可愛いっていわないで

まめつぶ文珠

文字の大きさ
上 下
15 / 23
第二章

第六話

しおりを挟む
悠が現れた時と同じ位、ドアベルがやかましく鳴った。
「ドえらい剣幕だったなぁ」
くくっと雅人が笑った。呆気に取られた悠は、瑞樹の去ったドアを見つめたまま言った。
「…あんなに怒った瑞樹、初めて見た」
「俺もだ。多分、人生初なんじゃね?」
雅人はまだ可笑しそうに笑っている。
「座れよ。お前の言い分も聞いてやる。お姉さん、コーヒーもう一つ」
はーい、と長閑な声が聞こえ、悠は仕方なしに座ることにする。
「コーヒーは苦くて飲めない」
「ガキか」
「そうだよ。オレはガキなんだよ。だから瑞樹の気持ちが分からない。オレばっかり嫉妬して、みっともないところばかり見せてる」
「それで?」
「多分、携帯のGPSこっそり監視してたのもバレた」
「だから携帯投げてったのか」
お待ちどおさま、と言ってコーヒーが置かれる。雅人は牛乳を追加で頼んでくれた。憎らしいくらい気が利く兄なのだ。
「お前、ちゃんと瑞樹の口から瑞樹の気持ち聞いてたか?」
「瑞樹のお母さんが亡くなってからはあんまり聞いて無かったかもしれない。なんか、そういうの聞いたら余計悲しいのかな、って」
「それも間違ってはないけどよ。お前が吐き出させてやらなきゃ、瑞樹は何も言わないし、言えないだろ。そういう奴なんだから」
「…うん」
「エロエロ病は?」
「前よりは大分マシだけど、最近は一度そういう状態になると失神するまで治らない」
「…あー、まぁあんなストレス抱えてりゃあなあ」
「何か知ってるのか」
「それは瑞樹に聞け」
雅人は温くなったコーヒーを飲んだ。悠も運ばれてきた牛乳と砂糖をなるべく沢山入れてから飲んでみる。これまで犬猿してきたコーヒーは思っていたよりずっとおいしく感じた。
喫茶店を出た後は柳家に連れ戻された。
「オレは佳乃の様子見てくるから、お前は未来の世話しとけ」
「瑞樹のとこ行くんだけど」
「お前も瑞樹も少し頭冷やせ」
雅人は佳乃の実家へ行ってしまった。

結局、雅人は帰宅せず丸々一晩、未来の世話をする羽目になった。看護師の母は夜勤だと出勤して行き、父は赤ん坊に困り果てていた。
幸い未来は悠に懐いていて、よく眠ってくれたので手に追えないということはなかった。
「何が久々に二人きりの時間を満喫したいだ」
翌日はムカムカとしながら瑞樹のアパートに戻った。今朝は雅人達が迎えに来るのが遅かったため、瑞樹の出勤時間には間に合わなかった。
瑞樹には会えないと分かっているのに、テキスト類を取るために戻らなくてはいけなかった。
アパートに入れば、昨日帰宅した痕跡はある。冷蔵庫を開ければ、ちゃんと食事したことも分かった。
悠の荷物に変わった様子はなく、追い出そうとした気配はない。そのことに少し安堵する。テーブルに瑞樹の携帯を置き、メモを添えた。
『瑞樹へ
昨日はごめんなさい
今夜ちゃんと話したいです
悠』
このメモは瑞樹に読まれることは無かった。

それから四日。
瑞樹は一度も帰宅しなかった。最初こそ、そんなに怒っているのかと逆に憤ったりしたが、丸二日経った頃には心配で心配で頭がおかしくなりそうだった。
会社に電話を掛けてみたが、個人情報なので教えられませんと一刀両断された。
それならばと会社前で朝夕に待ち伏せしてみたが、瑞樹は姿を見せなかった。
三日目は一人でアパートで待っていたが、あまりの不安に押し潰されそうになり、悠は実家へ戻った。四日目の昼、両親の休みに合わせて雅人は今日も未来を連れて遊びに来ていた。やはり佳乃は居ない。未来がカーペットに死体のように転がっている悠をおもちゃにしていた。
「雅人、瑞樹どこに居るか知らない?」
「知らねえ。何度目だそれ」
「オレ…捨てられたのかも…」
「そんなジメジメした奴は捨てられるだろうよ」
「ひどい雅人」
涙腺が崩壊している悠はまた涙ぐんでいる。
「お前はちゃんと大学行け。それが瑞樹が望んでることだろ」
「だってその瑞樹が居ない」
こんなに小さくても人が落ち込んでいることは分かるのだろう。未来が悠の頭をなでなでしてくれる。優しい慰めに寂しい気持ちがまた込み上げてくる。


