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3巻
3-1
しおりを挟むプロローグ
深雪を踏みしめるたび、冷たい感触が履物を通して伝わってくる。
南の町で育ったレオン・ハートフィリアにとってその感触は新鮮であり、なおかつ懐かしいものでもある。
懐かしさの理由は彼が生まれた場所、そして彼の体の中……心に宿った新たな魂にあった。
新たな魂とは人間界では伝説と謳われた悪魔、ファ・ラエイル。
別名エレノアの魂である。
人間を、そして人間界を乗っ取ろうと目論む悪魔、ア・ドルマ率いるア族に対抗するため、エレノアは自らの一族の亡骸と自身の力を糧にレオンを生み出した。
そのエレノアの思い出の地とレオンの生まれた場所、つまり故郷は、雪が絶えず降り積もる極寒の大地だったのだ。
そこは魔界と呼ばれ、レオンが今歩く人間界の大地とは趣が違う。しかし、それでも踏みしめる度に感じる冷たさは確かに懐かしく感じた。
「レオン殿、そろそろ休みましょう」
レオンの前を歩いていた女性、ナッシャ・ソダニアが振り返りながら言った。
青みがかった黒髪を揺らす彼女は、悪魔に捕まり王都に連れてこられたが、レオンに助けられた。
その恩を返すため、彼を手伝っている。二人は亡命の最中だった。
自国の国王アドルフによってありもしない罪をでっち上げられたレオンは、親友たちの力を借りて国外に逃亡。王都を襲った悪魔を退けたにもかかわらず、今、まさに逃避行中なのであった。
二人が目指すのは北の最果ての国、アルガンド。その厳しい気候と辺境の地にありながらも他国の力を借りずに独自の発展を遂げる鎖国国家であり、ナッシャの故郷でもある。
極寒の地でありながら額に汗を浮かべ、苦しそうに肩で息をしているレオンに対して、ナッシャは平然としている。
ナッシャの休憩の提案は、レオンの体力を考慮してのことだった。
「ぐ……うう」
休憩をしようと切り倒された木の根元に腰を下ろしていたところ、レオンが苦しそうに胸を押さえてうずくまる。
ナッシャはすかさずレオンに駆け寄り、その背中をさすりながら魔法で起こした火で沸かした湯をゆっくりと飲ませる。
「また……暴れているのですね。近くに休息できるところがあるといいのですが……」
ナッシャは心配そうにレオンの顔を覗き込んだ。
この逃避行が始まってからおよそ一ヶ月、こうしてレオンが倒れそうになったことは何度もある。彼の体の中に取り込まれた魂……エレノアではなく、王都で繰り広げたア族との戦いで取り込んだ八つの悪魔の魂がそうさせるのだ。
エレノアとは違い、自らの意思でレオンの体に取り込まれたわけではない悪魔たちの魂は、今もなお外へ出ようともがいている。
普段はレオンが自身の魔力とエレノアから受け継いだ力を使い抑え込んでいる。
しかし、レオンの体力が落ちた時、あるいはレオンが魔法を使い消耗した時。あらゆる隙を狙って悪魔たちはレオンの体を乗っ取ろうとしている。
厳しい山道は着実にレオンの体力を奪い、彼の体はもうぼろぼろだった。今の状況では満足に魔法を使うことはできない。
「レオン殿、しばしここで休憩していてください。私は上空から道を確認してまいりますので」
ナッシャはそう言って「飛行」魔法で飛び上がっていく。
魔法を満足に使えれば空を飛んで移動することもできるが、悪魔たちの暴走を抑えるには「飛行」魔法は使用できなかった。
「レオン殿、向こうの川沿いに村のようなものが見えました。既に国境は越えていますし、ひとまず今日はそこで休ませてもらいましょう」
戻ってきたナッシャの提案に、レオンは重い体を何とか起こして頷いた。
悪魔の魂が暴れるのを防ぐために満足に魔法を使えなかったレオンたちは、ここまでの道のりを徒歩で乗り切ってきた。
それでも既に王国の国境は通りすぎている。
親友であり、国の第二王子でもあるヒースクリフ・デュエンの計略でレオンは彼に倒され、死んだことになっている。
追ってくる者はおらず、急ぐ必要のある旅でもない。
それでも気は抜けないからと、国境を抜けるまでは村や町を避けてきた。
どこで誰に見られるとも限らないからだ。
そのため、この雪道の中で見つけた村は逃避行が始まって初めて訪れる村だった。
