらこの世で一番、壁がないものかもしれないって考えて。どこまでも続いている空みたいに、すごく自由で広くて制限がなくて、それでいて、綺麗でしょう。感動してしまって。音楽を聴いているとたまにそういうことが起きるのね。一瞬にして、外国のパーティーに来たような気分になったり、バラードでは切なくなったり、クリスマスの雪景色や冬を感じさせる曲もあれば、南国やリゾートなんかの夏を感じさせる曲もある。だから、私はどんなジャンルも聴くことにしてるの。日本の曲だけじゃなくてね、この間ストリーミングしてたら、スウェーデンのバンドが歌ってる曲が流れてきて、歌詞はわからなかったけど、アップテンポで自分たちの世界観を真っ直ぐに表現していてかっこよかった。あとはアラビアの曲なんか聴くと、本当に異国に来たみたいに感じるし、ロックの歌詞には実は親近感が湧くの。ふふっ、驚いた?でもクラシックも素敵。ジャズも。それぞれ良さがあるところにわくわくする。だから、私はなんだって聴きたいと思った。だって、音楽って、その時の気分や状況に合わせて、自由に選ぶものでしょう?」ユリさんはそう言って、僕に聞かせた。ユリさんは将来、色んな世界が見てみたいと言っていた。そんなことを語るユリさんの瞳はいつも以上にきらきらして見えて、僕はそのいきいきとした精神力に少なからず影響され、感化されていた。実際に二人は音楽の好みも似ていたので、お互いの好きなアーティストの曲をおすすめし合ったり、そのほかにも、今ハマってることや学校で話題になったことなんかを話していくうちに、僕らの興味の対象はどんどん移り変わって、次第に話題もころころと変わっていく。そんな中でたまに突拍子もない話題にたどりつくこともあったけど、ユリさんの言うことには、いつもきちんとした理由があった。そこが好きだった。話を聞いていて心地がいい。そして、彼女の考え方や、物の捉え方には目新しさがあって、僕の中に新鮮な空気を吹き込んだのだった。
僕はユリさんと過ごせるのであれば、なんでも嬉しかったし、その時間は僕にとって楽しみで、とても幸せなものだった。とにかく離れる時間が惜しくて、もっと話をしていたいだとか、一緒にいたいだとか、そんなことをよく考えていた。十一歳の頃の僕の話しなんて、本当にしょうもないことばかりだったろうに。
そんなユリさんとの絶好調な関係とは裏腹に、この頃、学校の友達との仲は最悪だった。
ある日、その友達と激しめの口論となり、僕は我慢ならないほどの侮辱を受けた。よく世の中には「言っていいことと悪いことがある!」なんて台詞があるけれど、口論になった場合、むしろ人は、"言ったら悪いこと"の方を自ら探し当てに行くような真似をすると思う。そして、それを見つけると、途端に勢いづいて、意気揚々と、しかも、遠慮なくそれを口にするじゃないか。僕もとうとう頭に血が上って暴言を返してやろうと思ったが、こんな時に限って、普段あんなにも溢れていたはずの言葉が嘘のように出てこなくなって、結局なんにも言えず、ただ閉口してしまった。これが僕をもっともたまらない気持ちにさせた。口論になった際に、咄嗟に罵詈雑言がぺらぺらと出てくる奴らっていうのは、いったいどうなっているんだろう。よっぽど、普段からろくなことを考えていやしないんじゃないか?家に帰ってからも、しばらくそのことを思い出しては落ち込み、かと思ったら怒りでむしゃくしゃしたり、と思ったら、また気分がずっしりと沈んだりした。嫌な出来事っていうのは、考えたくなんかないのに、頭からなかなか離れてくれなくて、思っていたよりも長いこと悩まされることとなった。