ピンポーンと間伸びしたチャイムが鳴る。
遥子が応対に出る音がした。
「未来ちゃん、あぶないよ。おいで」
物音が気になったのか半開きのドアの方に向かう未来を悠が優しく制する。その時玄関から聞こえてきたとんでもない声に、悠は飛び起きた。
「悠くんをください!!」

そこはカオスの世界だった。
見たことのないスーツを纏った瑞樹が頭を下げて、遥子に大きな薔薇の花束を差し出していた。
瑞樹は大きなリュックを背負っていて、花束を持った脇には大きなぬいぐるみを抱えている。足元にいくつもの紙袋が散乱していた。
遥子もその場に居合わせたらしい太郎も、ポカンとしている。
背後でくくっと笑った雅人の声で悠は我に帰った。
「瑞樹!」
「あ、悠」
顔を上げた瑞樹が照れた顔で笑った。その顔は無邪気に、まるで悠に会えてうれしいというように綻んだ。短めに整えられた髪から爪先までキチッと揃えられている。いかにも慣れていないスーツを着ていますといった風情ではなく、それは洗練された大人の男の佇まいだった。
もうその笑顔だけで悠は腰砕けになりそうだったが、気合と根性で踏ん張った。
「ちょっと話してくるから!」
「ちょっ…あっ」
悠は花束を遥子に押しつけ、ぬいぐるみを太郎に押しつけた。もはや爆笑している雅人を睨め付けつつ、瑞樹を肩に担ぎ上げ二階の自室へ駈け上がった。
「どこ行ってたの!?どうしたのこれ!オレのこと捨てたんじゃなかったの!?」
部屋に入り瑞樹を下ろすと、もう一瞬も離れたくなくて、捕まえておきたくて力任せに抱きしめた。
「く、苦しいって。これじゃ話せない。ちゃんと話すから落ち着いて」
瑞樹はリュックを下ろし、皺になったスーツを直した。
「どこ行ってたの?オレ、心配でたまらなかった」
「福岡。新しい家探して、契約してきた」
「!!?」
それがとても自然なことのように瑞樹は告げる。寝耳に水の悠は固まってしまった。
「それって…」
続く言葉は悪い予感しかしなくて悠は言葉が出てこない。
「悠」
瑞樹は悠の手を取った。ゴクンと悠は唾を飲み込む。もう何も聞きたくない。耳を塞ぎたい。
「家族になってほしい」
「は?」
瑞樹は悠を真っ直ぐ見て、はっきりともう一度言った。
「家族になって、ついてきてほしい」
「へ?」
「俺、福岡に転勤になったんだ。あっ、生活費は全部出すし、大学の編入費用も出す。家も悠が気に入りそうな広い部屋を見つけたんだ。二部屋しかないけど、リビングとは別で明るいんだ。立地も悪くなくて、静かなとこで」
「瑞樹待って」
どうやら瑞樹も興奮状態にあるらしい。悠の制止も聞かずにどんどん早口になる。
「編入試験は頑張ってもらうしかないけど、通学圏内の大学全部回って資料もらってきた。教授って人にも会って、一度見学に来てって言ってもらって」
それから、と言葉が急に萎んだ。
「遥子さんと太郎さんは俺が説得する。ダメだって言われたら…言われたら」
瑞樹は顔を下に向け、悠の手をぎゅうっと握り返した。
「…一緒に逃げてほしい」
その手にぽたぽたと涙が落ちた。生理的な涙を流すのは見たことがあったが、瑞樹が感情的に泣くのを悠は初めて見た。そこでようやく悠は、瑞樹の全身が緊張しきっていることに気づいた。瑞樹は今この瞬間に全身全霊を懸けている。言葉にならない愛おしさが込み上げてくる。悠は手のひらで瑞樹の頬を優しく拭った。
「瑞樹、座って。ちゃんと話そう」
ベッドへ腰掛けさせると、瑞樹は少し落ち着きを取り戻した。悠も隣に腰掛ける。
「…ごめん。こんなこと急に言われても困るよな」
「別れるって言うつもりだったんじゃないの?」
「うん…。二ヶ月前に辞令が降りた時はそうしなきゃいけないって思ったんだけど」
瑞樹は訥々と語った。 

最初は別れようと思った。仕事は面白くやり甲斐がある。まだ一人前とは言えない今の自分は辞めるわけにはいかない。けれど遠距離恋愛なんて自分の身体は耐えられそうにない。我慢出来なくなった結果、悠を悲しませる位なら一人で行こうと考えた。けれど瑞樹が好きすぎるあまり他のことが目に入っていなくて、やきもち焼きの悠が心配でたまらない。瑞樹もまた悠と離れては生きていけないと心と身体で思い知った。
そんなことを堂々巡りに考えている内に、どうやったら一緒に居られるかということばかり考えるようになった。別れるという選択肢は頭から全く抜けてしまった。