「旅の途中でこの大雪に見舞われてしまい、友人が体調を崩してしまいました。どうか一晩だけでも泊めていただけないでしょうか」
村にたどり着くとナッシャは村長にそう事情を説明した。
国境を越えているとはいえ他国から逃亡していると言えるわけがなく、レオンの体の中で悪魔の魂が暴れているという説明もしづらいために作った嘘だ。
村長ははじめは訝しんでいたようだが、ナッシャの後ろにいたレオンの青白い顔を見ると、
「それは大変でしょう。村外れに空き家が一軒あります。今日はそこに泊まりなさい」
と快く滞在を許可してくれた。
ナッシャは礼を言い、レオンの肩を支えながら村長の言った空き家まで連れていくと、床の上にレオンを寝かせた。
そして魔法で囲炉裏に火をつける。
「このまま横になって休んでいてください。私は村の方に何か食べ物をいただけないか頼んでみます」
ナッシャはそう言って小屋を出ていく。
扉を開くナッシャの背中を見送りながら、レオンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
彼女がレオンに力を貸してくれる理由は、レオンが彼女の命を救ったからである。
王都での戦いのなかで悪魔たちは、自分たちが体を乗っ取れる可能性のある人間を様々な国から誘拐していた。
その一人がナッシャだ。
悪魔に体を乗っ取られそうだったところをレオンが助けた。
その恩返しでレオンの逃亡を助けているのだが、そういった経緯を越えて十分すぎるほどナッシャは力を尽くしてくれている。
この旅が順調だったのは最初の一週間だけで、それ以降は魔力も体力も回復が不完全な中、悪魔たちの暴走は度々起こった。
頻度も徐々に高くなってきていて、その度に旅の足は止まる。
その間ナッシャは一言の文句も言わず、レオンを見捨てることもせず支えてくれているのだ。
一体何故そこまでしてくれるのだろう――
そう疑問に思うこともあったが、それよりもレオンはこの状況でも味方でいてくれるナッシャの義理堅さに深く感謝していた。
夜が更けた。
遠くで野犬の鳴き声が聞こえる。
レオンはいつの間にかすやすやと寝入ってしまった。
久しぶりに屋根と壁のある環境で、安心したのだ。
その体の上には毛布がかかっており、隣に座ったナッシャは囲炉裏の火が消えないように時折薪をくべる。
湯呑みに入ったお湯を口にしながら、ナッシャはレオンの方を見た。
「ふふ……」
思わず笑みが溢れる。レオンの寝顔は驚くほどに幼く見えた。
まるで母親に抱かれてい眠る赤子のようだと思った。ナッシャはレオンの顔をまじまじと見つめる。
よくよく見ればこの少年は随分と若い。成人である十五歳は超えているようだが、まだ学生だと聞いている。
一体何故、こんな少年がここまでの悲劇に見舞われなければならないのか、とナッシャは歯痒い思いをしていた。
先の戦いで悪魔を退けた少年は間違いなく国の英雄だろう。
それなのに、国王に騙され国を追われた。
友とも家族とも離されて見知らぬ土地を彷徨っている。
「可哀想に……」
思わず声が漏れる。
そんな状況にありながらも、レオンは一言も泣き言を言わない。
体の中で異常な魔力が暴れているというのに信念は折れず、人を恨むこともない。
ナッシャはレオンを見て「守らなければ」と思うのだった。
◇
暗い闇の中にいた。
酷く冷たく、上も下も、右も左もわからない。
一筋の光すら見えない闇の中。それなのに、何故か自分の姿だけは見える。
それが夢の中であることをレオンは知っていた。
幾度となく経験した夢の中。魔法で作られた精神世界に雰囲気がとてもよく似ている。
ただ一つ、決定的に違うのは今いるこの場所には明確な恐怖を感じることだった。
「お前の目的は何だ」
暗闇の中で声が聞こえた。
自分に問いかけるその声に聞き覚えはなかった。
「我らを取り込み、新たな力にでもしたつもりか」
今度は違う声。
明らかに怒気を含んでいる。
「いずれ取り返す。必ずな」
「お前の体を乗っ取ってやる」
「我らを取り込んだことを後悔しろ」
次々と降り注ぐ声。レオンはその声の正体に気づいた。
取り込んだ八人の悪魔たちである。
彼らの魂が寝ているレオンをこの精神世界に呼び寄せて、問いかけてきている。
「乗っ取るつもりでも、力が欲しかったわけでもない。あのままじゃ君たちは死んでいた。僕はそれが嫌だっただけだ」