学校に行っても、その友達とは顔を合わせづらくて、そんなストレスで胃がキリキリしていた。相手に言われた言葉を未だに何度も頭の中で反芻しては、矛盾点を見つけ、その度に、反論の言葉を思い浮かべたりもした!あの時に、こうやって言い返していれば、言い負かすことが出来たのに!そう思うと、やりきれない気持ちになり、それにもっとうまく気持ちを伝えることができていたらと、自分の口下手なところや、人と口論した時にパッと頭が回らなくなるぐずの悪癖を恨んだりもした。相手を嫌いになっては、次に自分自身のことも嫌いになっていく。こんなループに陥っていた。あとあと思い返してみれば、実は相手の言った台詞は、矛盾まみれであることに毎度毎度思い知らされるのに、それでも、その場ですぐに言い返せないのであれば、結局は押し黙った僕の負けに感じる。それが僕の心に水を刺したのだった。そして喧嘩をすると、こんな風に、二重に三重になって嫌な気持ちがふくれ上がることにも、アメーバのように増えていくことにも、我慢ならないものがあった。
僕たちは喧嘩をすると、こんなにも不幸になる。お互いがお互いを不幸にする。だけど、どうやったら伝わるんだろうか。分かり合える気がしない。
そんな友達との仲違いと、それ以上にこの自分の荒れるような感情的な気質に僕は当時から頭を悩ませていたのだけど、そうしているうちに火曜日を迎えた。
せっかくユリさんと会える日なんだからと、悩み事は今だけでも忘れて、僕はいつも通りに振る舞おうとしていた。だけど、ユリさんは部屋に入ってくるなり僕の顔を見てすぐ何かに気が付いたようで、心配の色が浮かんだのが見えた。
咄嗟に「今日の数学の授業、むずかしかったんだ」と言いわけじみたことを言うと、ユリさんは「そっか。じゃあ、今日はそこから復習しよっか」と明るく返してくれた。これには内心ほっとした。僕は、もし何かあったの?なんて聞いてこられたら...と、内心ひやひやしていた。聞かれたとしても何て返したら良いのかわからないし、自分の中でまだ気持ちの整理がついていないから、それを言葉にする自信だってなかった。何より、ユリさんにかっこわるいところを見せたくないという見栄だってある。
でも、そんな心配はいらなかった。ユリさんはとくに何も聞いてこなかったのだ。いつも通りに授業の復習をして、たわいのないことをしゃべり、だけど、そうして時間になって、いざ帰ろうと立ち上がった時だった。ドアの方へ向かうかと思われたが、ふとユリさんは振り返って、僕に近寄り、頭を撫でた。いつもはそんなことしないので、僕は驚いたけれど、あれはユリさんなりの励まし...だったのだと思う。僕と同様、ユリさんも感性の方に長けているタイプだ。僕たちは、立場だとか年齢だとか外的に合わない部分はたくさんあるけど、もっと内面的な...心で共鳴することが、たしかにあった。視線や言葉の間なんかで伝わる瞬間が増えていたことも、お互いが居心地の良い距離感や空気を纏っていることにも、気付いていた。今回も、きっと僕が元気がないことをユリさんは最初からわかっていて、わかっているからこそ言及しないようにしてくれていた。落ち込んだ時というのは、話を聞いてほしい時と、その話題にすら触れて欲しくない時の二つに分かれる。僕はこの時、後者であった。そんな違いをユリさんが察して気に掛けてくれたのが伝わったし、そういうのを分かり合える人がいるのだということと、それがユリさんであることに心が強くなった。優しいまなざしと、温かい手のぬくもりによって僕の心は一気に溶けた。「じゃあ、またね。」と言って、ユリさんが帰っていったあと、しばらく僕は動けずにその場に立ち尽くし頭はすっかり冷静さを取り戻したけれど、心臓はありえないくらいドキドキしていた。
もうこの頃には、すっかりユリさんに夢中になっていた。僕は国語の授業中の書き取りをしてる合間や、体育で走ってる時、家にいる時、風呂に浸かってる時、友達と遊んでいる時の、ふとした瞬間なんかに、ユリさんのことを考えるようになっていた。席替えをする時なんかは、もしユリさんがクラスメイトだっとして、ここにいてくれたら僕の学生生活は、どれほど多彩で楽しくて幸せなことだろうと考えた。翌週の火曜日。この前のお礼に僕は料理をユリさんに振る舞うことにした。よく僕が家でお菓子を作っていることはとっくに知られていて、家庭教師に来た時も休憩の時のお茶請けとして出したりもしていたけれど、一瞬、驚いたような顔になって、その後ほころぶような笑顔で絶賛してくれたのだった。ああ、この笑顔が僕の宝だ。僕の世界。