「俺、ちょっと自分勝手だったな。ちゃんと住むところ用意して、普通に生活できて大学も通えるって分かったら悠はついて来てくれるって思い込みすぎてた」
「…家族になるって言うのは?」
瑞樹は苦笑した。
「もう離れたくないって思ったんだよ。俺は普通の家族がどういうものか分からないけど、家族って何があっても離れられないんだろ?」
「うん」
「だから…そうなりたかった」
瑞樹の言葉は尻すぼみになり消えた。またあの怯えた目をして、口を閉ざしてしまった。苦笑して、聞かなかったことにしてとでも言いたそうな顔だ。
「瑞樹こっちきて」
悠は瑞樹を向かい合わせになるように膝に抱き上げた。
「瑞樹、ありがとう。オレ瑞樹と一緒に行く。瑞樹と家族になって絶対一生離れない」
「いいのか」
「当たり前だよ」
「遥子さんも太郎さんも反対するかもしれない」
「そしたら一緒に逃げるよ」
微笑んで誓いのキスをすると、瑞樹の目にはみるみる涙が溢れた。
「ごめん…ごめん…悠、愛してる」
繰り返し呟き、悠の肩口を濡らした。

完全に落ち着いたのを確認し、二人で階下に降りた。二人とも緊張していたが、覚悟は決まっていた。
「あら、瑞樹くんもう大丈夫?」 
「はい、お騒がせしました」
「話があるのね」
「はい」
二人の向かいに柳家の両親、未来を寝かしつけた雅人もテーブルについた。それぞれにコーヒーやお茶が置かれる。
まず瑞樹は突然騒がせたことを謝った。
「俺と悠は付き合っています。その…恋人として六年付き合っています」
怒鳴られるか気持ち悪がられるか、どちらにせよ賽は投げられた。もう逃げられない。言葉は詰まりそうだが、二人から目を離さず瑞樹は続けた。
「俺は来月、福岡に転勤することになりました。悠も一緒に連れて行こうと思います」
「うん、それで?」
医師である太郎は患者の診察をするように無機質に尋ねた。
「生活に不自由はさせません。大学も行かせます」
「さっき瑞樹くんは悠をくださいと言ったね。あれはどういう意味?」
冷静を装ってはいるが、瑞樹は本当は怖くてたまらなかった。悠の親であるこの人たちは自分を排除する力も権利もある。
「家族になるつもりです。法的には結婚は出来ませんが、太郎さんと遥子さん、雅人と佳乃先輩みたいに寄り添って生きていくつもりです」
ふむ、と太郎は頷いた。
「悠のどんなところが瑞樹くんにそこまで決意させたの?」
「家族になれたら、と思ったのは母が亡くなった時です。母とは希薄な関係でしたけど、俺は本当に一人になってしまって、どうしたらいいか分からなかったんです。悠はずっと隣に居てくれて、オレの代わりに泣いてくれて、悲しみを共有出来るのは家族みたいだなって思ったんです」
「悠は?悠の気持ちはどうなの?」
遥子が悠に向き合った。
「一生側にいる。絶対離れない」
挑むように悠は遥子に答えた。遥子はハンカチで口元を抑え、俯いた。
覚悟していたとは言え、実際に泣かれると罪悪感に胸が軋む。
「…っう」
「お母さん」
悠が宥めるように呼びかけた。
「だっ…て…」
「笑ってんじゃねえか」
呆れた雅人が遥子を咎めた。途端、遥子の声はあはははははっと大きな笑い声に変わった。
「もう、我慢出来ない!ははは、あーおかしい」
涙を流して笑っている遥子に、瑞樹と悠は呆気に取られてしまった。
「知ってたわよ。二人が何年も前から恋人同士だったなんて。あんだけ瑞樹瑞樹言って追いかけてたら、気が付かない訳ないわ。二人ともそんな思い詰めた顔して、かわいいんだから」
遥子は目元をパチパチとさせながら、ハンカチで目を拭った。
「いつ報告に来てくれるのか待ってたのよ。それが報告と同時に息子を嫁に出すことになるなんて、思ってもみなかった」
「嫁って…」
悠は勢いを削がれ、どう答えてよいか分からなかった。もちろん瑞樹も。
「ごめんなさいね。悠もきっと良い父親になるなんて言って。発破をかけたつもりだったのよ。もう待ちきれなくて意地悪しちゃったわ」
遥子は太郎を目配せし、太郎はうんと頷いた。
「二人が家族になることは反対しない」
「お父さん…」
「二人が家族になるということは、私たちとも家族になるということだ。それはいいね?」
「はい」
瑞樹は信じられない気持ちだった。何も反対されないなんて。この家の人たちとも家族になれるなんて。
「ただし、条件が二つある」
和やかになりつつあった空気がまたピリッとした気がした。
「一つは、ちゃんと籍を入れなさい。夫婦という形じゃなくても方法はある。与田君に相談して、二人が納得する形でちゃんと家族になりなさい。籍は紙一枚のことだけれど、この紙一枚がお互いを守る時もある」
与田君というのは、太郎の友人の弁護士のことだ。昔何度も世話になった。
「どうして…どうしてそこまで言っていただけるのですか」
いつも日だまりで微笑んでいた太郎が思い出される。この人は、この家族はいつも瑞樹を否定しなかった。見すぼらしく孤独で、ネグレクトの状況にあった瑞樹を導き、前を照らし続けてきてくれた。
「私たちの息子が選んだ瑞樹くんだ。間違いはない」
悠は大号泣だった。太郎と悠、この血は繋がらない親子もここに至るまでに乗り越えてきたものがあった。瑞樹は震える悠の背をさする。そしてちらりと雅人を見てから、遥子に視線を戻した。
「あの…俺は子供を産めません。遥子さんの血を残すことが出来ません。悠が、いつかどこかで子供を成すことも許さないと思います」
瑞樹は頭を深く深く下げた。
「ごめんなさい」
悠の子供もきっと可愛いと言ったのは、本心でもあるのだろう。それは瑞樹には痛い程分かっていた。
「子供の居ない夫婦なんていくらでも居るわ。二人が幸せに生きていくことが何より大切よ。悠をよろしくね」
今度は本当の涙が遥子の瞳に光った気がした。
「もう一つの条件は?」
湿っぽくなった空気を誤魔化すように、鼻声になった悠が続きを促した。
「こっちの方が重要だ」
太郎が重々しく告げる。どんな条件も飲むつもりだが、想像がつかない。
「瑞樹くん」
「はい」
「私のことはパパと呼びなさい」
「はい?」
「私のことはママって呼びなさい」
二人は胸を張って言う。雅人は吹き出した。
「パ…、マ…」
産まれてから一度もそんな単語を口にした記憶がない瑞樹は、声に出そうと試みる。
「ふざけてんの?」
悠は困惑している瑞樹が可哀想になり、言わなくていいと瑞樹を止めた。
「本気よ。あなたたちパパママって呼んでくれないじゃない。憧れてたんだから!」
「二十四歳の男がパパママは厳しいだろ」
至極真っ当な雅人の意見に、そうだそうだと悠が合いの手を入れる。ワイワイと一同が意見を交わす中、瑞樹は突然ガッと立ち上がった。皆、驚いて瑞樹に注目する。
「こ、これから!よろしくお願いします!パ、パパ…マ、マ」
腹を括った鬼の形相で瑞樹は思い切り頭を下げた。勢いがつぎすぎてテーブルに頭をゴンと思い切りぶつけた。
その後は大丈夫か、氷だ水だと騒ぎになり突然話し合いは解散になった。
医療従事者はどんな小さな怪我にも全力投球だ。