レオンは暗闇に向けて叫んだ。
紛れもない本心であった。
王都でレオンが戦ったのは悪魔が体を乗っ取った人間たち。倒した後、そのままにしておくわけにはいかず、その体から悪魔の魂を引っ張り出した。
しかし、魂だけをその場に残しておくと彼らは消えてしまう。
それを避けるために、レオンは自らの体の中に悪魔の魂を取り込んだのである。
「嫌だった……? 馬鹿馬鹿しい。我らは敵だぞ。その命を救ってお前に何の得がある」
女性の声だった。レオンの言葉を嘲笑するような声だ。
その声はさらに捲し立てる。
「お前がした行為は救いでも何でもない。問題を先延ばしにし、見たくないものから目を背けただけの偽善だ。我らを取り込み、その身に宿したところでいずれは限界が来る。お前の体は朽ち果てるだろう……もっとも、そうなる前にお前は我らの魂を手放すのだろうがな」
その声はレオンにも聞き覚えがあった。
王都を襲った悪魔たちのまとめ役、ア・シュドラと名乗る女性の悪魔のものだ。
「それはわかってる。このままじゃ何も解決しないことは……でも、僕はこの体が朽ち果てるとしても君たちを見捨てたりはしない。そうなる前に必ず答えを見つけてみせるよ」
レオンのその言葉に答える悪魔はいなかった。
人間の戯言だと思っているのか、単に興味がないだけか。
暗い闇の中に静寂が流れ、やがて一言。
「信じられんな」
とア・シュドラの声が響いて夢は終わった。
◇
翌朝になってもレオンは目を覚まさなかった。
昼が過ぎても目を開けない彼を見て、ナッシャは心配になるが、穏やかな呼吸音が聞こえたので、ホッとしてそのまま寝かせておく。
レオンが目を覚ましたのは、夜になってからだった。
「……ここは」
目を開けたレオンは温かい空気に触れ、美味しそうな食べ物の匂いを嗅いだ。
匂いのする方に目を向けると、囲炉裏に置かれた鍋をかき回すナッシャがいた。
「起きましたか。今、食事を作っていますので少しお待ちください」
ナッシャが混ぜる鍋の中身を、レオンは体を起こして覗き込んだ。
「村の方たちからいただいた穀物です。この辺りで育てているものだそうで、備蓄を少しだけ分けていただきました。それから、この時期でも採れる薬草を森の中で見つけたので混ぜてお粥にしています」
ナッシャは鍋の中身を器に盛り、それをレオンに差し出す。
レオンはそれを一口食べて、それから忘れていた空腹を思い出したかのように食べ始める。
その様子を見てナッシャは微笑んだ。
「少し元気になられたようですね。魔力も多少は戻っているようでよかったです」
ナッシャに言われてレオンは自分の体を確認する。
あれだけ重かった体が少しばかり軽く感じる。
疲れも取れているようだった。
「野宿は慣れている者でも満足に疲れは取れませんから。この村の方とこの小屋に感謝ですね」
そう言うナッシャにレオンは頷き、それからここまでの礼と謝罪をした。
ナッシャは咎めることなく、レオンが食事を済ませるのを見届けてから目の前に地図を広げる。
「王都を出る際にミハイル殿からいただいた周辺諸国の地図です」
ミハイル・ローニン。
王都魔法騎士団の団長にしてレオンが国を出る際に世話になった男である。
彼がナッシャに協力を求めなければ、ここまで来られなかっただろう。
「国境を越えて、我々の現在地はこの辺り。目的地であるアルガンドはまださらに先です。その間には小国ですが、今いるナスラムとそれからイルガという国があります」
レオンはナッシャに説明を受けながら地図を覗き込む。
国を出たことのないレオンにとって、ここまでの道のりは未知のものであった。
そして、それはナッシャにとっても同じこと。
二人が目指すナッシャの故郷、アルガンドは閉鎖国家である。
他国との交易はなく、ナッシャ自身、悪魔に誘拐されるまで国を出たことは一度もなかった。
アルガンドのおおよその位置は知っていても、実際に王国からアルガンドまで旅したことなどなかったのである。
それでもナッシャは頭が良く、地図一つで国境を越えることに成功した。
「およそ一ヶ月で行程の半分……いえ、三分の一といったところでしょうか……」
地図上で王国からアルガンドまで直線を引いたとして、つまり最短距離で見ると、今レオンたちがいる村はちょうど半分ほどの地点にあった。