ユリさんの一挙一動が、僕のときめきの源となり、癒しとなっていた。あんなに心にぽわっと火がともるような感覚は、ほかにない。こうしてユリさんは、会っていない間もすっかり僕の生活の中に入り込んでしまっていた。恋の細胞はみるみると発酵し、瞬く間に増えていくようで、まるで頭の一部分を占領されてしまったかのようだった。
僕が十三歳になる頃。ユリさんは、二十歳。
この頃から、ユリさんの様子が徐々におかしくなっていった。ユリさんの腕に、跡があること、ユリさんの首に赤い跡があることに僕は気付いていたのだが、僕が中学に上がってからは、もう家庭教師の仕事は辞めることになっていた。
それが嫌で嫌で仕方なかったけど、考えてもみれば、僕とユリさんの仲だもの。家庭教師という繋がりがなくなったって、ユリさんとは変わらずに会えるものだと、なぜか僕は信じて疑わなかった。だけど、そんな期待はあっさりと裏切られ、会える機会はめっきり減ってしまっていた。たまにユリさんが家に来ることもあったが、その頃からユリさんは急に僕によそよそしくなった。目を合わせてくれないし、以前のような柔らかい雰囲気はなくなり知らない人のようだった。僕とユリさんの間にあった、あの穏やかな居心地の良い雰囲気は嘘のように失われてしまっている。前に一度だけ、父の書斎からユリさんが出てきたのを見かけたことがある。よくは見えなかったが、ユリさんが泣いていたように見えて、僕はすぐに追いかけようと思った。だけど何が起こっているのかも分からないうえに、一瞬だけ、ただならぬ雰囲気があったのを察して、僕はそれに気が咎めてしまった。なぜ、父さんの書斎から出てきたのだ?嫌な予感が頭をかすめては、同時に否定の念で打ち消した。僕は訳がわからず、ただ耐えるしかなかった。足は地面に張り付いたように固まり、冷や汗がじっとりと背中を流れた。
桜が咲き始める頃。ユリさんが遠くへ引っ越すということを聞いたのは、僕の父さんの口からだった。
僕はその瞬間、崖から突き落とされたような気分だったが、聞くところによるともう予定の日は差し迫っていた。混乱の最中で、僕に何ができるのかを考えたけれど僕が止められる術は...いや、止めるって?嫌だから行かないで、なんて言って止められるわけがない。僕は頭を抱えた。
ユリさんの家庭の事情は、複雑だということを父さんから少し聞いたことがあったけど、ユリさんといるときにその話はなんとなく避けていた。もしかしたら、そのことが関係しているのかもしれないし...でも、そういえばユリさんの通う大学が父さんの教える大学だったと一瞬話題に出たことがあった。もしかしたら、進路関係、だろうか。そんな風に考えると、僕はユリさんについて、まだまだ知らないことだらけだったことにショックを受けた。
ユリさんが遠くへ行ってしまう日、どういうわけか父さんが空港まで送っていくということになっていた。僕はそれに同行させて欲しいとお願いしたが、頑なに断られてしまった。それでも引き下がらない僕の剣幕と訴えに父はしぶしぶ同意した。きっと、お別れだ。頭ではわかっていたが、結局引き止める術も見つからず、何もかもがどうしようもなくて、気持ちがついていかないまま当日を迎えた。
その日
父の運転する車に、僕はユリさんに渡すための手紙とクッキーを入れた鞄を持って乗り込む。ユリさんの家の前まで着くと、キャリーバッグと大きなボストンバッグ、頭には帽子を被った姿でユリさんはすでに外で待っていた。僕とユリさんと父さんを乗せた車が空港へ向かって走っていく。車内は異様な空気で、しんと静まりかえり、どこか緊迫感が漂っていた。そんな居心地の悪さに僕はめまいを覚えた。ユリさんには、聞きたいことも話したいことも言いたいことだってたくさんあったはずなのに、それらは一切僕の口から出てくることはなく、ただひたすら窓の外の流れる景色だけに目を向けていた。時折、ユリさんがそんな僕の様子を伺うような素振りを見せたのがわかったけれど、どうも話し出せない。もどかしくて、どうにかなりそうだった。