たんこぶもすっかり引いた頃、悠と瑞樹はアパートへ帰宅することになった。
大量の紙袋は福岡土産と大学の資料だった。
玄関で資料は明日また取りに来ると挨拶し、家路についた。
「何で母さんに薔薇の花束なの?」
帰宅後、悠が素朴な疑問をぶつけると、瑞樹は困った顔をした。
「プロポーズには薔薇の花束が必要だって白石くんが言ってた」
「また白石…」
「ちゃんとスーツを着て、お土産を持って行くのがマナーだって。スーツもよれた着古しじゃなくて、格好良く決めないと相手の親は認めてくれないものだって言うから」
もじもじ言う瑞樹は可愛らしさの極みだが、悠は白石に腹が立ってしょうがない。白石が純真無垢な瑞樹を面白がって焚きつけたのは明らかだ。
「お母さんにだけじゃないぞ。お父さんにも雅人と佳乃先輩と未来ちゃんにもちゃんと用意したらあんな大荷物になって…。もしかしてオレ間違ってた?」
パパママ呼びは怪我の元と理解した両親は、渋々お父さんお母さん呼びで妥協した。瑞樹もそれなら、と呼べるようになった。
「ううん。間違ってないよ。ありがとう瑞樹」
頬に口づけると、瑞樹はほっとした顔をした。
「オレには?お土産なし?」
「……」
着替えていた瑞樹は困った顔をして、何かを躊躇っている。
「忘れてたならいいって。近い内向こう行くんだし」
「だって白石くんが…」
「また白石?」
「…こういうのはロマンチックじゃないとダメだって」
瑞樹は握りしめていた小さな何かを悠の手にぽとりと落とす。
「瑞樹!!」
「静かに!ここは壁が薄いんだから」
「瑞樹、瑞樹っ」
この愛と歓びを表現する言葉は一つしか知らない。
悠は愛しい人の名前しか声にならなくなった。
しおりを挟む

処理中です...