「この先寒さはより厳しく、雪は多く降るようになるでしょう。国境は過ぎたので身を隠しながら進む必要はなくなったかもしれませんが、それでもアルガンドにたどり着くにはあと一ヶ月半はかかるかと」
追っ手がいるわけではないレオンはこの旅を急ぐ必要はないが、ナッシャには急ぐ理由があった。
度々悪魔たちが暴れ出し、魔力が暴走状態になるレオンのことが心配でいち早く休める場所に行きたいというのもあるのだが、何よりも故郷のことが心配だった。
ナッシャはある夜、突然悪魔の奇襲にあい、なすすべもなく誘拐された。
その光景を見ていた者はおらず、国では突然の行方不明者として扱われているだろう。
いち早くアルガンドに戻り、国と家族に自分の無事を知らせたいと願うのは当然だった。
「本当にごめん、僕が倒れなければ少しは早くアルガンドに着けるのに……」
ナッシャの寂しそうな、心配そうな顔を見てレオンはもう一度謝罪した。
ナッシャはハッとして、それから優しく笑う。
「気になさらないでください。何度も申し上げましたが、この身はレオン殿がいなければ悪魔に乗っ取られていました。この恩に報いるためにも、必ずレオン殿を我が故郷アルガンドまで送り届けましょう」
そう言って自らの胸に手を置き、胸を張るナッシャ。
無理をしているのはわかったが、今はその優しさに甘えることにして、レオンはそれ以上何も言わなかった。
「村長に話したところ、もう一晩くらいは泊まっていっても構わないと言っていただけました。昼間、魔法で村人たちの困り事をできるだけ片付けてきましたし、村の狩人が言うには明日には雪も一度やむ見込みだそうです。今日のところはご厚意に感謝して、今しばらく体を休めましょう」
ナッシャはそう言ってレオンに再度寝るように促す。
そして、レオンに気を使わせないためか、自分も早々に毛布に包まって寝息を立てるのであった。
◇
翌日の早朝、村人たちが働き出す時間に合わせてレオンとナッシャは村を旅立った。
村長と村人たちにレオンは自ら礼を言いたかったのだ。
心優しいことに、村長は貴重な食料を分けてくれただけでなく、村から一番近い町までの道のりを教えてくれた。
村の狩人の言った通り雪は一度やみ、吹き抜ける冷たい風も少し弱まったおかげで、随分と歩きやすい。休んだ甲斐もあって体も軽かった。
「これなら『飛行』を使っても大丈夫そうだ」
進む速度を上げるためにレオンはそう提案したが、それはナッシャによって却下される。
「今は体力に余裕があり、魔力も回復しているのでそう感じるのでしょう。しかし、魔法を使えばそれだけ消耗は早くなります。ここは大事をとって今まで通り歩いていきましょう」
そう言われてレオンは再び申し訳ない気持ちになった。
ナッシャがどう言おうが、足を引っ張っているのはレオンが一番感じている。
その事実が申し訳ないのだ。
レオンの様子を見てナッシャは明るく笑う。
「村長に教えていただいた町まではそう遠くはありません。その町で乗り合いの馬車を探せば速度は上がるでしょう」
ナッシャはそう言いながら、レオンのことを「本当に心根の優しい少年だな」と思っていた。
国を追われ、自分も家族や友人と離れ離れになっているというのに、他者の気持ちを汲み取って少しでも早く着こうと努力している。
ナッシャの知る限りここまで性根の真っ直ぐな人間は数えるほどしか会ったことがない。
雪道は深く、一歩進むことさえ大変である。
ナッシャが先頭を歩き、そこにできた通り道をレオンがなぞる。
レオンが魔力を少しでも温存できるようにと配慮してのことだったが、そのおかげか体力の消耗もそこそこに、日が暮れる頃には村長の言っていた町にたどり着くことができた。
「ここなら、目的地の方へ向かう馬車の一台や二台くらいはあるでしょう」
町の賑わいを目にしたナッシャはほっとしたように言った。
レオンたちが今いるのは、王国と比べてだいぶ国力の低いナスラムという小国。
町といっても大したものではないかもしれないと心配していたのだが、その予想は良い方に裏切られた。
王国の主要都市ほどではないにしろ、たどり着いた町は活気があった。
町に入るやいなや、ナッシャはレオンを振り向き、
「レオン殿、計画を少し変更しましょう」
と言うのであった。
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