そうしてる間に空港に到着して、最初にユリさんは搭乗前の簡単な手続きを済ませるといってカウンターの方へ向かったので、僕と父さんはソファに座って待つことにした。ユリさんが戻ってくると搭乗時間まで、まだ余裕があったので、最後に三人で食事でもしようということになり、航空内にあるレストラン街に来ていた。その間、父さんはユリさんに対して、手続きは無事済みましたか、とか忘れ物は大丈夫なんですか、と聞いただけで、ユリさんは、はいと返事だけして、あとはうわの空な感じで、会話という会話はなかった。僕はそんな二人の様子を黙って見ていた。二人のそんな雰囲気に僕もなんとなく話し出せなくて、黙っていた。なんだか今日はずっと黙りっぱなしだなと思いつつ、せめてユリさんの姿を目に焼き付けたくて、そっと目の前にいるユリさんを見つめた。ユリさんって、こんなに大人っぽかったかな...と、久しぶりに間近に見るその美しい人は、知らない大人のように見えた。僕も中学生になってからは身長もかなり伸びて、声変わりもした。初めてユリさんと会って挨拶した頃とは反対で、目線は僕の方が上になっている。だけど、彼女の場合、あどけなさが消えて、落ちついた感じがする。相変わらず、綺麗だった。
食事を終えて、ゆっくり歩きながら搭乗口のある広場まで歩いているときだった、僕は持ってきていたはずの手紙とクッキーの入った鞄を、食事をしたレストランに忘れてきたことを思い出し、「あ!」と声をあげてしまった。同時に「忘れもの取ってくる」と残して、慌ててレストランへ引き返した。(うっかりしていた!)レストランに引き返して見覚えのある店員さんに声を掛けると、店員さんの方も、僕を覚えていたのか、目が合うと「鞄の忘れ物ですね?」と言って、すぐに鞄を持ってきてくれた。とても丁寧な店員さんだった。鞄の中身を確認して、改めて何も取られてないことにほっとし、同時に日本の治安の良さに感激しつつ、僕はどこか勇気を貰えた気がした。運が味方してくれてるような気持ちになって、足早になる。戻ったら、ちゃんと話そう。ちゃんとユリさんの目を見て言わないと。大好きだってことを伝えて、今までありがとうってことも伝えて、また会える日を....とその瞬間、僕の目に飛び込んできたのは父さんとユリさんが抱きしめ合っている姿だった。
しばらくして父さんが、ユリさんを離すと、恋人のような仕草でそっと頬をなでて、キスをした。
その光景を最後に、僕は撃たれたようにその場を後にした。あちこち走って、息が切れる。苦しくなって、離れた所にある飛行場を見渡せる外のテラスに出て、ひとまず、肺いっぱいに冷たい空気を入れ込むようにして息をした。今見た光景は幻覚か?いや...僕はどっかで二人の関係に気付いていたのかもしれない。あの食事の時だって、車内でも、それよりもっと前から。数々の思い当たるふしがポツポツと振り始めた雨のように加速して思い出された。
僕とユリさんの距離がいっとき、ものすごく近くなったと感じていたけれど、それは、単なる友情のようなものだったのだろうか。僕とは違って、父さんといる時の....ユリさんの顔を思い出して、僕に向けられたことのないものだったことを思い出すと、ふと握りしめていた鞄から、渡しそびれたクッキーを取り出して、その瞬間、それを勢いよく地面に叩きつけた。遅れてきたかのように、一気に涙が溢れ出していた。動揺と無力感と失望で全身が震えていた。それでも、混乱する頭でやっぱり最後にちゃんとお別れの挨拶をしなければと思って、戻ろうとしたけれど、どうしてもそこから動くことが出来なかった。どのくらいの間そうしていただろう。僕はおそらくユリさんが乗ったであろう飛行機が、遠くへ、遠くへ、小さくなって、完全に消えてしまうまで見届けてから、その場を後にした。
地面には、粉々になったクッキーだけが残されていた。
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